>> 影揺らぐ




 時は丑三。
 今宵は新月。

 木々の間。その影の狭間に、風魔小太郎の姿があった。


 (……僅かな矢傷だと思ったが……この痺れ。毒か……ククク。風を切れぬと思っての小細工か。だがそれも徒労よ……)


 がくりと膝を落とし、近場の老木に身体を預ける。
 僅かに受けた矢傷……矢尻に塗られた毒は微々たるものだが、今この周囲には影を追う山狩り途中の兵が多い。

 下手な場所で意識を失えば、それは死に直結していた。


 (……風魔は……全て、混沌の中に荒ぶる風……風を切るなど、徒労……我を壊しても……)


 だが今日は、普段より瞼が重い。


 (我を壊しても……混沌は終わらぬ……風は……我はただ、混沌に……)


 身体を支える事も出来ぬまま、彼はその場で夢に飲まれる。

 意識が沈み。
 全てが、暗転した。

 このまま微睡みに身を預ければ、自らを産み落とした混沌に帰すのだろう……。
 そう確信していた意識を、柔らかな風が呼び覚ます。


 「……?」


 ぱちり、ぱちり。
 たき火が跳ね、踊る音で再び現へと引き戻される。

 気付いた場所は、どうやら炭焼き小屋のようだった。
 囲炉裏では僅かに火の粉が踊り、それが今は暖かい。


 (……壊れそこなったか)


 起きれば矢傷に手当の痕跡があった。
 拙い治療だが、どうやらそれで命が繋がったらしい……。

 まだ戯れが続くという事だ。

 だがそれならいい。
 興を満たす為、混沌の風として戦場にありつづけよう。

 身体が動く限り、眼前の兵を命を、ただむしり取るだけの風として、他者の終末であり続けよう。

 まず手始めに何処で吹く。
 誰の終末となる……。


 「おお! 気が付いたのじゃな?」


 その時傍らで声がする。
 まだ幼い、無垢なる少女の声だ。

 「うぬは……」
 「あ! こら……まだ動いてはダメじゃぞ? 血は止まっておるが、傷がふさがった訳ではないのじゃからな!」


 彼女は、そう言いながらふつ、ふつと湯気のたつ鍋をかき混ぜる。


 「……城から持ち出した膏薬で、そなたの傷を治療したのじゃ。どうじゃ、傷の痛みは治まったかの?」


 鍋の中身はどうやら、粥のようであった。

 この場所はどうやら安全らしい。
 だがそれ以前に、疑問が沸き上がる。

 何故この少女は、自分を助けたのだろうか。
 見た所、忍びの同胞ではなさそうだが……。


 「うぬは……何故に、我を……」


 矢傷を、刀傷を、あるいは槍傷を受けて倒れた事は、一度だけではない。
 だがそれで、誰かに助けられたという事はこれまで一度としてなかった。

 風魔であるというのは、即ちそのような事。
 異形の風貌を持つ、というのは即ちそういう事だ。

 それ故に、暖かに笑う彼女の真意が計り知れずにいた。

 忍である自らを懐柔し、密命を探ろうというのか。
 あるいはここで我に恩を売り、風魔の力を利用しようというのか……。

 数多の思慮が廻る中で、彼女は当然のように言った。


 「何故って……そなたが傷つき、倒れていたのじゃぞ? 放ってはおけぬであろう?」


 追われ狩られるのが当然の獣であり、全ての終末として、ただ混沌より吹きすさぶだけの風であるものだと思っていた。

 風である故に。
 姿なき影である故に。

 相反する存在である故に、助けの手など決して届かぬものと思っていたのだが……。


 「さぁ、少ないが粥が出来たのじゃよ。あ、あの……わ、わらわは、あまり、その。このようなマネはせぬので、味の保証が出来ぬのじゃが……早ぅ食べて元気になるのじゃよ?」


 少女が彼に注ぐ視線は、優しくそして暖かい。
 その視線は、本来影であり混沌の中にある彼には注がれるべきでない温もりがある。


 「うぬの粥……貰おう」


 受け取った器は木製の粗末な食器であったが、僅かに触れた指先は日溜まりのように暖かかった。



 時が、廻る。
 介抱した疲れからか、彼女は静かに寝息をたてていた。

 僅かな米や薬と護身用の武具を滑車のついた車に乗せて、物々しい姿で出歩く……。
 本来ならそのようなマネの出来る身分ではない。

 おおかた、城内の生活に嫌気がさして家出の真似事をしている最中だったのだろう。
 その道中で倒れている自分を見つけて、ここまで運んだのだ。

 台車があるとはいえ、小柄な身体で運ぶのはさぞ難儀だった事だろう。
 その代償で、今、彼女は静かに眠っている。


 「……我は終末」


 仕込んでいた小刀を抜き、それを彼女へと向ける。

 元より悪意にさえ無頓着な少女だ。
 焼けるような殺意にも気付かず、静かに寝息を立てていた。

 極秘の任務、その最中である。
 姿を見た相手は何であれ、等しく死を与えるよう、仰せつかってもいる。

 無防備な少女だ。
 このまま、終末にすら気付かぬまま送る事も可能である。
 だが。


 「……ん、ぅぅ」


 身動ぎした少女の柔らかな唇より、声が漏れる。


 「元気になるのじゃぞ……」


 寝言だろう。
 夢の中でさえ彼の事を心配しているのだ。

 ただのこの一個の影を。


 「……興が、逸れたか」


 刀をしまうと、小太郎は一人闇へと向かう。

 身体は幾分か楽になっている。
 あれだけ騒がしかった外も、もうすっかり静かである。

 この夜なら、抜けるのは容易い。


 「……我は混沌に吹きすさぶ凶つ風。我は終末。我は影……ここには……居られぬ」


 寝息をたてる少女の髪を指先だけで撫でると、彼はそのまま姿を消した。
 自らのあるべき場所へ、影へ。

 暖かく眩しい彼女の存在に背を向けて。





 <ガラシャ様は小太郎殿の事を「こた! こた!」って呼ぶよ。きっと>