約 束








リビングのソファで母親の遺したアルバムを懐かしそうに眺めていたアスランは、ふと一枚の写真に目を止めた。
「―――これ…」
 その写真には、幼い自分が大きな瞳に涙をいっぱいに溜め、頬を赤くして必死で泣くのを堪えている様子が写し出されていた。
「―――母上ときたらこんなものまで…」
 アスランの頬に苦笑めいたやわらかな笑みが浮かんだ。
 亡くなった母レノアはとにかく写真が大好きで、暇さえあればカメラ片手に走り回るほどだった。彼女の一番得意とした被写体はもちろん一人息子のアスランで、実に多くの写真を遺していた。
「あの頃の俺は泣き虫だったっけ…」
 忙しい両親は家を空けることもしばしばだった。特に父は2ヶ月に一度顔を見るか見ないかのという有様で、だから余計にアスランは母親に懐いて離れず、彼女が外出する度に泣いてダダを捏ねて困らせていた。
 そんな自分が泣き虫を返上したきっかけは…。
「やっぱり、あの子に会ってからだよな」
 アルバムから顔を上げたアスランは、遠い記憶を遡らせるように翡翠色の瞳を虚空に彷徨わせた。


 あれは確か6歳の誕生日のこと。
 楽しみにしていた両親と水入らずの誕生パーティが当日になって急に取りやめになったことがショックで思わず家を飛び出したアスランは、当てもなく彷徨い、気付けば公園のベンチにぽつんと座っていた。
 まるでこの世にひとりぼっちになってしまったかのように寂しくて悲しくて心細くて、止まったはずの涙がまたぽろぽろと零れ出した時、ふいに声を掛けられた。
「――おい」
 気配を感じたアスランが顔を上げてみると、そこには自分と同じくらいの可愛い女の子が立っていた。
 ―――なんて綺麗な子なんだろう…。
 肩より長いやわらかそうな銀色の髪とマシュマロのようにふんわりとした白い頬、ピンク色の可愛い唇。長い睫に縁取られたつぶらな瞳は澄んだ空の色をしていて、アスランは初めて見る美少女を泣くのも忘れてただ呆然と見上げた。
「おい、お前」
 自分を呼ぶ少し乱暴な子供の声はどこから聞えるのだろう。不思議に思ったアスランがきょろきょろと辺りを見回してみても、自分達以外に人はいない。
 一体誰の声なんだろう…?と首をかしげていると、今度はいきなり襟首を掴まれた。
「お前だ、お前! 何をキョロキョロしている!」
 ここにきてやっとアスランは、その声が目の前の美少女から発せられていたことに気付いた。可憐な外見と掛けられた言葉にあまりにもギャップがありすぎて、無意識のうちに対象から外してしまっていたのかもしれない。
「何を泣いている」
 その声に慌てて手の甲でゴシゴシと乱暴に涙を拭ったアスランは、バツが悪そうに顔を伏せた。
「……別に。なんでもないっ!」
「何でもなくて泣くのか? お前は。泣き虫め」
「…っ! うるさいっ!!」
 少女に馬鹿にされたように言われカッとなったアスランは、顔を真っ赤にさせて怒鳴った。
「お前に関係ないだろ!」
 図星を指された悔しさに滲んだ涙を隠すようにますます顔を背けたアスランに、少女が大きな溜息を吐いた。
「…わかった。邪魔したな」
「―――!」
 少女はそう言うとあっさり踵を返そうとする。それを見たアスランは、咄嗟に少女の上着の裾を掴んでいた。
「――何だ?」
「……えっと…。あの……」
「だから何だ。言いたいことがあるなら話せ」
 空色の瞳に射抜くように見下ろされ、自分でもわからない行動に酷く動揺したアスランの口から、言うつもりもなかった言葉が零れた。
「―――ずっとずっと楽しみにしていた誕生パーティーが、父上も母上も仕事が入ったからって中止になってしまったんだ…。折角の誕生日なのにひとりになってしまって、寂しくて…」
「……そんなことでか」
 呆れたような少女の声に、翡翠色の瞳にまた涙が浮かぶ。
「だって、いつも仕事で家にいない父上が一緒に誕生日を祝ってくれるの初めてだったから、すごく楽しみにしてたんだ! 母上も朝からずっと一緒にいてくれるって約束してたのにっ…!」
「わかったから、そう簡単に男が泣くんじゃない」
 少女はその口調とは裏腹にやさしい仕草で零れた涙をそっとハンカチで拭いた後、ふわりと小さな手をアスランの頭の上に置いた。その暖かさに見上げたアスランの瞳にやさしく微笑んだ少女が映り、途端にとくんと心臓が大きく脈打った。
「―――お友達になってくれる?」
 思わず口にした言葉に、少女は驚いたように軽く目を瞠った。
「泣き虫は嫌いだ」
「もう泣かないよ!」
「なら考えてやってもいい」
 高慢な少女の返答に、それでもアスランは嬉しそうに笑った。
「その泣き虫を直したら、今度一緒にお前の誕生日を祝ってやる」
 そう言って鮮やかに笑った少女の笑顔が眩しくて、アスランの心臓の鼓動がますます早くなる。顔ものぼせたように赤くなって、ひょっとしたら自分は何か病気に罹ってしまったのかも知れない。
「あの…」
 アスランが何か言いかけた時、遠くの方から自分の名前を呼ぶ声がした。
「アスラン坊ちゃまーっ」
