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1997年7月21日 月 夏休みに入って、今日は家族で岐阜市の「古代エジプト展」に行く。弟 も部活に忙しくなかなか家族全員で出かけると言う事が少なくなっていた が、2人の子供が共に興味を持っていて、一緒に出かけることになった。 岐阜公園での休憩では、2人の小さかった頃の思い出話に花が咲いた。
1997年7月22日 火 今日は、希望が丘でAt先生の診察を受けに行きました。 そこで「どのくらい動けるようになった。」と、聞かれました。ほとんど、お母さんが 答えてしまいましたが「歩いてトイレに行ったり、車椅子に乗っているばかりではなく、 車椅子に誰か乗ってもらい、その車椅子をO君が押さないといけないな。」とAt先生に 言われてしまいました。 たしかに、At先生の言われる事を毎日やれば、足にも筋肉が付きそうでした。それを 毎日やる勇気が僕にはないのです。転ぶではないかと言う恐怖感が僕の足を止めるので す。僕は、転ぶと動けないのです。
1997年7月26日 土 今日の車椅子こぎの時に、初めて右手の指に、痛みを感じました。右手の指に痛みを感 じながら僕は、去年の夏休み明けの1年B組の教室を思い浮かんだのです。 それは、Kさんの足や腕にくろにえを作って、学校に登校してきたのです。Kさんのく ろにえを見て、Mt先生が僕たちに聞いたのです。「O君やN君は、Kさんみたいに、く ろにえができるまで何かやったか。」と、言われたのです。僕は何も言えなかったような 気がします。だから、今年は右手にくろにえでも作ってやるぞ、と思って頑張りました。
1997年7月28日 月 今日で3日連続の雨天。そんな中で姓内の人の葬儀があった。お父さんとお母さんはそ の手伝いに行き、お婆ちゃんは老人会の催しに出かけていき、弟がお兄ちゃんの面倒を見 る事になった。お母さんが時々覗きに帰ってきたとは言え、こんな状態は初めて。それで も何事も無く1日が終わってホッ!。
1997年7月31日 木 「障害者甲子園」への参加が決まった。親の支援は受けず、ボランテアの助けを借りて 友人と2人で兵庫県まで行き、4日間をそうした人達と過ごすのだそうである。 母さんは大変喜んでいたが、父さんは内心不安・心配、本人は少々不安、といった状態 である。幸い養護学校の一年先輩が一緒との事で、多少ホッとした面もあるが...。8月 26日〜29日、どうなって帰ってくるだろう?。
1997年8月2日 土 今日の天気は、薄い雲が空をおおっていたので、スターウォ ッチングはムリかなと思っていました。でもキャンプファイヤ ーの時刻になると星たちが僕たちを見ているのです。何をやっ ているのかと、首をかしげたように見ていたような気がしま す。 キャンプファイヤーの時は、出し物が良く分らなかったし、 僕のような視力が悪い子は、楽しというよりキャンプファイヤ ーの火で火なたぼっこをしていました。 星たちの話声を聞くかのように僕はだまっていました。というより僕は友達の輪に入れ なかったような気がします。 その後、ロウソク工房バリエーションで働く人たちと少し話をしました。その話し合い が終わって寝床に着いたのが12時ちょうどでした。僕は川のミュージックを聞きながら深 い眠りにつきました。時間を忘れて過ごせました。
1997年8月3日 日 昨日の午後から1泊のキャンプに参加。お母さんは付き添っていない。 今日10時頃に、お母さんと弟が迎えにいった。 昨夜の就寝は12時頃だったそうだが、「少々眠い」程度で結構元気そうであった。あん まり心配するのもどうなのかな?、と思ってしまった。
昨日もそうだったのですが河原で食事をしました。川原で食事をしていると、大自然に 抱かれているようで、食が家にいる時よりも進んだように思います。緑に囲まれて、植物 たちに包まれて、食事をしたり散歩をしたりして過ごしました。 初めて知ったのですが、伊自良キャンプ場に植林してある杉の木は「植林してもう70年 ぐらいかな。」と伊自良キャンプ場の人が言っていましたから、伊自良キャンプ場の杉の 木は杉花粉を放出しているはずです。 スギ花粉は杉の年齢で50才を越えると杉の幹からスギ花粉が放出されるのですが、それ は植林されていない杉の木だったかなと、思いながら話を聞いていました。 いろいろな人に写真をとってもらったのですが、名前と本人があうか心配です。
