| PROFILE 管理人「センタアトナカイ」の自己紹介です。 |
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| 名前、年齢、性別 | センタアトナカイ ♂ 『自称27歳』 |
| 名前の由来 | ●かつて一世を風靡した迷機『ファニィサンタ』の6枚役のトナカイに似てるそうだ。(どんなんやねん) |
| 職業 | ●リストラされ、ただいま無職 ●髪型はバーコード頭? |
| 生息地 | ●東京のダウンタウン在住 |
| 性格 | ●超なまけもの。並ぶの嫌い。忍耐力ナシ(ヘタレ)。情にもろい。 |
| 好きな機種 | ●A-400 |
| 嫌いな機種 | ●AT、RT、CT等の運の要素がデカイ機種 |
| 立ち回り方 | ●理想→前日下見をして翌日狙い台を打つ ●現実→かなり適当(爆) |
| 目押しレベル | ●かつてはビタも出来てたし、2コマなら楽勝だったけど今は絵柄こそ見えてても(たぶん)かなりヘボくなったかも |
| スロ以外 | ●眠ること、ボクシング、総合格闘技(見る方ね) |
| メールアドレス | slider_s@inter7.jp |
| skype名 | ●オンライン時は居留守もするけど、よほど多忙でない限り起動しています。お気軽に掛けてきてください。 slider_s |
| ◎センタアトナカイの軌跡 パチンコ・パチスロを始めてから今までのパチ・スロの経歴書(かなり長文。笑) ウロ覚えの部分もあるので時期が前後してたり 誤ったこと書いてる部分もあるかもしれませんが・・・(;´Д`) |
〜高校生活編〜 生まれて初めてパチ屋に入ったのは高2のとき。 ハネモノの10カウント規制直前の頃。その当時よく遊んでいた仲間と2人で行動することが多かった。 まずは2人ともハネモノを打ち、どちらか良い台を掴んだらそのまま続行し出玉が小箱に2箱(1箱山盛りで700個程度)貯まったら1箱をこっそり渡してもうひとりはデジパチを打つというやり方。 出玉の共有は反則行為だけど当時は今のようにカメラやコンピュータ等が無かったので店員に見つからなければOK!と平気でやってました(笑) 当時のギャラクシーダイバー等のハネモノは釘が良好だと安定して出たし、今のように出玉をホルコン等で管理してなかったせいか出玉を横流ししてても定量の確認時にすっとぼければおとがめナシで連続開放してくれたりと条件も良かったので投資リスクが大きいデジパチを打つにはこの戦法は効果が大きかったと思います。 ハネモノでいい台が取れないことも多かったしデジパチで当らないことも多かったのでそんなには勝った記憶はありませんが日々の喫茶店&タバコ銭等の小遣い銭等にはこと欠かなかったので多少は勝ってたと思います。 他にも毎週月曜ハネモノのイベントやってる店に友人の兄が勤めていて出る台を教えてくれてたので学校をサボって隣の市までわざわざ電車で行って打ったりもしてました(笑)この頃はふざけた生活でパチンコを打たない日も学校へ朝から行かずに溜り場の喫茶店に入り浸ってゲーム三昧だったり(ジャンピュータやMr.Do等)学校へ行っても午後から早退して喫茶店に入り浸ったりというふしだらな生活を送っていたせいか3年に上がる時に単位不足で春休みに毎日補習を受けるハメとなりましたがなんとか無事進級できました。 無事3年へと進級しても序盤の生活態度は以前と変わらず…進学率の比較的高い高校でしたが進学する意思はなくマイペースだった私でしたが進路指導等で現実を直視せざるをえない状況となり苦渋の末「働きたくない」の一念で夏休み後に大学へ進学することを決意。当時学年模試でブービーということすらあったくらい成績が落ちるところまで落ちていた私にとってここからの猛勉強はいまだに夢に出てくるくらい苦痛でした。悪友との付き合いを一切絶って学校と家との往復。