ティエリア・アーデは、これ以上ないほど不機嫌だった。理由は言わずと知れたライル・ディランディの存在だ。
 刹那・F・セイエイが連れてきた、新しいガンダムマイスター。
 『彼』の双子の弟だけあって、顔と声だけは酷似しているが、性格は正反対で、軽薄で浮ついた不遜な男だ。しかも気に入らないことに、『ロックオン・ストラトス』を自ら名乗っている。その名の持つ重さも知らないくせに、いい気なものだ。
 そんな男の面倒を見なければならないのだから、ティエリアが不機嫌になるのも無理はない。
 あんな男を連れてきた当の刹那にその責任を取らせたかったが、彼は合流したばかりで艦のことに慣れていないうえ、ダブルオーの機体調整が最優先だった。ラッセ・アイオンはプトレマイオスUの操縦とブリッジの管理があるからそんな暇はない。
 となると他に適任者は見当たらず、自然とティエリアにその任が回ってくるのは仕方がないことではある。あるが、ティエリアにとっては不本意極まりない状況であるから、その柳眉はずっと顰められたままだ。
 よりによってこんな男の面倒をみなければならないなんて…っ!
 件の男は、ティエリアの目の前でパイロットスーツに身を包み、ケルディムのコックピットに座って計器類を珍しげに眺めている。
 物慣れないその様子に嫌な予感を覚えたティエリアが、まさかと思いつつ訊ねた。
「モビルスーツの戦闘経験は?」
「あるわけねえだろ?」
「モビルスーツの戦闘経験もないズブの素人を連れてくるなんて、刹那は一体何を考えているんだ」
 悪い予感が的中し、ティエリアは舌打ちした。心の中で刹那を思いっきり罵る。
「だからさー。やることいっぱいあんだろ?よろしく頼むよ、可愛い教官殿」
 軽薄を絵に描いたようなライルのふざけた口調に、ティエリアは思いっきり眉を顰めた。冷ややかな視線で男を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「茶化さないでもらおう!」
「そんな怖い顔しないでさ。ほら、俺素人だし? ぶっちゃけ教官殿に手取り足取り教えてもらいたいわけよ」
「素人を自慢するくらいなら、初めから刹那の誘いを受けなければいい」
 顰めた眉をさらに険しくさせて睨みつけても、目の前の男は僅かばかりも臆する気配はなく、それがまた気に入らない。
「そりゃそうだけどさ。わざわざ俺のとこまで来て誘ってくれたんだから、その期待を裏切ったら悪いだろ? それに、俺に何かできることがあるなら役に立ちたいからさ」
 『誰の』役に立ちたいんだと皮肉りたいのを寸前で押し止めたティエリアは、自分を落ち着かせるべく深く息を吐いた。こんな調子のいい男に引きずられて自身のペースを乱すなど、許せないことだ。
 ティエリアは、どう見てもやる気に欠ける臨時生徒をシートに座り直させた。
「ならば、やる気を見せてもらおう。操縦方法は一度しか説明しないから、そのつもりで」
「えー。俺、物覚えが悪いからなあ。たった一度じゃ覚えられないぜ?」
 途端に上がった不満の声を、ティエリアは冷淡に切って捨てた。
「覚えられなければ死ぬだけだ。きみが飛び込んできたこの世界に、甘えは一切許されない。できなければ、尻尾を巻いてとっとと帰ればいい」
「はいはい。わかりましたよ。ほんと、黙っていれば可愛い教官さんなのに、実は鬼教官だなんて詐欺だぜ」
 わざとらしいぼやきは冷ややかに睨みつけるだけで無視して、ティエリアは説明を始めた。
「……詳細な操縦マニュアルは後でこのメモリースティックを見て覚えてもらうとして、まずはシステムの起動からだ。プライオリティは既に登録ずみだから―――」
 好むと好まざるとにかかわらず、短期間でこの男を足手まといにならない程度に仕上げなければならない。そうしなければ、リスクを背負うには自分達だ。ただでさえ戦力の差は甚大で、戦場で他人の面倒を見ている暇などあるはずがなく、生き残るためには個々のレベルアップを図るしかない。
