>> だから彼は闇を抱く
裏切り者の汚名を着ても、生きていたかった。
そんな理由で蜀に下った俺を出迎えたのは、無数の嘲りと厳しい弾圧の言葉だった。
「夏候一族の末裔が恥ずかしい」
「よくおめおめと生きていけるな」
「敵国の将が、よくもまぁぬけぬけと……」
蜀の民や兵士たちは上辺で俺を歓迎したが、その内心は侮蔑の感情に満ちあふれていた。
それも当然だろう。
俺のオヤジは敵国の将で、俺もまた長く戦場に居た身だ。
此度の政変で生き残る為に、蜀へと亡命した。
生き残る為仕方なかったとはいえ、歓迎はされないのは当然だろう。
覚悟はしていたとはいえ……。
周囲の射抜くような冷たい視線に晒され、心ない嫌がらせも受けていた。
亡命の旅路より肉体も、精神も消耗しはじめて身も心も疲れ切っていた。
最早この逆境を覆すには戦場で戦果をあげるしかないだろう。
功を急ぎはじめていた俺の肩を叩き、はじめて笑って見せたのが、あの男だった。
「やぁ、キミが夏候淵殿のご子息だってねー。うーん、さっすが。小柄だけど強そうな雰囲気しているよねー!」
張り付いたような笑顔を浮かべて現れた男は、その頃、まだ蜀陣営の誰しも俺に心から気を許さず、俺が歩けば埋伏の毒ではないかと疑っている最中。
誰もが俺を疑い恐れて距離を置いて歩いていたというのに、いとも容易くその距離を飛び越えた男だった。
「でも、まだ戦場じゃないんだからねー。そんな気張って歩いてたら、声かけたい女の子たちも遠慮して声かけてくれなくなっちゃうよ? ほらほら、そんな顔しないで。笑って笑って!」
男はそう言いながら、俺の頬をこね回す。
「ほーら、笑わないと。折角の綺麗で可愛い顔が台無しだよ? 何せ宮中では隣国から可愛い顔の王子様が来たんだって、女性達の間で噂持ちきりなのに。肝心のその綺麗な坊やが人を斬る事ばっかりに熱心な顔してちゃ、誰も声なんかかけてくれなくなっちゃうからね?」
必要以上の大きな声と大げさなほどの笑顔を向けて、早口でそうまくし立てる。
宮中で俺の事を噂している娘たちが居るというのは、陰口ばかりに耳に入っていた俺には全くの初耳だったのだが、実際その時それなりに噂にはなっていたらしい。
だがこの男のいう通り、功を焦り毎日、人を斬りそうな顔をしていたのだ。
確かにそれでは、話しかけたくとも話しかけられないだろう。
周囲に対して、孤独で隔たりを感じていたのだがその理由は他でもない。
俺自身が周囲に壁を作っていた……この男は会ってすぐに俺のそんな「壁」を見抜いて、人の輪へと導こうとしてくれたのである。
「あー……そうかもしれない、な。俺、こっち来てから気張ってばっかりで……」
「だよねぇ。はいはい、肩の力抜いて……うん、やっと可愛い顔になったみたいだよ」
確かに俺が気負って恐ろしい雰囲気を放っていたのは認めよう。
笑った方が取っつきやすいだろうって事もだ。
だが。
「でもよー。アンタ、ちょっと、勘弁してくれないか?」
「ん、どうしたのさ、怒っちゃって。その可愛い顔が台な……」
「だからそれ! その『可愛い』っての。あのなー、俺男だし。こう見えても結構いい年齢だからな。その、可愛いってのは……」
それでなくても俺は小柄で童顔で、魏に居た頃から子供っぽいだの、可愛いだのと散財言われて子供扱いされてきたのだ。
その扱いは気恥ずかしい。
「可愛いとか言われても嬉しくねーし……王子様とか言うのも。子供あつかいはやめてくれよな!」
ここでビシっと言っておかなければ、俺はまた蜀でも童顔のガキっぽい将だと思われる気がしたから、いつもより強い語調でそう言う。
だけどコイツは俺の言葉なんて何処ふく風で、ずっと俺の頬をこね回していた。
「はいはい、怒ったらだめだってー。幸せが、逃げちゃうよー?」
「いやいやいやいや、だからオマエ、俺いま結構大事なこと言ったんだけど、聞いてるのか!?」