とにかく他人との遅れを取り戻すために一日の大半を勉強に費やしましたね(笑)当時の私の勉強方法はといえば期間が短かったこともあってとにかく丸暗記(笑)ノートに覚えなければならないことをひたすらボールペンで書きなぐって無理やり頭に詰め込む作業。もし確認時に忘れてしまってたら再度ペナルティで1ページにびっしり書くという要領で百冊以上のノート、百本以上のボールペンを消費した結果、成績もそこそこ上昇して晴れてなんとか普通の私大ながら現役合格に成功して晴れて花?の大学生活へと相成ります。 この頃よく聞いた思い出の音楽 ストレイキャッツ、クラッシュ、ザモッズ、浜田省吾・・・他 |
〜初めての一人暮らし編 PART1〜 そんなこんなで必死で働きたくないがゆえに進学して初めての一人暮らし…上下関係の面倒くさそうな学生寮は避け、不動産屋廻りをして学校から離れた繁華街に6畳に4畳半で風呂・キッチン・トイレ共同の腐れアパートを借りての一人暮らしスタート。 思えば常に楽に流れる性格の私にしてみれば学校近辺の物件でなければ自然と学校へ足が向かなくなるのは自明の理(笑)しかもずるずると近くのパチンコ屋へ入り浸るようになり、策もなしに一発台を手当たり次第に打ってたのもあって借金等の最低の線は越えなかったものの慢性的な金欠状態(笑)これではいかんとウェイターのバイトを始めるも、稼いだ端からパチ屋へ貢ぐというループで慢性的な金欠状態(爆)おまけに学校へは行かず…で一年目にして留年確定。 しかしこの頃からは多少の学習能力が芽生えパチンコを打つにあたっての意識が変化して漠然とは打たずに常にどこか弱点はないか?と「考える」という行為を行うようになりその結果キングハンターやスーパーマシンというデジタル式の一発台の致命的な欠陥を発見し初めて「他人と差をつけて勝つべくして勝つ」喜びを知ることとなった。 このキングハンター、スーパーマシンという台はともにメーカーが違うだけで全く仕様は同じデジタル式の一発台で推定1/500の確率で大当りを抽選、3ケタデジタルが「333」もしくは「777」でアタッカーが10秒程度開きっぱなしとなり権利発生。一度権利が発生すると3回に一回くらいの割合で333や777が揃いアタッカー開放を繰り返して定量まで玉を増やすというゲーム性。保留玉がなくなってデジタル回転が途切れるとパンクとなるが、アタッカー両脇にスルーチャッカーがありアタッカーが開放したときに両端からこぼれた玉がスルーチャッカーを通るためほぼ保留がなくなることがなく定量まで出っ放しとなる仕組みでした。 この機種は3ケタデジタルのどこか一つにでも7が出現するとアタッカーが2秒開放する小当たり?というものがあり頻繁に小当たりが訪れるので、アタッカーが開くタイミングでのみチョロ打ちを繰り返すことによって玉を減らさずに大当りを待つことが可能でした。厳密に言えば当らずとも少しづつですが増やすことも可能でしたが、さすがに増やすと目立つ上にマークされるので普通に打つ→減ったら止め打ちの繰り返しでした。 この頃はパチ屋へお金は持っていかずに2、300円で延々と減らさずに打ち続け大当りを待つので100%負けることはありませんでした。 こんな簡単な攻略法ですら当時は今みたいに雑誌やネットで情報が氾濫してなかったし攻略という概念を持ってる人もほとんどいなかったおかげで真似されることもほとんどなく撤去まで約4ヶ月程度好状況が続きました。またここでは詳しくは省きますが同時期にグランドホークという一発台もあり、これは回転する役モノの周期を測って当りと同調するタイミングでチョロ打ちをして当りを狙い打つという方法で攻略できましたがこちらの方は当らないタイミングで打たないというだけなので普通に打つよりはマシながら多少の投資リスクがあったため当時としてはそれほど旨みも無くまた不人気台で短命だったのでそれほどは稼げませんでしたが、この頃はパチンコなんてノーリスクで勝つのが当たり前という考えで打てた唯一の期間だったです。 これ以降は破壊的な攻略法を発見するには至りませんでしたが常に他人と差をつけることばかり考えてパチンコに臨んでいたせいか、バイトをやめ多少贅沢な2LDKのマンションに引っ越したりDCブランドのスーツをパシッと着たり、中古車を購入したりしましたが金欠になることもありませんでした。 この頃よく聞いた思い出の音楽 デッドオアアライヴ、ニューオーダー レベッカ、おにゃんこクラブ(爆)・・・他 |
