北海道の都市の類型化と変遷


柳田良造

 優れた都市環境デザインの例を収集し、ガイドマップをつくろうという企画があって、北海道の諸都市を類型化し、眺め直すという機会が最近あった。
 都市形成の歴史と地理的条件から4つのブロックに北海道の諸都市を大きく分けてみた。
最初のブロックは日本海岸沿いにある都市群である。北海道では最も早く開発が進んだ地域で、南から函館、松前、江差、余市、小樽、留萌、北の端が稚内である。江戸期に松前藩の根拠地であった松前、幕末に開港場として開かれた洋風文化の街函館、ニシン場として有名な江差、日露戦争後商都としてのしあがる小樽、樺太交易で栄えた稚内などの諸都市である。戦後、北方との交易の途絶、ニシンなど漁業の不振、石炭積み出しの縮小、物流の太平洋岸への移転、商業機能の札幌への集中など、このブロックの都市を支えた構造はことごとく変化し、いずれの都市も衰退をよぎなくされる。特に小樽の衰退はドラスティックで、1970年頃には戦前からあった都市銀行の各支店がほとんどすべて札幌に移転し、カラッポになったかっての業務街色内通りや小樽運河周辺はゴーストタウンのようになる。その後埋め立て問題をきっかけに小樽運河保存運動が市民運動として起こり、斜陽都市からの再生をめざしたまちづくり運動として展開する過程は、改めて言うまでもない。この小樽運河問題を契機と し、日本海岸沿いにある都市群は戦前までにに蓄積した都市ストック、歴史的遺産を再利用する街並み保存と観光での振興を、まちづくりのひとつのテーマとして見いだしていくことになる。
 第二のブロックは明治に入り開拓が海岸線から内陸に進み、道央部に位置し北海道開拓の首都として誕生した札幌と軍都として発展した旭川、空知の石炭都市、夕張、美唄、三笠、赤平と、製鉄の室蘭、製紙の苫小牧、酪農の江別等の産業都市からなる都市群である。このブロックも戦前までは国策と合致し、それぞれに発展していったが、戦後になるとドラスティックな地域構造の変化が生じる。札幌が農村地域などから人口を集め、政治・経済の中心として北海道の中で図抜けて成長し大都市になる一方、空知の石炭産業都市群は国のエネルギー政策の転換以降、解体状態になり、いたるところにゴーストタウンが出現する。また室蘭などの工業都市も重厚長大型産業を抱え、長い停滞過程にある。
 第三のブロックは明治中期以降日高山脈を超えて、道東に開発が進み、十勝平野の農の拠点として誕生した帯広、薄荷の集散地として成長した北見、港、漁業の拠点として発展した釧路、オホーツク海沿いの根室、網走、紋別などの港町のからなる都市群である。北海道の最大の存立基盤ともいうべき大規模農業を支えるゾーンであり、広大な平原の中にひろがる都市と田園の風景は「最も北海道らしいイメージ」の景観をつくりあげてきた。このブロックも戦後は農業形態のあり方において大きな変貌をとげたが、地域構造自体に与える影響は第一、第二ブロックほどではなく、比較的安定して発展してきた。しかし現在自由化の波が確実に押し寄せ、今後地域の経済、社会構造がどのように変わっていくか予断を許さない状態になっている。
 第四ブロックがここ20年ほどの間に新しく開発されてきた山岳部の観光・リゾートのゾーンである。トマムのように全くゼロの状態からリゾート都市をつくりあげようとしているところや、富良野、美瑛、ニセコなどのように農業の地域核に観光開発をつけ加えることで新しい都市をつくろうとしているところがある。このブロック開発が新しく、様々な人の交流もあり、過疎が進む農山村のなかでは、比較的活力を保っている。自然環境の保全と開発の調和がこのブロックの課題である。
 都市の風格づくりの尺度は1世紀と言われる。都市形成の歴史から見た北海道の都市の特徴の一つは、約一世紀半の北海道の開拓と都市づくりの間に、都市の誕生から、成長、発展、衰退、解体までを短いサイクルの中に走馬燈のように見ることができることである。役割を終えてしまって変貌した都市。新たな役割を見つけた都市。役割を持続している都市。ソフトランディングし、地域の厚みをつくり、風格をもつにいたっている都市がある。反面、都市の風格づくりにいたる前に解体、消失しかかっているまちもある。