「うん、聞いてるよ。キミ、夏侯覇……だよね?」
「あ、あぁ」
「うん、夏侯覇くんは子供みたいで可愛い事言うんだねぇ!」
「だぁからぁ、ガキあつかいするなっての!」
勢いよく言い返す俺の胸を叩くと、その男はまた笑顔で言った。
「あはは、やっと元気な声出したよね?」
「んっ……?」
「自分の中に、あんまりイヤな気持ちを押し込めちゃ駄目だよー? そういう事すると、ホントに笑えなくなちゃうから。ね」
彼はそう言うと、俺の胸元を軽く叩いて去っていく。
彼が、俺に本気の声を出させる為。
本当に気持ちを楽にさせる為にわざとあんな態度をとっていたのだ。
その事実に気付いた時、すでに男は遠くに進んでいた。
それが、俺と馬岱の初めての出会いだった。
そう、馬岱は初めて俺を笑顔で受け入れてくれた男だったのだ。
だから俺が、馬岱と連む事が多くなるのも自然の成り行きだとも言えよう。
酒をもっていけば馬岱はいつも笑顔で俺を迎え入れてくれたし、戦の訓練という名目の手合わせも……。
馬岱の扱うのは武術とは違う、巨大な妖筆という宝具から呪術を繰り出す奇妙な技だったから、意気込んで挑んだ俺は軽くあしらわれる事が大半だったが、それでも馬岱はイヤだとは言わず遅くまで付き合ってくれた。
「馬岱殿は、いつも笑顔に見えますが……本心からは、笑ってない風に見えるのです」
将兵らの言葉は最もだと思う事もある。
確かに、馬岱はいつもヘラヘラと笑っている印象があるが、俺はあれは彼が元々笑っているような顔立ちなのだと思っていたし。
何より、時々馬岱が俺に向けて見せる笑顔は……確かに笑っているのとは違っていたのかもしれないけれども、何か懐かしい者を見るような慈しみと優しさに満ちあふれていたから、兵たちのいう「馬岱は笑えない男だ」という陰口に近い噂話は、いつも聞き流すだけだった。
そうあの日。
血に濡れた身体を幾度も洗う、馬岱の姿を見るまでは。
「おーい、馬岱ー? 居る、おれ、ちょっと美味しい肉まん見つけてきたからさ。一緒に食おうと思って、ほら見てくれよ。こんなに買い込んで……って、アレ。居ないのか。おっかしーなぁ……」
まだ暖かな饅頭を抱えて酒瓶を腰にぶら下げて赴いた馬岱の屋敷は、もう夜だというのに誰もいなかった。
「何だよっ、俺に内緒で街に繰り出してるのか。おい、馬岱ー、馬岱?」
とくに任務もない馬岱が留守にしている。
その事実に何となく違和感を覚えた俺は、室内を見回し彼の姿を探す。
二、三部屋見て誰の姿もなければすぐに帰るつもりだったが、馬岱は思いの他早く見つかった。
彼は裏庭に置かれた井戸(といっても名ばかりで、実際はただ雨水を溜めておくだけのものだ)の前に立ち、裸身をさらして幾度も幾度も御祓を続けていた。
何だ、身体を洗っているだけか。
それだったら部屋で少し待っていようか。
そう思いながら、庭先に立つ彼の身体を眺める。
馬岱は、どちらかといえば戦闘向きではない。
自ら率先して先陣をきるより、後方で軍を指揮している方が得意な男だったが、そんな役回りをするにしては身体そのものはしっかりと鍛えられていた。
背後から見ても均整のとれた身体。
筋肉の隆起した背中はまるで数多の戦をつんだ歴戦の兵を思わせる佇まいだ。
俺は、俺自身があまり筋肉の付きにくい身体で……だからこそ、戦場では大仰な鎧を着て体格を誤魔化しているのだが、そんな俺からすれば後衛でこそこそ策を廻らせているだけには勿体ない程立派な体つきだと思っていた。
それにしても、こんな寒い時期にこんな暗い時間でよくやる……。
そう思った俺の鼻孔を、鈍い錆のようなにおいがくするぐる。
このむせるような鉄のにおいは、戦場で幾度もまとった香り。
鈍い血のかおりに相違なかった。
まさか、馬岱は怪我をしているのか。
だとしたらすぐに医者にでもつれていかないと。
俺のそんな思いを、本能が否定する。
馬鹿いうな、夏侯覇何を考えているんだ。
怪我?
