「ああ、やりきれない!!
 わたしは今まで、かずかずの戦のほめ歌をきかされてきた。
 そしていつも、ほろびる者に栄光があると思ってきた。
 だが戦とは、ひさんなばかりでなく、まことにやりきれないものだ。
 この戦に加わらなかったらなあ!」

雲がふきちる時〜ビルボ・バギンズ
   (瀬田貞二:訳/J . R . R . Tolkien 『THE HOBBIT , second Edition』)




何か歌を、と思いスランドゥイルは乾いた唇を葡萄酒でしめらせた。
 
いつも口にしている、含んだだけで鼻腔をぬけていくような芳ばしい葡萄の香りはない。
まるで水で薄めたような代物。
けれど「今」と言うこの場所には、
この宴には、悪くない代物だった。

「さて、宴もそろそろ終わりに近づいているが」

彼は口をつけていたグラスを目の高さまで持ち上げ、その中で揺れる色を見つめた。
その先に見える、がらんとした広間も見つめた。

「ここで何か趣向を凝らすのも悪くはあるまい?」

給仕ばかりが彼の横で、
質素な、歴代の王の食卓と比べても群を抜いて質素だろう食事を運ぶばかり。
闇の森のエルフの王はそのきれいな指先で、
運ばれてきた皿から木の実を拾い上げ、口に含んだ。

「趣向とは?」

ふいに、

がらんとした広間の向こうから、声がした。
一人の男が歩いてきた。

スランドゥイルは目を細めその姿をとらえる。

「おおこれは、ギリオンの血を受け継ぐバルドよ。
 久しく姿を見てはいなかったが」

元気にしていたか、と王は男を受け入れた。
バルドと呼ばれた男は軽く会釈をし、
食事をしている王のテーブルの前までゆっくりと進んだ。

「エルフの王よ。今宵は宴だというから来てみれば、随分寂しい様子ではありませんか。
 少し遅れてきたことには申す訳もございませんが、もしやもう終わってしまったのだろうか」
「いいや。やっと主賓がきたのでな。これからなにか趣向を、と考えていたところだ」
「それは良いところに来る事が出来た」

男はテーブルの前までくると、
その上にある銀の皿を眺め、ため息をついた。

「随分質素な宴だことだ」
「今、このときには十分な宴だ」
「そうだろうか? あなたの屋敷の宴とは思えないが」
「葡萄酒と食事があればそれが宴だとは思わんか」
「あなたらしくもない。歌は?楽師たちはどこにいるのです?」

バルドは広間を見渡した。
がらんとしたそこに、他の者の影はない。

そこは彼がよく知っている場所だった。
バルドは人間であったが、季節が移ろうのを祝う宴に
何度かこのエルフの館に招かれたことのある。
しかし、今日のこの時のの広間はまるで、別の場所のようだった。

「そうだ、歌だ」

スランドゥイルは、またグラスに口をつけ、唇をしめらせた。

「宴にぴったりな歌をなにか、と考えていたところだ」

さあ、なにか歌ってはくれないか。

そう楽しげに言って、スランドゥイルはバルドを促した。
一方、バルドは苦い顔をする。

「なにをおっしゃいます。歌はエルフのものでしょう?」
「そう言うな。広間を見渡してみるがよい。
ここにいる歌い手といえば、そのほうしかおらんではないか」
「あなたがいらっしゃるではないか、エルフの王よ」

