函館西部地区におけるまちづくり公益信託の展開
 柳田良造

1.活動の目標
1993年に生まれた市民の自主的な資金による日本で最初の公益信託「函館色彩まちづくり基金」は、基金と地域、市民を結ぶカタリスト(触媒)として、独自の運営の仕組みである「函館からトラスト事務局」の役割が極めて大きいことを確認しつつある。「函館からトラスト事務局」は基金の運営事務やニュースの発行以外に、住環境ワークショップ−の展開、まちづくりウォッチドッグ(まちの動向の監視役)としての展開など、まちづくりテーマについて市民が活発に発言できる、函館の市民まちづくりの基盤強化の一拠点となりつつある。
今年度の活動は、基金運営事務局として、昨年のテーマを深化させるかたちで以下のテーマを設定した。
(1)助成団体の活動をどのように支援し、活性化させうるか
助成団体の活動が十分な成果をあげられるように、事務局はどう支援していくか。
(2)公益信託の函館型の創造的な運営体制とは
函館らしい公益信託の創造的な運営体制とはなにか、そのなかでの事務局の役割はなにか。特に、低金利時代に想像力あふれた募金拡大の方策(指名基金としての企業による色彩町並み基金の試み)の追求など。
(3)函館におけるまちづくり公益信託の定着化
函館においてまちづくり公益信託を地域のものとして市民に広く支援してもらえるよう、公益信託の地域定着化の方策をさぐる。
(4)函館における市民まちづくりの試みの支援
「函館からトラスト事務局」を単なる基金の事務局としてだけではなく、まちづくりのNPOとして、重要なまちづくり問題について市民が活発、公平に議論ができる土俵を用意する、まちづくりウォッチドッグ(番犬:まちの動向の監視役)の試み。

2.活動の内容

(1)助成団体の活動をどのように支援し、活性化させうるか
(1)−1 助成団体の選考
★1995年2月27日、函館市内において公益信託函館色彩まちづくり基金の第4回運営委員会が催され、第2回目の助成となる1995年度の助成先と金額が検討された。
★助成申し込みは全部で6件の申請があり、1件づつ検討が行われた。総額が充分であれば全部に助成したいという意見も出されたが、総額は70万円であり、基金からの助成は4件に決定した。そのうち2つは昨年の助成を受けた「ペンキ塗り替え札幌勝手連」と、「函館都電倶楽部」である。この2つの団体は昨年度の実績が評価されているし、今年はさらに新しい展開を計画しているとのことで、継続してこの活動を助成することを決めた。どちらも今年はもっと子供、学生、市民を巻き込んだ動きや活動が広がることが期待された。あとの2つは、「海産商同業組合会館の修復維持事業」と「Motomachi Groundwork Movement(通称MGM)」に決まった。「海同会館」は取り壊される予定のものを、借り受けて修復する事業だが、西部地区の貴重な建造物であり、それを私財を投じて行うという心意気に対し、調査・記録費用の援助である。「MGM」は、元町地域の住民自らが主体的に起こす、いわば住民パワーの活動である。勉強会、ワークショップを行い、通信を発行するという、地域づくりの連帯を支援しようということで決まった。

