山陰本線京都〜幡生間の全通(1933年)前後、山陰の蒸気機関車は旅客用は写真の8620形、貨物用は9600形が活躍した。

晩年数両の8620形が駅構内の入れ替えに使用された。
8620形蒸気機関車が数両を残して山陰から去ると1917年(大正8年)に製作されたC51形が登場した。
その後、C51を改良した、C54が17両製作されたが最後はこの山陰本線浜田機関区に6両残り、その後はC55が福知山地区に配置された
1937年(昭和12年)から更に改良された C57が製作され全国的に配置され、ここ山陰でも運用される様になった。

写真のC5711は豊岡機関区に1960年4月に配置されているが門司機関区に配置された時期があり「特急かもめ」を牽引したしたかも知れません。
1955年8月(昭和30年8月) C55,C57の配置
福知山機関区
C55 12両(7,9,20,21,22,23,41、44,56、58、61、62)
C57  6両(58,87,93,101,128,152)
1960年4月(昭和35年4月)C55、C57の配置
福知山機関区
C55  1両(56)
C57  11両(5,10,11,36,41,58,85、、87,93,128,152)
豊岡機関区
C55 7両(9,20,21,22,23、44,61)
C57 2両(10,11)
和田山機関区(主として播但線の列車用)
C55  3両(41,58,62)
米子機関区
C57  3両(12,101,120)
閑話休題
1955年と1960年を比較すると一見蒸気機関車の両数が増えている様に見えますが、上記に表れていない、C51とC54(浜田機関区6両)の淘汰置き換えによるものと思われます。
又1960年はDF50が投入され初めてからから既に4年が経過し、当時大部分の列車がDF50牽引に置き換えられていて、戦後の復興から経済が活発化し輸送需要が大きく伸びたものと推察します。
C58主として支線区伯備線、因美線で運用されました。

鳥取駅で発車を待つ因美線の貨物列車、このC58のKS値(橋梁に対する負担力)は13.2で8620(KS値11.7)より大きく因美線では一部橋梁の負担荷重の弱い所があり、速度を落として走行していました。
C11
今は廃線となってしまった倉吉線、下り列車がバック運転でした。
1960年代後半から若桜線でも運転されました。
C11
関金駅をバックに倉吉方面の上り列車
1972年頃まで貨物列車はこのD51が牽引しました。
(但晩年は一部の列車のみ)
写真はJR東日本の現役機関車
1957年11月(昭和32年11月)D51の配置
福知山機関区 21両
25,51,52、66,74,77,78、115,116,133、273、303、393、414、577、675、682、 839、858、860、1028、
豊岡機関区 ?
鳥取機関区 16両
145、217、254、322、334、499、504、727、751、758、795、831、833、895、919、  944、
米子機関区 ?
浜田機関区 9両
262、410、429、479、749、794、805、926、1044、
正明寺機関区(現在の長門市)16両
227、243、282、317、360、418、544、690、696、704,706、732、788、803、      830、936、
新見機関区(伯備線用9両)
376、386、392、409、438、665、746、797、838、
DF50が1956年颯爽と山陰本線に登場しました当初は配置両数が少なく、当時の急行出雲の牽引に運用されました。

旅客用の蒸気機関車を駆逐したものの、貨物列車には力不足で、1960年代依然としてD51が運用されていました。
鳥取駅当方にある滝山信号場を通過するDF50527
パワー不足のDF50の置き換えとして1966年配置されたDD54−1

鳥取駅の地平時代です。
DD54の2次車(DD54−7)前面のデザインが変わり前照灯が前面飾り帯下の部分に移動しています。

松崎駅ですが、かって有人駅で、跨線橋の無い駅では駅中央部に、駅舎に渡る踏み切りの様なものがあり、駅員が列車の発車後、ホームの端にある鉄製の蓋を上げて、乗降客を通していました。
DD54の最終グループ(DD54−40)窓枠のデザインが変わりました。

泊駅3番線(副本線)
キハ82系特急まつかぜ12両編成
まつかぜは1961年10月から運行されました。(滝山信号場、運行当初は6両編成でした)
キハ82系特急やくも、特急まつかぜの運行開始から輸送需要の増大により、やくもが1965年運転開始されました、現在の伯備線やくもとは運行経路が違い大阪発福知山線、山陰本線経由出雲市行き?
キハ28。
1961年急行は客車から気動車に変わり運転時間は短縮されました。
最盛期には急行だいせん、はくと、、みささ、砂丘、但馬、丹後等に運用されました。

