「アスラン、起きろ! 遅刻するぞっ!」
突然肩を揺すられて、まどろみを貪っていた意識が急速に浮上する。耳に心地よい澄んだ声音――それがたとえ怒声であっても――を幸せな気分で聞いていたアスランは、もそもそと寝返りを打つとシーツを頭まで被りながら甘えた声で何時ものセリフを口にした。
「………イザーク、お願い。…あと5分」
「5分やそこら寝たって変わらないんだから、いい加減起きろっ!」
「―――イザークがキスしてくれたらすぐ起きるよ」
割に寝穢いアスランを毎朝の事ながら根気よく起こしていた保護者兼恋人は、続く彼の軽口にその優美なカーブを描く眉を思いっきり顰めた。
「朝っぱらから戯言をほざくな! そんなに寝たいんなら、何時までも寝てていいから好きにしろ」
冷たく言い捨てて踵を返しかけたイザークだったが、ここであっさり逃すほどマヌケなアスランではない。咄嗟に手を伸ばして彼の腕を掴み引き寄せると、細腰を捕らえて己が身体の下に引き込んだ。
「アスランっ!」
焦るイザークをよそにゆったりと余裕の笑みを浮かべたアスランは、頬に乱れた銀糸を指先で梳きながら、そっと顔を近づけ耳元で囁いた。
「……昨夜はあんなに大胆だったのにつれないよ」
夜の匂いを漂わせるセクシャルな声音に白磁の頬に朱を刷いたイザークは、それでも蒼氷の瞳にきつい光を宿らせると、自分に伸し掛かる不埒者を睨みつけた。
「馬鹿なこと言ってないでどけっ! 重…っ!」
怒鳴りかけた言葉は途中で熱い吐息に塞がれた。同時に背に回された両腕にきつく抱きすくめられ、一瞬呼吸が止まる。
その間にも無防備な口中に無遠慮な舌が滑り込み、我が物顔で動き始める。強引ではあるが乱暴ではないくちづけは手馴れたもので、イザークの抵抗を容易く抑え込んだ。
「―――んっ…」
朝のそれには少々熱烈すぎるくちづけに意識が遠のきかけたが、それでも寸でのところで踏ん張ったイザークは、渾身の力を込めてアスランの頭を拳で叩いた。
「いて…っ!」
その痛みに一瞬アスランが怯んだ隙を突いて素早く腕の中から抜け出したイザークは、頬を羞恥に染めながらも、頭を抱えてシーツに沈んでいる年下の恋人を怒鳴りつけた。
「貴様っ! 一体何を考えているんだっ!」
痛そうに顔を顰めつつゆっくり身体を起こしたアスランは、暴力反対などと嘯きながら、悪びれもせずに平然と言葉を返す。
「朝だから元気なのは仕方ないよ?」
先刻腰の中心に押し付けられた熱を思い出し、恥ずかしさについ目を逸らしてしまったイザークは、ここで不埒な行為に及ぼうとした青少年を厳しく正さなければ明日も同じ轍を踏むことになると思い、毅然とした態度で向き直る。
「とにかく! 金輪際、朝っぱらから変なことをするなっ! わかったかっ!?」
そんなイザークの思いとは裏腹に、「そうやって照れてムキになるところが可愛いんだよな」などと胸の中で思っていたアスランは、もう少しこの状況を楽しみたい気分だったが、これ以上純情な恋人をからかうと拗れてややこしくなることを経験上知っていたので、取り敢えず大人しくすることにする。
「…わかりました」
「よし。朝食にするから早く着替えて来い」
そう言い置いて未だ赤い頬を隠すように部屋を後にしたイザークを見送ったアスランは、やれやれと苦笑を滲ませながらベッドに転がった。
「ほんとに可愛いすぎるよ、イザーク」
何時までも保護者ぶりの抜けない恋人に幾分窮屈さを感じつつも、そんな不器用ささえも愛しく思う。
7つも年上のくせにすれてなくて、呆れるくらいに純情で。こんなんでよく教師なんて職業が勤まるものだと、半ば本気でアスランは思う。きっと学校では生徒に散々からかわれているに違いないと、イザークが聞いたら本気で怒りそうなことをぼんやりと考え、その場に自分がいないことが少しだけ悔しかった。
とはいえ、彼に余計な心配を掛けたくなくて、敢えて他の高校に進学することを選んだのは自分自身なのだから、文句を言える筋合いではないのだが。
あの頃は、イザークへの想いが日々を追うごとに募っていて、自分でもどうすることもできない苦しさに独り悩んでいた。
本当は同じ高校に進みたかったのだが、イザークに話しかけるすべての人間に嫉妬してしまう自分が恐ろしくて、なんとか自分を抑えるためには一定の距離を置くことが必要と考えたのだ。
そのことをイザークに告げると、彼は自分が教鞭を取る学校に進学するものと思っていた節があって、違う高校を希望した自分に落胆を隠せない様子だったが、結局はアスランに甘い彼は二つ返事で承諾したのだが。
今となっては、学校が違ってよかったと思っているアスランである。これで同じ学校ならば、イザークの顔を見る度に欲情する羽目に陥ることは想像に難くなく、なんで俺はこうも即物的な人間なんだろうかと己の若さに苦笑するしかない。けれどこれもすべて無意識に自分を誘惑する恋人のせいだと、己が行状を棚に上げたアスランはそう責任転換をする。
自分とこういう関係になる前は、それこそ必死になって育ててくれた彼だから、他人と深く付き合うことに慣れていないことはわかっていた。けれど、肌を重ねあってもう随分経つというのに、未だに物慣れない仕草をみせるのだ。