これは人が立っていられる程度のやさしい匂いじゃない、血と糞便との匂いが入り交じった人殺しの匂いじゃないか。
ほら見ろ、眼前の男はたった今、人を殺してきたのだ。
浴びた返り血を洗い流す為、あぁも熱心に御祓をしているのだぞ。
「いやいやいやいや…………違うでしょ……今は戦じゃないんだから、馬岱が。そんな事……する訳、ないし……」
内心で囁く声を、俺は言葉で否定する。
だって馬岱は普段からケンカは苦手だといってた。
力仕事はあまり得意ではない方だと自ら言ってたじゃないか。
何よりあんなに俺に優しく、笑ってくれる奴なんだ。
戦でもない時に人を殺める必要なんて、無いじゃないか。
戦でもない時に人を殺めるなんてそれは……。
裏切り者の粛清。
諜報員、埋伏の毒と思しき兵たちの暗殺。
そんな汚い仕事をあんな笑顔で、出来るはずないじゃないか。
そう信じたい自分が居たからだった。
だが俺のその思いは、馬岱の手にしたもの……桶に入った馬岱の服で、全てうち消される。
その衣服は明らかに致死量の、返り血に染まっていた。
『馬岱は、諸葛亮先生愛用の道具だそうだぜ』
それは宮中である将兵らが呟いていた噂だった。
『馬岱は元々、諸葛亮に使われていた暗殺者でな。組織に不都合になった裏切り者を、こっそり殺す任務を授かっているんだ……アンタも近づかない方がいい。狙われて寝首をかかれても知らねぇからな』
あの馬岱にそんな事出来るはずがない。
俺は内心そう決めつけていたから、はなから信じていなかったが、それも全て俺が信じたくなかっただけ。
現実は、あの将兵の言う通りだったのだ。
馬岱は諸葛亮の道具。
昨日の友を殺す事を生業としたただの暗殺者。
汚い仕事を請け負うためにいる、ただの傀儡だったのだ。
俺に近づいたのも、魏より訪れた俺にはまだ裏切りの可能性があった為。
その素振りがあったらすぐに殺せる為、それが真実なのだろう。
仲間だとか友達だとか。
そういう感情は、馬岱には最初から存在しないのだ。
「馬岱っ……」
俺の頬には、大粒の涙が零れていた。
男は無闇に泣くものじゃない。
そう、父さんに言われていたけど、こみ上げてくる感情のやり場が俺にはわからなかった。
「馬岱、馬岱、馬岱ぃ……嘘だったのかよぉ。優しいお前、みんな……みんな……」
俺は子供のようにしゃくりをあげ泣きだしていた。
あんなに優しい笑顔が全て仮初めだった事が。
共に紡いできた時間が全てまやかしだったという事実が。
父さんを失って、国を追われて。
その上今俺は、馬岱という友人まで失おうとしている。
俺は自分を、自由気ままで奔放だとは思うけれども、これだけのものを一気に失ってもなお笑っていられる程、強い男ではいられなかった。
だから馬岱に対して、勝手に抱いていた理想の姿をうち砕かれたこの瞬間。
俺は自分でも驚く程簡単に折れてしまったのだ。
「……あっ、くそっ……くそぉ……」
拭いてもふいても、涙が零れてくる。
暗殺者としての姿を見られた馬岱に、俺を無事に帰す理由なんてない。
こっそり馬岱に気付かれぬよう逃げ帰るのがその時の俺がすべき事だったはずなのに、どんな間抜けな兵士にだって容易に見つかる程の声をあげて泣いていたのだ。
「誰、か……そこに。 そこに、居るのか……居るのかなぁ?」
その時ようやく俺の気配に気付いたのだろう。
泣きじゃくる俺の姿に、馬岱はその視線を向ける。
表情は笑顔のまま。
だがその視線はまるで射抜くように鋭い、ただ殺意のみを湛えた空虚な瞳をしていた。
それは今まで一度も見た事のない馬岱の、ただ殺すためだけの道具としての姿だった。
あぁ俺は殺されるんだ、と思った。
馬鹿だな、逃げてれば命も助かったろうに。
何も知らぬふりをすれば明日からまた馬岱と普通の生活だって出来ていただろうに。
頭でそう思うが、身体が動かなかった。
大切な、父さんとの思い出。
それらを全て捨ててここにきて、ようやく手に入れた暖かな存在。
またそれを失って生きていけるほど、今の俺は強くなかったのだ。
「馬岱っ、馬岱……」
生きる希望となりはじめていたものを、失ってしまった俺は、その時。柄にもないが、もう殺されてもいいと思いはじめていたのだ。
馬岱にそれが必要なら、その手にかかって死ぬのもいいと。
俺の中にある魏と、父と、馬岱の綺麗な記憶だけを背負って逝くのならそれでいいと、そんな事さえ考えていた。