 代替がいない以上、嫌でもやってもらう。
 軽口を一切許さない凄まじさで、ティエリアはライルが根を上げても構わずに指導し続けた。





 王留美からアレルヤ・ハプティズム発見の報を受け、スメラギ・李・ノリエガのミッションプランが提示された。
 僅か500秒の大胆かつ緻密な計算の上に成り立つ電撃作戦は、彼女の真骨頂だろう。
 どんなに本人が自己を否定しようとも、彼女は正しく戦術予報士なのだ。それ以外に生きる術はない。
 ティエリアは、ふと彼女に頬を叩かれたときのことを思い出した。
 ロックオンを喪って、荒れ狂う感情を制御できずにその激情の矛先を刹那に向けた。何も言い返さない刹那を一方的に罵っていた自分に、彼女は平手打ちを食らわせて正気に戻させたのだ。
 あのときは自分が弱音を吐いていたが、今は彼女が弱音を吐いている。だが、自分を叱咤した彼女の姿が本当の彼女自身だと思うから、心配はしていない。
 失意の只中にあって気力をなくしていても、彼女は必ず立ち上がる。折れそうな心をアルコールで薄めながら戦っていたあの頃のように、己が犯した過ちを乗り越えるため、自らの意志で戦いに加わるだろう。
『―――それが人間なんだよ』
 ロックオンの言葉が脳裏に甦る。
 弱いけれど、強い。それが人間。
 ―――ああ。本当に、そのとおりだ、ロックオン……。
 そっと瞳を閉じ、儚げな微笑を浮かべながら彼を偲んでいたティエリアは、ふいに入った通信に追憶の世界から引き戻された。
『……ティエリア』
「どうした?」
 通信用の小さなモニターに顔を向けると、厳しい表情をしたフェルト・グレイスの顔が映っていた。
『言われたように外部への通信を監視していたら、先程プトレマイオスUから発信された暗号通信をキャッチしました』
 彼女の言葉に、ティエリアは軽く目を瞠った。
「…そうか」
『解析しますか?』
「いや、必要ない。発信者と内容は予想がついている。余計な仕事を増やして悪かった。この件はもういいから、ミッションに専念してくれ」
『わかりました』
 彼女の姿が画面から消えると、ティエリアは深い息を吐いた。
「―――こうも予想通りの動きをされると、案外拍子抜けするものだな…」
 自嘲めいた笑みが白皙の頬をつく。
 案の定動き出したあの男に、ティエリアは失望しない。こうなることは最初から予測がついていたことだから。
 あの男――ライル・ディランディがカタロンの構成員だと知ったときから、彼が何のために彼が刹那の誘いに乗ったのかなど、ほんの少し目端の利く人間ならばすぐわかることだ。
 彼がソレスタルビーイングに入ったのは、その理念に賛同したわけでも、兄の遺志を継ごうとしたわけでもない。ただ己が属する組織――カタロンへ情報提供するために、スパイとしてもぐりこんだのだ。
 いっそ見事なほどにわかりやすい理由だった。わざわざ糾弾する気も起きないほどに。
 アレルヤ救出の500秒のミッションの間に、彼らがどんな動きをしてくるのか。
 カタロンが単なる一反政府組織として終わるのか、それとも世界を変える礎になりうる組織なのか。見極めるいい機会でもある。
「せいぜいその手並み、拝見させてもらおう」
 ティエリアは挑発的な笑みを浮かべながら呟いた。





 四年ぶりの再会を果たしたアレルヤ・ハプティズムは、長い間拘留されていたためにやつれてはいるものの、思ったより元気そうでティエリアは安心した。
「アレルヤ。きみが捕らえられていたのは……」
「いやー。すごいなこの船は」
 話の途中で割り込んできた男に、ティエリアは眉を顰める。
「ロックオン!」
 驚愕の表情を浮かべて立ち上がったアレルヤに、ライルはひょいと肩を竦めた。
「もうあきたよ、その反応は」
「…………」
 意味がわからず助けを求めるように視線を向けてくるアレルヤに、思わずティエリアは苦笑を浮かべた。
 穏やかで純朴なその態度はあの頃とまったく変わらない。