1997年8月7日 木 今日の杉の子園での作業は、つらく苦しかったです。夏休みの作品のカゴの模様になる 組紐を編んでいました。それが朝もやっていたので、背中にくる痛みや疲れが急に僕の体 を襲ったのですが、今組紐をやめたら夏休みの作品が未完成のまま終わるのは、嫌だと思 った僕は、痛みや疲れに負けてたまるかと頑張って紐を組みました。 でも、余りにもの疲れや背中の痛さに、1度弱音をはいてしまいました。後少しで終わ りそうだったので、ラストスパートをかけました。そのころの僕の体は、背中の痛みに、 疲れが重なって、もうアウトだ、と思っても組紐を編んでいました。 もうダメ、精も根も尽きたと思った時に、組紐の紐が短くなっていました。僕は助かっ たと思いながら、お母さんを呼びました。僕の編み上げ組紐は、何ともまあ派手な模様だ なと思いました。 僕は編み終えた組紐をマフラーのように首に巻きつけました。今コースターになってい る紫と銀の組紐も首に巻きつけて遊んでいたのです。だから、夏休みの作品の模様になる 組紐も首に巻きました。 そこへカメラを持ったKdさんがきて、「O君。」と呼んでくれたので、僕はXサイン を出して、Kdさんのカメラの中に2次元の僕が入りました。 今日、編み上げた組紐をお母さんに、カゴに付けてもらうだけです。
1997年8月8日 金 今日から3日間の家族旅行(お父さんは代休を取って参加)。例年通り水族館巡りが中 心で、今年は伊勢志摩方面へ。「弟は少々飽きが来ているのでは?」と思っていたのだ が、嫌そうな顔もせず、お兄ちゃんの面倒も見てくれる。 同じホテルに2泊、行くところもそんなにある訳でもなく、ユッタリとした旅行になり そうである。
※ 本人の家族旅行の「日記」は に載せました。
1997年8月14日 木 今日の9時ごろから、お墓参りに行きました。 去年は車の中でお参りをした覚えがあります。でも、今年は車の中ではなく我が家のお 墓の前でお参りをしました。 障害者甲子園で事故やケガをしませんように、とお墓の前でお祈りしました。僕にとっ て初めての1人旅行だから、僕の心はガタガタに震えているのを感じます。 それに、来年は弟の高校受験が控えているから、家族旅行はないみたいだから、障害者 甲子園に行きたい気分です。でも行ってみないと分りませんけど。魅力的な女子生徒と友 達になれたら、来年も行きたい気分です。でも電車の乗り換えが、苦かと思います。
1997年8月17日 日 昨日の晩、大野町の花火大会の花火を見に行きました。花火を見に行ったわけは、夏休 みの作品の詩集の材料になるかと思って、大野町の花火を見に行きました。 大野中の花火を見て作り出した詩の題名は「怒り爆発、赤き花火」。この詩は地球の火 山を怒りに取った詩を作りました。でも、この詩は失敗作だと思います。
1997年8月19日 火 最近、組紐の作成が早くなってきたように思う。とは言っても手を動かす速度がそんな に変わる訳ではないので、それだけ時間をかけて組紐をやっていることになる。その頑張 りに脱帽!。 お母さんはついに老眼鏡を買った。「全然みえ方が違う!」。因みにお父さんはまだ近 眼用の眼鏡です。
1997年8月20日 水 最近、猛暑の日が続くので何となく嬉しいです。それはなぜか、運動の一科目である両 手で車椅子こぎをやっていると、大量とは言えませんが、汗を背中や腕や足などにかいて いるのです。 これで少しは痩せたかなと思って、昨日の夕方体重計の上に恐る恐る乗ってみました。 すると体重計の針は、55.4の辺りを指していたのです。あれだけ色々と運動をして、猛暑 の中を運動したのに、たった0.5ぐらいしか痩せてないなんて泣けてきます。 もっともっと運動をして汗をかかなければ痩せないのかと思うと、後どんな運動をすれ ばいいのか僕には、分らないのです。
1997年8月21日 木 お母さんが「障害者甲子園」の支度を始めた。24日までに荷物を現地に届けることにな っているとの事。4日間となると荷物もかなりの量になるし、又事前に遅れない物もある し。これは自分でもって行くことになるのだが...、ヤッパリ心配だなー。
1997年8月25日 月 いよいよ明日から「障害者甲子園」へ行く。お母さんは「口があるんだから、何かあっ たら近くの人に頼めば良いんだから...」の連発。やはり心配だナー。 明日はお母さんが駅まで送って、駅からは1人で9:00の普通電車に乗って兵庫県に向 かう。車内では弁当を食べるだろうし、お茶を飲んだりもするだろう。考えてみれば、い つもお母さんにやってもらっていた事を自分でやる事にになるのだが...。
いよいよ明日から、僕にとって初めての一人旅です。A君と一緒だから少しは気が楽な のですが兵庫県に付いたら、A君とは別れて別行動になると思います。そこが一番恐い所 だと思います。 僕は、初めて会う人なんかとはうまく話せないのです。ドキドキしながらしか、相手と 話せないのです。僕に話しかけてくれると話せるのですが、僕から話しかけるのが苦手な のです。そんな僕に一人旅行はできるのでしょうか。僕にとって、障害者甲子園は地獄に 見えるだろうか、それとも天国に見えるかだろうか、僕にはまだ、分らないけど地獄に見 えるような気がします。
1997年8月26日 火 夜、無事に着いたとの電話がある(友達がかけてくれた)。まずはホッとする。後3日 間、気が気ではないナー。
1997年8月27日 水 今日は自分で電話をしてくる事になっていたのだが、結局はかかってこなかった。お母 さんは一緒に行った友達の親さんと連絡をとっていたようであるが、「何も言ってこなか ったのは、何も問題が起らなかったと言う事よ!」。