〜初めての一人暮らし編 PART2〜 破壊的な攻略法がなくなってからは、しばらくパチスロ1.5号機のブロンコ、プラネットVで立ち回ってました。詳しくは覚えてませんがブロンコは天井が400枚と浅いながらBR比が1:3という機種。これは小役周期に法則性があり天井狙いのハイエナが有効で当時は複数台の投資状況を細かく把握してハイエナしまくってましたが、末期は誰も座らずにエナプロだけが何人もシマをウロウロするような状況となってしまいあえなく終了。 プラネットVの方は上部にあるJACのランプの点きかたが設定変更時に6種類のパターンでしか点かず、通常のボーナス消化では設定変更時の6種類のJACランプパターンになることは100%なかったので確実に設定変更が読めるという点が大きかったです。 これは普通にアゲ狙いで設定変更されている台を終日粘るというヤリ方で打ってました。まあ今で言えばジャグ打ってるような感覚でしたね。やはりここでも数人ライバルがいましたが前日最後のボーナスの最後のJACゲーム時に特定の手順で変則押しをすることによって設定変更時の6パターンのうちのひとつを強制的に出現させることが可能なことに気づき、ライバルを欺いたりした記憶があります(笑) スロットを攻略するという概念で打ったのはここらまで。これ以降は学校の同じクラスの3人グループで行動することが多くなりました。ニューペガサスのモーニングを入れている店を見つけてのモーニング荒らし、早朝清掃のバイトをやり打ち込み機かけてる台を開店後に自ら打ったり友人に教えたりという反則行為(バレてクビになりました。笑)また中には打ち込み機を使っている様子が店の外から天井付近の鏡張りの箇所に映ってて打ち込みかけている台が丸判りな店もあったり、夕方からのサラリーマン主体で朝一の客が少ない店でモーニングをカニ歩いたりと小ずるく立ち回ったりもしました。 またこの頃から同じ学校の複数のグループで新装開店軍団モドキを結成して深夜複数に分かれて開店探しをしたりといったこともやってました。この頃は当たり外れもありましたが今と違って新装開店時の一発台は滅茶苦茶条件が甘かった記憶があります。 途中から仲間の一人を花輪屋にバイトで送り込み開店情報を随時仕入れることが可能になってからは効率が飛躍的に上がり12時開店と6時開店をハシゴしたりといったこともありました。とにかく新装開店時は効率の良い一発台狙い。いろんな台があったけどシャトル21が一番思い出深かったですね。こんな学生時代だったので大学へは1年余計に通う羽目となりましたが、おかげで最後の年は学費、生活費ともに両親を頼らずに乗り切ることが出来ました。そしていよいよ就職・・・ この頃よく聞いた思い出の音楽 ボブマーリィ&ウェイラーズ ボウイ(氷室とか布袋のヤツ)等 |
