>> 死よりも恐ろしいもの。




 貴方がこの広い大地の何処かで笑い続けてくれるなら、きっと、死さえも怖くない。
 彼は本当に思っていた。

 だからその日、何処からか差し向けられた兵たちに囲まれ、血路を開かねばならなくなったその時も、馬岱は自らの命を賭しての特攻を迷う事は無かった。


 「若ぁッ、ここは俺に任せてて……こんな危ない場所、とっとと逃げるが勝ちだよぉッ」


 全て語り終わるより先に武器をとり、主の先を突き進む。
 共闘出来る相手は誰もいない、たった一人の行軍だ。


 「なっ、何をしているんだ、馬岱! 戻れッ、お前一人では……ッ」


 主である馬超は正義の人だ。
 絶体絶命の窮地にある今、配下である馬岱を置いて逃げるような男ではない。

 ましてや、馬岱は馬超にとってもう、最後の血縁なのだ。
 自分を置いて逃げるのなら、共に戦い共に果てるのを選ぶのだろう。

 だからこそ、させたくない。
 死ぬのは、自分一人でいいから。


 「大丈夫だよぉ、若ァ。さっきの街で援軍を呼んでおいたから、ちょっと敵を引きつけるだけですってば……すぐ、後を追いますから、ここは先にいってて下さいって!」


 援軍の手はずなど、勿論していない。
 だがこうとでも言わなければ、馬超は退かないだろう。

 彼の慕う主は、愚かなまでに真っ直ぐな男だった。


 「わかった……必ずまた会おう。必ずだ。必ずからな!」


 その言葉を信じたのか、馬超は馬の手綱をとると、軽やかに身を翻し木々の合間を抜ける。
 箸より先に馬の手綱を握らされた、西涼の錦馬超だ。

 馬を駆ればもう、誰も追いつく事が出来ないはず。
 馬岱の慕う若ならば、必ず逃げ切ってくれるはずだ。

 これでもう、死ぬのは怖くない。


 「それじゃっ、俺がお相手しちゃおうかねーぇ! 馬岱、いっくよー!」


 生憎と護身用の慣れない素槍しか持ち合わせていなかったが、時間稼ぎをするのなら上等な武器だ。
 手元で幾度か握り尚して、数多の敵と対峙する。

 相手の獲物は、矛と剣に弓をつがえるものが幾人かいた。
 相当の手練れだ、簡単な相手ではないだろう。

 だが、討ち果たして功績をあげる戦場と違い、己の命を計算に入れずともよい戦いはかえって気楽になれる。

 槍を構え、それを振るう。

 槍傷を受け足を貫かれてもまだ。
 刀傷より滴る血のなま暖かさを感じてもまだ。
 受けた矢により体内から、肉の爆ぜるような音を聞いてもまだ、屈する事なく立ち向かう。

 死の足音が背後よりゆるゆると迫っていたが、それでも不思議と彼は幸福だった。


 「……わ、か」

 血の泡とともに言葉が漏らせば、屈託のない無邪気な笑顔が脳裏に過ぎる。

 それは久しく見ていなかった馬超の笑顔だ。
 曹操に一族を滅ぼされてからずっと、孤独な表情を浮かべるばかりだったが、そうだ、あの人はこんな無邪気に笑える人なのだ。

 また、こういう風に笑って欲しい。
 その時となりに居るのが、自分でなくてもいいから。

 だから……。


 「若……ご武運、を……ね……」


 この世界でまだ彼が笑っていてくれるなら、死さえも一つの幸福であった。




 そうして、意識を闇に沈め一体どれほどの時間がたったのだろうか。
 柔らかな風に頬を撫でられ、強い水仙のかおりが鼻孔を擽る。

 次に目覚めるのは、酒場で泥酔した赤鼻の男が漏らした戯言にあるあの世なる場所だと思っていたが……。

 腕を動かせば鈍い痛みが身体を覆う。
 あたりを見渡せば、清潔な布の敷かれた寝台に横たわっているのがわかる。

 どうやら自分は生きながらえたようだ。


 「あっ……お目覚めになたんですね、馬岱さま。おはようございます」


 ふと窓の方を見れば、竹筒に水仙をいける女性が驚いたように目を見開いた。

 見知らぬ女性かと思ったが……よく見れば、知っている相手だ。
 彼女は以前、街の警備をしている時、二・三度声をかけた事がある。

 弁当として肉饅頭を差し入れてくれた事もあっただろう。


 「あれ……ここは。俺は……」
 「馬岱様は、ここより離れた森で倒れている所を、趙雲様が助けてくださったんですよ。私はそれを介抱して……」


 彼女の言葉で、あの日の事が朧気ながら思い出される。
 そうあの日、一人で奮戦していたが耐えられない程傷を受け、今にも倒れようとしている自分の耳に、馬の蹄が近づく音がした。