1997年8月29日 金 無事帰宅。第一声「疲れたけれど、良かったヨー」。 色々話を聞きたかったけれど、参加した事を一生懸命日記に書いていたので、じゃまを しないことにした。熱が37.1度あり、今日は早く寝た方が良い。 担任の先生からも電話があり、「明日は疲れているようだったら休校して下さい」との 事であった。
※ 障害者甲子園についての感想等は に載せました。
1997年8月30日 土 午前中はいつも通り学校へ行った。 帰って来て、昨日の続きで「障害者甲子園」の整理をするつもりだったようだが、弟が 夏休みの課題の追い込みでパソコンを占拠。かなり苛立っていた様子である。
1997年9月1日 月 学校へ行ったものの熱がありそうだと言う事でそのまま県立病院に行く。血液検査をし てもらったところ、体内で炎症が起っているとの事で、点滴をしてもらって帰ってきた。 帰宅した時は39.4度、そのまま眠っていた。8時過ぎにお父さんが帰って着たときは、37 度台になって、夕食を食べているところだった。 「障害者甲子園」の疲れかなー、とフッと思う。
1997年9月4日 水 今日は県立病院へ行き、3日ぶりに学校へいく。2時間の授業を受けて帰宅。ようやく 元に戻りつつあるようだが、それでも夜は36.8度、もう一息か?。
1997年9月7日 日 一人歩きでトイレまで 今日の朝、喉の処置をお母さんにしてもらった後に、お母さんが言うのです。「今日は 一人でトイレまで行ってごらん。」と言われたので、一人でトイレまで行きました。 でもお母さんが「一人でトイレまで行ってごらん。」と言った時は、ピックリしまし た。だって、僕が歩ける距離は、ほんの2,3メートル、トイレまで絶対に歩けないと思っ ていました。一カ所曲がる所があるからです。 でも、僕はトボトボと前へ進みました。訓練の先生か教えてくれたとおりに、膝を上げ て歩きました。僕が一番恐れていた曲がり角も、色々な所に捕まって何とかクリアーしま した。 僕は思ったのです。一人出歩くとは、自立への第一歩かな、と思いながら日記に書きま した。
1997年9月9日 火 一分間ステレジの緊張をもう一度 今日の最終授業では、運動会の係活動でした。 そこでMu先生が言ったのです。「開会式で、得点がどのようにして入るかを言っても らう子と、閉会式で赤団何点、自団何点か言う子が二人ほしいな。」と言われたのです。 僕は考えました。障害者甲子園の最終日に、僕とA君は駅前で一分間ステージをやった のですが、僕はその緊張感を運動会本番で、もう一度体験してやろうと思って、僕は開会 式に出れるように、Mu先生に頼みました。 そしたら「閉会式、私やる。」とYさんが言ってきたのです。一分間ステージの緊張感 をもう一度体験してやる。文章を丸暗記するのは大の苦手ですが、去年の運動会でS君と Y君が言っていたような事を言えばいいのだと思うのですが、去年の運動会の記憶は、ほ とんどないと言ってもいいぐらいです。 希望が丘の劇のナレーターをした時のように、2年2組のハジにならないように、関養護 学校の運動会に、傷が付かないように頑張りたいと思います。
1997年9月13日 土 丸暗記は難しい 今日の朝から運動会の開会式で言う得点説明を暗記し始めました。でも二行目三行目に なると間違える数がだんだん増えてくるのです。これは非常にまずいと思いながらも一生 懸命覚えようと努力しました。でも、ダメなのです。2トントラックとケンカして頭を強 く打っているので、元気な時より記憶力が低下したので、長い文章を丸暗記するのは大の 苦手です。 それに僕は小学校のころから、人前で話すのは一番嫌いだったのです。でも障害者甲子 園最終日に行なわれた一分間スピーチで味わった緊張感を、もう一度味わってやろうと思 ったのですが、文章を丸暗記するのは僕には苦だと感じましたが、これも経験の一つだと 思って頑張ります。
1997年9月15日 月 3連休の最後の休日。岐阜市内の百貨店で障害者の作品展が行われているとの事で、お 母さんと2人で見に行った。本人の作品が銀賞なっていたそうである。こうした事が日頃 の生活の励みになるのだろう。やはり嬉しそうだった。 そう言えば、弟が夏休みの課題としてパソコンを使って整理した「××の天気」も銀賞 になったと言っていた。夫々頑張ってますネー。
銀賞でした 昨日、最悪の同窓会の後、マーサへ行こうと思ったのですが、見る所、車、車、車の大 行列だったので、今日の10時ごろマーサへ行きました。どんな作品が展示してあるのか な、僕の作品の組紐は展示してあるかな、と心配になりました。だって、最初に見てきた 作品には金賞の印の金色の折り紙や銀賞の印の銀色の折り紙が作品の横においてありまし た。 こんな素晴らしい作品にくらべたら、僕の組紐の作品はかなり落ちるなと思いました。 でも、僕の組紐の作品の隣には、銀賞の印の銀色の折り紙がおいてありました。初めてで す。僕の記憶する中で、夏休みの作品が学校外に展示されるのは。しかも銀賞です。あの 作品の中で銀賞ですよ。僕は、組紐の作品たちと記念撮影をして家に帰りました。
