約束



 「――――生き残った、か……」
 ミッションで傷付いたヴァーチェを格納コンテナに収容したティエリアは、ヘルメットを脱ぐと、コックピットのシートに崩れ落ちるように身体をもたれかけた。
 他の三人と合流してからここまでオート操縦で来たため、身体は若干休められたものの、精神的に気の抜けない状態は続いていて、ようやく緊張の糸を緩めることができたのだ。指一本動かすことも億劫なほどの疲労感に襲われたティエリアは、深く息を吐くとそのまま瞳を閉じた。
 こうして無事生きて還って来れるとは、つい数時前には予測もつかなかった。三国家群による圧倒的な物量作戦により、肉体的にも精神的にも極限の状態に追い込まれ、挙句の果てにはAEUに鹵獲されかかるという屈辱の事態に陥ってしまったからだ。
 あのままあの謎の機体の介入がなく、敵方に鹵獲されてしまっていたら、ガンダムの機密を守るために最後の手段―――自爆スイッチのボタンを押すという終焉を迎えたかもしれない。ロックオンとの約束を破ってしまうことになるが、ガンダムマイスターである以上、機密保持は最優先事項であり、個人的感傷に流されてしまうわけにはいかないのだ。
 ―――もし、自分が死んだら、ロックオンは悲しんでくれるだろうか…?
 ふと、そんな考えが脳裏を掠めたティエリアは、ゆるく首を振った。それこそなんの感傷だか。らしくもない自分に自嘲の笑みも深くなる。
 ヴェーダの意思に従い、与えられたミッションを速やかに完遂する。それがティエリアに与えられた唯一無二の使命。そのために生きているのだと、ずっとそう思っていた。
 任務を遂行するためなら手段は選ばず、いかなる犠牲を払おうとも非情なまでの冷静さで任務にあたる。それこそが自身の求めるべき姿であり、ガンダムマイスターとしての存在意義だった。何の感情も持たなくていい。何ものにも心惑わされず捕らわれず、ただヴェーダの意思に沿うことだけを行動理念においていたはずなのに。
 何故かロックオンの言葉に、ないはずの心が揺さぶられる。その体温を感じて、安らぎさえ覚える。
 こんなことは初めてだった。誰も、ヴェーダでさえも教えてくれなかった、不可解なこの感情。ひどく苛立たしくてけれど落ち着かなくて、それでいてどこかふんわりとあたたかい…。
 こんな感情を自分に気付かせたロックオンが憎らしかった。ヴェーダのことだけを考えていたいのに、気付かされた感情が邪魔をする。こんな自分はティエリア・アーデではない。知らないうちに自分が変えられてしまっているようで、本能的な恐怖に背筋に震えがはしった。
「―――あんな男、嫌いだ…」
 口に出すと空々しく聞こえてしまうのは、それが恐らく本心ではないからだろう。それでも、声に出してそう言い聞かせないと、理解できないこの感情に飲み込まれてしまいそうで、ティエリアは繰り返し呟いた。
「―――嫌いだ……」
 押しが強くてそれでいて案外弱いところもあって、人当たりがいいくせにどこか他人と一線を引いている、常に余裕の表情を崩さない飄々として掴み所のない男。
 初めて会ったときから彼はそうだった。
『―――俺はロックオン・ストラトス。君は?』
 そう言って手を差し伸べてきた。初対面なのにもかかわらず、まるで知己の人間に対するような気安さで。
 あんなふうに接してこられたのは初めてだったから、どうすればいいのかわからなかった。いきなり目の前に現れた男との距離を掴みあぐねているうちに、あっという間にロックオンは自分の中に入ってきてしまった。
 これ以上、自分の中でロックオンの存在が大きくなってしまうのが怖い。ガンダムマイスターとしての使命よりも、彼を優先するようになってしまったら…という不安が消えない。自身の不覚からナドレを世界に晒してしまったときとは違う種類の動揺に、心が揺れる。
「―――私は…、どうしたら……」
 両手で顔を覆い俯いてしまったティエリアの耳に、聞き覚えのあるアラーム音が届いた。はっとしてパネルを操作すると、モニターにヘルメットを小脇に抱えたロックオンの姿が映った。
「いつまでもそんなトコにいないで降りてこいよ。寝てんのか?」
 そう軽口を叩かれ、自分が思ったよりも長い時間こうしていたことに気付き、ティエリアは己が不覚に思わず眉を寄せた。
「今、降りようと思っていたところです」
 不機嫌も顕に憎まれ口で返すと、ティエリアはモニターを切った。
 ディスフレイに映し出されたロックオンの顔を見た瞬間、全身の力が抜けるような歓喜に捕らわれたことは絶対に気のせいだと、強く心に言い聞かせて。



