Nickname
◆73rdBWのPilot nameはFighter Aceのプレイをより楽しむため、いわゆる機体につけられたNicknameのような名前を使用していますが、
そのうち実機の名前を採用された方のモデルとなった機体について私が分かる範囲で説明します。
これらの実機でWW2へ参戦された搭乗員の方々、またそれを迎撃した日本軍の搭乗員の方々の勇気は大変なものであったと思います。
我々はこれらの実機及び、搭乗員の勇気と栄誉を称えると共に、機体名の使用について御礼申し上げます。


参考文献:USAAF Missing Air Crew Report / XXIBC MISSION SUMMARY
 DAUNTLESS_DOTTY
◆ B-29-40-BW S/N 42-24592 A Square 1 73rdBW / 497thBG / 869thBS

"DAUNTLESS DOTTY"号は、マリアナ諸島より日本本土を空襲したXXIBCのB-29を語る際、外すことの出来ない機体の一つである。
"DOTTY"は1944年11月24日に行われた、マリアナ諸島より初の東京空襲である中島飛行機武蔵製作所爆撃(米軍作戦名 サンアントニオ#1)が行われた際、先導機を努めた機体として知られている。 
また"DOTTY"は、米第八空軍においてB-17F"Memphis Belle"を駆り、初の任務出撃25回を達成し映画「メンフィス・ベル」のモデルとなった伝説の機長、ロバート・K・モーガン少佐(当時)が搭乗した機体でもあり、さらに11月24日の出撃時、この機には督戦の為、73BW司令官エメット・"ロジー"・オドンネル准将が同乗、准将自ら操縦輪を握り出撃した。 
初空襲後もモーガン少佐は"DOTTY"により3月9-10日の東京大空襲(米軍作戦名 ミーティングハウス #2)など25回の任務を達成し1945年4月本国へ帰還することとなった。
このような武勲に輝く"DOTTY"は戦後、博物館に展示されてもおかしくない機体であったが、残念ながら1945年6月7日、クエジェリン島にて墜落し、機体は失われてしまった。



 PEACE_on_Earth
◆ B-29-15-BA S/N 42-63412 A Square 25 73rdBW / 497thBG / 870thBS

"PEACE on Earth"号は1945年3月4日に実施された中島飛行機武蔵製作所空襲"エンキンドル# 5"において失われた。 N16°40′E145°37′(マリアナ諸島サリガン島西海域付近)へ墜落との事であり、また公式記録では3月3日に墜落とあるので、東京空襲へ向かう途中に何らかのトラブルが発生し墜落したものと推定される。
この墜落よりWestervelt機長以下が乗り組んでいた"POE"からは9名が救助された。

 Special_Delivery
◆ B-29-40-BW S/N 42-24628 A Square 29 73rdBW / 497thBG / 870thBS

"Special Delivery"号は1944年12月18日に気象観測任務よりの帰投中、燃料切れとなりサイパン島フォーカス岬付近の海上に墜落した。
この日は名古屋の三菱重工発動機製作所への空襲(ヘジテイション# 1)が行われており、この空襲に付随する事前気象観測任務と推定される。
墜落時、Ewing機長以下、通常より1名多い(気象観測担当士官)12名が乗り組んでいたが10名が救助された。

 NEW_GLORY
◆ B-29-45-BW S/N 42-24733 A Square 31 73rdBW / 497thBG / 870thBS

"NEW GLORY"号は、1944年12月18日のヘジテイション#1に引き続き行われた、12月22日の名古屋の三菱重工発動機製作所への空襲(エラディケイト#2)に参加したが、名古屋への途上途中に墜落した。
墜落した"GLORY"からはHamilton機長以下乗員中、5名が救助され、6名はMIA(戦闘中行方不明)となった。



 TERRIBLE_TERRY
(写真は"THE DRAGON LADY"時代の同機)

◆ B-29-15-BA S/N 42-63425 A Square 41 73rdBW / 497thBG / 871thBS

"TERRIBLE TERRY"号は、対日空襲開始時は"THE DRAGON LADY"と言うニックネームであったが、その後"TERRY"にニックネームを変更し大戦を生き抜くことに成功した。 また、"DRAGON LADY"時代の1944年12月22日の名古屋空襲(エラディケイト#2)に出撃した際、日本機の体当たり攻撃を受け垂直尾翼の上部を切断されたが、ハワード・クリフォード機長以下の奮闘により、サイパンまで生還したと言う記録が残っている。


 THUNDERHEAD
◆ B-29-40-BW S/N 42-24641 A Square 43 73rdBW / 497thBG / 871stBS

"THUNDERHEAD"号は、詳細不明なるも40回以上の任務を達成し大戦を生き抜いた。  S/Nからして対日戦最初期から73BWに存在し出撃を重ねた機体だと思われる。