 その声にはっとして顔を向けたアスランに、少女は「迎えがきたようだな」と言った。
「心配してるだろう。早く行け」
「……うん」
 促されるまま立ち上がり、二三歩歩き出したアスランはふと立ち止まって振り返る。
「約束、忘れないでね!」
 真剣な翡翠色の瞳に、楽しげな笑みを浮かべた少女が大きく頷いた。
「お前もな」
 その答えに嬉しそうに顔を輝かせたアスランは、「じゃあね」と大きく手を振って走り出した。
 少女の名前を聞き忘れたことに気付いたのは、家に帰って母からお小言をもらった後だった。
 子供らしい単純さですぐに会えると高を括っていたが、その後間もなく月面都市「コペルニクス」に留学させられ、がらりと変わった環境に戸惑いながらも生活するうちに少女との約束も忘れてしまった。
 あれほど印象の強かった少女の面影も、今では銀色の髪と空色の瞳くらいしか思い出せないが、泣き虫が直ったきっかけを与えてくれたのはあの少女に間違いなかった。
「―――思えば、あの子が俺の初恋だったのかもしれない…」
 そう呟くと気恥ずかしくも甘やかな思いが胸を満たし、アスランの口元に照れくさそうな笑みが浮かんだ。
「―――何をにやにやして見てるんだ?」
 芳しい茶葉の香りとともに近付いてくる恋人の気配に顔を上げたアスランは、
「ああ。母上のアルバムだよ。あの人写真撮るのが大好きだったからね」
「ふーん」
 ちらりとアルバムを一瞥したイザークは、あまり興味がないといった様子でティーカップをアスランに手渡し、すっかり指定席となったアスランの隣へカップを持ったまま腰掛けた。
「もう準備は終わったの?」
「大体な。後はディアッカ達が持ってくるケーキが届くのを待つだけだ」
「俺、本当に何も手伝わなくていいの?」
 遠慮がちに問い掛けると、けんもほろろにあしらわれる。
「今日の主役が何を言う。貴様はただ黙って祝われていればいいんだ」
 彼らしい言い方に思わず苦笑を浮かべたアスランは、優雅な仕草で紅茶を口に運ぶ秀麗な横顔を見つめながらぼんやりと考えた。
 ―――そういえば、イザークに似てる…?
 見事な銀色の髪に、白磁の肌、明るい空色の瞳。一目会ったら忘れられない、その清冽な美貌。おぼろげな記憶の中の少女の面影が、今のイザークに重なる。
 ―――まさか、ね…。
 とくん、と心臓が脈打つ。
 あの子はどう見ても女の子だったし。でも、もしかしたら……。
 僅かな可能性を確かめたくなって、アスランは探るように口を開いた。
「―――俺、6歳の誕生日に初恋の子に会ったんだ」
「…ふーん」
「俺さ、その子と約束したんだよね。泣き虫を直したら友達になってくれるって」
「…ふーん」
「あと、一緒に誕生日も祝ってくれるって言ってくれたな」
「…ふーん」
「で、大人になったら、お嫁さんになってくれるって約束したんだ♪」
「――! ちょっと待て、そんな約束してなっ…!」
 振り向いて言った途端、しまったっ!というように顔を顰めたイザークに、信じられないと目を瞠ったアスランは、次の瞬間満面の笑みを浮かべた。
「―――憶えてくれてたんだね、イザーク。嬉しいよ」
「ふんっ。貴様の物覚えが悪すぎるんだ」
 そう言ってさり気に逸らした頬がほんのりと紅い。
「ごめん。だって、その後すぐにコペルニクスに留学しちゃったし、ずっとイザークのこと女の子だと思ってたんだもん」
「―――貴様…。臆面もなくよく言うなっ!!」
「ねえ…。あの時の約束、果たしてもらったことになるのかな?」
「知るかっ!!」
 頬を染めて喚くイザークを胸の中に引き寄せたアスランは、気恥ずかしそうに目蓋を伏せるイザークの唇に触れるだけのくちづけを落とした。
「ありがとう、イザーク」
 本当に嬉しそうに笑うアスランにつられるように、イザークは艶やかに微笑んだ。
「気付くのが遅すぎるんだよ、マヌケ」
 挑発的に見上げる空色の瞳に苦笑を漏らしながら、アスランは10年ぶりに再開した初恋の人に許しを請う。
「これから挽回させてくれるかな?」
「…それは貴様の努力次第だな」
「それはもう、最大限に努力させていただきます」
 互いに笑いあって。もう一度唇が重なりかけた瞬間、ひっそりと呟きが零れた。

「―――誕生日おめでとう、アスラン…」






          END



     アスランの初恋はイザークでした(笑)
     なんてベタな…と思いつつ、一度は書いてみたかったネタです(笑)
     子供の頃のアスランは、利発で手のかからない大人びた子供というイメージがあるのですが、
     今回は泣き虫でいかせていただきました(笑)

     この後、ディアッカ達に冷やかされながらも祝ってもらった後、イザークに個人的に祝ってもらえる予定。
     墓穴を掘りやすいアスランが、うっかりイザークの機嫌を損ねなければね(笑)

     それにしても。
     なんとかギリギリでアスランの誕生日に間に合って本当によかったです(汗)
     誕生日おめでとう、アスラン♪