ペン・ヤード開発構想における高速道路問題


柳田良造

本研究は、ニューヨーク・マンハッタンに残された最後の大規模開発といわれるペン・ヤード開発をめぐる市民参加型のプランニングプロセスのなかのアーバンデザイン的課題を明らかにすることにある。すでに関東支部発表での研究選集1)においてペンヤード地区の概要、開発構想の歴史、計画案の流れと合意形成の課程を報告した。ここではその2として開発計画の大きなテーマのひとつとなった高速道路の移設問題、地域幹線道路、街区道路のパターンなど、街路をめぐる問題について述べる。
1.地区の位置
ペン・ヤードは1970年の中頃までは鉄道の操車場として使われていた約22haの空き地。マンハッタンの中央部、ハドソン川に面し59丁目から72丁目の間、北から延びてくるリバーサイドパーク2)とリバーサイドドライブ3)が丁度とぎれる位置にある(図1)。現在、敷地の東側境界上にはアムトラックの線路が走り、西側の川岸には高架でウエストサイド・ハイウェイ(高速道路)が南北に通過している。(図2、3)
2.ペン・ヤード開発構想における道路問題の位置づけ
1991年に行われたペン・ヤード開発をめぐるワークショップの報告書4)によれば、ペン・ヤード敷地をめぐっては16件5)の開発構想がつくられている。既存の高速道路を将来的な計画のなかでどう扱うか、リバーサイドドライブの延伸、区画街路と周辺のストリートの関係、大規模公園(水辺のオープンスペース)の確保の視点から15件の開発構想の内容を分析したのが図4である。

