函館と小樽−住民の手の届く環境とまちづくりエネルギー


柳田良造

<まちづくりにおける調停機能>
地域で、まちづくりが進展し、成果が生まれるところまでいくのは単純なプロセスではない。場ができ、主体形成がはかられ、まちの像が可能性として共有化され、関係性が生じ、調停機能が働き、成果が生まれる。一つ一つのサイクルが螺旋状に動きながら、展開していく。そのプロセスは協同的、建設的であるとはかぎらない。時には対抗的、独善的、猜疑的であり、多様な主体が関わる動的な過程であるだけに、さまざまな葛藤、紛争を生じる。まちづくりは、葛藤や紛争、緊張関係を本質的に含んだプロセスである。しかしそれらの葛藤を契機として地域で大きなまちづくりエネルギーが育っていく可能性がある。
対立、葛藤、紛争に対し、地域でなんらかの調停機能が働き、その処理を当事者自らが取り扱っていくことが重要である。そのことを背負い解決することで、はじめて地域は多様で生き生きとした、豊かな環境を手にいれることができるし、地域が生き延びていく力を獲得することもできるのである。葛藤が解決されていく条件としては、ある種の精神的なゆとりや遊びこころ、余裕も必要である。ゆとりや遊びこころがあれば、葛藤にたいしてある種の下支えを提供し、抜き差しならない対立までエスカレートすることは少なくなる。まちづくりにおける調停の仕組みとは「妥協や補償」だけではなく、環境、他者との関係のなかでそれぞれが「自己実現」の方向をさぐることが基本となる。
地域での問題解決や活動グループの紛争の自己処理過程をとおして、結果として行政と市民の間だけではなく、様々な活動諸力との間に非制度的なパートナーシップがうまれ、さまざまな力を集め既存方法では解決できない地域の問題を解決していくところにまちづくりの意味がある。パートナーシップは制度化されたものや完成した仕組みとしてあるのではない、結果としてまちづくり過程の結果としてうみだされてくるものである。パートナーシップは参加を含みながらも、対等な関係を前提に、市民、行政、等諸力が共同して地域のまちづくり課題に取り組む非制度的、状況的な関係である。とくに地域がかかえる重大な問題、地域の諸力を結集しなければ解決できない課題に取り組む時、パートナーシップは社会性を獲得するといえよう。
函館と小樽は衰退した中心市街地、歴史的環境の再生を、紛争や対立を含む長いまちづくりの過程とともに進めてきた歴史をもつ。ここでは二つの都市の経験についてレポートしてみたい。

<函館:住民の手の届く環境>
函館は津軽海峡に突き出された函館山、それを要として扇のように拡がる市街地と巴型の港が街の骨格をつくる。函館山の北麓一帯にひろがる西部地区は、江戸末期に開港場として開かれ、戦前までは函館の都心としてにぎわい、洋風文化の伝統を今に伝える街並みを残し、中でも1階が和風、2階がペンキでカラフルに塗られた和洋折衷様式の町家群は函館独特のスタイルとなっている。港や坂道に沿ったその街並みは歩いて楽しく市民や観光客に親しまれているが、20年ほど前は都心の移転や地区の産業衰退により開発から取り残された地区であった。その保全・再生のまちづくりは、市民側の問題提起とそれを受けた行政側の施策が対抗しながらも相補的な役割を果たし、都市空間の整備や景観条例などまちづくりのルールを創りあげてきた背景がある。
地区が注目され始めるのは1970年代中頃、若いオーナーによるレストランや喫茶店、ペンションなど歴史的建物の商業的再利用が港近くや坂道沿いに誕生した頃からである。個々の例はいずれも創意工夫にとんで、魅力的な小スペースをつくりだし、人気を集めた。83年には地域の若者グループが事業主体となり、大規模なレンガ造建物の商業的再利用を展開した。このあたから行政側も地区の観光価値に気づき始め、地区を散策する路の整備にとりかかる。坂道の石畳舗装や街灯を整備していったが、自前の小規模な予算しかない時代で、毎年1街区づつ進めるというものであった。しかしすこしづつ小規模に整備していったということは街並みに対し、結果として好影響を及ぼすことになった。長い間放置されていた歴史的な建物が、前面の路の石畳整備をきっかけとして、所有者の自主的な判断によって、すこしづつ修理や修復がなされていったからである。