いい加減大概なことをしている仲なのだし、もう少しこなれてもいいだろうと思うのだが、どうあっても羞恥心を消せないらしい恋人に煽られて、限度を越えたことは両手に余りある。ぶっちゃけた話、恥ずかしがるイザークの姿はアスランの嗜虐心をえらく刺激するのだ。
もう少し暴走を抑えないとそのうち彼を壊してしまいそうで怖いと思いつつも止められない自分は、本当に色ボケしていると思う。
昨夜だって散々に泣かせて、よがらせて、自分から求めさせて…と思い出したところでずきりと下腹が疼いた自分に顔を顰める。
「やば…」
どうしてこうも即物的なんだろうと、節操のない己が下半身に呆れながらも何とか情動を押さえ込んだアスランは、これ以上恋人の機嫌を損ねないよう身支度を整えるためにベッドから抜け出したのだった。
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アスランとイザークが同居するようになって、もう5年になる。
イザークが暮らしていたマンションにアスランが父親と越してきたのがそもそものきっかけで。お隣付き合いしているうちに仲良くなっていったのは、互いに一人っ子だったため兄弟ができたかような親近感を覚えていたからかもしれない。
そんなふうに極親しく暮らしていたある日、突然アスランの父親が事故で還らぬ人となった。アスランはまだ中学生になったばかり、イザークも大学に通う身分だった。
引き取ってくれる身内はなく施設に行くしかなかったアスランを、イザークは引き取りたいと申し出た。彼の父親のパトリックのことは尊敬していたし、その遺児であるアスランにはできるだけのことはしてやりたかった。何よりアスランをこのまま施設になど行かせたくなかったのだ。
イザーク自身未成年だったこともあって母親の後見が必要だったが、幸いエザリアが快く引き受けてくれたお陰で児童局の許可も下り、二人は一緒に暮らすことになったのだ。
その間様々な紆余曲折を経て、保護者と被保護者の関係から恋人同士へ関係がステップアップしてまだ半年足らず。
教師という職業柄か未だに保護者意識の抜けきらないイザークと、高校3年という微妙な時期でもあり、早く対等な関係を築きたいアスランとの間には微妙な認識のずれがあるのだが、それさえも凌駕してあまりある互いを思い遣る気持ちが二人の結びつきを強くしていた。
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行為の激しさを物語る全身を包む気だるさに軽く嘆息したイザークは、未だ軋む身体をようようと起き上がらせて、傍らで穏やかな眠りにつくアスランを見下ろした。
満足げに眠るその顔は、満腹で喉を鳴らす猛獣の姿を思い起こさせ、知らずうちに苦笑が零れる。起こさないように指先でそっと額にかかる湿った濃紺の髪を梳きながら、イザークは年相応に無邪気な寝顔を見せる少年を愛しげに眺めた。
アスランとこんな関係になってしまったことについてはそれこそ後悔など微塵もないが、仮にも被保護者とという後ろめたさはどうしても拭い去ることはできない。せめて彼が卒業するまでは二人っきりの時でも努めて毅然とした態度を取ろうと誓ってはいるものの、狡猾なアスランに引きずられてずるずるとなし崩しになっている。
教え子ではないとはいえ仮にも教師が、と自分の自堕落ぶりに落ち込みたくもなるが、いくら淡白な性質とはいえ好きな相手に触れられて何も感じないほど木石ではないから、自らへの戒めもついつい緩んでしまう。
強引で、けれど伸ばされたその腕は決して自分を傷つけるものではないと知っているから、安堵感を持ってその胸の中に身を委ねられるのだ。本当にどっちが保護者だか判らないと内心苦笑したくなるが、あまりの心地よさにどうでもよくなっている自分がいる。
何時から惹かれていたかなんて、もう忘れてしまった。もしかしたら初めて出会ったその時に予兆めいたものはあったのかもしれない。
自覚してからは、これは持ってはいけない感情だからと必死に押し隠してきた。健康で伸びやかな少年を汚すような想いは、抱いているだけで酷く罪悪感に苛まれた。それでも溢れ出る感情は抑えようもなく、アスランに気取られないようにと気を張り詰めて過ごした結果よそよそしい態度になってしまい、彼の心を傷つけてしまった。
その頃のアスランはアスランで、自分への感情を持て余して爆発寸前だったというから、今でこそ二人して何をやっていたんだと笑い話にしかならないが、その時は本当に互いに必死だったのだ。
結局はアスランが行動を起こし、それに引きずられる格好で自分も感情を晒して、二人の溝は埋まったのだけれども。
すれ違いの日々は確かに辛かったが、自分達の今を考えれば必要な時間だったとそう思うことができる。回り道をすることで、互いの感情に素直に向き合い、同時に相手をどれだけ想っているか自覚することができたのだから。
この先、恐らく困難なことは山積みで、一体自分達はどうなってしまうのだろうかと正直不安は隠せないが、互いを思い遣る気持ちがある限り大丈夫だと思う。
穏やかに眠る年下の恋人の顔を愛おしげに見つめ、ゆったりと流れる至福のひとときを甘く噛み締めながら、どんな時も彼を支える存在でいたいと、強く願うイザークだった。
END