「よう。お互い生きてたな」
 コックピットからティエリアが降りると、ロックオンはいつものシニカルな笑みを浮かべて迎えてくれた。とはいえその顔には隠し切れない疲労が色濃く滲んでいて、戦闘の苛烈さを嫌でも思い起こさせられる。
「当たり前でしょう。俺を誰だと思っているんですか」
 どこか怒ったような口調で言い返すティエリアに、ロックオンは苦笑を滲ませた。
「そんなこと言うなよ。これでも一番に会いに来たんだぜ?」
「恩着せがましくそんなことを言って、俺にどうしろと言うんです?」
 冷ややかなまなざして見上げると、やれやれというようにロックオンは肩を竦めた。
「素直じゃねえなあ。こういうときは、生きて会えて嬉しいって言うんだぜ?」
 そう言うが早いか、ロックオンはティエリアの腕を掴むと胸の中に抱き寄せた。その強い抱擁にティエリアの心臓がとくんと跳ねる。
「―――約束、守ってくれたんだな…」
 耳朶に落とされた呟きに、ティエリアははっとする。
 おそらく、ロックオンは気付いているのだろう。たとえ一瞬でも、自爆の道を考えたティエリアに。染み付いた思考は一朝一夕で変えられるものではない。それでも何も言わずに生還を喜んでくれる彼に、ティエリアの心もふわりと温かくなる。
「……俺は、嘘吐きではないですから」
「そうだな…」
 頭の上で笑う気配がして、抱きしめる腕の力もさらに強くなる。ティエリアも下ろしていた腕をロックオンの背中に回して、彼の温もりを確かめた。
「……ティエリア」
 囁かれて顔を上げると唇が重なった。触れるだけのキスが次第に深いものへと変わりかけると、慌てたティエリアが抵抗をみせる。
「ちょっ、…ここをどこだと」
 つい流されてしまった自分が恥ずかしくて、腕の中でもがくティエリアを再び深く抱きしめたロックオンは、懇願するように訴えた。
「わりぃ。…もう少しこのままでいてくれ」
 弱ったように告げられると、ティエリアもこれ以上の抵抗がしにくくなってしまい、仕方ないとでもいうように瞳を閉じた。
 そんなふうになし崩し的に許してしまったのが悪かったのか。そのままロックオンの自室に強引に連れ込まれたティエリアは、パイロットスーツを剥ぎ取られるような勢いで脱がされ、ベッドに押し倒された。
「ロックオン。シャワーを…」
「んな余裕あるか、馬鹿」
 性急過ぎるロックオンへのせめてもの抗いは、一言で却下された。
 熱を帯びたターコイズブルーのまなざしには、はっきりと情欲の色が浮かんでいて、その視線の強さに捕らわれたティエリアの身体は動けなくなる。
 獣じみた衝動に突き動かされるロックオンに噛み付くようにくちづけられたティエリアは、その熱に攫われるように甘く激しい快楽に落ちていった―――。





 嵐のような時間が身体の上を過ぎていった後、シーツに包まれながらティエリアはポツリと呟いた。
「―――彼らの正体は何だと思いますか?」
「ガンダムを名乗る謎の三機のモビルスーツ、か…」
「ヴェーダの計画プランに、あの機体の存在はありません。ですが、種類は違っても確かに太陽炉を所持していて、GN粒子を放出していました。現段階において、この技術を持つのはソレスタルビーイングだけです。ヴェーダすらも知らないところで、一体何が起きているのか…」
 そう言って考え込む仕種をしたティエリアの身体を、ロックオンは腕の中に引き寄せた。
「考えるのは後にして、とりあえず寝とけ。もたねえぞ」
「……邪魔したのは誰ですか?」
「俺…、だな」
 悪びれない笑顔で額にくちづけるロックオンに、ティエリアは溜息を吐いた。
「……確信犯の貴方には、何を言っても無駄なようですね」
「ひでえな」
 深く抱きしめられ、そのあたたかさにティエリアの目蓋が安堵に閉じられた。
 この腕の中に還ってこれてよかったと、今なら素直にそう思える。悔しいからロックオンには、絶対に言ってはやらないが。
 温もりに安堵した途端、睡魔が襲ってきて、ティエリアは抗いもせずにその誘惑に身を委ねた。
 ほどなくして静かな寝息が聞こえてきたヴァイオレットの光沢の髪に顔を埋めたロックオンは、お互い無事帰還できた喜びを噛み締めていた。
 ティエリアの顔を見た瞬間、込み上げる衝動が止まらなくて、強引すぎた自覚はある。けれど、一刻も早く彼の無事を身体で確かめたかったのだ。俺もまだまだ青いなと、胸の中でロックオンは自嘲した。
 何かが自分達の知らないところで動きだしている。
 あの、突然現れたヨハン・トリニティという男――ガンダムマイスターと名乗ったが、ヴェーダにも何のデータがないことが気にかかる。
 彼らの存在が自分達にどういう影響を与えるのかわからないが、一度動き出したものは止められない。目的を遂行する為に、ただ前へと進むだけだ。それが、ガンダムマイスターとしての使命であるならば、甘んじて受けよう。
 それでも今だけは、このぬくもりとともにあることを許して欲しい。
 また新たなミッションに、この身を投じるその時まで。
 ロックオンは、腕の中で安らかな眠りにつくティエリアの額にそっとくちづけると、自身も眠りの淵にその身を投じた―――。