忍夜恋曲者



   グラハム・エーカーが彼を見つけたのは、本当に偶然だった。
 ホテルで軍関係者との会食の後、同席した妙齢の女性にバーに誘われたのを先約があると言って断ったグラハムは、一応のアリバイ工作のために夜の街へ足を伸ばしていた。
 取り敢えず目についたバーに入り、カウンターでバーボンを舐めた後、客が増え出したのを契機に店を出た。
 まだ宵の口で、このままホテルに帰るのもなんとなく気が乗らない。フラッグ馬鹿の自覚はあるグラハムだったが、久しぶりの基地の外の世界に開放感を刺激されて、気の向くまま賑やかな夜の世界を歩き始めた。
 色とりどりの華やかな光がきらめく街の中をひととおり歩いて満足したグラハムは、そろそろホテルに戻ろうかと視線を巡らし―――、ふと、一本奥に入った通りに建つ薄汚れたビルの下にひっそりと佇む一つの影を見つけた。
 常夜灯のほの暗い脆弱な光に浮かび上がる、若木のようにしなやかで均整のとれた肢体。ことに、片手で掴めるほど細いウエストから形のよいヒップへと続くラインが男の欲情をそそる。
 つい指どおりを確かめたくなる艶やかなヴァイオレットの髪の下には、そこらのグラビアを飾る美女達も顔色を失うであろう清廉な美貌。伏せられた憂いを帯びたまぶたが冷たく整いすぎた貌に翳りを落とし、彼をどこか危うげな存在に仕立て上げていた。
 この世に綺麗な女は数多くいても、本当に綺麗な男というのは滅多にお目にかかれるものではない。しかもこの美貌に極上の身体つき。今夜出会えたのが奇跡なくらいだ。
 グラハムは己が幸運に心の中で口笛を吹いた。
 夜、こんな通りの外れに立っている人間といえば、自ずと相場は決まってくる。商売人か否かにかかわらず、気に入った相手には声を掛ける主義のグラハムは、ゆっくりと佳人に近付いていった。
「―――待ち人来たらず、の風情だな。よかったら、一杯付きあってくれないか?」
 単刀直入な物言いはグラハムの是とするところ。それは相手を口説くときも同じである。
 突然かけられた声にはっとして顔を上げた青年は、訝しむように傍らに立つグラハムを見上げた。先程までの触れなば落ちんの風情から一変したきついワインレッドのまなざしに、グラハムは僅かに唇を綻ばせた。
 真近で見れば見るほど好みのタイプだった。特に気の強そうな深紅の瞳がグラハムの興をそそる。
 だからグラハムは、青年の形の良い唇から発せられた言葉に一瞬耳を疑った。
「―――他を当たっていただけますか?」
「………」
 少なからず己が容貌に自信のあったグラハムは、はっきりいって断られるとは思っていなかった。それだけに落胆の色は隠せない。だが、ここであっさり引き下がるほど、彼は諦めがよくなかった。
「てっきり誰かに声をかけられるのを待っていたと思ったんだが、私の勘違いかな? それとも、私は好みじゃないとか?」
 懲りたふうもなくに話しかけるグラハムに、小憎らしいほどきっぱりと青年は断った。
「好み以前の問題です。胡散臭そうな人間の相手はしないことにしていますから」
「胡散臭そうな人間、ねぇ。――で、きみには私はどんな人間に見えるのかな?」
 覗き込むように顔を近付けてくるグラハムから身を引きつつ、冷ややかに青年が答える。
「……少なくとも、そんな危険な瞳をした人間が普通の職業に就いているとは思えません」
 率直なその返答にグラハムは苦笑で返した。今までこのファニーフェイスに騙されて付き合った人間は多いが、瞳が危険などと言われたことは初めてだった。ついでに言えば、胡散臭い人間だと形容されたことも。なるほど、彼のその綺麗な貌はただのお飾りではないらしい。