1997年9月18日 木 「障害者甲子園」でお世話になったボランティアの女子高生と文通が始まったようであ る。今回の手紙には、運動会で応援合戦の説明を生徒の前でする事を書いてた。「障害者 甲子園」でやった「1分間スピーチ」の経験を生かして「やってやれ」と言う気分で引き 受けたものの、説明の内容を暗記出来なくて困っている、こんな内容だった。
1997年9月20日 土 会社を休んで運動会を観にいく。昨年も観にいったが、見る者に感動を与える運動会だ った。とにかく一生懸命身体を動かす姿が感動を与えるのだろう。応援合戦の説明も本当 に上手く出来て、見ていたお父さんもお母さんもホッ!。
二人の先生から拍手をいただいた 僕は、今日の朝から得点説明の練習をしていました。家でも車の中でも団席に入って も、昨日の全校練習の時、つまった所を中心に練習しました。昨日のような事は、高等部 としては絶対に許されない事だと思ったので、家では僕の精一杯の声で練習してきたので す。 車の中や団席では、小声で昨日間違えた所を何度も言い返しました。そして、入場行進 をしてから得点版の後ろにつれていってもらいました。そこでも僕は、小声で得点方法を 言っていたのです。失敗は二度としないぞ、と心に言い聞かせながら全校の前に出まし た。 緊張の渦が僕の心を襲おうとしていましたが、今日の僕は、家で大声を出してきたの で、緊張の渦に巻き込まれる事もなく大きな声でハツキリと言えたのです。 僕が得点版の後ろに行くと、Fy先生が拍手で迎えてくれたのです。Mn先生も拍手で 迎えてくれて「O君、良くやった。」と、おほめの言葉をもらいました。そうです、Mn 先生からOKのサインをもらう事ができたのです。情けない記憶力でも、時間があれば勝利 を掴むと言う事を知りました。
1997年9月25日 木 運動会後の連休から、毎日、毎日組紐に取り組んでいる。ユックリではあるが着実にそ の紐の長さは延びていく。「続ける」事の凄さを見せつけられている気分である。この努 力がそのまま報われないのが残念だナー。
1997年9月26日 金 詩集ミラ、飛び立つ時はくるのか? 今日の職業の授業の終わりに、Ki先生が僕に聞いてきたのです。「O君の詩って、出 した事ある。」と、僕は勘違いをしてしまって「ハイ。」と答えてしまい「印刷でならあ りますけど。」 Ki先生は少し笑みを浮かべながら「そうじやなくって、どこかO君の詩出品した事あ る。」僕はめっそうもないと、首を横に振りました。だって、僕の詩は現実の事をただ書 き綴っているだけの詩だから、ゴミ箱行きが決まっているような詩だから、出すだけ無駄 なのかもしれません。 でも、わずかな望みを詩に託して、来年の7月出してみたいと思います。
1997年9月27日 土 右手を広げて、右手を使って 今日も母屋で訓練をやりました。 最近右手をよく使っているので、今日初めて平行棒の前で、右手を広げて畳の上におい てみました。すると、左手の感触と右手の感触と微妙に違う事に気が付いたのです。僕 は、その時不思議な事もあるもんだと思いました。それと同時に、左手と右手の障害の違 いに驚かされました。 だから、もっともっと右手に冷めたく、厳しく扱わないと僕の右手は、もっともっと使 いにくくなって行くような気がします。 僕の右手と左手、一生付き合ってゆくパートナーだからこそ、時には厳しく時には優し く使って行きたいです。
1997年9月28日 日 短距離歩行と坂登り 今日の朝食後、しばらく休憩してから改造車を使って家の前の道を歩きました。 最初に、太陽光へ向かって歩きました。トボトボでしたがMn先生からの注意事項を思 い出しながら歩きました。足は引きずらず膝で歩きました。一歩一歩踏み出して歩きなが ら、回りの田畑を見ながら車椅子を押しました。 この時僕は思ったのです。車椅子を押しながら小さな旅はでき ないものかと、地元の母校へ行けないものかと、でもそんな事を やろうと思うと、足に筋肉を付けなければならないし、バランス 感覚をやしなわなければなりません。車椅子を押して、母校に行 くのは卒業して、二年か三年後だと思います。
1997年10月3日 金 校外学習の道のり 今日、公共交通機関を使って三柿野駅から犬山駅まで行ったのですが、三柿野駅で立ち 往生を、僕だけしていました。それは犬山駅へのキップがないのです。駅員さんにもらっ た判を押したキップがないのです。Mn先生は恐い顔をして「O、キップはどうした。」 と聞かれたのです。僕の手元にはキップはないのです。僕の体をMn先生やSy先生がさ わりまくっても、キップのキの字も出てきません。その時は、僕の体から体温がサーと引 いたような気がしました。全身から冷や汗をかいたような、心が冷や汗でグツショリ濡れ たような気がしました。Mn先生のお叱りを受けている時は、生きている気がしませんで した。 そしたら、Mn先生がポケットから判の押されたキップが出てきたのです。「O、すま ん。先生が持っていたわ。」と言って僕に渡してくれました。さっき僕がかいていた冷や 汗は、いったいなんだったんだ、と思いながら駅へ乗り込みました。 そして名鉄電車に乗り込んで、揺られ揺られ着いたのが犬山駅でした。 