「イザーク、お花見しようよ♪」
イザークの執務室を急襲したシンは、開口一番にそう言った。
「は?」
机に座って書類にサインをしていたイザークは、突然の来訪者の言葉に目を瞠った。
停戦中とはいえ、ナチュラルとの微妙な緊張関係が続いているのに変わりはなく、日夜会議に明け暮れているこの現状で花見などと浮かれている場合ではないだろう。
生真面目を絵に描いたようなイザークは無言のまま優美な眉を顰め、石榴色の瞳を期待に輝かせながら自分を見つめる漆黒の髪の少年をつれない一言で一刀両断した。
「…午後イチで会議が入ってる。悪いが花見には付き合えないな」
「えーっ!! そんなあ…」
予定されていた会議は先ほど延期の連絡が入ったのだが、この忙しい最中、たとえ時間に余裕ができてものんびり花見をする気にはとてもなれないイザークは、シンの落胆ぶりに胸を痛めつつも、ここはこのまま押し通すことにする。
「どーしても、ダメ?」
捨てられた仔犬のように頼りなげな瞳で縋るように見つめられると、ついついほだされて頷いてしまいそうになる自分を叱咤して、イザークは敢えて厳しい表情を崩さない。
「ダメだ」
重ねて告げるとシンはがっくりして、気の毒なくらい肩を落としてみせた。
ところが。
「あれ? イザーク。午後の会議、延期になったんじゃないのか?」
今まで黙って事の成り行きを傍観していたディアッカが突然口を挟んだ。イザークは驚いて振り向き、シンはぱあっと顔を輝かせる。
「えっ? ほんと!? だったら一緒にお花見しようよ〜」
「おい、ディアッカっ!」
余計なことをと睨みつけるイザークを難なくかわして、喰えない幼馴染みはシンに向かってとんでもない事を言い出した。
「イザークの午後の予定が空いたから、これから休暇を取ろうと思ってたんだ。どうせなら俺も混ぜろよ」
「いいですよ。ね? イザーク」
自分を無視して話を進める二人に、イザークの眉間の皺も深くなる。
「…花見ならディアッカと二人で行けばいいだろう」
「えー。だって、イザークとのんびりする時間なんて滅多にないんだし、たまにはいいでしょ? それに、お花見は今を逃すと来年まで待たなきゃいけないんだよ? 折角綺麗に咲いているのに、観てあげないと桜が可哀想じゃん」
「そうそう。人間関係を円滑に保つ為にも、仲間とコミュニケーションを取ることは一番重要なことなんぞ? こういう機会に親睦を深めて、互いをよく知り合うことがより良い関係を築くことになるんだ」
よく判らない理屈を並べるシンと、薄ら寒い正論を吐くディアッカにイザークの眉がつり上がる。
「だから、俺は行かないと言っているだろうっ!!」
よく通る声が、執務室の空気を震わせる。その迫力に気圧されたかのように一瞬押し黙った二人は、苛立ちも露なイザークを黙って見つめ、そして徐に顔を見合わせた。
「――それじゃあ、そろそろ行きましょうか? ディアッカ先輩、俺、食料調達してくるので、呑み物用意していただけますか?」
「任せとけって。ビールにワインに日本酒と何でも揃えるぜ」
「流石ですね〜。楽しみだなあ、ね? イザーク♪」
今ほどの一喝など何処吹く風の彼らの態度に、最近は高くなったようだがそれでも元々沸点の低いイザークがぷちっとキレた。
「―――貴様ら」
地を這うような低い声が形の良い唇から零れ、細い身体がゆっくりと椅子から立ち上がった。
「いい加減、人の話を、聞けーっっ!!!」
空気を切り裂く怒声が、執務室中に響き渡った―――。
「うわあ、すごいなあ」
公園の周囲をぐるっと囲むように咲き誇る満開の桜の木々を見て、シンが感嘆の声を上げた。
「平日の昼間なのにこの人出。暇人が多いな」
両手にいっぱいのアルコール類を抱えたディアッカが、花見客でごった返す公園を見回してやれやれと肩を竦めた。
「―――人のこと言えるのか?」
拉致されるように強引に連れてこられたイザークが、不機嫌さ丸出しで揶揄する。
両手に風呂敷で包まれた特製花見弁当の重箱を持たされているのは、逃亡防止のためだった。実際、何度か隙を見て逃走を計ろうとしたが、真面目なイザークは花見弁当の処置に困り、結局こんな所までついて来る羽目になってしまったのだ。この辺り、イザークの人となりをよく知るディアッカの頭脳勝ちである。
