>> それはぬるい風のように
家に帰ると出迎えるのは、いつも脱ぎ散らかされた衣服だった。
そろわず脱ぎ捨てられた靴、服、肌着。
それらを拾いながら歩めば、その中央にいるのはいつも同じ男の姿。
馬岱の上着をひっかけて居眠りに興じる、変わらぬあの人の姿だ。
「若ぁー、いつも言ってるじゃないですか。自分の服は、自分でたたむ! ほら、起きてくださいよぉ」
起こそうと頬を叩いても、一度寝てしまったあの人が起きる事は早々ない。
「むー……片づけて置いてくれー、馬岱ー」
「駄目ですよー、そういって若はいつもオレにやらせるじゃないですか。今日こそ自分でやってくださいって!」
「むぅ……起きたらやる。起きたらやるから……ふぁ……」
そういってあの人はいつだってやらないのだ。
いつも自己鍛錬に忙しく、早くからおきて戦場さながらの実践練習を行い、住処へ戻ればもう起きるのも億劫なほどに疲れ果て、いつも泥のように眠るのだ。
「全くもー。ホント、次はやってくださいよー?」
「うん……やる。やるぞ」
「絶対ですか?」
「絶対だ……あふぅ……」
微睡みを含んだ声を聞きながら、馬岱は「今日だけですよ」と衣服の整理をおこなう。
あの人はいつもそう言って、結局は眠ってしまうのだが、馬岱は別にそれでよかった。
約束は守られず、自分はいつも貧乏くじばかりをひいている。
そんな気ばかりするのだが、不思議と悪い気がしないのだ。
何故それでよかったのか。
どうしてそんな境遇にいながら、悪い気もしなかったのか……その理由はもう、思い出せないのだが。
馬岱はそれで、良かったのだ。
結局、約束は守られなかった。
彼はとうとう最後まで、服を自分で片づけないままでいたまま馬岱の前から消える。
家に戻っても、もう衣服が散らばって出迎える事はない。
衣服だけではない。
客人が来ている時も、靴は綺麗に揃えられていた。
あの人はいつも、靴だって揃えず馬岱の家に入ってきたものだが……どうやら蜀には、あの方のように衣服を脱ぎ捨て、靴を脱ぎ散らかすような輩は居ないという事だろう。
勿論、彼の部屋に勝手に赴き、愛用の上着を勝手に借りて部屋の真ん中で大の字になるような輩もだ。
部屋は広く、静かになった。
居心地のよい空間を手に入れたはずだが。
「…………若ぁ」
馬岱は一人、部屋の真ん中で寝ころぶ。
かつてあの人がしていたように、布団のかわりに上着をかけて。
「この部屋…………俺には少し、静かすぎて。そして、広すぎるみたいですよ……」
あの時、胸の中が非道く痛かった気がするが、今はもうその傷みさえ曖昧となっていた。
時が過ぎ、日が過ぎ、月が流れていく中。
密命を受け、命の雫を浴びるたび、自分の中にある空白に闇のように黒く鉛のように重い感情が注ぎ込まれていく。
心はどんどん重くなり、自分の居場所がなくなって。
それはとても恐ろしい事かもしれないのだけれども、自分の所在が薄らぐ事で、痛みを忘れる事が出来るから、馬岱はそれを受け入れた。
あの時の記憶を、痛みを。
心の奥底に閉じこめて、その上に闇で封をする事で、彼は今を生きていた。
家に帰ったらもう、誰も出迎えない。
誰かがいても、脱ぎ散らかされた衣服はない。
そんな毎日が当たり前になっていたその日。
帰った彼を出迎えたのは、脱ぎ散らかされた衣服だった。
「あれぇ……誰か、帰ってきてるのかなぁ……」
靴は左右も脱ぎ散らかされていた。
腰ヒモははずされ途中で投げ出され、衣服もあちこちへ散らばっている。
あの人が、帰ってくるはずはない。
わかっているが、この所作はまるで……。
脱ぎ散らかされた衣服の先には、馬岱の上着を布団がわりに誰かが眠っている影だけが見えた。
綿入りの、特別に暖かい上着だ。
さぞやいい布団がわりになったに違いない。
上着を持ち上げて覗けば、小柄な身体が背中を丸め、寝息をたてる姿が見える。
淡い栗色の髪に幼い顔立ち……この将は、確か夏侯覇とかいう名だったろう。
最近、魏よりこの国に亡命をしてきた男だ。
何かと折り目正しくなった蜀にはもう、こんな風に服を脱ぎ散らかす輩はいないと思ったのだが……。
「……まったく。人の家に勝手にあがりこんどいて片づけさせるなんてさ」
拾い集めた衣類をたたみながら馬岱はそう零す。
だが、何故だろう。
面倒事をしているはずなのに、胸の中がざわざわ蠢く。
緊迫した中、胸の中にはりつめた闇たちが一斉に危険を報せるざわめきとは違う。
まるで春の風に頬を撫でられたような暖かなざわめき。
くすぐったくて、柔らかいこれは一体何だろう。
……確か自分は、以前もこういう感情を抱いた気がするのだが。
「あ、馬岱……」
服をたたむ気配に気付いたのか、夏侯覇は眠そうな目を擦りながら言う。
魏より亡命し、まだこの国に来てほどない彼は功を焦っているようだ。
日々に鍛錬を重ね、やる気を見せてはいる……そうしなければ我が身が危ないのを重々承知しているのだろう。
今、まだ彼は敵陣のなかにある身ともいえる。
日が落ちるまで動いたら、もう動くのも出来ない程に疲れ果ててしまうのだろう。
「ごめん。馬岱……オレ、飯でもいっしょに食おうかと思って……酒場に誘おうと……そしたら、何か眠く……ふあぁ……オレ、それ片付けるから……」
動こうとする夏侯覇の身体を、馬岱は笑顔で止める。
「いいからいいから、疲れているなら休みなよ!」
「い、いやいやいや……それじゃ悪いから……」
「いいからいいから……俺がしてあげたいんだから、気にしなくていいよ」
「そっか……だったら、頼む。馬岱、ありがと。な」
馬岱に優しく言われれば断る程の元気も残っていなかったのだろう。
言葉を最後まで紡ぎきらぬうちに、夏侯覇は横になると再び静かに寝息をたてはじめた。
「ありがと、な。ねぇ……」
その寝顔に触れ、馬岱はいう。
「オレこそ、ありがとね。夏侯覇……」
ありがとう。
そんな言葉が自然に零れたのは、何時以来だろう。
そして自分は、何に対してありがとうと言ったのだろう。
夏侯覇が、傍にいてくれたから?
この緩やかにそよぐ風のような暖かな感情を、胸に運んでくれたから?
もう暗がりの中に沈んでしまったと思っていた、あの人の面影を思い出させてくれたから?
答えを曖昧にしたまま、馬岱は彼の指に触れる。
指先から伝わる肌は暖かく、静かな寝息が心地よく絡む。
「夏侯覇……」
指に絡まる寝息に誘われるよう、自然と唇が重なる。
キスをされている事に気付かれないよう触れるだけ。だが、暖かい。
こんな口付けをしたのも、自分からキスをしようと思ったのも、どれくらいぶりだろう……。
「……ここに居てくれて、ありがとね。夏侯覇」
胸の中にある形容しがたい感情の、正体はわからない。
何故、夏侯覇がここにいて暖かいのか。それさえもわからない。
今、ありがとうという言葉が相応しいのかさえわからない。
けれども、馬岱は感謝、しようと思った。
自分の胸にまだ、あの人の面影があるという事実に。
そして、今ここに彼と自分が、ともに生きているという事に。