〜社会人編 PART1〜 就職は地元広島の某メーカー。しばらくはパチ・スロのことなど考えられないくらい気持ちにゆとりが無く軟禁されての研修でヘロヘロの毎日。そして2週間の地獄の研修も終えて辞令の発表・・・配属はなんと「営業本部仙台支店」!!東京よりも向こう側へは行ったこともないし親戚すらいない私にとっては未知の領域です。東北の人には申し訳ないけど、まさに「仙台って岩手県?」「仙台県ってあったっけ?」ってな具合(爆)どうしても「宮城」という言葉が浮かんでこないくらい未知の領域。 そして言われるがまま仙台へ着任。この頃は気持ちにゆとりも無く仕事が終われば先輩に付き合わされて毎日飲みという日々。酒が飲めない私には苦痛の日々でした(笑)また海や山が近い恵まれた環境なのでサーフィンやスキーにはまり、自分の中ではパチやスロはたまに打ってたけどあくまで僅かな余暇の範囲内という域まで押しやられていましたね(笑)時期は曖昧ですがアニマルや初代コンチ、アラジン、スーパープラネット等打った記憶はありますが攻略とか設定看破なんて概念はほとんどありませんでした。唯一覚えているのはアラジンで14000枚出したことくらい。とにかく短いアラチャンが多く初当りアラチャンが異様に多かったので高設定だったんだろうなってことぐらいですね(笑)そんな感じでたまに休みの日にヒマを見て打つ程度で、ごく普通のサラリーマン生活を送っていた自分が再び「勝つパチンコ」を意識するようになったのは「あの機種」の登場からでした。 この頃よく聞いた思い出の音楽 この頃から新しいモノには興味を示さず昔好きだった曲ばかり聞くようになった気がする(笑) |
〜社会人編2〜 時代はCR機が出始まった頃、しばらくパチンコから離れていた私が再びマメに打つようになったのは当時付き合っていた女性がパチ好きでその兄がいわゆるパチプーだったことが大きかったかな(笑) 当時住んでたところの近くの処女オープンの店で大半の客がCR花満開やCRビッキーチャンスに殺到する中で私が目をつけたのは「CRバレリーナ」というCRの権利モノでした。ゲーム性としてはクルーンから中央の回転体へ玉を入賞させ、6分割されている回転体のうちの4つがハズレでCHANCEと書いててある2つのどちらかに入賞すると上部の@〜GまでのREDが左→右に動き、そのうちC停止で通常絵柄。D停止で確変といった役モノ付きの権利モノ。大当り確率に3段階の設定差アリ(詳細は忘れた)権利発生中は普通に打って権利消化。パンクはなくその間再びCHANCE入賞したらメモリーに記憶され(最大4つ)権利終了後に保留を消化。確変後だと大当り確率がアップし回転体が逆回転し入賞玉がCHANCEに入賞しやすくなり玉減りが少なく次回の権利獲得といった台でした。 保留玉が4個まであったので例え通常絵柄のCで当っても上部REDは最低設定の3でも1/12程度だったので自力で保留玉連チャンすることも多く基本スペックが甘い台だったので2.5円で1回交換の店がほとんどでした。 この台へのまず初めのアプローチが力技(笑)ほとんどゴト行為に近いけど玉が回転体に入賞して手前側に来てCHANCEと同調した瞬間に台をどついて玉をCHANCEにブチ込むという技??これが極めて効果的でどつけばいいときで40回/1K程度まで回すことも可能でした。しかし遠慮してどついた程度だと玉が落ちてくれないため、相当派手にどつかねばならず、また激しくベースが上がることもあって何度かやってる間にコワモテの店長に「次やってるのみたら出禁な!」と何度も激しく警告され断念。 シマのドツキ同業者の一人はそれでもひるまずにドツキまくってましたが、小心者の私はドツキは諦めて止め打ちでCHANCEを狙い打ちすることに挑戦しました。しかし入賞する玉の勢いがクギによってマチマチなのもあって激しく効率がダウン…何かいい手はないか?と考えた結果、受け皿から箱へ落とす穴の部分に指を通して手で掴んでおいて役モノ入賞時に持ち上げておいてCHANCEと手前側で同調した時に力をスッと抜くことによりドツキほどではないけどそこそこ玉を自在にコントロールできることを発見。