「取り敢えず、場所確保だな」
ディアッカの言葉に「俺、行って来ます」と、ゴザを抱えたシンが元気よく走り出した。
「…随分と楽しそうだな」
「そりゃあ、大〜好きなイザークと一緒に花見ができるんだから、浮かれないはずないでしょ?」
先程のお返しとばかりに揶揄するディアッカに、イザークの形の良い眉が顰められる。
「……冗談はそのくらいにしないと、本気で怒るぞ、ディアッカ」
「ま〜たまた、照れちゃって。恥ずかしがらなくてもいいぞ、イザーク♪」
「貴様っ! 殴られたいかっ!?」
ディアッカの軽口に、虫の居所の悪いイザークが早速噛み付いた。
と、その時。イザークの怒気を削ぐかのように、のんびりとした声が掛けられる。
「イザーク、ディアッカ先輩。こっち、こっち〜」
「今行く」
両手をぶんぶんと振って呼ぶシンに返事をしたディアッカは、眉間に皺を寄せたままの幼馴染みを促した。
「ほら。何時までも仏頂面してないで、行くぞイザーク」
「誰のせいだと思ってるっ!」
イザークの抗議などあっさり無視して先に歩き出したディアッカは、さっさとシンの確保した場所に上がりこんで、用意したアルコール類をゴザの上に並べはじめた。
「重かったでしょ?」
「いや、大して重くなかったから……何だ?」
何か言いたげな柘榴色の瞳に首を傾げると、重箱を受け取りながらすまなそうにシンが言った。
「…無理やり連れて来てごめん。イザークがすごく忙しいの知ってるけど、でもだからこそ少しでも休んでほしくて。勿論、イザークと一緒にいたいって俺の我儘もあるけど、イザークに仕事を忘れてのんびりしてもらいたいってのも、本当の気持ちなんだ」
一途に自分を見つめる少年の真摯な瞳に、イザークの胸がじんわりと熱くなる。
「…わかってる。いつも気を遣わせてすまないな、シン」
「そんなことないよ。だって俺は、少しでもイザークの役に立ちたいと思ってるんだもん。イザークが喜んでくれるだけでいいんだ」
照れくさげに、でも全開の笑顔でシンが答えるから、イザークも先程までの苛々した気分などどこかへ吹き飛んでしまった。
「シン…」
ありがとうと小さく呟いて、はにかんだ笑みを浮かべるイザークの貌があまりにも綺麗で、思わずシンは見惚れてしまった。
「イザーク…」
ちょっとぎこちないが、二人の間になんとなくいい雰囲気が漂い始めたその時。
「おい、ビールが温くなるからさっさと始めようぜ」
そう言って缶ビールを投げてよこすディアッカに、二人は心の中で同時に舌打ちしたのだった。
「――ディアッカ、アルコール以外はないのか?」
「んあ? んなもん、あるわけないでしょ。大丈夫、大丈夫。ビールなんか水代わりだし」
自分がアルコールに弱いことを自覚しているイザークは、それはお前がザルだからだろうと内心溜息を零す。
「…あんまり飲むなよ」
「固い事言うなって。たまには息抜きしなくちゃ。ほら、シン。ガンガンいけ、ガンガン」
「ありがとうございます〜v」
ディアッカに手渡されたビールのプルトップを嬉しそうに開けようとするシンに、ぼそりとイザークが呟く。
「こら、未成年が何してる」
「え?」
きょとんとするシンの手から素早く缶ビールを奪ったイザークは、厳しい口調で言った。
「俺の前で未成年が飲酒しようとするとは、いい度胸だな」
「そんな…。ビールくらい、いいじゃないですか」
泣きが入ったシンの訴えを、イザークはにべもなく切り捨てた。
「ビールだろうが何だろうが、未成年の飲酒は法律で禁止されている」
がっくりと肩を落とすシンを横目に眺めていたディアッカは、愛想笑いを浮かべながらイザークに酒を勧める。
「んじゃ、シンの代わりにお前が呑めよ、イザーク」
「だから! 昼日中からアルコールの摂取はできないと言っているだろうがっ!!」
「んなかたっくるしいことばっか言ってるから、眉間の皺が消えないんだよ。おい、シン。そこの一升瓶と紙コップ取ってくれ」
「はい」