 よもや自分を心配した馬超が戻ったのではと、不安になってそう思って振り返った時、微かに見たのは長髪をなびかせた白銀の将だった……。
 あれから何も覚えていないが、微かに見たあの影が趙雲の援軍だったのだろう。


 「しかし傷が非道くて、もう三日も目覚めませんでしたから……もう、駄目かと覚悟したのですけれども。良かった……」


 そう語る彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 自ら死を覚悟した戦いだったのだから、彼女が死を意識するのも当然だろう。


 「あはは……何とか踏みとどまったって所かなぁ。これは、趙雲将軍にお礼を言わないといけないねぇ!」


 改めて身体の状態を確認するが、利き腕は思うように動かない。
 添え木を当てられ幾重にも綺麗な布が巻かれているが、恐らくこれは折れているのだろう。

 足や身体に巻かれた布は赤く染まり、乾いた血の臭いがした。
 だが、足の傷は思ったより浅いようで、すぐにでも歩き出す事が出来そうだった。


 「それと、お礼は……キミにもね」


 馬岱は愛想よく笑うと、傍らで控える彼女の手をとりその甲に軽い口付けをする。
 彼女は頬を染めると、「ありがとうございます」と、消え入りそうな声で告げ、小さく頭を下げるのだった。


 「それで、若は……馬超様は、どうしたのかな。 今どこに居るのさ。怪我とかしてないよね?」


 自分より先に乱戦から離脱した馬超だ。
 きっと先に街についているはず。

 当然そう思いこみ侍女を問いただすが、何故だろう。
 彼女は黙って俯くと、静かに首を振るだけだった。

 ……そんなバカな事が、あるはずもない。
 馬超は、自分より先に安全な場所へと赴いたはずだ。

 無事ではないはずはない……。


 「どうしたんだよ、お嬢さん。そんな、悲しい顔似合わないって……若は、無事なんだろう? そうだって、言ってくれ……そうだって……」


 抑えていても声が震える。
 そんな馬超に告げられた言葉は。


 「馬超さまは……数日前より、その……ずっと、行方が……」


 その言葉は馬岱にとって、死よりも恐ろしい宣告(もの)だった。




 絶望の淵に落とされて一週間が過ぎた。
 行方は知れないが、躯が見つかった訳ではない。

 その事実を唯一の拠り所として、養生しながら馬超の行方を捜す。
 だが手がかりは何もないまま、時間だけがじりじりと過ぎていった。

 無事だという報告はおろか、馬超らしき人物を見かけたという話さえない。


 「若……一体何処へ行ったのさ……」


 療養所でただ、苛立たしげに窓を見る。
 馬岱の気持ちと裏腹に、空は驚くほど澄み切っていた。


 「少し外に出て、気分転換でもなさってはどうですか?」


 侍女にそう進められ街へと赴いても、無意識に探すのは錦馬超とも言われた美丈夫の姿だった。

 目をひく長身と戦場での堂々とした立ち振る舞い。
 将兵のカリスマを持つ馬超の姿は乱戦の最中でも際立っている。

 いくら人混みの中であっても、汚れた姿をしていても、馬岱にならすぐ見つける事が出来るはずだったが……。
 その目に、望んだ男の姿がうつる事はなかった。


 「おいー、馬岱兄ちゃん! 岱兄ちゃん!」
 「馬超兄ちゃんは。馬超兄ちゃんはまだ帰ってこないのー?」


 繁華街を離れ、住宅街へ足を伸ばせば馬岱はすぐに子供たちに取り囲まれる。

 どの顔も、一度は見た事のある顔だ。
 よく、馬超に槍の手ほどきをされていた子供たちだろう。

 最も、槍を教えていたのは最初の半時ほどだけで、最後はいつも馬超相手に鬼ごっこや隠れん坊をして遊んでいる事が多かったが。

 ……全てはほんの数日前まですぐ隣にあった日常だ。
 だが今は、欲しいと思っても得られないものでもある。


 「あぁ、若は……まだ……ね」


 歯切れわるい言葉を笑顔で誤魔化そうとする少年たちの間に、見知った女性たちが入る。


 「ほら、貴方たちあんまり馬岱様を困らせないの。もう……」


 そう好いながら少年たちを下げたのは、繁華街で酒場を切り盛りする娘だった。