そこから裏門くぐって徒歩5分で目的地のイトーヨーカドー犬山店。一班二班とも地下 の売店に行きまして、少し休憩しましてからお店の方へ材料探しに行きました。材料探し に以外と時間を食ってしまったのです。 それはなぜかと言うと、サツマイモをバラのままかごに入れるわ、無糖でないヨウグル トをかごに入れるわ、レーズンはラム酒が入ったレーズンをかごに入れるわ、Mn先生 は、僕たちを見守るように現れて「こんにちわ。」と励ましてくれるのです。それにSy 先生の助けもかりまして、材料となる品々四品を僕とN君とSさんの三千円で買いまし た。そして昼食をすませ、いざ三柿野駅へ、またもや名鉄電車に揺られ揺られ、ある駅へ 停車していると、N君が「ここ、三柿野駅じやない。」するとMn先生が、「そうだ、そ うだ。」と言って、急いで急いで電車から下りました。 僕は、この時思ったのです。ベテランの先生にも、間違いをおかすのだと思いました。
1997年10月5日 日 お母さんと「長良川ふれあいマラソン」を見に行って、飛び入りで2kmを車椅子で走ってきた。何事にもチャレンジする2人に拍手。見習うべき点は多いと思う!。 しかし、それが落とし穴になることもある?。
飛び入り参加、長良川ふれあいマラソン大会 今日は、15キロにエントリーしたA君の応援のために、木曽三川へ行きました。する と、実行委員の人が「参加しても結構ですよ。」と言ってくれたので、僕は飛び入り参加 で、2キロにエントリーして走りました。 僕はこのマラソン大会で両手でどこまで行けるかためしてみよう と、短い時間の中で心に決めました。学校や家では、両手こぎをやっ ているのです。左足が疲れたり、右手をきたえるために、両手こぎを やっていたので、このマラソン大会でも両手こぎをやってやろうじや ないか、と思って車輪の輪に手をかけると、右手が硬直したように固 くなっていたのです。 初めて参加だから、緊張しているのかと思ったりして、昔のこぎ方 で折り返し地点まで、ヒーコラヒーコラ言いながら折り返し地点まで行きました。その途 中で、1年2組のSさんに会ったのです。Sさんと、ぬいたりぬかれたりしながら折り返し 地点をめざしました。左足に痛みが走った時が、二度三度あったのです。僕は左足に痛み がくると、自己流の足の運び方に変え折返し地点をめざしました。折返し地点を回った時 は、体が燃えるように暑くなっていたのです。そうです、体が溶けそうなぐらい体温が高 まっているみたいでした。こんな体験をしたのは初めてでしたから、またもや自己流のこ ぎ方を編み出したのです。 それはかかとを下に降ろすのです。このこぎ方だと、疲れた体に負担がかからなかった のです。でも疲れた体にはきかず、やむをえず、小学校でやしなった足のスプリングをい かして、バックバックで、ゴールをめざしました。ヒーコラヒーコラうめきながら、ゴー ルしました。体が燃え尽きそうなぐらい熱かったです。
1997年10月10日 金 3連休の初日。以前であればこうした連休(時期もあるが)には、家族でどこかに出か けたものであるが、しかし今はなかなかそうはいかない。兄貴は訓練があるし、弟は部活 があるし...。夏休みだけが唯一の家族旅行になってしまったナー。
右手を広げて右手を使って U 今日も母屋で訓練をやりました。ヨツバイ歩行で、平行棒の前にきたら前回と同じく畳 の上に右手を広げておいてみました。今日の右手の感触は、枯れた植物の感触がしまし た。 母屋での訓練が終わった後散歩へ家の前まで行きました。この時も右手を使って車椅子 を漕ぎました。車輪の上のリングを持つわけですが、リングを持つ時は握りまして、漕ぎ 終わって右手を上に持ってくる、このくらいだったら、車椅子に乗っているKさんやSさ ん、1年生のSさんもやっていると思います。 でも、僕は右半身麻痺だから両手漕ぎはチョイと難しい。でも、自分なりに両手漕ぎが できるように努力してきました。しかし左手にくらべ、右手は長い時間手を加えていなか ったので、筋力が失われて行ったのです。最悪の事態は、なんとか切り抜けたと思いま す。 でも、右手をほぐすのを止めたら片手しか使えなくなってしまいます。それだけは、絶対 に防がなければなりません。僕が生きて行くためには、右手は絶対に必要なので根気よく 障害を持った右手と付き合って行きたいです。
1997年10月12日 日 新体操 Y 今日も母屋で訓練をしました。その後11時までラジオを聞きながら休憩をしました。ラ ジオを聞き終わってから僕は、ハッとしました。最近になって新しい運動法を見つけたの です。僕は慎重に慎重に、その運動ができる場所に手すり伝いに移動しました。肘を伸ば して膝を曲げて、おしりが地面にあたるコンクリートに着きそうなぐらい膝を曲げて、腕 の力で全体重の半分以上は、腕だけの力で持ち上げるのです。 毎朝やっている朝練とは違って、筋肉トレーニングみたいで腕の力がかなりいります。 これを毎日やれば、腕に力が付くと思いますので、毎日コツコツとやっていきたいと思い ます。腕に筋力を付けるためと痩せるために、毎日コツコツとやって行きたいと思つてい ます。