「……夏侯覇、か」
裸身を晒し無防備に見える馬岱だったが、とれる距離に愛用の武具が置いてある。
飛距離に関係なく繰り出すあの筆術は、闇の中ではどこより現れるか解らず逃れるのが困難だ。
一方の俺は丸腰で持ち物といえば饅頭と酒瓶のみ。
殺すのには赤子の手をひねるより簡単だったろう。
「馬岱、俺っ……俺……俺ぇ。俺っ……」
信じてた。
あんたの明るさが好きだった。
その裏に俺じゃ、計り知れない程の闇を抱いているのも薄々気付いていた。
でもあんたは、そんな事俺に見せず、ただ俺に優しくしてくれたから、俺はそれに甘えていた。
俺は、アンタにあえて自分でも驚くほど沢山の幸せをもらったから。
だからアンタになら何されてもいいんだよ。
そう思ったけど、言葉にならない。
「馬岱ぃ……俺ぇ……好き。アンタの事、好きだからぁ……だから、俺……」
辛うじて言葉を放ちながら、自ら腰紐をほどき胸を晒す。
死に向かうような所作を自ら望んでしtのは、馬岱の負担を少しでも減らしたかったからかもしれない。
「馬岱ぃ、好きにしてくれていいからさぁ。俺の事、好きにして……俺、アンタだったらいいから……」
かろうじて出たその声で、馬岱は少し困ったような視線を向けると、すぐに普段見せる穏やかな表情へと変化する。
そう、それはまるでぐずった子供を優しくあやすような、そんな顔だった。
「……若」
馬岱は一歩、俺へと近づくと、俺ではない誰かの名を呼んで、俺の頭を撫でた。
「若ぁ、どうして泣いているんですか……若は、一人じゃないですよ。俺が、いますから……俺、若と一緒ですから、ね……」
「馬岱……?」
若、とは一体誰の事だろう。
困惑する俺の身体を、馬岱は強く抱きしめる。
「泣かないでください、若。若は、若が信じる道を進んでいるだけじゃないですか。俺は、ついていきますから……俺は、貴方の道を。一緒に、いきますから……一緒に、生きていきますから……」
馬岱の言葉が俺ではなく、俺の向こうにいる誰かへのものだというのはすぐにわかった。
同時に馬岱のいう「若」という存在が、彼を辛うじて生かしているのも。
今の馬岱は空虚な傀儡。
人間である部分は、恐らくその「若」と呼ぶ誰かの思い出だけなんだろう。
「だから泣かないでくださいよー、俺、若がそんな顔してたらどうしていいのか。俺、わかりませんから。ほら、笑って……笑って……また、笑ってくださいよ……若ぁ、若ぁぁ……」
俺は、馬岱の望む若ではない。
けれども、もし馬岱の人である理由が、もう「若」にしか無いのであれば。
そして馬岱がこの俺を、「若」だと思ってくれるのならば。
「いやいやいや……もう、大丈夫だ馬岱。大丈夫だ」
無理に顔の筋肉を持ち上げて、俺は不器用に笑ってみせる。
「オマエが一緒に居るんだから、大丈夫じゃないはず無いもんな!」
「若……若、若っ……そこに、居るのですね。若……」
「いやいやいやいや……当たり前でしょ。俺は、ここに居るよ?」
馬岱の言う「若」の顔さえ俺は知らないけれども、精一杯の笑顔をつくる。
「若…………!? 若っ、会いたかったです、若ぁ、俺は。俺は貴方を。俺は貴方を追従する事も出来ず、若ぁ。若ぁ……」
俺を抱く馬岱の手が一層と強くなり彼ははその場で泣き崩れる。
この、壊れてしまいそうな馬岱を見るのが辛くて。
そして俺自身、自分がもうこのままだと壊れてしまいそうだったから。
ただ、馬岱との絆をつなぎ止めたい一心で、俺は彼と唇を重ねていた。
「んぅっ……若ぁ、若っ……駄目ですよ、俺たち……」
口ではそう漏らす馬岱も、自然と俺へ舌を絡める。
お互いの心を慰めるよう、慈しむようなキスが続いた後、俺たちは静かに離れ違いの顔を見つめ。そしてまた静かに抱き合った。
「いいから、もう。いいから……また、一緒に居るから。俺、馬岱と……もう、離さないから。な?」
それは空虚な絆。
嘘と演技で塗り固められた偽りの絆にすぎないのだと解っていたのだけれども。
もし馬岱がそれでまだ、傀儡ではなく人として。
誰かとともに歩む道を忘れないでいてくれるなら、俺は嘘でもそれでいい。
闇の中で噎び泣く男を俺は静かに抱きしめる。
嘘でもいい、偽りでもいい、一時の気の迷いでも、俺を見てくれなくてもいい。
ただ俺は馬岱と、ともに歩いていたいから。
だから俺は彼を、闇に抱く。
それが夜より暗い道だと、内心でわかっていながら。