改めて見渡してみて、北海道の諸都市が、多くのまちで斜陽からの脱出、解体から蘇生をテーマに再生を考えていかなければならなくなっていることに驚く。

小樽と函館
 私自身、1970年代から都市やまちづくりに研究や仕事として係わるようになって20年ほどがたつが、その時間のなかでも、一つの都市の大きな時代の転換のようなものに立ち会ってきたように思える。
 小樽、函館いずれも衰退した港湾都市が再生に向けて進めたまちづくりであるがその過程や方向はかなり異なる。
 小樽は1973年から約10年まちを二分し、小樽運河と石造倉庫群の保存と道路問題をめぐる激しい運河論争を経験した。結果は道路計画を一部変更して、小樽運河を残すことになり、かなり姿は変ったが、周辺の歴史的街並みと合わせ、商業的な利用が進んだ。その後爆発的な観光ブームが押し寄せる。それまで小樽は観光都市としての経験がほとんどない状態であったが、いきなり運河や石造倉庫が全国区の観光スポットとなったのである。運河や歴史的街並みは衰退地区から、観光や商業的利用のため市外から資本の投資が殺到し、ゴーストタウンのようであった街並みが、ガラスショップやオルゴール店、土産物や飲食店に変わり、狭い道路には観光客と車があふれた。斜陽小樽のイメージは確かに変わった。
 まちづくり運動はまず、小樽運河という都市の最も代表的な風景を、その風景が変わろうとした時、地域の社会的シンボルとして市民が再認識したことから始まったといえよう。その風景がまちの顔であり、地域で生きるうえで掛け替えのない存在である。しかしそのまなざしは放置された運河や石造倉庫群の姿にむけられた郷愁にとどまることはなかった。水辺と歴史的街並みが一体となった魅力的な場、日本の都市が失ってきた潤いのある環境を小樽のこの場でこそ回復することができる、その「環境の可能性」に、市民が気づたのである。潤いのある環境をてがかりに小樽の新たな都市像、未来のまちの姿を構想し、都市の再生を進めることができると。
 運河論争とは、衰退するまちの再生を目指す市民の地域復興の運動であり、文化遺産・小樽運河の保存をめぐる地域の新しいまちづくりのあり方をめぐる「まちづくり論争」であったと大きくは総括できよう。しかしまちの世論、まちづくりの方向については大きな対立があった。市民運動派の主張が運河の可能性や小樽の未来のまちづくりに向けられた夢であったとするならば、道路開発派の主張はヘドロのたまり汚れた運河の姿に象徴される、衰退する地域に向けられた不満やあせりが根底にあった。港湾機能の強化や道路整備など現実の整備こそが急務というものであった。夢と現実では争点はかみ合わず、対立ばかりが強調された。
今からふりかえって思うに、運河論争の最大の問題は調停機能の欠如でなかったかと思う。まちづくりにおける調停機能とは実際の調停者となる人物や組織をさすだけではなく、実際の環境を改善する事業や活動を含むものである。まちづくりの論争過程で、環境自体が改善され変わっていけば、論争の条件や内容が変化して、利害の一致点や共通の土俵が成立するが可能性が生まれるであろうし、その過程で調停者となる人や仕組みが育っていく場合もある。しかし論争の十年間、まちづくりの実利派は登場せず、運河の環境は全く変わらず、放置されたままであった。もし、その間に運河の水質ぐらいは改善され、石造倉庫の再利用も部分的に進み、その結果観光客もある程度増えるようになっていれば、市民運動派の主張が全くの夢ではないことが、小樽の市民にもっと現実のものとして理解されたことであろう。
 唯一可能性があったのが、1978年保存派の若者達が、将来の夢を少しでも具現化するために運河を舞台に行った手づくりの祭り、ポートフェスティバルである。運河沿いには何十店もの手作りの出店が並び、運河に浮かぶはしけや港の空き地ではロックコンサートが、運河沿いの石造倉庫もはじめて開放され、シンポジウムやジャズコンサートの場となった。まつりは2日間で延べ20万人以上の人を集めた。運河に人が集まる可能性を実現化したこの祭りの反響は大きく、以後小樽運河問題は全国的にも注目されるようになる。開発派も運河や石造倉庫の価値の一部を認めざるをえなくなり、計画変更につながっていく端緒となるのである。しかしこの試みもイベントでとどまった。
