ニセコ生活の家
柳田良造 造景:1999
自主運営の福祉型コーポラティブ住宅
障害者とその家族、ボランティアらが隣り合って住む、小規模作業所を含んだコーポラティブ住宅「ニセコ生活の家」は、1997年11月に完成した。障害者の作業所を兼ねた生活寮1棟とその家族らが住む戸建住宅7棟の計8棟に、8家族が生活している。現在、障害者は6名(男性2名、女性4名)。各人の障害の度合いが重く、完全な一人立ちは難しいものの、自立を促すなどの目的から原則として平日を生活寮、土日祝日を家族の元で過ごすというスタイルを実践している。
「生活の家」は1983年、札幌市北区に開所した小規模作業所を母体とする。「家にこもるか、施設に入るか」、傷害を背負った人々の進路が極めて限られている中、障害を持つ子供を「家族ら身近な人々が、共同でケアしよう」という目的で設立された。開設以来15年あまり経過し、札幌では周辺が建て混んできて子供たちが伸び伸び過ごすには難しい環境となったことや、毎日の通所の不便さなどから、「雄大な大自然の中、皆が近くに住み、互いに支え合いながら、地域社会に溶け込んで暮らすこと」を考えるようになったのである。
ワークショップを通した計画づくり
結束力の強いコミュニティが最初からできあがっているのがこのコーポラティブ住宅の特徴である。そこで、計画づくりにあたっては、土地の使い方から始まって、建物の位置や間取りなど決めるのには、みんなが集まるワークショップでその方針を決めていった。敷地は町道から100mほど入った足下に小川を抱く小さな丘の上にあり、東西約30m、南北約100mの細長い土地である。議論した中で、家族たちがまずなによりも優先し考えたのは、生活寮のあり方であった。その位置について、生活寮を敷地の入り口に置く案、中央に置く案、北端に置く案が検討された。中央に置く案は生活寮が中心にあることの安心感、各家から寮への距離も均等で便利、機能的などのメリットをもっていたが、生活寮が敷地の入り口にあることのアピール性、日当たり、除雪の利便性、法人化した時の管理上の都合などが評価され、生活寮は入り口に置く案が選択された。その次のテーマは各住戸の配置であった。住戸も当初は集合形式であったが、それぞれの暮らしのことを考え、次第に戸建て方式に収斂していった。敷地からの眺めはすばらしく、蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山の全景が東側に、南には昆布岳、北にはアンヌプリと、ニセコの秀峰が敷地を囲む。建物の配置はこれらの山(羊蹄山、昆布岳、アンヌプリ)への軸線に向かって建てられることになった。戸建の住戸群と生活寮のつながりは、円弧の平面をもつ3つの雁木を介して連結されることになった。ニセコは豪雪地帯である。雁木は、冬の間の住戸のつながりを確保する重要な生活装置である。加えて円形の雁木は、輪の重なりが、生活の家全体のつながりをシンボル化することにもなった。
生活寮の個室の間取りや使い方、床下暖房とパッシブ換気システムを採用した室内環境の考え方、除雪、風雪や気候といった自然環境への対し方、樹木や川を含む周辺環境、共用部分の生かし方、など設計が進むに従い、ワークショップでは様々な議論を約一年間かけて煮詰めていった。
地域に開く
アイヌの古老による地鎮祭、大工さんや近所の人々に感謝の気持ちを持って開かれた上棟式、札幌からもニセコからもたくさんの人が参加した開所式、生活の家の竣工までの期間は、新たな理解者、支援者の輪が広がっていった時間でもあった。町長や近隣住民などニセコ町の面々、設計、施工期間を通してとことんつき合ったコーディネーターや、設計者、施工会社、生活の家は生活拠点を建設したと同時に、様々な人々とのつながりをつくっていったといえる。さらに竣工後も、見学者や来訪する人々を歓迎するだけでなく、バザーや餅つき大会、そして札幌の若いアーティスト達が参加したインスタレーションによるアートを通した交流など、地域に開く場を積極的に設けている。
生活の家は1999年4月に法人格を取得し、NPO法人ニセコ生活の家となった。新たに参加希望の2家族が生活の家を訪れ、話し合いを重ね、仲間にとけ込み始めた。増築工事も始まった。それに伴い生活寮の個室の増築、陶芸や木工に使える工房も増築することになった。
自立する場
生活の家の設計中、福祉の専門家に聞いた時、10年、20年後の運営を考えなければならないとアドバイスされた。親たちが年老いた、その時どうするか。組織のしっかりした福祉法人や公共からの援助体制をつくっておくことが重要であると。援助を求めるのではなく、理解者、支援者の輪を広げながら、自立する。制度への不満を口にするだけではなく、目標をもって日々充実して暮らす。完成して閉じるのではなく、つくりながら広げていく。年老いるだけではなく、若くいつづける。生活の家はそういう場をつくりあげつつある。