そのほかにもドル箱を置くレールの下に脚を組んでおいて思いっきり力を込めて太ももでレールを持ち上げて同調した瞬間に力を抜いて落とすという技も使えましたが後者は一日やると太ももにアザができるので途中からはヤメました(笑) たったこれだけのことですが何もやらないよりは効果は恐ろしく高く、残業のないときや土日にせっせと打ち続けて撤去までの3ヶ月間で細かい収支はつけてませんでしたが給料に手をつけずに残ったお金が約+2000Kチョイと破壊的でした。 これ以降から回転体を見れば「止め打ちで攻略できる」とスカイキッズやラプソディ等の回転体のある機種を攻めてましたね(笑)中でもラプソディはかなり愛着がありました。これを看板機種として力を入れているホールがあったおかげでクギ読み&止め打ちを駆使、さらにタイミングよくクルーンに入ったがクルーン内で玉が回転してタイミングが狂った場合でも玉が奥側に行った瞬間に受け皿を軽く引っ張って無理やり落とすといった小技もマスターし約8ヶ月間もの間で約1600Kほどの収支を得ることができました。 はっきりと印象に残っているのはこの2機種ですが、この頃は回転体やヤクモノの動きからタイミングを逆算して狙い打ちできる機種を徹底して追いかけていた記憶があります。これらは学生時代のノーリスク機種と比べると多少のリスクはありましたが無駄玉を究極的な域まで省くという点では恐ろしく効果がありました。この頃はボーダー理論も理解できていましたが正攻法で演出等を楽しみながら打つようなことは100%無く、他人と圧倒的なアドバンテージを得ることができる台しか触らずお金を増やすことのみが楽しみという銭パチ野郎でした(笑) しかしこれ以降、圧倒的なアドバンテージを持ってパチンコやスロットを打つ機会には恵まれませんでした |
〜社会人編3〜 仙台での生活にもようやく慣れた頃、辞令が出てやっと故郷へ帰れるのかと思いきや今度は北上して岩手への転勤とへこむような人事異動を喰らって傷心の日々。しかも青森県を担当することになり一週間のうち月曜ないし火曜から金曜まで毎週のように出張するというハードな勤務形態を強いられることとなり、ビジネスホテル住まいになじめず苦労しました(笑) その頃岩手で私生活時によく遊んでた友人がパチ・スロ好きだったので休日はよく行動をともにしてました。その中で偶然見つけた店で偶然見かけた超マイナー現金2回権利モノのラジカル(竹屋)・・・私が正攻法ボーダー理論を初めてモロに体感したのがこのラジカルでした。 これは大当り確率1/223の2回ワンセットの権利モノと当時としてはごくごく普通のスペックの台でしたが、廃れた店ながらいつ行っても1K/27回前後の台があり1年余りずっと同じ状況だったので以降ほぼ毎週土日に通い続けてました。 この機種の面白いところは保留玉が空の状態でのリーチ中に保留玉を点灯させると1/3程度の確率で以降通常時なのに大当り2回目の権利獲得時と同様に時短がかかってしまうというバグがあり、デジタル確率は通常通りながら回る台だと比例して回転効率が大幅にUPしました。これのおかげでほぼ1年間近く休みの日だけの稼動でしたがなんと無敗!!ウソだと思われそうですが真実です。ほぼコンスタントに休みに通ってたので店の広告塔として遠隔装置によって出してもらえてたのかも知れない・・・と自分でも思うくらいでした(笑) 実際+100Kを超える勝ちこそ皆無に近かったですが一番ショボい日でも+15Kの勝ちといった按配。また不人気機種ながら1年余り撤去されなかったのも奇跡的でした。この台と出会って結果が長きに渡って出たこともあってボーダーを超越する台を打ち続ければ短いスパンでもハッキリ結果は出るものなんだなぁと実感することが出来ました。ちょうどクランキーコンドルが登場した頃の出来事だったかな。 このラジカルが撤去されてからは他人と大きく差をつけることの出来るような台も無く、ホースケくんの止め打ちやミサイルの釘を見て入賞しやすいコースをストローク調整で狙って打ったりといった微小なワザ等も試したりしましたが激シブなクギ状態では大きな効果も得られず、パチンコは確率分母の大きいCR機が店の大半を占めるようになり、それらのボーダー超えの台を打ち続けても結果が一日単位では出ないことが多かったこともあり次第にスロットをメインで打つことが多くなってきました。 当初は仕事のストレスもあって勝ち負けにあまりこだわらず遊びで打つことが多く感覚的にはコンドルよりもファニイサンタとかを打つことが多かったですがコンドルの末期頃に目押しして打つことによって無駄を減らし効率をよくすることが出来るということを遅ればせながら知り本格的にスロットに目覚めることとなりました。 |