街並みの改善と路の整備がすこしづつ進んでいる中、88年は様々な意味で西部地区の街並み保存が転機となった年である。この年の青函博を契機に地区への投資が活発化し、ウォーターフロントの倉庫群の大規模な商業的再利用などがオープンする。西部地区の街並みが函館山の夜景や五稜郭などと並ぶ観光拠点として定着し、函館への観光入り込み客数も年間500万人を超える規模となる。さらにバブル期のリゾートマンションブームが函館に押し寄せ、歴史的な街並みや函館山山麓には、高層マンションが景観条例制定の前の駆け込み申請の例も含め、それこそ雨後の筍のように計画されることになる。こういうなかで景観条例がこの年施行される。この88年からの数年間は西部地区に景観をめぐる様々な問題がまき起こった。地区の外部からのリゾートマンション計画に対しては、地域住民の幅の広い住民の反対の声が上がり、一方地区の中でも、景観条例のそもそもの意味や基準の問題、商業的再利用を進める上では新たな制限になる規制の内容等について、個別にさまざまなケースで行政や市民を巻き込んで、論議がまき起こった。指定建築物の無届け解体や条例違反の建物などの例も生じた。一方暮らしの中で改めて歴史的な建物の意味を問う、市民グループによる街並み色彩研究の活動なども始まった。
混乱の数年間、西部地区では数えきれないほどの論議がなされた。その過程で予想もしなかったようなパートナーシップも成立した。住民、市民グループ、専門家、マスコミ、行政、議会など、地域の力を結集して、問題の解決に取り組むんだ時期といえよう。
眺望などの景観破壊を引き起こし、人が定住せずコミュニティづくりにつながらないなどの理由から、リゾートマンション計画にはまず地元から幅の広い住民の反対の声が上がった。そこへ従来から景観条例制定の運動などを進めていた市民グループが支援活動を行い、行政側も従来の枠をこえて取り組み、さらに議会でも全会一致で反対決議を行い、最後は市長も乗り出してデベロッパーと直接交渉するという共同戦線が成立し、最終的には重要な景観ゾーンでは建設をストップさせた。また民間所有の歴史的建造物の解体危機においては、行政側と所有者の深刻な対立関係の中に、市民運動がまちのWatch dogとして加わることにより、問題をより社会化した地平で考える状況をうみ出し、代替案を検討し、問題解決の方向をつくり出した。
一連の過程は行政側の学習機会ともなった。景観関係の公共事業で複数代案の検討や市民提案の要請とそれに基づく計画変更などのケースも生まれた。また景観施策もきめの細かい保全策を進めることになるが、その中の景観ガイドラインには、地域の建物の高さ制限だけでなく、主要な場所からの眺望や見通しの確保のため主要な道沿いに、ビジュアルコリドーのようなユニークな景観保全面の考え方も導入されることになる。主要な問題が解決され、バブルをめぐる動きも収まった93年頃には景観問題関連の議論も落ち着いてくる。これらの論議の過程というのは、街並み保存のルールが地域に根付く時間でもあったといえるであろう。
都市活動を行う中には様々な価値観をもつ様々な人々がいる。地域の環境に対して地域と異なるシンボル的意味をとらえ、例えば、経済的なチャンスとみなす、あるいは別なシンボル、企業や個人の主張の実現の場と考える。そうしてそれらの力が地域に様々に働く。その力が大きければ、住民にとっては外からの得体のしれない力で、まちが変えられていく、そういう意識がうまれるであろう。そういう状況に対し、住民が自分たちの住むまちを自分たちの手の届く環境としてとらえられるかどうかはまちづくりとって大変大きな条件のように思う。函館の西部地区の街並みが、バブル期に外部の資本による高層マンション建設により大きな改変を受けようとした時、立ち上がった地域の様々な主体、その共通の思いは地域の環境や風景を、「市民の手の届くところのもの」として、見えない外部の力から守れの思いであった。

<小樽:まちづくりエネルギー>
まちづくりにおける「像」とは地域のまちづくりエネルギーを凝集できる対象で、物的環境のあるべき姿を示したものといえる。「場」は地域のまちづくりエネルギーを発生、共有、増幅させる社会的環境で、人と人の関係で成立するものである。函館と比べると、小樽のこの四半世紀のまちづくりの動きは圧倒的にドラスティックで、大変なまちづくりエネルギーを感じるものである。