3.主な開発構想と道路計画の内容
●ロバート・モーゼ代替案(1974年)
高速道路を内陸側地上部に移設し、ウォーターフロントに面し大規模な公園を確保する構想が最初に形になるのは1974年の「ロバート・モーゼ代替案」と呼ばれる構想からである。ロバート・モーゼは有名な都市計画家で、1950年、60年代のスクラップアンドビルド型の都市再開発の黒幕といわれる人物であるが、ここでは90年代に市民代替案として打ち出される構想に類似した案を打ち出している。1973年頃、ペンセントラル鉄道は倒産し、ペン・ヤードは遊休化する。「ロバート・モーゼ代替案」は跡地の再開発案として提出されたものである。一方ペンヤード敷地は公共の州と市が優先買い取り権をもっていたが、74年にニューヨーク市は財政危機に陥り、この敷地の買い取り権を行使することはなかった。75年にD.トランプが敷地の購入権利(オプション)を取得し、「トランプ・オーガニゼーション第1次案」を発表する。内容は「ロバート・モーゼ代替案」と同様に高速道路を内陸側地上部に移設し、ウォーターフロントに面し20エーカーの公園を確保し、敷地の東端に5000戸の住宅を建設する構想であった。77年に高速道路を河岸部の現在位置にキープした修正案「トランプ・オーガニゼーション第2次案」を提出するが、78年になり構想を放棄する。
●パーク・シティ計画(1978年)
78年に当時エール大学の大学院生のデービッド・スパイカー(90年のAIAニューヨーク支部のペンヤードをめぐるタスクフォースのメンバー)のパーク・シティ計画が自主提案として、提出される。その構想内容は以下のようなポイントからなっている。
1).ハドソン川の上流から延々と連なるリバーサイドパークを59丁目まで延長し、ちょうどセントラルパークの南端にそろえ、アッパーウエストサイド全体を緑で包み込む形にする。
2)アムトラックの線路上にリバーサイドドライブを延長することにより人工地盤建設コストを押さえる。
3)内陸部から新リバーサイドドライブまで既存の街区パターンを延長する。
4).市民のレクレーションの場、79丁目のマリーナと類似した水辺をつくる。
5)ウエストサイド・.ハイウエィは岸辺の地下に走らす。
という内容であった。
ここで述べられている、リバーサイドパーク、リバーサイドドライブの延伸ということについて、その内容をまとめておきたい。
リバーサイドパークは1873年にセントラルパークの設計で有名なF.L.オルムステッドの設計で建設がはじまり、1885年に西129丁目までのびる。さらに1937年にC.L.ロイドの設計で鉄道の上を覆うように拡張され、現在の姿になる。マンハッタンの西端ハドソン川縁を北の端から南下し、西74丁目のペンヤードの敷地の北端の所まで約3マイル(約4.8km)の長さがある。リバーサイドドライブはリバーサイドパークの東を緩やかな曲線を描いて延びる道路で、道に面し高級な集合住宅が建ち並ぶ。
計画はこのリバーサイドパーク、リバーサイドドライブをペンヤードの再開発に合わせ、南に延伸するという構想を基礎にしたものである。
●リンカーンウエスト計画(1981年:ビニョリ/グルーゼン)
80年代に入ると、ニュ−ヨーク・マンハッタンが開発ブームがわくが、ペンヤード開発の特に、統一土地利用審査(ULURP)の承認を通過し事業化の一歩手前までいったリンカーン・ウエスト計画や巨大開発のトランプ・シティ計画などは敷地の中だけの効率的な利用を考えたデベロッパーの開発利益優先の構想となる。その後90年代に入るとまた時代が転換し、周辺の文脈や環境を考慮したアーバンデザイン的取り組みが進むことになる。
1)既存街路パターンを人工地盤のうえに延長。グランドブールバァードから東側に既存スケールと整合する中低層を配置。なお人工地盤は川岸に近ずくにつれ高さを下げる。
2)ハイウエイは現状維持。
●トランプシティ計画(1990年:クーパー)
1)世界一の高層ビルと総面積172万m2の巨大開発。
2)高速道路については、現状(川沿い高架)通り。
4.ペン・ヤード開発計画と高速道路問題
 ペン・ヤード開発計画と高速道路問題の関係を具体的な計画課題としてとりあげ、移設スタディを行ったのはトランプシティ計画に反対する市民グループの活動からである。ひとつは地区の中のコミュニティグループと呼ばれるNPO(ウエストプライド)。募金により資金を集めコンサルタントや都市デザイナーを雇い、計画による環境への影響のアピールや、高速道路の移設スタディなど提案に基づく反対運動を組織化した。もうひとつが全市レベルで影響力のある都市芸術協会(Municipal Art Society),公園委員会(Parks Council),大都市圏計画協会(Regional Planning Association)などのシビックグループと呼ばれるNPOで、ウエストサイドフューチャー運営委員会コンサルチームを発足させ、地域全体の将来像やゾーニング、高速道路問題について、専門のスタッフによる研究報告書を作成し、ペンヤードの問題をマンハッタンの全体の都市デザインにつながる視点から問題提起した。
●ハイウェイ移設報告書( 1989年11月 公園委員会)
専門家(アンドリュース・クラーク社)作成のハイウエィ移設のフィージビィティ・スタディは 公園委員会がスポンサー。内陸側のハイウエィ新設コストは5,000万/7,500万ドル。翌年8,500万ドルをかけて既存ハイウエィの補修に着手しようとした州と市との摩擦を生む結果となる。この古い高架ハイウェイをこの位置で一刻も早く再建しようとする行政側と公園用地確保のため移設を求める市民グループの間で対立が起きた。
●大都市圏計画協会(REGIONAL  PLANNING  ASSOCIATION)の80年台中頃ウエストウエイ構想 
ペンヤードとの関わりは80年台中頃に連邦予算が下りずに立消えとなったウエストウエイ計画にさかのぼる。マンハッタンの車両交通改善に貢献するとしてRPAはウエストウエイ推進派の役目を果たした。ウエストウエイはバッテリパークから42丁目までのハドソン川沿いの岸壁間を埋め立て地下トンネル内に高速道路を走らせ、その上を公園緑地として利用するという構想。ペンヤード地区ののウォーターフロントに公園ができれば、南からバッテリーパーク、ウエストウエイ、ペンヤード、リバーサイドパークとハドソン川に沿って、南北に扇状の「緑」がつながる構想であった。