〜社会人編4〜 遅ればせながらスロットに手をつけるようになったものの当初は絵柄は見えているんだけどリール一周のタイミングが掴めていない感じで目押しは苦手でした・・・ 「他人に出来て自分に出来ないわけがない」とちょうどその頃登場したバーサスで必死で取りこぼしながら目押しを実戦で練習した結果リール一周の感覚がようやく掴めるようになり2コマ目押しをマスター。そこからはリール一周のタイミングを利用してVアタマとBARアタマのロータリーDDTや1周押しも出来るようになりました。サンダーVも同時期に登場しましたが目もくれず、とにかくバーサスばかり打ちまくりましたね(笑)ガセフラッシュがウザかったけどフラッシュと出目のバランスがとても好きでした。おかげでその後の花火も問題なく打つことができました。それからというものは大量獲得機やCT機が登場するまでは花火とバーサスばかりを打ち込んでました。当時近くの店で土日でも花火で5を使ってくれる店があったので花火を判別して打つことが多かったです。 またこの時期と前後してパピードッグ、リズムボーイズ、ボルキャニック等の大東音響系やオリンピアのナイスデイワールド等のイリーガルマシンにも一時狂ってましたがこちらの方はほとんど勝ちに恵まれず・・・ リズムボーイズのチェリ連バージョンで1日12万負けを筆頭に相当痛い目にあいました(爆)またこの頃登場したマンクラやアステカ等のCT機も高設定台を掴めてなかったせいもあって相性が悪くあんまりいい思い出がありません。とにかく花火やバーサスでセコセコ勝って裏モノやCT機に貢ぐような日々でしたが、この頃が今現在を含めて一番スロットを楽しんで打っていたような気がします。 またB-MAXやコンテストの登場によりビタ押しする機会も増えたせいか自然と自身の目押し精度も向上してました。とにかくB-MAXはリーチ目が素晴らしく秀逸だったのと、大量獲得ということで短い時間での勝負で破壊力が大きかったので勝敗度外視でとにかく打ちました。この頃のアルゼ系マシンは技術介入の恩恵を肌で感じることが出来たのも楽しかった一因かと思います。 他には山佐のイプシロンも出た当初よく打ちましたが、面白さやトータルバランスではアルゼ系が断然抜けてたと思います。その後も長きに渡りアルゼ系マシンばかりを好んで打ってました。この頃私生活では景気悪化に伴い会社の経費見直しで月の半分以上出張してたせいか出張費にメスが入り、結果電話・FAXを与えられたうえに青森駐在を命じられることとなりました。当初は雪の少ない八戸市に住むつもりでしたが県庁所在地ということで青森市に住む運びとなりました。仙台に始まり北へと転々・・・この頃はもう北国生活にも慣れ開き直りにも似た気持ちでさほど鬱にもなりませんでしたね(笑) |