「きみはなかなか鋭いな。まあ、一般人ではないことは否定しない。だが、間違ってもマフィアなどではないから安心したまえ」
 そううそぶくグラハムに、青年は整った眉を顰めた。グラハムの言葉を頭から信じていない表情だ。そればかりか、迷惑そうな様子を隠そうともしない。つれない相手ほど燃えるグラハムは本気で楽しくなってきた。
「第一、普通の人間ほどつまらないものはない。SEXなんか尚更だ。安全そうな奴を選んで遊ぶのもいいだろうが、そろそろ物足りなくなってきているんじゃないのか? たまには火遊びをして刺激を求めてみるのも一興だと思うが。それとも、正体のしれない人間の誘いに乗るのは恐いかな?」
 挑発めいた台詞を口にしたグラハムは、揶揄するように目を細めた。
 言外に臆病者と告げてやれば、プライドの高そうな青年がどう出るか。グラハムはこの先の展開を予測して笑みを深くする。
 果たして彼の思惑どおり、青年はキツイまなざしで睨み付けてきた。冷たく取り澄ましたワインレッドの瞳が侮辱された怒りに燃え、白晢の頬にうっすらと朱が昇る。
 いい表情だ…とグラハムは思った。怒った顔まで好みときている。こういう気の強い相手を泣かせてよがらせるほど、楽しいものはない。
 胸にわき上がる昏い欲望に密かにほくそ笑んで、グラハムは青年の出方を待った。
「―――わたしを楽しませてくれると仰るんですか? 随分な自信家ですね」
「ああ。今まで味わったことのない経験をさせてあげよう」
 挑むような視線で睨みつけてくる青年に手応えを感じたグラハムは、ゆったりと獰猛な笑みを浮かべた。まるで獲物を前にした猛禽のようなそれに、本能的な危険を察したのか青年の顔がほんの僅か強張ったが、生来の気の強さですぐにグラハムに向かい合った。
 怯むことなく、まっすぐに見つめてくるワインレッドの瞳。
 大抵の人間は、グラハムの視線の重圧に耐えかねて目を逸らすというのに、この青年はどうだろう。一歩も引かない気概で受けて立っている。どうやら勝ち気なだけでなく、驚くほどプライドも高いらしい。グラハムは久々に出会った極上の相手に、本気で楽しくなってきた。
「どうする? 私と一晩付き合うか? それとも……」
 言葉は途中で遮られた。青年がしなやかな腕をグラハムの首に絡ませ、身体を寄せてきたからだ。
「いいでしょう。貴方が口先だけの男かどうか、確かめて差し上げます。ただし、わたしを満足させられなかったら―――」
 耳元で誘うように囁く青年の細い腰を引き寄せ、グラハムはゆったりと笑った。
「いくらでも試すといい。コトの後、同じ台詞が言えるか楽しみだな。まずは手付金代わりに……」
 滑らかなヴァイオレットの髪に手を差し入れ、青年を仰向かせたグラハムは、生意気な言葉を紡ぐ唇を塞いだ。咄嗟に身動ぐ華奢な身体を許さずに、深く唇を重ねる。
「今夜は久しぶりに楽しい夜になりそうだ―――」
 常にない心沸き立つような高揚感に、グラハムは愉しげに呟いた。



「そういえばきみの名前を聞いてなかったな」
 宿泊先のホテルの部屋に青年を招き入れたグラハムは、背広をソファに掛けると今更ながらに切り出した。
「―――ティエリア」
 素っ気なく告げられたその名前が本名かどうかはわからないが、グラハムは彼に似合っていると思った。
「ティアリアか。綺麗な名前だ。きみによく似合っている。私の名はグラハム・エーカー。ティエリア、シャワーを使うか? 私はどちらでも構わないが」
「先に使わせていただきます」
「そうか。では、こちらへどうぞ」
 恭しい仕種でバスルームまで案内しようとすると、ティエリアが顔を顰めたのに気付く。どうやらこのサービスはお気に召さないらしい。だが、嫌な顔をされればされるほど余計に構いたくなってしまう天邪鬼なグラハムは、不機嫌そうなティエリアに気付かないふりをする。