ふむ、とスランドゥイルは小首をかしげた。
手に持つグラスはゆらりと揺れた。

「そうだな、ああそうだ。
そう思ってわしも何か歌をと思ったのだ。しかしな、」

グラスに口をつけて、王は困った顔をする。

「どうも唇が乾いてしかたがないのだ。 こんな調子では歌えん」

バルドはスランドゥイルのグラスを見つめた。
そして、それがエルフ王の愛するいつもの葡萄酒の色をしていないことに気がつく。

「それはこんな葡萄酒など飲んでいるからですよ」
「これしかもう残っとらんのだ」

スランドゥイルは微笑んだ。
王が言ったように、その水のように薄い葡萄酒は、
最後に残っているものだった。

彼が好んだ強い葡萄酒は、
自らが飲むか、その大部分を旅立っていく者たちに少しずつ分けてしまった。

旅立ち。

それは、
世界の生きるものすべてが一つになって
悪しきものと戦う、きっと最後になるであろう戦い。

「皆、戦いに?」
「ああそうだ。わたしとほんの少しばかりがここに残った。
 薄い葡萄酒に、質素な料理。
 今この時にはぴったりの宴だろう?」

スランドゥイルの言葉にバルドはまた広間を見回した。
歌も、笑い声もない広い空虚。

「ご子息も、そこへ?」
「ああ。あれは大きな使命を負って行った」
「そうですか」

バルドは闇の森のエルフの王子を思い浮かべた。

王に良く似た、けれど流れるその髪は王よりもずっと淡く、
月の光の中ではまるで白銀のように流れる。
一度月明かりの下で見たその姿は息を呑むほ美しく、
随分たってもバルドの頭から離れていくことはなかった。
エルフは美しい生き物。

「王は、ことに銀や白光をはなつ宝石類に目がないはずなのに」

手から放してしまったのですか? と、どこかバルドがなじるように言った。
王はその言葉にすこし顔をしかめると。

「その時がきたのだよ」

そう言って目を閉じた。
その顔には深く悲壮の影があり、
バルドが良く知っている、明るく、歌と葡萄酒をこよなく愛する
闇の森のエルフ王ではないようだった。

「しかし、ご子息は類まれな弓の名手であるから」

きっと大丈夫でしょう。
そうバルドが言っても、
スランドゥイルの深く刻まれた眉頭の影はとれなかった。

「もう随分昔になるが」

それはもういつだったか忘れてしまったくらい昔で、
(エルフの昔というのは、本当に遠いのです)
まだ、我が子が幼いころであったから、
二千以上は昔のことだっただろうか、とスランドゥイル目を細める。

「あれの前で、鳥を射った事があるのだ」

空高く飛んでいた見たことのない美しい鳥を、戯れに落としてみせたことがある。
それは珍しく、見る者を喜ばすだろう、とそう王は思ったのだ。
しかし、

「泣いたこともあるのだよ。弓で射るのは酷い、と」

新緑の名のつけられた王子はまだ小さく、
父上はなんと酷いことをするのだ、となじられた。

「そんな時もたしかにあったのだ」

遠くを見つめる目に、バルドもならう。

「わたしはあなたと懇意になってから、その若君にエルフの弓術を習いましたよ」

子供は成長するのですね。
そう言って、バルドも目を細めた。

スランドゥイルは目を閉じた。
ああそういえばそうであったな、と
どこかぼんやりとした顔で笑う。

そのぼんやりした顔に、バルドはすこし悲しくなった。

「エルフの王よ。この宴に、わたしから
 心ばかりの贈り物をさせていただけないだろうか?」

「なに?」

思いがけないバルドの言葉に、スランドゥイルは彼の目を見た。

「あなたの好きな葡萄酒のありかを教えましょう」
「持ってきたわけではないのか?」
「はい、この宮殿の食料庫にあります」
「もうわしの好きな葡萄酒はどこにものこっとらんのだが?」
「いいえ、とびっきりのを実は隠していたのです」

バルドは笑いながら王に、食料庫の奥の奥に忘れ去られた瓶の場所を耳打ちした。

スランドゥイルは少し疑わしそうな顔でバルドを見たが、
すぐに横にいる給仕に、その場所を見てくるように、と指示する。
給仕は、突然の王の指示に不可思議な顔をしていたが、すぐに広間を出て行った。

足早に戻ってきた給仕の手には、
一つの葡萄酒の瓶。

「それは?」
「はい、たしかにスランドゥイル様がおっしゃった場所にありました。
棚の奥の影になっていて気がつかなかったのです」
「〜〜〜そうか」

スランドゥイルは、笑うバルドを横目で見ると、給仕の手からその瓶を受け取った。
新しく出されるグラスに自らそれを注ぎ、バルドの前に置くと
もう一つグラスを、と給仕に指示をだした。