 まるで時間が戻ったかのような錯覚を覚えたティエリアは、どこか遠くを見つめるようなまなざしでアレルヤを見つけた。
「……変わらないな、君は」
「そうかい?」
 気恥ずかしげに顔を伏せるアレルヤにティエリアは唇を綻ばせる。
「そう急に変わることはないさ」
 四年という月日は、過ぎてしまえばあっという間であるが、実際はとても長い。人が変わってしまうには十分すぎる時間だ。辛く苦しい虜囚の日々を送っていたアレルヤが変わらずにいてくれたことが、ティエリアには嬉しかった。
「……おかえり、アレルヤ」
 自然と口から零れた言葉は、かつてロックオンから教えられた言葉だ。近しい人を迎えるときに使う、どんな疲れも吹き飛ぶ魔法の言葉。
「ただいま」
 少し照れくさそうに、けれど嬉しそうにアレルヤが応えると、ティエリアはふわりとやわらかな笑みを浮かべた。
 これで、揃うべき人間は揃った。あとは自分達の成すべきことをするために、ひたすら前へと進んでゆくだけだ。
 今度こそ、誰も失わせはしない。全力で守り戦い抜く。
 ティエリアは心の中で強く誓った。



 ―――気に入らねえな。
 目の前で自分の存在を完全に無視しているティエリアを、ライルは苦々しい思いで見つめていた。
 四年ぶりに仲間と再会して嬉しい気持ちはわかるが、それにしても自分に対する態度と違いすぎる。
 自分に対して構えたように厳しい態度を崩さないティエリア。向けられるワインレッドのまなざしは冷ややかで怜悧で、こんなやわらかな表情など見たこともなかった。
 そもそも、初っ端から自分に対するティエリアの態度は冷淡だった。
 クルーの誰もが兄に酷似している自分に驚き、ぎこちなくはあったが好意的に受け入れてくれたのに、ティエリアだけは初対面の時から敵視する態度を隠さなかった。
 他のクルー達のように自分と兄を重ねて見られないのはよかったが、常に敵意むき出しで接しられても、それはそれで面白くはない。せめてもの意趣返しで、軽口を叩いて怒らせてみても、空しさが募るばかりだ。
 何故これほどまでに拒絶されなくてはならないのだろう。
 ティエリアが兄に対して強い想いを抱いているのは薄々感じていた。だからこそ、兄と自分とを比べるなんて愚行を冒さないのだろう。
 兄と比べられるのが嫌なくせに、完全に切り離されて接しられるとなんだか面白くない。自分でも説明のつかない複雑な気分だ。
 そしてライルは気付いた。
 ティエリアは、自分をコードネームで呼ばない。『ロックオン・ストラトス』と、その名で呼ばないのだ。
『俺はきみを『ロックオン・ストラトス』と認めない』
 凍りつくような冷ややかなワインレッドの瞳にそう告げられたとき、その輝石のような紅いまなざしから目を逸らせなかった。と同時に、喩えようもない屈辱感を味あわされた。
 自己の存在を完全に否定されたのだ。とうてい容認できるものではない。
 神経を逆なでされるようなざらりとした不快感に、ライルは眉を顰めた。
 その事実は、兄と比べられること以上にライルを苛立たせた。存在を認められないことは、彼にとって何よりの屈辱だ。しかも、それが兄とかかわりの深かった人間ならば尚更。
 眇めたターコイズブルーの視線の先にあるのは、ライルには決して向けられないやわらかな表情でアレルヤを労うティエリアの姿。
 そっちがその気なら、嫌でも俺に目を向けさせてやると、ライルは心に密かに誓う。
「見てろよ…!」
 あの怜悧なワインレッドの瞳に、必ず自分という存在を見つめさせてやる。そして、ニール・ディランディではなく、ライル・ディランディこそが『ロックオン・ストラトス』だと、自分を拒絶する冷たい美貌の主に認めさせてやるのだ。
 そうして初めて、自分は兄を越えることができる。幼い頃から敵わなかったニールに勝つことができるのだ。
 暗い喜びが胸の奥からわきあがってくるのを感じ、ライルは酷薄な笑みを口元に滲ませた。