1970年頃には戦前「北海道のウォール街」と呼ばれた小樽の都市銀行の各支店はほとんどすべて札幌に移転し、カラッポになったかっての業務街色内通りや小樽運河周辺はゴーストタウンのようになる。その後埋め立て問題をきっかけに小樽運河保存の市民運動が起こり、斜陽都市からの再生をめざしたまちづくり運動として展開する過程は、改めて言うまでもない。結果は道路計画を一部変更して、小樽運河を残すことになり、かなり姿は変ったが、周辺の歴史的街並みと合わせ、その後商業的な再開発が進むことになる。石造倉庫の再利用や運河地区への投資が始まるのは、運動も終結し、道路が完成した87年以降のことである。丁度バブル期の観光ブームとも重なり、小樽の歴史地区の活性化が文字どおり堰を切ったように猛烈な勢いで進む。小樽はそれまで観光都市としての経験がほとんどない状態であったが、運河や石造倉庫は突然全国区の観光スポットとして注目を集め、商業的利用のため市外から資本の投資が殺到する。ガラス、レトロ、オルゴール、グルメなど時代にフィットしたキーワードが次々と打ち出され、ゴーストタウンのようであった街並みが、ショップや土産物、ホテルや飲食店街に変わり、狭い道路には観光客と車があふれた。92年には観光入り込み客数も500万人を超え、函館と肩を並べる観光地となる。斜陽小樽のイメージは大きく変わる。
運河論争が閉幕して十年の時間がたつが、現在の街は当時の保存派、道路開発派、いずれの想像を超えた小樽の街の姿かもしれない。保存派から見れば、運河が市民の集まり憩う場ではなく観光客に占領されたしまった姿や、歴史的街並みのあわただしい雑踏や土産物店の立ち並ぶ姿は、想像を超えたことであったろう。また道路開発派から見れば、運河や街並みがこれほどの集客価値をもつとは予想をこえたことであったし、港湾道路や幹線沿いを土産袋さげた観光客がぞろぞろと歩く姿は想像できなかったことであろう。まちづくりは時代の流れを背景に、地域に住む様々な人間が登場し、演ずるドラマである。時代の価値観や課題によって、登場する人物が交代し様々な劇が演じられていく。小樽のまちづくり劇は、運河論争の第一幕が保存派、道路開発派の対決であったとするならば、その後のまちの変貌劇の第二幕は商業派のひとり舞台のようである。
運河の変貌当初はあまりの急激な開発と観光化のため、街の未整備や混乱、行き過ぎのアンバランスな状況が続き、ブームも一過性のものかと心配された。しかしその後も不況にかかわらず、観光客の数は減らずリピーターも増え続けている。なにより地区には常にエネルギーがあふれ、新しい店やスペースがつぎつぎとオープンし、来るものを楽しませる力がみなぎっている。運河や歴史地区の整備も進み、ここ2、3年で地区の都市空間の質も向上した。また運河地区のエネルギーは街の中心部にも波及し、商店街なども以前とくらべてはるかに元気になった。小樽の市民の自信回復にもつながった。
この大きな小樽のまちづくりや改造のエネルギーは一体どこから生み出されたものであろうか。確かに開発がブームを呼び、時代の流れも後押ししている面は大きいが、しかし大半のエネルギーは運河論争の十数年間に蓄積された地下のまちづくりエネルギーのような気がするのである。論争自体は最後まで対立が続き、政治問題ともなり、その結果10年以上の間運河の環境は全く整備されなかった。しかしその分運河論争の水面下では、大地震が地下でエネルギーを蓄積するように、その後まちづくりを進める大きなエネルギーが蓄積されていったのである。貯められたエネルギーはその後一気に放出される。小樽運河とういう<像>に結集したまちづくりエネルギーは運河が一部変わってしまったことなど、はるかに飛び越えて、奔流のように溢れでていくのである。
まちづくりエネルギーを蓄積する要因は運動過程に様々に用意されていた。1978年運河や港に共感を寄せる祭り好きの小樽の若者達が、将来の夢を具現化するために運河を舞台に手づくりの祭り、ポートフェスティバルを行った。運河沿いには何十店もの市民の手作りの出店が並び、運河に浮かぶはしけや港の空き地ではロックコンサートが、運河沿いの石造倉庫もはじめて開放され、シンポジウムやジャズコンサートの場となった。20年後の現在、レストランやショップに数え切れないほど再利用されている運河沿いのなどの石造倉庫再生の出発点となった試みであり、祭りは2日間で延べ20万人以上の人を集めた。運河に圧倒的な人が集まることを実現化したこの祭りは、一瞬とはいえ「保存か道路開発か」の対立を忘れさせる開放感を、運河に集まった人々にかいま見させた。その反響も大きく、以後小樽運河問題は一層全国的にも注目されるようになる。道路開発派も運河や石造倉庫の「価値」や「可能性」を認めざるをえなくなり、運河の全面埋め立てから、一部水面を残す現計画への変更につながっていく端緒となったのである。こういう環境学習型イベントは、ポートフェスティバル以外にも小樽運河研究講座など、運動のなかに多彩に繰り広げられていったが、その中にその後の展開を生み出すまちづくりのエネルギーが蓄積されていったのである。
