山陰本線の鳥取駅は1908年(明治41年)に開業し、xxxx年に改築されたが太平洋戦争でも空襲に遭うこともなかった。
入れ替え等による鳥取駅西側の道路交通(国道53号線)の阻害を解消する為1972年鳥取県の熱意により国の助成制度を活用して高架化が決定し、工事が開始され、途中温泉への影響を考慮し、大口径,短尺の基礎が採用された。
地平時代の鳥取駅構内、客車はDF50の牽引ですが、貨物はまだD51が頑張っていました。
やはり蒸気機関車というもの石炭の積み込み設備等大きな設備が必要でした。一方のディーゼル機関車はホース1本で給油しています。(1960年代末期の写真)
雪の鳥取駅構内、奥にラッセル車DD15が見え信号機は未だ腕木式です。
C11が入れ替えを行なっています、この機関車は若桜線にも乗り入れていました。
下りホーム。上りホームとの間に貨物用の中線がみえます、かって小荷物を駅舎側に輸送するテルハがありました。
1970年代前半の鳥取駅舎(北側、南側には出口さえ有りませんでした)
駅の東側で貨物の取扱所が有ります。(1973年6月)
着工当時の鳥取駅完成予想図現在の姿とは違います、ホームの風よけが有りません
高架工事中の下り方(西側)
高架工事中の下り方(上の写真とほぼ同じ所です)
高架工事中の駅中央部(西側)
高架工事中の駅中央部
高架工事中の駅中央部(上の写真に対しホームの屋根が施工されました)
高架工事中の駅中央部(地平の駅舎が見えます)
高架工事中の駅東側(上り方)
3番線下り方の出発信号機、高架完成後ここは駅前広場の一部になりました(1977年)。
鳥取駅舎、バックに高架ホームの屋根が見えます。
上の写真の西側(下り方)
高架切換後の駅前、旧駅舎は撤去したものの駅前は未だ未整備です。
高架工事が完成し、駅前も整備され、更に1994年12月智頭急行が開業し、大阪まで従来4時間強掛かっていたのが2時間36分で行けるようになりました。
智頭急行が開業して数年後大阪まで2時間29分に短縮されました。これは山陽線内が130km/h化に伴い新快速等が速達化され、達成されました。
大阪まで最速2時間19分、智頭急行開業以前は4時間を越えていました。2006年3月18日のダイヤ改正では阪神間の新快速の実態を反映し余裕を持たせ、新快速に挟まれたスーパーはくとは上り最速2時間26分になります(12号、14号)。
この看板も替える必要があります。
駅前広場完成後の中央部これだけの広さがあるのも、地平時代、貨物取扱設備、機関区等があり、それらが湖山地区に移転し、駅本体を南側に下げた為広大な敷地が空き空間を利用したものです。
駅前中央部(北側)のやや西側。
駅前の西側(北側)
駅より久松山を望む。
(1976年6月)
駅より久松山を望む。
(1980年代当時日本交通のバスは大阪まで3時間30分と称し国鉄の特急4時間に対し料金とともに競争力があり、地元では大阪へはバスが一般的な交通機関でした)
駅より久松山を望む。
(2000年代)
駅前広場(西側)鳥取市唯一のデパートが望まれれます。
駅前広場(東側)
駅南側で白兎と大国様の銅像が見えます。
地平時代はこの南側には出口が有りませんでした。
鉄道研究室