4.高速道路の移設と市民代替案
90年春以降シビックグループとコミュニティグループが定期的に会合をもち、公園委員会・都市芸術協会・大都市圏計画協会などのシビックグループの推すワイレン案の内容検討を進め、合同の市民代替案の作成を行う。
 ●リバーサイドサウス計画1次案(1990年7月:合同市民グループによる第1次代替案ワイレン/ガットマン案)
 代替案はまず高架の高速道路を敷地北側のリバーサイドドライブの延長として、内陸側にゆるくカーブさせ、オープンカットの地下におさめ、水辺に解放された扇型のオープンスペースを生み出した。建物はカーブした通りにそって、セントラルパークウエストの歴史的な都市文脈に応答するデザインとし、規模もトランプの計画の半分以下の約68万m2に抑えられた。リバーサイドパークを南に延長し、公園を中心とした開発を進めようとしたわけで、代替案はその後リバーサイドサウスと呼ばれるようになった。
その後90年12月にはハイウェイ移転問題で市民グループが市当局を現在地で修理・再建する以外の方法を探ることを怠っているとして、環境問題の再検討と公園用地の確保を求めている連邦法に反するとして告訴した。90年12月末、市民グループは代替案をデベロッパーのトランプに提示し、経済的なピンチに陥っていたトランプはその代替案に賛同を表明する。
●91年3月 市、トランプ、市民グループの3者で合意に達する。合意の内容は、
・リバーサイドサウス計画1次案(市民代替案)の採用。
・トランプが高速道路用地を提供し、連邦政府予算の取得前提にしたうえで高速道路を移設する。
・公園用地の提供、公園建設はトランプが行う、の3項目であった。

5.高速道路の移設を含んだ市民代替案への評価
 その後、リバーサイドサウス計画2次案を共同の組織(RSPC)でつくり、92年7月に統一土地利用審査(ULURP)過程に申請する。
●第7コミュニティ委員会の評価
・ハイウエィ移設、公園建設の意義はみとめるが、予算の問題等不確定要素が大きい。
●92年8月 マンハッタン区長の計画推薦と引き換えにデベロッパーが同意した内容
・ 既存ハイウエイの補修終了後、仮の公園をたたちに建設のこと。
・ 公園維持費の半分をデベロッパーが負担。公園の管理運営は公園局、コミュニティ、市民がおこなう。
●92年10月14日 APA/AIA/シティクラブの都市計画委員会宛の共同提言
・プランニング、デザイン、インフラに関する重要決定がすべてプライベートの手にゆだねられたのは重大なミステイクである。過去30年間の大規模開発をふりかえってみたとき「公」がインフラ整備を行ったプロジェクトは成功しているが他は失敗に終わっている。 バッテリーパークシティも基本計画、インフラ整備、開発事業はすべてパブリックセクターの手で行われ、短期的な収支計画にもとずくプライベートセクターに頼る必要がなかったことが成功の大きな理由だった。
・連邦政府の高速道路移設への取り組みが欠かせない。それがない場合は既存高速道路残留を前提にした公園計画を進めるべきである。

●92年12月  RSPC ”FACT SHEET”
・高速道路移設
コミュニティ、シビックグループ、環境グループ、労働組合、市、州、連邦政府の賛同を得ている。ハイウエイ管理者のNY州が州と連邦政府の予算で事業。連邦政府予算枠は現在2300万ドル。これで企画、環境影響評価、設計、そして1年目工事費までまかなえる。91、92年で計450万ドル消化した。環境影響評価書は93年秋完成予定。着工95年、竣工98年予定。
●95年7月 連邦下院でウエストサイド・高速道路の再建の予算化への反対表明。
識者はマンハッタンのウォーターフロントにオープンスペースを獲得する歴史的チャンスを失うものだと批判。
●95年11月 連邦下院がウエストサイド・ハイウェイの移設への予算を1年以上延期の議決。
これらの問題は基本的には複合的な街路インフラ整備をどう進めていくかにかかっているといえよう。街路を核とするインフラ整備の問題は、景観や水辺の活用面から大きな障害となっている老朽高速道路の処理、北から降りてくるリバーサイドドライブのような地域幹線の延伸、敷地を区画する街路パターンと周辺のストリートの関係、水辺のオープンスペースの確保などの問題に分解できる。


1)研究選集
2)リバーサイドパーク
リバーサイドパークは1873年にF.L.オルムステッドの設計で建設がはじまる。1885年に西129丁目までのびる。1937年にC.L.ロイドの設計で鉄道の上を覆うように拡張され、現在の姿になる。
3)リバーサイドドライブ
4)ワークショップの報告書
5)ペン・ヤード敷地をめぐっては16件