後年、快速に運用されましたが、キハ58のコンビで10‰の勾配でも70km/hしかでず、パワー不足は否めませんでした。
キハ11、主に因美線等支線区で運用されていました。
台車の枕バネがゴム製で乗り心地はよくありませんでした。
キハ20、主に因美線等支線区で運用されていました。
この車輛から台車の枕バネが金属コイルバネに変わり、乗り心地は改善されました。

昔の写真が無い為横川の鉄道文化むらに静態保存されている写真を添付します。
キハ23
全国的には54両しか製作されませんでした(製造初年1966年)キハ58−1000代と同様運転台の窓がパノラマタイプとなっています、またエンジンはDMH17Hです。
気動車用DMH17形デイーゼルエンジン(縦型)基本的な設計は戦前で長く製造使用されました。
初期のローカルの若番の車輛に搭載されています。
シリンダーヘッドが上部にある為、騒音が客室に進入し不評でした、左側がトルクコンバーターです。
気動車用DMH17H形デイーゼルエンジン
上のエンジンを水平にしたものです。

キハ28以降の車輛に搭載されました。
山陰では181系が活躍を始めたのが1971年4月伯備線経由の新大阪〜出雲市の特急「おき」でした。
一番華やかであったのが1980年代後半
おき(2代目鳥取・米子〜小郡)、はまかぜ(大阪〜鳥取・倉吉)、あさしお(京都〜倉吉・米子)、まつかぜ(大阪〜米子)、いそかぜ(米子〜博多)、くにびき(米子〜益田)の列車に運用されました。

写真は鳥取駅で「あさしお」
181系はくと
1994年12月、HOT7000系を補完するものとして既存の181系にATS−Pを装備して智頭急行線を運転されました。
左側がキハ47、キハ20の老朽置き換えとして、投入されました。
右側はキハ58系の置き換えで「投入された、キハ126系
全国どこでもある、DE10
かって若桜線、倉吉線でもC11に代わり運用されていました。
但軸重が13トン有る為、簡易線規格で建設された線路には、負担で厳しい速度規制でせっかくのパワーにもかかわらず、ノロノロと運転されていました.。
DD51が牽引するローカル客車

国鉄末期山陰本線は長距離鈍行の宝庫でまたDD51も最盛期には米子機関区が全国一番の配置両数でした。
キハ33−1000代
客車オハ50を改造し気動車としたもの、エンジンはDMF13HS(250PS)を搭載したもので、結局1963年に2両しか改造されませんでした。
2006年3月17日を最後に運転が終わった寝台特急「いずも」の速度種別はD9(10‰の勾配均衡速度79km/h)牽引定数52(520トン)で薗部〜福知山の電化工事に際して1993年9月〜1996年3月迄トンネル断面拡大の夜間工事時間を確保する為いずも1号は伯備線経由(25‰の勾配がある為DD51の重連牽引)に迂回輸送されました。
山陰本線(伯耆大山以東)では貨物列車が消滅した現在、唯一この寝台特急が最大12両+機関車+余裕=約285mの有効長が必要でしたが、今後は過大に感じられ、仮に1線スルー化する際は、今迄の有効長にとらわれる事無く、改良出来ます。
HOT7000系(智頭急行車両)スーパーはくと
1994年12月開業した智頭急行線を通り、鳥取〜新大阪に3往復設定されました。
今までの山陰本線、播但線経由の特急はまかぜに比べて約1時間30分も短縮されました。
開業当時最速大阪〜鳥取まで最速2時間34分(下り列車)
HOT7000系の貫通扉を持った運転台付き車輛(HOT7020)、増結に使われたり、上記の車輛が検査の時、代替として運用されるなど多様な使われ方をします。
キハ187系(26両在籍)
電車を上回る走行性能で、変速機は変速1段直結4段によって、バスの様に忙しく切換ます。
智頭急行線を走行する、「スーパーいなば」にはATS−Pが装備されています。
キハ121(9両)
キハ126の両運転台版、2003年10月のダイヤ改正で投入されています。
キハ121の運転台