1997年10月14日 火 年賀状の準備を始めた。といっても、とりあえず、レター用のソフトの購入手続きをと った事と、プリンターのパンフレットを頼んだだけ。 今年は「写真を使った年賀状を復活させたい」と言う事と、お兄ちゃんが「自分で来年 の干支を書いて出したい」と言っているそうで、早めの準備が必要?。
1997年10月22日 水 恥ずかしがらずに、大きく大きく 今日の総合の時間は、またまた劇の練習でした。僕は、いつも通りセリフと動作を土台 に演技をして、そのセリフに一番近い作り上げた表情を乗っけてみました。 僕が一番心配していた狼役のH君が、セリフの半分ぐらい覚えていたので僕はホッとし てしまいました。 S君は、僕が何十時間の時をかけて覚えるのを五分もかからないうちに、頭に叩き込め るのですから「スゴイ。」の一言でした。 終わりにMn先生が僕たちに一言「恥ずかしいくらい大げさにやっても、それが普通に 見えるから。」と言われた時、僕は色々と動作を頭の中で組み立ててみました。でも残念 ながら組立たず、後で考えてみようと思い食堂へ行きました。
1997年10月31日 金 お兄ちゃんのやっている組紐はだんだん難しくなってきて、よく間違えるようだ。今日 も「組紐をやりたいんだけど、お母さんがいないと間違えるし...」と言う。「間違えて も良いからやったら」と言うと、ようやく始めた。真面目だし、一生懸命だし...。 今日は急に寒くなった。皆風をひきませんように。
1997年11月1日 土 午後からお父さんと2人で散髪に行く。床屋のオジサンもオバサンもお兄ちゃんの事を よく知っていて、車椅子で行かなかったので、「スゴイ、スゴイ」と言って励ましてくれ た。心の優しい人達である。
1997年11月2日 日 文化祭と商工祭へ参加して 今日の10時ぐらいから、役場でやっている商工祭へ行ってきました。杉の子園から車椅 子を押して役場まで行きました。 ナンダだ坂コンナ坂と乗り越えて、会場となる役場まで行きました。そこで、最初に出 会った物、僕の鼻をくすぐった物とは、お好み炊きの臭いでした。最近、僕の口から遠ざ かっていたお好み焼きが食べれるのです。 そんな事はほかっておいて、文化祭文化祭と思って展示室へ僕たち一行は、展示室へ向 かいました。展示室へ入って、一番最初に僕の目に飛び込んできたのは、作品ではなく、 ミニスカートをはいた女の子の細い足でした。それも、ほかっときまして作品を見学しま した。 僕の目を引いた作品は、陶芸の数々でした。変わった形の作品や変わった色使いの作品 が色々と出品してありました。美術クラブでも、こんな作品が作れると良いなと思いまし たが僕の力では作れないと思いまして、すぐに、あきらめまして次の作品展示場に行きま した。 そこからは、僕の興味が注がない作品ばかりだったので、前へ前へ行きました。今度 は、壁掛けの展示でしたから、ここも前へ前へ行きました。僕にとって、壁掛けの展示ほ ど嫌いな展示方法はありません。所詮健常者の目の高さ、車椅子に座っている僕たちは見 にくいのです。だから、壁掛け展示の所は見ようともせず、前へ前へ行きました。 そこからは、弟の作品や従妹のMiさんの作品を見て、展示会場を後にしてお好み焼き をTiさんと一緒に食べました。 障害を持ってしまった右手を、いかにして使えば良いか考えさせられた、文化祭と商工 祭でした。
1997年11月3日 月 柿の収穫 今日の朝食後、20分ぐらい立ってから弟が「お兄ちやん、柿取りやらんの。」と言って きたので、あわててクツをはきかえて、柿の木の下へ行きました。 僕の仕事は、弟が枝ごと柿の木を切るので、その柿の実の付い た枝をお母さんにわたす仕事です。弟が高枝切りバサミで切った 枝を僕にわたしてくれるのですが、僕の手が柿の枝にきたら、ハ サミの刃を開いてしまって、時々柿の実が固いコンクリートブロ ックに体当たりしてしまって柿の実がわれる事もありました。で も、ほとんどは女の子を抱き寄せるように両手で柿の実が付いた 枝を取りました。 一本の枝に、十何個付いている枝などもありました。でもこの 柿は今すぐ食べると口の中の感覚がなくなるほど渋い柿、渋柿なのです。だから、この渋 柿はかわをむいて天日干しにして、数カ月すると甘みが増してくるのです。
1997年11月6日 木 時々、友達に手紙を書いている。お父さんはそれの印刷を手伝わされることがある。今 日は2通の手紙の印刷をした。1通は女生徒へ、1通は男生徒だった。 女生徒への手紙は相変わらず(?)ほのぼのとした愛とか恋とかの意図を持った内容で ある。この年頃では普通なんだろうなー。 男生徒への手紙は、日頃「スミマセン」を連発するを注意された事への反省の内容だっ た。友達との触れ合いは結構あるのだな、と思う。
1997年11月11日 火 お父さんが帰宅した時には、お兄ちゃんの部屋に灯りがついていなかった。遂にダウン してしまったようだ。昨日からお母さんと兄弟2人が風邪気味だったが、お母さんに聞く と「37℃チョットあるんで、早めに寝たンヨ。明日も良くないようだったら休校して、文 化祭に備える事にした」と言う事である。