 Ruthless
◆ B-29A-25-BN S/N 42-94027 T Square 1 73rdBW / 498thBG / 873rdBS

"Ruthless"号は498thBGの3機目の司令搭乗機である。 1.2機目の司令搭乗機(ニックネーム無し)はそれぞれ戦闘により失われたが、3度目の正直で「無慈悲」のニックネームを付けられた当機は30回の任務を達成し大戦を生き抜いた。

 LUCKY_STRIKES
◆ B-29A-25-BN S/N 42-94030 T Square 10 73rdBW / 498thBG / 873rdBS

"LUCKY STRIKES"号はT□10のテイルコードが付けられた機体としては、6機目(!)の機体である。 1-3機目は戦闘により損失。 4機目は異動、5機目はまたしても損失。 最後にT□10の番号が付けられた当機は大戦を生き抜いた。

 RAIDEN_MAIDEN
◆ B-29-25-BA S/N 42-63522 T Square 11 73rdBW / 498thBG / 873rdBS

詳細不明。 73BWは大戦において182機のB29を様々な要因により喪失したが、23機が該当機を特定できておらず、また"RAIDEN_MAIDEN"が大戦を生き抜いたと言う記録も存在しないため、この23機中に含まれている可能性がある。
但し、Missing Air Crew Report (MACR / 搭乗員損失報告書)においては当機を発見できなかったので大戦を生き抜いている可能性もある。

 TOKYO_ROSE
◆ F-13A-5-BN S/N 42-93852 T Square 12 73rdBW / 498thBG / 873rdBS

TOKYO_ROSE号はB-29の派生型であるF-13の一機である。
この偵察/爆撃兼用の"ROSE"を有名にしたのは、73rdBWの主力がサイパンに到着する前に実施されたラルフ・スティークリー大尉らによる
1944年11月1日の東京偵察行である。
1943年のドゥーリットル空襲以来、初めて東京の上空を飛んだのがこの"ROSEで"、抜けるような初冬の青空の中、高射砲の弾幕と迎撃機をはるか眼下に見下ろし悠々と飛行するその姿は、日本の軍部と帝都市民に強いショックを与えることとなる。
またこの機体の名前は日本の対米謀略放送"ZeroHour"において、米軍兵士にも人気があった?女性アナウンサーであるアイバ・ドグリ・タキノ女史のニックネームから取られたものであり、そのノーズアートと機体名は米軍による米国本土向けの宣伝写真として広く知られることとなる。
"ROSE"はB-29部隊がサイパンに到着した1944年11月からしばらくは73rdBWに所属していたが、グアムやテニアンの基地が整備され専属偵察部隊が誕生したことにより3PRSへ所属替えとなった。



 Fay
写真は1945年3/9-10の東京大空襲へ出撃する"Fay"。 同機はこの2週間後に墜落することになる。

◆ B-29-5-MO S/N 42-65210 T Square 26 73rdBW / 498thBG / 874thBS

"Fay"は73,313,314BWの248機のB29を投入し1945年3月24日に実施された名古屋の三菱重工発動機製作所への空襲(エラディケイト#5)に参加したが、名古屋上空において通信途絶。 撃墜・全員戦死と判定された(米軍記録)。 日本側の記録では名古屋市上空において高射砲弾が直撃。 そのまま"Fay"は空中分解し名古屋市瑞穂区内に墜落とされている。 この時期になるとB29による空襲は3月10日の東京大空襲の戦果を受け、高高度からの爆撃を放棄し、高度を5000ft-10000ftにまで下げた爆撃を行っており、日本軍高射砲の脅威が高くなってきていた。

 Salvo_Sally
◆ B-29-45-BW S/N 42-24699 V Square 9 73rdBW / 499thBG / 877thBS

"Salvo_Sally"は1945年4月28日に行われた73,313,314BWによる九州方面の複数日本軍飛行場空襲(※)の内、ネッククロス#4(宮崎飛行場空襲)に参加したが、参加した20機のうち唯一機の損失機となってしまった。(Canada機長以下搭乗員は全員MIA:戦闘中行方不明と判定。 1名は生存の説もあり)

(※)この日の目標は出水・宮崎・国分・都城・鹿屋・串良の6飛行場(73BWは出水・宮崎を担当)。 この時期、米海軍のニミッツ大将が沖縄戦支援の為に特攻機の出撃基地となっている九州地区の飛行場爆撃をルメイ少将に要請したためXXIBCが4月17日より断続的に飛行場空襲を行っていた。

 THE_STARDUSTER
◆ B-29-50-BW S/N 42-24782 V Square 31 73rdBW / 499thBG / 878thBS

詳細不明。 73BWは大戦において182機のB29を様々な要因により喪失したが、23機が該当機を特定できておらず、また"THE STARDUSTER"が大戦を生き抜いたと言う記録も存在しないため、この23機中に含まれている可能性がある。
但し、Missing Air Crew Report (MACR / 搭乗員損失報告書)においては当機を発見できなかったので大戦を生き抜いている可能性もある。