「では、どうぞごゆっくり」
 バスルームのドアを閉めるとき、鏡に映るティエリアの顔が思いっきり顰められていて、グラハムは思わず笑ってしまった。どうやら見た目のクールビューティーとは裏腹に、中は随分熱い人間らしい。そんなところもまた、グラハムの好みだった。
 やがて、シャワーを終えたティエリアがバスローブ姿で戻ってくる。濡れて艶を増した美貌はこのままベッドに引き込みたいほど扇情的だったが、寸でのところで堪えた。そんな余裕のない行為は、グラハム・エーカーの名にかけてできるはずがない。それに、愉しいことほど後に回したほうが、より愉しめるというものだ。
 内心の欲望を素知らぬ顔で抑えつつ、ティエリアと入れ違いでシャワーを使ったグラハムがベッドルームへ戻ると、美貌の青年はおとなしくベッドの端に座っていた。
 グラハムがシャワーを浴びている間に、ティエリアが姿を消している可能性もなかったわけではない。けれどグラハムは、傲慢なまでの自信でその確率はゼロだと思っていたので、なんの保険もかけておかなかった。
 彼は逃げない。何の根拠もないが、そんな確信がグラハムにはあったのだ。
 ゆったりとした足取りでグラハムがベッドに近付くと、顔を上げたティエリアが嫣然と微笑んだ。
「随分とゆっくりでしたね」
 さほど時間がかかったわけではないので、これは短時間といえど待たされたことへのちょっとした皮肉だろう。グラハムはティエリアの可愛らしい揶揄に苦笑で応えた。
「きみをこの腕に抱けると思ったらつい気合いが入ってしまって、いつもより念入りに身体を磨いてしまった。待たせてしまったかな?」
「ええ。お陰で退屈で退屈で、危うく眠りそうになりました」
「それはすまなかった。だが、眠りに落ちたきみをキスで起こすのも楽しそうだ」
「寝込みを襲われるのは好きじゃありません。そのときはベッドから叩き出しますが、それでも?」
「それは遠慮願いたいね。どうせなら、二人で仲良くシーツの海に潜り込んだ方がいい」
 挑発的に見上げるワインレッドのまなざしに苦笑を滲ませたグラハムは、腕を伸ばして抱き寄せたティエリアの唇を己がそれで塞いだ。
 グラハムにとってティエリアとの会話は決して不快なものではなかった。むしろ打てば響くような彼の切り返しは小気味よく、もっと話していたい気にさせる。
 だが、夜は長いようで短い。お喋りで時間を費やすほどグラハムは暇ではなかったし、もっと他に優先すべき愉しいことがあるのだから、この辺で切り上げるのが妥当だろう。
 深いくちづけを交わしながら、グラハムはティエリアの身体をベッドの上へそっと横たえた。
 バスローブの合わせ目に手を入れると、ほくろ一つない滑らかな白い肌が露になった。細い首筋に唇を這わせ、ほんのりと色付いている胸の突起を指で弄る。途端にびくっと身体を震わせたティエリアの感度の良さに、グラハムは内心笑みを浮かべた。この反応の良さでは、さぞや今までの相手を悦ばせたことだろう。
 実際、慣れたティエリアの身体はグラハムの愛撫に敏感に反応して淫らな痴態を彼の前に晒した。
 喜悦にうっすらと緋く上気するすべらかな肌、甘く絡み付き底知れぬ快楽へと誘う肢体、ぞっとするほど艶かしい喘ぎ。欲情を滲ませたその玲瓏な美貌は、今まで一体何人の男達を虜にしてきたことだろう。グラハムでさえ、ともするとティエリアの身体に溺れそうになる自分を自制するのに、かなりの忍耐を必要としているのだから。
「あっ…! そこ、やぁっ…!」
