戻る

艦船研究室

ここではアルファーストライクに登場する地球側艦船の原型を紹介します。

◆戦艦

扶桑級戦艦 1番艦竣工:1915/11/08
「扶桑」級は同じ35.6cm連装砲を6基12門も搭載しています。しかし、砲塔の配置は広範囲にわたったため、必然的に防御区画が増大し、重量増加と速力低下などの欠点がありました。また、弾薬庫が分散配置されたため攻撃力は最強の戦艦ですが、被弾してはいけない戦艦でもありました。
同型艦:山城

長門級戦艦 1番艦竣工:1920/11/25
竣工した後、長門級は20年近く連合艦隊の旗艦を勤め、大和級戦艦が竣工するまで連合艦隊の中核とみなされていました。そのため、戦力を維持必要があることから数次にわたる改装を行いました。
太平洋戦争海戦時、長門は旗艦として瀬戸内海にいましたが、翌年に大和が竣工すると連合艦隊旗艦の地位を大和に譲り、その後は大した任務に就くことはなく練習任務に使用され、戦争末期には横須賀に係留されていましたが、終戦直前に被弾してそのまま終戦を迎えました。この後、長門を接収したアメリカ海軍はビキニ諸島での原爆実験に長門を標的艦として使用し、水中爆発実験の5日後の深夜に誰にも見取られることなく波間に姿を消しました。
僚艦の陸奥は1943年6月8日に柱島泊地に停泊中、弾薬庫爆発事故によって爆沈しました。
同型艦:陸奥

金剛級戦艦 1番艦竣工:1931/06/01(巡洋戦艦竣工1913/8/16)

金剛級戦艦は日露戦争の後、「巡洋戦艦」として1913年8月16日に竣工した戦艦で1番艦「金剛」は当時世界最高水準の造船技術を持っていたイギリスに発注しました。当時世界で最大の主砲口径の35.6cm砲としました。また、主砲の位置も艦首・艦尾両方向とも4門の砲を向けることができるようにしてありました。日本海軍は2番艦「比叡」以降、国内の民間造船所で建造し、造船技術の向上をを図りました。

こうして完成した「金剛」級戦艦は当時最強の巡洋戦艦であり、また、同型艦4隻の部隊は世界最強の巡洋戦艦部隊でした。第一次世界大戦でドイツ海軍相手に苦戦していたイギリス海軍が「金剛」級の貸与を申し出てきたほどでした。
尚、1931年6月01日に従来の巡洋戦艦は「戦艦」に統合されました。

太平洋戦争ではすでに旧式化していましたが、日本戦艦で30kt以上の戦艦はなく金剛級はもっとも活躍した戦艦でした。

同型艦:比叡/霧島/榛名

大和級戦艦 1番艦竣工:1941/12/16
1934年末に開始された新戦艦建造計画で計画された「A-140」が「大和」の計画符号で、これは日本海軍が計画した140番目の戦艦という意味です。「大和」級は世界最大最強の戦艦として竣工されました。現在の日本では「戦艦」といえば「大和」が出てくるほど今更説明の必要もないほど有名な戦艦ですが、第2次大戦当時、軍によって国家機密となっていたため当時の日本国民はその詳細を全く知りませんでした。大和が民間人に広く知れ渡ったのは終戦後のことです。

戦艦は『対応防御』(自艦の主砲で砲撃されても耐えられる防御を施す)と呼ばれる考え方で作られており、そのため、「大和」級は46cm砲弾を防御できる装甲を施す必要があったのですが、艦全体に装甲を施すと重量が増大するため、「大和」級では『集中防御策』(船体中央部に位置する機関部や弾薬庫といった重要部分にのみ重装甲を施し、その他の船体前後部には軽装甲を施すに留める方法)が施されることになりました。そうした努力の結果、「大和」級は基準排水量64000tという重量に抑えられており、この種にしては高速である27ktを発揮できました。(航海試験では29ktに達しました)

「大和」級の艦首は「球状艦首」と呼ばれる構造になっており、現在の大型船ではその技術が今でも生かされています。
計画では4艦建造予定でしたが、ミッドウェー海戦で空母4隻を失ったため、3番艦「信濃」は空母に建造変更となり、4番艦「紀伊」は建造中止となりました。

同型艦:武蔵

紀伊級戦艦 1番艦竣工:建造中止
史実では長門級戦艦の後、紀伊級戦艦として計画されていましたが計画中止となり、その後大和級戦艦四番艦として建造予定でしたが、建造中止となりました。長門級戦艦の後の計画では4艦建造予定で紀伊/尾張/駿河/近江となる予定でした。
同型艦:紀伊/尾張/駿河/近江(史実では建造されていません。)