「もう一つ、ですか・・・?」
「そうだ」
「はあ?」

給仕はテーブルに置かれたグラスに不思議な顔をしたままだったが、
もう一つグラスを出すと、スランドゥイルから瓶を受け取り、紅い葡萄酒を注いだ。

給仕からグラスを渡されると、スランドゥイルはその色とその香りをじっくり堪能した。
まちがいなく、愛してやまない葡萄酒がそこにある。

「王の好きな、濃く強い葡萄酒です」

薄い水のようなそれで、唇をごまかさないでください。とバルドは笑う。
うるさい、ごまかしているのではなく酒がないのだ。とスランドゥイルは、
そんなバルドに不機嫌な顔をした。

「しかし何故、そのほうがわしの蔵の事情を知っているか不思議でならんのだが?」
「なぜってそれは、わたしが隠していたからです」
「隠していた?」
「そうです。今この時の宴に、わたしとエルフの王が飲めるように」

ふふ、と笑うバルドに、スランドゥイルはますます不機嫌な顔をする。
その顔が気に入ったのか、しばらくバルドは笑っていたが、

「大丈夫です。王の好きなものはわたしがこっそり隠してますから」

戻ってきますよ、と。
なにが、とは言わずにバルドは自分の葡萄酒に目を細めた。

グラスには手をつけず、立ったまま。
彼は、スランドゥイルと目を合わせにっこり微笑むと、

「わたしの矢の祝福を、スランドゥイルの子・レゴラスに」

手は触れず、バルドは身をかがめた。
テーブルに置かれたままのグラスに、そっと唇をつけた。

バルドの唇が触れたグラスは、
ゆらりとも、その紅い水面を乱すことはなく。

「バルド」

スランドゥイルがその名前を呼ぶよりはやく、

その姿は宙に掻き消えた。

王はしばらく、残ったグラスをじっと見つめていた。
その赤い液体が、消えた彼の吐息で震えないか、とじっと待った。
けれどいくら待っても、そこに「彼」がいる様子はなく。
がらんとした広間に、声が聞こえることもなく。

バルドはどこにもいなくなった。

「・・・人間と言うのは、」

どうしてこうも、去ってしまうのが早いのだ。

最後の部分は口に出さずに、スランドゥイルは自分のグラスに口をつけた。
今は遠くへ旅立ってしまった友人が、
気まぐれに此の世に戻って届けた贈り物は、
王が長い間愛してやまない葡萄の芳香。

「エスガロスの英雄、バルド王よ」

最後になるだろうこの宴に現れる人物としては、十分。
こ憎たらしいが、良い趣向だったと息をつく。

「?」

ふいに、
スランドゥイルは、不思議そうに目を細めた。
テーブルの上のバルドのグラスの中。
何かが入っている。

「・・・なんだ?」

手を伸ばして、グラスを引き寄せる。

グラスの底にキラリ光っていたものは、
深緑の宝石。

「エメラルド・・・?」

人間の生でいえば随分だいぶ昔。
エルフにとっては瞬きの時間ほど前に、
英雄から王になった男が、闇の森のエルフの王に渡したギリオンのエメラルド。
その一つだった。

葡萄酒に浸された石は、指でつまみあげると鮮やかな緑に輝き。

それはまるで、
いま大きく世界がかわるだろう期に弓を持つ、我が子のような輝きで。

(王の好きなものは、わたしがこっそり守っていますから)

「憎いことをしてくれる」

スランドゥイルは微笑んだ。

その昔、ドラゴンを討ち取った英雄が遺した祝福が、
かの地に届いているだろうか、と
届け、と。
そのしなやかな指で、
つまんだ宝石で、口のつけられなかったグラスに触れた。

チリン、

鈴のような音がして、
紅い水面は少しだけ円状に波紋をひろげる。

それは、
いま遠い地で行われている大きな戦を、
これから先歌われるどんな歌よりも、
忠実に、美しく、そして悲しく後世につたえる響き。

スランドゥイルは目を細めて、
水面に広がる波をずっと見つめていた。





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2004/05/08
鳥子様に捧ぐ