1997年11月14日 金 袋を伸ばして伸ばして二時間半 今日の職業の授業と係活動の授業の時は、あきもせず袋伸ばしをやりました。 最初の職業の時は、中学部の職員室へ行き「職業コースですが、袋の入ったダンボール 箱をいたたきにきました。」と言って、袋の入ったダンボール箱を膝の上に乗せてパソコ ン室へ行きました。 それが袋がむすんで入っていたので、Ki先生に結び目をほどいてもらって、僕は両手 を使ってしわの入っている所を丁寧に伸ばしまして、箱の中に入れました。グチャグチャ になっている袋は、左手を袋の中に入れまして袋を伸ばしました。この方法は、現場実習 粧で使った方法です。 こんな事をやった後、食事を終えて、今度は図書副会長の教室で袋伸ばしをやりまし た。M君もW君もシッカリ仕事をこなしてくれて、僕は助かってしまいました。こんな先 輩では、Oさんのような先輩になれませんかね。もっとシッカリしなければ、と思いつつ 教室へ帰りました。
1997年11月16日 日 養護学校の文化祭。 「浦島太郎」の演劇をやった。「最初からトラブルだったけれど、自分は上手く台詞が 言えた」そうである。どんなトラブルで始まったのか良く聞かなかったが...。
まさか、トラブルからの始まり、ストリーニュース 今日は、嫌な嫌なステージ発表の日です。衣装直しを被服室でして、舞台裏から上がっ てスクリーンに劇の始まりが出てくるはずだったのですが、スクリーンには何も映らず僕 たちの劇が始まりませんでした。 ウソだろ−、何でスクリーンに映らないの、汗と悲しみとお笑いがミックスした劇が何 で移らないのと思いました。NGを一杯出して先生方を泣かせた劇画が、なぜスクリーンに 映らないの。僕たちの劇は終わってしまうのかと冷や汗をかきかき止まった時間を待ちま した。 その間にも、ニュースキヤスター役のSさんが、何も写ってないスクリーンに話しかけ ていました。僕は思いましたね。僕たちと先生方のあの苦労が水の泡になってしまうのか と。 Sさんが、何度も何度もスクリーンに話しかけているとやっと写りまし た。僕の心は、あせりと失敗の予感で、舞台に上がる前から心は疲れてし まいました。でも、浦島太郎の場面ではみんなのお笑いを受けていたらし く、Mg先生が「お笑いを取っているわよ。」 と、言ってくれました。白雪姫も狼も笑いを誘っていたのです。最後に、 登湯人物ほか一匹の狼が舞台に上がり、ストーリーニュースは終了したの ですが、僕はKさんの後ろでXサインを出して終わりました。 今年の劇は、汗と疲れと苦労などなどが入り交じった劇だと思います。この色々な感情 が、運動会や学校祭のテーマの一つに当てはまるのではないかと、僕は思います。
1997年11月21日 金 6時頃「自宅から電話がありました」とのメモ。内心ドキッとしながら家に連絡をと る。「頭がボーとして、腹痛があり、お兄ちゃんを乗せて家に帰れるか心配だった」と言 うことである。「とにかく早く帰って来て!」と言う事なので直に帰宅。 帰ってみると「少し横になっていたらだいぶ良くなったみたい」。あまり会社に電話を してくる事が無いのにどうしたんだろう?、と思ったが...。ここの所風邪気味の状態が 続いていたし、色々な行事ややる事が重なって疲れが溜まってきていたのだろうナー。
1997年11月23日 日 ラジオを聞いていてカチンときた 今日、母屋で訓練をやっている時に信じられない事を大の大人が言っていたのです。そ のラジオの放送は、日曜討論と言う番組で、こんな話をしていたのです。 「来年の冬季オリンピックが長野県で開かれるけど、スキーの競技で自然を壊してやる みたいだけど、長野県の自然をオリンピックのために壊して、冬季オリンピックが終わっ てからまた作り直せばいいのじやないか。」なんて言っていたのです。 僕は、なんちゅう大人たちだと思いましたね。Fi先生のクラスが演じた劇のような事 になるのを防ぐために、人間の手で壊された自然は、完全なる死か、今日生まれた子が成 人しているか、女の子だったらお腹に身篭持っているぐらいの年月がかかるはずです。 それなのに、日曜討論のおとなたちは、気安く「作り直せばいい。」なんて言うから、 オイオイそんな事言って、本当にあんたら大人かいなと思いましたね。それに、日本全国 の人たちが今日の日曜討論を聞いていて、僕のような考えを持っていた人がいたらどうす るのでしょうね。全く、ちかごろの大人を信用して良いものかと思わせる日曜討論の話の 内容でした。