長く続いた衰退の時代から小樽というまちは姿を大きく変えた。そのなかでも商都小樽と小樽商人は、卸売りや金融、流通で失った力を、運河観光を手がかりに、再生の糸口を見いだしつつあるのかもしれない。現在、中心商店街から離れた港の旧鉄道ヤードには、北海道でも最大の商業コンプレックスの建設が進められようとしている。今後小樽のまち、特に中心市街地は激しい変化にされされることになろう。運河論争後、主だったまちづくりの争点や活動がなかった市民まちづくりの動きも、市民グループや商店街が手を結び、新たな小樽のまちづくりの方向を模索し始めたと聞く。これからの小樽のまちづくりの第三幕こそは多様な人物が登場し、共通の場を介した議論やパートナーシップが成立して協同性に支えられたまちづくり劇が成立することを期待したい。

<生きられた風景>
函館西部地区の魅力は、なによりも生活感のある歴史的街並みである。それは観光用の見せ物のような街にはない暮らしのにおいである。生活感は幅広い層の住民がいてこそ、かもし出される。しかしその幅広い住民は、この20年間で51、943人(1975年)から29、145人(1995年)に、ほとんど半減した。地区の高齢化率も23、9%と、市内のなかでも飛び抜けて高く、現在地区住民の4人にひとりは65才以上の老人である。建物の老朽化、空き家や空地の増加、さらに地元商店街の不振など、かかえる問題は多い。20年前と比較すると、街並み保存のルールは地域に根付き、主要な街路や広場は石畳に整備され、歴史的な建物は修復が進み、地区の街並み景観は十分に整備されたのだが、居住地として地区のコミュニティは衰退し、いまやあやうい状態となったのである。この間の日本の都市の、中心市街地の空洞化の流れから、函館西部地区ものがれることはできなかったのである。
西部地区は住宅地としてのイメージがよく、魅力的な公園や図書館、博物館、病院などの公共施設も多く、地域全体が文化ゾーンの印象がある。ここに住みたいという人は昔から多く、いまも人気は高い。バブル期のリゾートマンションブームもその証左のひとつであろう。もともとこの地区の住宅形式にはお屋敷型と上下和洋折衷様式の建物や長屋という町家型の二つのタイプがあった。函館の歴史的環境の保存が言われだした頃から、住宅地としての機能を保持するため幅広い住民の住める住宅を再建することの重要性は指摘されてきたし、町家型住宅の再建や共同建て替えなどの構想もつくられている。ニーズがありながら、実際はこの地区の住環境整備は進まず、長屋などの狭小老朽化した住宅からはどんどん人口が流出していった。その原因として小さな敷地割りや複雑な地権者の問題から、個別の建て替え更新が難しかった面と公的な住宅政策として施策が立てられなかったこととともに、この地区の環境にあった住宅形式の開発がなされなかったことが挙げられよう。
しかしようやく地区にも新しい風「西部地区に住まうための試み」が吹きはじめてきた。今年弥生町で建設が進む新しい形態の市営住宅や、「函館からトラスト」の助成をうけて地元の住民や建築家達が進めているコーポラティブ住宅づくりの動きが、西部地区の住環境再生のきっかけになるのではないかと期待されているからである。そのデザインには坂道や直行する平坦な路、路地という地区の街路のヒエラルキー、高さや幅などの建物のスケールやスカイライン、隣との関係やパブリックなスペースへの視線、港や函館山への眺望という西部地区の環境で暮らす住居のための要素や視点が考えられはじめている。
風景を通して、市民が街のありようや変化を感じとり、日々の暮らしから街への思いをめぐらす。そこでは、街の風景の変貌は敏感に市民の日常生活での変化につながる。函館西部地区にはまだ、市民が街の風景とともに暮らす生活が存在している。新しい形態の市営住宅のデザインにも市民はビビッドに反応している。
20年前、衰退した歴史的環境の中に若い人達の手で地区にあかりを灯すように歴建再利用の店がポツリ、ポツリと誕生し、それをきっかけに、点が線につながり、線が面として街並みの整備が進んでいったように、今うまれつつある新しい形式の住宅づくりは、地区のなかに拡がっていくだろうか。20年の時間がまた必要となるだろうか。西部地区の住環境の再生が今後も函館の市民、行政のパートナーシップが機能しつつ、進んでいくことを祈ってならない。