「―――あれ?」
ロックオンは、食堂のテーブルに一人座っているティエリアに気付いた。何やらひどく真剣な表情で、両手の中に包み込んだコップをじっと睨みつけている。
「ティエリア? どうした?」
不思議に思ったロックオンが近付くと、その声に驚いたのか、ティエリアはビクッと身体を震わせた。
「ロ…、ロックオン…っ!」
何をそんなに動揺しているのかと、ロックオンはコップの中をひょいと覗き込んだ。
「……ミルク? あれ? おまえ、ミルクダメじゃなかったっけ?」
「……………」
ロックオンが視線を向けると、ティエリアは気まずそうに俯いた。
好きなもの=栄養価の高いもの、のティエリアだったが、ミルクは嫌いなのだと言っていた。以前は飲んでいたのだが、それが牛の乳だと知ったら、急に気持ち悪くなって飲めなくなってしまったのだと。なんとなくティエリアらしいと思ったから憶えている。
そんな彼女が、嫌いなはずのミルクを手にしているのだ。一体何の心境の変化があったのかと思っても至極当然だろう。
ロックオンはティリアの隣に座ると、俯いたままの横顔を見つめながら、彼女が口を開くのを辛抱強く待った。やがて、観念したかのようにティエリアがぽつりぽつりと話し始める。
「――――――――――クリスティナ・シエラが………」
「クリスが?」
彼女の名がティエリアの口から出た途端、嫌な予感が胸を過ぎった。明るく姉御肌なクリスは少々お節介なところがあって、ティエリアはしばしばその被害にあっている。今回もその類のものかと思っていたら、案の定。
「―――――胸を大きくするには、ミルクを飲むのが一番いいって………」
「………………………………はい?」
まったく予想もしていなかったその応えに、ロックオンは固まった。一瞬、ティエリアが何を言ったのか、理解できなかったくらいだ。
何をどうしたらそういう話になるのだろう?
「―――――えーと。つまり、ティエリアは……胸が大きくなりたい、のか?」
軽く混乱した頭でロックオンが訊ねると、ティエリアはこくんと素直に頷いた。
「一体なんで急にそんな話に……?」
「クリスティナ・シエラに、ロックオンにしてもらってるのに、どうして胸が小さいままなのだと聞かれました。何のことかわからず聞き返したら、胸を―――」
「わーっ! それ以上は言うな!」
淡々とどこまでも赤裸々なことを口にしてしまいそうなティエリアの口を、ロックオンは慌てて塞いだ。彼の動揺の理由がわからないティエリアはきょとんとしている。
「ロックオン…?」
「―――――おまえら……。なんて会話してんだよ……」
ぐったりと疲れたようにロックオンはテーブル突っ伏した。そんなロックオンにさらに追い討ちをかけるように、ティエリアが言葉を続けた。
「ロックオンにキス以上のことは何もされていないと言ったら、恋人なのに何もないのはおかしいと。ロックオンが手を出さないのは、わたしに胸がなくて性的魅力に欠けているからだと、そう言われました」
「―――クリス」
なんてことをティエリアに言いやがるのだと、ロックオンはフェミニストの彼にしては珍しく胸の中で彼女を罵った。
大事すぎて手が出せないっつー男の純情を、少しくらいはわかって欲しいんだが………。
実際、ロックオンとしてもキスより先に進みたい気持ちは十分にある。ありすぎて、我慢の日々が続いているのが現状だ。
だが、ヴェーダに蝶よ花よと大切に育てられ、キスすら知らなかった完全無欠の箱入り娘相手に、そうそう自分の欲望をぶつけられるわけがない。
ロックオンとしては、ティエリアがもう少し身も心も成長してから、ゆっくりと次のステップへと進むつもりだったのだ。
あきれたロマンチストねと、戦術予報士あたりから鼻で笑われそうだが、それくらいティエリアが大切なのだ。
それを―――。
まったくもって女性陣のパワーは、予測不能の方向に発揮されるから参ってしまう。
「……それで、か? それで、胸を大きくしたくて、嫌いなミルクを飲もうと?」
ロックオンの問いにティエリアは頷いた。
「俺のために?」
再び頷く。
「だって。ロックオンも、胸が大きい方がいいんでしょう? 男性はそういうものだと、スメラギ・李・ノリエガも言ってました」
「―――――勘弁してくれよ……」
ロックオンは頭を抱えた。二人とも面白がってあれこれティエリアに教えるのはいいが、後でフォローに回らなければならない自分のことを少しは考えてほしいと、切実に思う。
思わず深い溜息が零れると、それを自分のせいだと誤解したティエリアは顔を曇らせた。
「……すみません」
「おまえが悪いんじゃねえよ。悪いのはミス・スメラギとクリスだ」
「でも…」
ロックオンは、ティエリアの細い肩を両手で掴むと、ぐいと顔を近付け、真っ直ぐに視線を合わせた。
「いいか。この際だから言っておくけど、俺は胸が大きい小さいはどうでもいい」
「……本当ですか?」
「あたり前だろうが。胸の大小なんざ、瑣末な問題なんだよ。そんなこと、おまえが気にすることはまったくない。けど、俺のために嫌いなミルクを飲もうとしてくれた、その気持ちは嬉しい」
「ロックオン……」
やさしい光を宿したターコイズブルーの瞳に見つめられて、ティエリアは嬉しそうに微笑んだ。
「わかったら、もうそんなことを気にするなよ? 俺は、今のおまえのままで十分なんだから」
「…はい」
はにかんだ笑みを浮かべるティエリアの頭を、ロックオンは優しく撫でた。
「いい子だ」
素直なティエリアが可愛くて、愛しさを抑えきれなくなったロックオンは、そっと彼女の小さな唇に触れるだけのキスをした。
やがて唇がゆっくり離れると、頬をほんのり赤く染めながら、ティエリアがうっとりと言った。
「早くロックオンに手を出してもらえるように、わたし、頑張ります」
「ティエリア…?」
彼女の言葉に、ロックオンは目を瞬かせた。なにやらまたすごい言葉を聞いた気がしたからだ。
「付き合いはじめて三ヶ月以上も経つのに、まだ手を出さない男は甲斐性がないそうなので。ロックオンを甲斐性なしにはできません」
ふわりと花が綻んだような笑みを浮かべたティエリアが、ロックオンを真っ直ぐに見つめる。
「ですから、頑張りましょうね」
「―――ティエリア……」
彼女は、一体どこまで意味をわかって言っているのか。
あの二人が純粋培養のティエリアにどこまで教え込んだのか、これ以上ロックオンは知るのが恐かった。
―――が、しかし。
取り敢えず、今、ロックオンが直面している最大の問題は、無自覚に無防備に誘ってくるティエリアの甘い誘惑をどうやってかわすかだ。
それはクリアするのがとても困難そうで、果たして自身を抑えきれるのか、ロックオンは自分の忍耐力にまったく自信がなかった―――――。