〜最終章、そして今に至る〜」 仕事に関しては青森市内へ越してきてからは出張こそほとんど無くなりましたが一日の移動距離がハンパじゃなく八戸までの移動でも大概遠いのに、ときとして岩手県の二戸市や久慈市あたりまで日帰りで通うこともしばしば。冬場は全く雪がなく晴天の八戸で仕事をして再び豪雪の青森市内へ帰るといったコースや夜間に全線通行止めの中、盛岡→青森間を下道使って帰ったりということも多く長距離運転による疲労はハンパじゃなかったですね(笑) とにかく当初は一人きりになり自己管理を問われる場面で数字(営業成績)を落としたと言われるのがイヤだったので自分に厳しくガムシャラに仕事をしてましたが、次第に仕事にも慣れて抜きどころを覚えて数字(営業成績)を組み立てるのもそう困難ではなくなってきてからは仕事帰りのみならず、余裕のある時は朝からスロット打ったりという日もありました(笑) この頃は仕事で行った先で仕事が終わると同時に最寄のパチ屋へ寄って打つことが多く、閉店勝負となれば帰宅が12時過ぎることもしばしばで寝る時間を削ってまで打ってたような気がします(爆)青森市内にいる時はもっぱら自宅近くのS店通い。S店は当時新装時以外の客付きはまばらでいつ行っても打つ台に不足ないのが通ってた理由でした。ここは設定変更の痕跡をモロに残してたり、手間隙かけて消したりと設定師?のアドリブに腹立たしい思いもしましたが面白い店でした。デュエルドラゴンの変更後の朝一液晶出目をそのままにしてたりする反面、前日5判の落ちた花火で閉店時BIGを引いて即ヤメしたら翌日出目もそのまま、払い出し表示もそのままながら実際は変更で下げられてたりと、わざわざそこまでするか?みたいなことやってたり、ダブチャレで朝一天使拾いやってたら翌日から設定変更台を見破られたくないがためか?朝一全台打ち直しして全台天使スタートだったりと詰めが甘くマヌケなこともやってくれてるとこが人間臭くて好きでしたね。 また必要に迫られてPCを購入しインターネットを始めたのもこの頃だったと思います。検索のコツなども判らずネット徘徊してて偶然ジャックさんの「パチプロ修行中」というHPで日々のパチスロ日記を公開しているのを見つけ、興味を持ちBBSにちょくちょく書き込みをしているうちにHPを作るのも面白そうだなって考えるようになり、またジャックさんのHPのリンクからガリぞう氏の存在を知ることとなり、深い考えも無く、とりあえずHPでも作ってみようかなと考えて「HPビルダー」というソフトを購入したことがサイトを始めるきっかけでした。 スロットの機種でいえば獣王やブラックジャック777等のAT機やストック機のはしりともいえる機種が出回り始めた頃の出来事でした。 初めはコツも判らず見よう見まねで作ったサイトで訪問者も無く、かといって宣伝のやり方も判らないのであちこちの掲示板や検索サイトに登録して宣伝しまくってました(笑)常連第一号のイノキさんの来訪以来自然と人が集まり、今ではすっかり誌上プロの第一人者となったガリぞうさんも交えてのOFF会まで開くことも出来たし、当時仕事仲間オンリーで精神的に寂しかった青森での生活に潤いが出来たのもこのサイトのおかげだったですね。 その後紆余曲折があって今は東京に出てきてスロプロの真似事みたいなことをやってますが、本当に青森での生活は自分の中で最も辛くはあったけど精神的には充実した時間だったなあと思います。またみなさんで集まってワイワイ過去を振り返りながら騒げる機会が出来るといいですね・・・ 過去を振り返ってみると今までは本当にいい時代に打ってたなあと思います。こうやって過去の出来事を綴っている間に自身の慢性的なモチベーション低下の理由として、楽をしてては勝ちにくくなった昨今の状況が一番の原因なのかな?と。 そして以前のように遊びで打てるほどスロットが好きではないということだけは自覚することが出来ました。勝つための努力が苦になるようだったらスロはもう引退・・・だとも考えています。 今は年々辛い機種が増えている一方でネットや攻略誌の影響で一般客との垣根が低くなり、たやすく勝ち続けるにはしんどい状況ですがどんな時代でも常にどこかに付け入る隙がないか?と模索しながら打ち続けていれば必ずどこかに活路が見出せると思っています。今後しばらくは「楽しみながら勝つ」をモットーに肩の力を抜いて楽しんでパチスロと向き合えるようになりたいと思っています |