 小樽運河保存の市民運動は理念としては広く共感を得ていった運動であったが、まちづくりとしては地域では最後まで孤立した運動だったかもしれない。理念として主張された運河保存の市民運動は、埋め立て道路問題に一定の結論がでた後、その存在意義を終えた。存在基盤を失った運動は、次第に終息し、市民運動派は運河から退場していく。
運河論争が閉幕して十数年たつが、現在の街は当時の市民運動派、道路開発派、いずれも想像できなかった小樽の姿のような気がする。なにより登場人物がまったく変わってしまったように思う。運河論争の第一幕が市民運動派、道路開発派の一騎打ちであったとするならば、その後のまちの変貌劇の第二幕は商業派のひとり舞台のように思える。運河論争が終わって、登場人物のいなくなった舞台に外から商業派が登場し、それぞれかってに独自の歴史イメージを描いて演じている劇のように思えるのである。市民運動派が運河から退場したことは、運河が市民のほとんど登場しない観光客だけの舞台に変わっていくことでもあった。小樽運河というまちの顔であるシンボルで演じられる舞台としては、これでは全くの役者不足であり、劇はしらけてしまう。

 函館の場合、函館山麓の西部地区の街並み保存の動きは小樽運河の運動と同様に、1970年代後半市民グループの問題提起で始まった。旧渡島支庁舎(明治42年)という元町公園に建っていた歴史的建造物が、札幌にある北海道開拓村の移築されることに対し、現地保存を訴えた問題が発端となった。運動はチャリティパーティやシンポジウム、独自の歴風文化賞を設けたりと、函館市民の歴史的環境に対する意識の啓蒙運動として展開していった。この市民グループとその周辺には中にさまざまなタイプの市民や事業者がいた。あるグループは街並み保存を世論に訴え、行政側に歴史的景観条例制定の制定をアピールをする。若者グループは、西部地区に自分たちのライフスタイルにあった場をつくりたいという思いから、歴史的建造物を再利用した商業施設をつくり、工夫こらして地域住民に支えられながら一緒になって育てていく。その後これらのメンバーの何人かが合流し、リスク覚悟で、保存が危ぶまれる規模の大きい歴史的建造物の再利用を先駆的に事業化していった。その間行政側は坂道などの街路の石畳舗装などを行い、住民側の行う建物の改修と呼応するように、通りの街並み全体の環境改善を進めていった。 
 1988年、西部地区歴史的景観条例が制定されるのであるが、その前後からバブル期の高層マンションによる景観破壊や指定歴史的建造物の取り壊し問題、函館山や港のモニュメントの建設をめぐる問題、ウォーターフロントの開発の問題等、西部地区の街並み保全やまちづくりをめぐって様々な問題や紛争が押し寄せることになる。この時点で西部地区の街並み保存運動は約十年の蓄積をもち、人材が育ち、市民意識や行政内部の姿勢など、かなり耕されていた。高層マンションによる景観問題では住民自らが立ち上がり、議会の支援も得て、行政側に様々な緊急対策をとらせるにいたり、街並みの危機を最小限の被害で乗り切った。また指定歴史的建造物の取り壊し問題では、市民グループと行政が共同の監視体制をつくったり、代案を提示したりしながら問題解決にあたった。一方木造の小学校校舎の保存問題では逆に行政側が市民グループに解体差し止めを請求されたりした。その間、元町倶楽部という市民グループは、専門家と共同で西部地区の街並みの色彩研究を行い、住民にとっての街並みの意味を再認識するための活動を行った。