1997年11月26日 水 人生これから 今日の総合の授業は、Sy先生がみえないと言う事で、Mn先生が色々と話をしてくれ ました。「君たちが関養護学校を卒業したら、作業所で働いてお給料をもらったら、その お金は自由に使えるからいいぞ。」と、教えてくれました。 でも、僕が卒業して行く作業所の杉の子園は、お母さんの話を聞くと、水道管の袋ずめ をしてタンボール箱につめて7百円いくらの働きにしかならない、と言う事でしたので、 杉の子園は働いてお金をもうけるための所ではない事を知っているから悲しいですわ。 ほかには、自分と保護者と教育者の三角関係の事も話してくれました。「教育者が、こ ちらの作業所が良いと思いますけど。」と言っても、親さんが「あちらの作業所にしま す。」と言われれば「あちらの作業所にするしかないな。」「親の言う通りにしなければ ならないからな。」と、言っていました。 後二つは、Mn先生が働いていただいたお給料をアッと言う間に使ってしまった事や、 友達が就職をしているのに、Mn先生は大学進学の道を進んで、ずいぶん寂しい思いをし たみたいで「君たちには、こんな寂しい思いはさせたくないな。」と、僕たちに話してく れました。Mn先生は、普通の授業では学ぶ事のできない授業をしてくれたと思います。
1997年11月29日 土 お話で職業の授業がつぶれた感じ 今日の職業の授業は、お母さんとKi先生のお話でほとんどつぶれてしまいました。 なぜか、それは僕が毎回職業の授業で、だいたい詩を入力するだけで一年生のときと何 の変化もないのです。そんな僕の日記をお母さんは見ていて、「何か、変わった事でもや らせてやってくれませんか。」と、Ki先生に話していたのです。 そんな事を色々と話していました。それと「点字より音声の方が子供にとっては良いみ たいなんですけど。」と、お母さんが言いまして、お母さんはパソコン室から出て行きま した。 お母さんとKi先生のお話の中で、「去年は、子供以外は年賀状の作成をやっていたら しいのですが、今年は年賀状の作成を少しづづで良いので、教えてやってください。」 と、言っていたので、Ki先生が「O君、今年の年賀状はどんな言葉にする。」と言われ たのですが、県外の友達に四つ・・・。その四人の言葉を考えていたら、チャイムが鳴っ てしまって、何も考える事ができませんでした。早く言葉を考えないと次の職業の授業も また、詩を作るはめになるので、早く考えておきたいです。
1997年12月2日 火 今年は暖冬かなと思っていたが、師走に入ったとたんに寒波が襲来して、いきなりの 雪。昨日までの暖かさに慣れた身体に、この寒さはこたえる。 明日の登校、出社が心配。どうか道路が凍ったり、雪が降ったりしませんように...。
1997年12月13日 土 年賀状の言葉作りに手間取った 僕はパソコンを使って年賀状を作る事が不可能に近いので、年賀状にのせる文章をパソ コンに打ち込んでおけば、お父さんが絵や住所を打ち込んでくれるのです。 一番最初に書いたのは、障害者甲子園でお世話になった友達に書いたのですが、来年行 けるかどうか分りませんでしたので、文章を考えるのが一番難しかったです。 そんなもんで、考え抜いた結果が、梅と言う詩を書いて締めくくりの言葉を書いて終わ り。関養護学校の友達なら簡単に終われるぞ、と思ったのですが、そうも簡単に終わらせ てはくれませんでした。僕の詩の短文を入れ込んだりして何とか終わりましたが、先生と 地元の高校生たちの年賀状がなかなか終わる事ができませんでした。 しかたがないので、詩の短文をチョクチョク入れまして、何とか終わりましたけど、僕 の下手くそな文章に当てはまるような絵があるかどうか心配です。
1997年12月14日 日 お兄ちゃんが1人で障害者の人達の忘年会に参加。送り迎えはお母さんがやったもの の、こうした事が(ある程度だが)出来るようになったのである。 色々運動もやってきて「疲れたー」と言って帰ってきた。 帰ってきてからは、お父さんの年賀状作りとお兄ちゃんの日記が重なって、パソコンは フル回転。我が家のパソコンは良く働く?。
1997年12月15日 月 何もできない僕が、悔しくて悔しくて 今回からの総合の授業は、僕の耳に痛いほどです。 僕のできない事が色々と出てくるのです。僕の記憶しているのでは、簡単な調理が一人 で作れる、衣服のぬぎができるなどなど、僕が半分しかできない事が頭を並べていまし た。 僕は、その色々な問題を頭の中に入れまして、僕にはいったい何ができるのだろうと真 剣に考えてみました。服は、ぬぐ事はできるが着る事はできない、何もできないのが寝る 準備とふとんや毛布の後かたずけや簡単な調理です。 僕が、家で頭を抱えていても何も始まらないと言う事は充分承知しています。努力をす れば 僕の身に少しは付いてくれると思うのですが、僕がどれだけ自分の体に厳しく接す る事ができるかに決まってくると思います。
1997年12月19日 金 お兄ちゃんが毎日書いてきた日記(「ミラ日記」と言っている)を誤って消してしまっ た。相当なショックだったようだ。SAVEは7月中旬まで採ってあったが、それから昨 日までの分は学校に提出した「紙」で残っているものだけ。日記の中に一緒に書いていた 手紙や詩は無くなってしまったことになる。残念!!。
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「関養護学校U・中編」は以上で終わりです。
宜しければ続けて、
を読んで下さい。
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