 記憶が確かなら、今眼前にいる少年の姉にあたったはずだ。

 畑仕事を任されている親にかわって、こうして子供たちの面倒をよく見ているのだ。
 馬岱も懇意にしており、幾度か相手をしてもらっている


 「すいません、馬岱様。弟たちが不躾で……」
 「いやいや、いいのいいの。子供たちはそれ位、元気じゃなきゃねぇ」

 「ですけど……馬岱様は、まだお怪我も癒えておりませんのに……」
 「怪我なんて……」


 怪我なんてどうでもいい。
 馬超のいない痛みに比べたら、こんなもの……。

 胸によぎった思いをぐっと飲み込んで、馬岱はおどけて笑って見せる。


 「怪我なんてさ。キミの顔を見たら、何処か行っちゃったよー、ね、お嬢さん?」


 それは穏やかで優しいが、悲しい笑顔だった。




 街を歩き、市場をまわり、広場を、子供たちの元を訪ねる。
 馬岱の足は無意識に、馬超の居場所を廻っていた。

 だが結局見知った顔には会えないまま、時ばかりが過ぎていく。

 少しの散歩のつもりだが、随分歩いていたらしい。

 布からは鮮血が滲んでいた。
 かさぶたがはがれたのか、あるいは傷が開いたのかもしれない。
 どちらにしても、そろそろ帰る頃合いだろう。

 城門近くまできた所で振り返り、療養所を目指す。
 沈む夕焼けの美しいが、彼の後方に普段より暗い影を落としていた。


 「若……本当に、何処で寄り道してるのさ……貴方がいないと、俺さ……」


 光が、消えたようだった。
 虚無になった胸を抱き、鉛のように重い足を引きずって歩く。

 これからこの暗く重い毎日が、怠慢な死が来るその日まで延々と続くのだろうか……。
 もしそうだとしたら、この世界は何と無意味のだろう。

 無間に続く宵闇で自分は、どうやって生きていったらいいというのだろうか。
 どうやって……。

 千億とも思える絶望を前に、彼は聞いた。


 「馬岱……」


 微かに、だが確かに聞いたのだ。


 「馬岱っ……馬岱だろ、馬岱……馬岱ぃー!」


 幻聴ではないか。
 そう思って振り返れば、その目はすっかり汚れた美丈夫の姿を捉える。

 白い歯をむき出しにして目を細め、無邪気に笑う彼が。
 いつでも太陽の下にあってほしい、馬超の笑顔が、今馬岱の傍らへと戻ってきた。


 「……若?」
 「すまん、馬岱。待たせたなッ……あの後、他の兵たちと遭遇してな……一人で転戦し、奮戦して……今、ようやく戻ってこれた所だ!」


 くしゃくしゃと鼻をこする仕草は、幼少期の頃から変わっていない。
 あれこれと面白い出来事があり、何から話していいのか迷うそんな馬超の顔になる。


 「だが、ようやく帰ってきたぞ。ははは……オマエより遅くなってしまったな!」


 遅くなってしまった、ではない。
 どれだけ心配をかけたと思っているのだ。

 連絡(つなぎ)の一つもよこさないまま、一体どれだけの待ったと思っているのだ。

 これだけ心配かけたのだから、ゴメンの一つでも言ったらどうだ。
 こっちは死ぬ程の大けがを負ったのだから、ありがとうの一つでも言うのが先ではないのか。

 様々な思いを抱いて馬超を待っていたはずだが……。


 「ただいま、馬岱!」


 笑顔で帰還の挨拶をする馬超の姿を前にして、言うべき言葉が見あたらない。
 代わりに彼の胸を満たすのは、千億の希望。

 胸いっぱいの「ありがとう」だ。


 「お帰りなさい……」


 傷の痛みも、胸の痛みも。
 心配を重ねた日々ももう、何一つ気にならない。


 「お帰りなさい、若……若っ……」


 ただ思いっきり、馬超の身体を抱く。
 やっと戻ってきたその温もりを確かめるように、そして二度とこの幸福を、腕から零さないように。


 「や、やめろ馬岱! 皆が見てるっ、恥ずかしいッ……」
 「いいじゃないですか、心配したんですよー! ……もう、勝手に何処かにいかないで下さいね?」


 片腕で馬超を抱いた男の顔は、無意識に笑顔になる。
 それは作り笑いでもなければ強がりでもない、霧が晴れたように眩しい笑顔だった。



 <馬岱の本名はルイス・エンリケ・馬岱だろ。スペイン人なんだろ知ってる!>