 その過程は住民、市民グループ、行政、専門家が固定した役割を担うのではなく、行政の担当者が時には市民グループの活動家であり、反対運動の住民が審議会のメンバーであり、景観条例の技術的な検討を行う専門家が市民グループの活動を行い、独自に代替案を提示するという、立場を超えて共通の土俵にたちオープンに議論できる場が成立している過程であった。そこから制度化されていない、自然発生的なパートナーシップが機能し、たとえ紛争になっても調停機能が様々に働く仕掛けをまちづくりのプロセスの中に内在させていったのであった。そのことは西部地区の街並みが、市民の手の届くところにある対象として、風景を通して、市民が街のありようや変化を感じとり、日々の暮らしから街への思いをめぐらす。街の風景の変貌は敏感に市民の日常生活での変化につながる、そういうものとしての街並みを存在させる基盤とつくりだしたのである。
 1993年7月「公益信託函館色彩まちづくり基金」(愛称を「函館からトラスト」という)が誕生した。市民運動が委託者となって設定された全国でもはじめてのまちづくり公益信託であった。公益信託とは基金を委託者から受託した信託銀行が財産を運用し、収益をまちづくり活動の支援などの公益活動に提供する制度である。活動がスタートして約3年半がたつが、その間計13件の助成がおこなわれている。その主な活動を紹介してみよう。
●歴史的な下見板建築のペンキ塗り替え活動
 下見板張りの町家のペンキ塗り替え活動は、北大の学生グループの提唱でスタートしたもので、老朽化が進み、メンテナンスも十分でない歴史的な建物の外壁をボランティアで塗り替え、行政の保全策の及ばない一般の歴史的街並みを保全していこうとするものである。その後函館の工業高校の学生のボランティアの参加もあり、昨年は延べ40人の学生が参加し、街並みレベルでの建物ペンキ塗り替えに、活動が広がりつつある。ペンキ塗り替えはコンピューター・グラフィックスによる色彩シミュレーションで、塗り換えの色を建物の持ち主と一緒に考えることから始まり、作業は足場を組んだあと、夏の週末の2日間に一気に行われる。ペンキ塗り替えが行われる建築は、観光とも縁のない普通の生活の舞台である。地区の過半を占めるこれらの建物は急速に老朽化、所有者の老齢化が進行している。ペンキ塗り替えが地区の忘れられようとしている建物へ、お年寄りの所有者が若いボランティアに刺激され、もう一度愛着を取り戻す契機を生み出しつつある。その他にも、●市民の足となっている市電車両のペンキの塗り替え活動や、●衰退した商店街の再生へのプランづくり、●市民による函館の観光施設と街並みの景観調査、●奥尻地震で大きな被害を受けた歴史的建造物(旧海産商同業組合開館)の修復事業、●元町地区の古い住宅地での住民と一緒に地域の生活環境を考えるワークショップの開催など、様々な活動が展開されている。
 いずれも助成額は1件あたり20万円前後と少額であるが、年2回開かれる夏の中間報告会と3月におこなわれる最終報告会では、各活動団体とも非常に中身の濃い活動を発表し、出席している運営委員や事務局のメンバーを驚かせることも多い。まちづくり公益信託からうまれつつある市民の活動は市民サイドで自主的にまちづくりのテーマを設定して市民が自ら考えて楽しみながら行動する、能動的かつ非義務的な活動が特色である。
 小樽運河の場合のように、市民のまちづくりというと、なにか切実な課題や反対運動につきうごかされ、やむにやまれず立ち上がるというタイプの活動が多かった。そのなかで、函館の西部地区の街並み保存をめぐるまちづくりのプロセスは、結構重い経済問題を抱えながらも、気にいった環境で、仕事であれ、ボランティアであれ、個人のそれぞれの思いの自己実現をめざす、のびのびとした活動を原点としたものであった。その各自の思いを原点にまちの風景というシンボルのもと、共通の場でオープンに議論しあい問題を解決していく、まちづくりのパートナーシップを生み出していったのである。
 小樽でも運河論争後、主だったまちづくりの争点や活動がなかった市民まちづくりの動きも、市民グループや商店街が手を結び、新たな小樽のまちづくりの方向を模索し始めたと聞く。協働の試みとしてのまちづくりがもう一度、小樽で花開くことを期待したい。