シンから一升瓶と紙コップを受け取るや否や、ディアッカはイザークの手に無理やり紙コップを握らせると、日本酒を注いだ。
「おい、ディアッカ!」
「あのねー。花見に来て酒を呑まないなんて、大馬鹿野郎のすることなの! つべこべ言わず、さっさと呑む!」
目の座ったディアッカにこれ以上絡まれては叶わないと、イザークは半ば諦めて譲歩する。
「わかった。じゃあ、日本酒じゃなくてビールのほうがいい」
「我儘言わないの。折角注いだ酒が勿体ないでしょ。それとも、何? 俺が注いだ酒が呑めないの?」
どこぞの酔っぱらいさながらのディアッカの剣幕に押される形で、しぶしぶイザークが紙コップに口をつけた。殆ど日本酒を呑んだことのない彼は、喉を焼く独特の香りと甘さに、思わず眉を寄せる。
「俺も注ぎます〜v」
そう言ってシンが酌をしようとするのを、とんでもないと手で止めた。
「いや、もういい」
「そんなあ。ディアッカ先輩の酒は呑むのに、俺の酒は呑んでくれないんだ! 酷いっっ!!」
どこかで聞いたような台詞で、思いっきり拗ねモードのシンが唇を尖らせる。柘榴色の瞳を潤ませて縋るように見上げられては、イザークに勝ち目はなかった。
「そういうわけでは…」
「じゃあ、いいじゃない。さあさあ、どーぞv あ、全然減ってないし。ダメだよー。はい、ぐーっといって、ぐーっとv」
こんな時に限って押しの強いシンに流されるまま、イザークは日本酒を口に運ぶ。少しコップが空いてはシンとディアッカの二人がかりで注ぎ足され、何度もそれを繰り返しているうちに、イザークの身体がぐらりと揺れた。
まずい…っ!!
頭の片隅で危機を感じても身体は言うことをきかず、そのまま前のめりに倒れそうになるのを誰かの腕に支えられた。
「イザーク! 大丈夫?」
頭の上から掛けられる言葉は柔らかく、耳に心地良かった。
―――ああ、シンだ…。
そう思ったら何故か安心感が胸いっぱいに広がって、全身の力がすっと抜けた。
「―――シン…」
温かな温もりに包まれたイザークは、ほっと安堵の息を吐くと次第に意識を手放したのだった。
「―――イザーク?」
揺すっても起きないイザークを胸に抱きながら、シンは困ったようにディアッカを見やった。
「どうしよう。イザーク、酔っぱらって寝ちゃいましたよ」
「そりゃそーだろ。あれだけ日本酒呑んでりゃ、もともとアルコールに弱いこいつはすぐに潰れるさ」
しれっと言うディアッカに、シンは苦笑を浮かべた。
「…確信犯ですね、ディアッカ先輩。わざとイザーク潰しちゃったんだ」
「人聞きが悪いな。頑張りすぎてる友人への思いやりと言ってくれ。たまには潰れるくらい呑んだ方が、こいつにはいいんだよ」
ぶっきらぼうな口調の陰には幼馴染みを気遣う真摯な響きが感じられて、シンの目が優しく細められる。
が。
次の瞬間、ディアッカはニヤリと不敵に笑んでみせた。
「なーんてね。折角の花見なんだし、煩いのはさっさと静かにしてもらうに限るでしょ? おい、シン。イザークの面倒はお前に任せたからな。後は宜しくやってくれ!」
そう言うが早いかディアッカは、先程から秋波を送られていた女性団体の元へいそいそと行ってしまった。その姿を呆然と見送ったシンは、ふと我に返るとぽつりと呟いた。
「…元気だなあ」
あんなにバイタリティのある人なのに、なんでいつも振られてばかりいるんだろうと、ディアッカが聞いたら怒り出すようなことをぼんやり考える。
人前もあるので何時までもイザークを抱いているわけもいかず、シンは仕方なく身体をずらして彼の頭を自分の膝の上へ乗せた。
「固い枕で寝にくいかもしれないけど、我慢してね」
役得とばかりにさらさらの銀糸を指で優しく梳いていたシンは、急にきょろきょろと周囲を見渡して辺りの様子を確認すると、微かな寝息を立てる唇に素早くキスを贈った。
「おやすみなさい、イザーク」
どこかあどけなさの残る寝顔に自然と笑みも深くなる。
ふと頭上を見上げると、青空に満開の桜の薄いピンクが映えて、溜息が出るくらい綺麗で。
穏やかな春の陽射しに包まれて、シンはイザークと過ごすこの穏やかな時間に、心の中でそっと感謝するのだった。
END