 Betty_Bee
◆ B-29-30-MO S/N 42-65335 V Square 37 73rdBW / 499thBG / 878thBS

"Betty_Bee"号は、73rdBWの中では多数の機体と搭乗員を失い不運の飛行隊として知られた、878thBS所属機である。
しかし"Betty"は、その飛行隊にあって頑なに墜落を拒否した機体であり、驚愕すべき写真が残されている。
1945年6月5日、73rdBWは神戸空襲に飛び立った。 その中で"Betty"には機長ブラッシア大尉以下が乗り組み一つの小編隊を指揮していた。
"Betty"率いる編隊が神戸港湾地区への投弾後、1機の日本軍の飛燕が編隊に向け突入を始める。 編隊の各機は体当たりを警戒し、飛燕に向け防御砲火を徹底的に浴びせたが、なおも飛燕は編隊に向け突進し編隊の中を突き抜けていった。 恐らく、その時の事は"Betty"の尾部機銃手は何が何だか分からなかったか、もし覚えていたら思い出したくもない経験であろう。 "Betty"の右水平尾翼は体当たりを敢行した飛燕により完全に引き裂かれていたのだ。 ブラッシア大尉と操縦士のハート少尉は卓越した操縦技量を持って機を安定させ、はるか彼方のイスレー飛行場に帰り着くことに成功した。
その後も彼女は出撃を重ね、無事に大戦を生き抜いた。 不運の中にあって幸運を握り締め、それを絶対に離さなかった機体である。



 HONSHU_HURRICANE
◆ B-29-20-BA S/N 42-63481 V Square 50 73rdBW / 499thBG / 879thBS

詳細不明。 73BWは大戦において182機のB29を様々な要因により喪失したが、23機が該当機を特定できておらず、また"HONSHU HURRICANE"が大戦を生き抜いたと言う記録も存在しないため、この23機中に含まれている可能性がある。
但し、Missing Air Crew Report (MACR / 搭乗員損失報告書)においては当機を発見できなかったので大戦を生き抜いている可能性もある。

 Rosalia_Rocket
◆ B-29-40-BW S/N 42-24656 Z Square 1 73rdBW / 500thBG / 881stBS

"Rosalia Rocket"号は、対日空襲開始直後の73BWにとって苦しい時期に失われた機体である。
1944年12月3日、3回目の中島飛行機武蔵製作所爆撃(サン・アントニオ#3)を実施する事になったXXIBCは、この鬼門とも言える目標に86機のB-29を出撃させた。 "Rocket"は、この日の出撃において500thBG司令キング大佐自らが操縦し悌団全体の先導機として東京上空へ侵入したが、飛行第244戦隊(調布)戦隊長、小林少佐を含む十数機の攻撃を受け悌団より落伍した。 "Rocket"は高度を落としつつ必死に海上への脱出を図ったが、飛行第53戦隊(松戸)の屠竜(澤本軍曹)による体当たり攻撃を受け、ついに力尽き千葉県香取郡神代村に墜落した。
墜落する"Rocket"からは乗組員12名中8名が脱出に成功したが、この日の出撃に便乗していた73BW次席参謀長(作戦担当)ブルッグ大佐以下5名は生還することが出来ず、キング大佐、ゴールズワージー少佐ら3名のみが戦後、東京俘虜収容所本所より解放された。

 Pacific_Queen
◆ B-29-15-BA S/N 42-63429 Z Square 35 73rdBW / 500thBG / 882ndBS

詳細不明も50回の任務を達成し大戦を生き抜いた。 S/Nからして対日戦最初期から73BWに存在し出撃を重ねた機体だと思われる。

 FLAGSHIP_500
◆ B-29A-40-BN S/N 44-61669 Z Square 49 73rdBW / 500thBG / 882ndBS

S/N等から1945年に入ってから補充機として73BWに配属された機体と考えられる。 11回の任務を達成し大戦を生き抜いた。 またこの機体は現在March AFB Air Museum(マーチ空軍基地航空博物館)において展示されている。

 YOKOHAMA_YO-YO
◆ F-13-40-BW S/N 42-24621 F 3PRS

"YOKOHAMA YO-YO"号は上記の"TOKYO ROSE"号と共に3PRSに所属した機体である。
1944年10月30日"ROSE"と共にサイパン島イスレー飛行場へ到着した"YOYO"は、11月5日の第2回東京地区写真偵察に出撃したのを皮切りに、計31回の出撃を果たした後、3PRS司令パトリック・マッカーシー大佐と共に1945年6月、米本土へ帰還し戦時公債募集キャンペーンに駆り出された。
結局、日本軍は1944年11月に行われたこれらF-13A/B-29による写真偵察飛行に対し何ら有効な手立てを打つことが出来ず、陸軍は武装等を外し軽量化した戦闘機による体当たりを目的とした空対空特攻隊を編成することとなる。





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