 グラハムは己を篭絡せんとするティエリアに意趣返しをするかのように、思う存分彼の身体を貪った。あられもない嬌声を上げてよがるティエリアの奥を思うさま貫き弄び、絶頂寸前まで昂ぶらせ、突き落とす。
 気が狂うのではないかと思うほど激しい情交の果て、かつてないほどの高処へとティエリアを追い上げたグラハムは、熱く絡みつく内壁に己が激情を解き放った。



 先程までの狂宴が嘘のように鎮まった室内―――。
 心地よい充実感に満たされたグラハムは、微かな倦怠感を覚えながらゆっくりと起した身体をヘッドボードに預ける。その傍らには極めたまま意識を飛ばしてしまったティエリアが、シーツに包まって安らかな寝息を立てていた。その頭を優しく撫でてやっても、青年が目を覚ます気配はなかった。
 激しかった行為を頭の中で反芻したグラハムは、己が絶倫ぶりに思わず苦笑を漏らした。実際、我を忘れるほど燃えたのは本当に久しぶりだった。いや、初めてと言ってもいいだろう。それほどまでにティエリアの身体は素晴らしかったのだ。
「―――――ん………」
 しばらく寝顔を眺めていると、やがて忘我の淵を漂っていたティエリアが意識を戻した。生来の美貌は損なわれていないものの、どこか憔悴した翳りが見えるのは、やはり激しすぎた情事の後遺症だろう。
「目が覚めたか?」
 いっそ優しげにグラハムが問いかける。するとティエリアはバツが悪そうに顔を逸らした。だが白晢の頬に朱が昇るのを目敏く見つけたグラハムは、意地の悪い笑みを浮かべると、彼の耳元で淫猥に囁いた。
「その様子では、満更でもなかったようだが……私はお気に召してくれたかな?」
「……っ!」
 弾かれたように振り向いたティエリアは、忌ま忌ましげに男を睨んだ。いいように弄んでくれたお陰で、身体に力が入らない。最奥にまだグラハムを銜え込んでいるような異物感があって、身動ぎ一つするのも億劫なほどだ。
 そんなティエリアの内心を読んだグラハムは、揶揄するように言葉を重ねる。
「答えられないということは、当たっているのかな?」
 答えを知っていて聞くほど嫌な奴はない。まして、答えたくないのをわかっていながら無理にでも口を割らせようとするこの男は、本当に底意地が悪い。
「そんなの、自分で想像すればいいでしょうっ! この、変態っ!」
 そう喚くなりシーツを被ってしまったティエリアに、変態の落胤を押されたグラハムは苦笑を洩らした。よりによって人を変態よばわりするとは随分な仕打ちだと思うが、不思議と機嫌は悪くない。
「……ティエリア?」
 どうやら少しばかり苛めが過ぎたらしく、ティエリアはすっかり機嫌を損ねてしまったようで、グラハムの呼び掛けに答えようとしない。
 子供じみたティエリアの態度にグラハムはやれやれと肩を竦めるが、そんな態度も可愛いと思えるほど、彼はティエリアを気に入っていた。
 ほんの気紛れで抱いたつもりが、何時の間にか深みに入り込んでしまったらしい。なにしろ、貌も身体も勝ち気な性格までもが好みときてるから無理はないかもしれないが、他人に執着しない自分にしては珍しいことだ。
 私としたことが初めて会った人間に嵌まるなんて。まったく、人生何が起こるかわからない。
 内心自嘲するものの、明らかにグラハムは自らの心境の変化を愉しんでいた。それが今後自分にどんな影響を与えることになるかは、まだ先のこと。今の自分には考える必要のないことだ。
 取り敢えず、シーツに包まったティエリアを外に出さないことには話が始まらない。生憎一ラウンドで満足するほど、自分は淡泊ではないのだから。
 思いもかけずにこの腕に捕らえた佳人の機嫌をどうやって宥めるか思案するグラハムの顔は、存外に幸せそうだった。





     END