(1)−2 助成団体の活動経過
<第2回助成活動中間報告会 >
★1995年9月2日、土曜日、運営委員会に引き続き、海同会館において基金助成グループによる中間報告会が催された。助成グループのひとつである函館都電倶楽部のメンバーは鉄道のファンクラブも兼ねており、深名線廃止を翌日に控えていたため、中間報告は欠席となった。そのため活動報告はそのほかの3団体によって行われた。
★今回の報告会会場となった海同会館は、石塚與喜雄氏が私財を投じて修復を行った建物であり、修復調査費として基金から助成が行われた。この修復に対しては奥平忠志運営委員から「自分にとっても子供の頃の思い出の場所で、壊れかけていた大切な建物をよく修復してくれたと思う。頭が下がる思いがする」など、地元を代表した感謝の言葉が寄せられた。また元町倶楽部の村岡武会長からは「今まで(基金原資の)2000万円はたいそうな額だと思っていたが、海同会館の修復は6000万円の費用がかかっている。これに対して20万円の修復調査費は微々たる助成だが、過去からの贈り物だと思って欲しい」などの感想が寄せられた。
★また越野武運営委員からは、どの活動についても「小額でよくやっている。お金がもっとあるなら、運営委員は大えばりで報告を聞けるのだが」など、ボランティアの熱意に対して惜しみない賞賛が贈られた。
<第2回助成活動最終報告会 >
★1996年2月17日、函館市内のレストラン「元町マリンハウス」において、公益信託函館色彩まちづくり基金第2回助成活動の最終報告会が開催され、助成4団体がそれぞれ1年間に行ってきた活動の報告を行った。
まず市内の代表的な大正建築である海同会館の保存を手がけた(株)池見石油の石塚與喜雄社長は、昨年夏の修復完了までの経過を報告し、「建物は多くの皆さんの支援もあって残すことができたが、今後は中身が問題。有効利用のアイディアを寄せて」と呼びかけた。
次に元町31番地に焦点を絞って住環境上の課題を調査した元町グランドワークムーブメントは、調査の結果を1枚にまとめたカラーマップを披露。ワークショップを重ねる中で地域の実態が浮き彫りになりつつあることを報告し、「今後はより地域に密着した活動を展開する中で、地域住民のコミュニティ文化ムーブメントをつくりあげたい」と語った。
昨年は4軒の下見板建築の塗り替えを行ったペンキ塗り替え支援札幌勝手連は、作業の途中においても試行錯誤しながら、より相応しい色彩を探究した過程を報告。今回は地元函館工業高校から5名の生徒の参加もあったことから、今後も地元の参加者の拡大をねらい、市民の中にペンキ塗り替えを定着させたい旨を語った。
市電の保全活動と市電操車塔の保存運動を行った函館都電倶楽部は、市電の「こすり出し」を含めた車両のリフレッシュ作業の結果と、街路整備の中で操車塔の保存が実現した過程を報告。同倶楽部の広範な活動が、広く市民の理解を得つつある様子を語った。

(1)−3 助成団体の活動をどのように活性化させうるか
中間・最終報告会終了後、運営委員も含めた参加者による懇親会が開かれたが、懇親会は助成団体と運営委員、函館からトラスト事務局との交流のみならず、助成団体相互の交流の場ともなり、市民まちづくり活動のネットワークが芽生えつつあることを感じさせた。
今年度の助成活動は、越野武運営委員の中間報告会での「どの活動についても小額でよくやっている。お金がもっとあるなら、運営委員は大えばりで報告を聞けるのだが」などのコメントに見られるように、昨年に続き中身の濃いものであった。
助成団体の活動をどのように活性化させうるかについては、中間報告会、最終報告会の発表の方式が定着し、事務局の支援スタイルも次第にノウハウが整ってきて、充実した成果を生み出していく函館からトラストなりのスタイルが整ってきたといえよう。
助成活動が活性化したポイントは、もちろん助成各グループが自覚をもって意欲的に取り組んだことがあげられるが、事務局運営との関連でまとまめると以下の点があげられる。
●中間報告会、最終報告会は助成活動のスケジュールやまとめをうまいタイミングで誘導、刺激する材料となり、このスタイルは今後も定着していきそうである。一方昨年試みた3ヶ月毎の活動記録の提出などは助成対象グループにとっては負担になった部分もあり、今回は行わなかった。
●報告会での運営委員などとの議論とその後の懇親会が活動グループが他の活動や人の相互交流の機会となり、活動グループの刺激や活動方法を学習するチャンスになっている。
●事務局が発行するニュースペーパー「から」が助成活動の地域社会、全国への紹介に役だっている。
●基金がマスコミにとりあげられることも多く、助成活動が社会的に注目されるものであることもいい意味での刺激になっている。

(2)公益信託の函館型の創造的な運営体制とは
(2)−1 基金の元本取り崩し問題
今年度の運営上の一番のテーマは助成活動を行う財源確保の問題であった。函館色彩まちづくり基金の規模は2000万円で小さく、とくに超低金利時代の現在は、実質運用益ゼロの状況が続いている。
1)基金の助成財源の課題
1995年9月運営委員会では、住友信託銀行札幌支店の収支報告と函館からトラスト事務局からの提案が行われた。
★住友信託銀行札幌支店報告
当基金は「函館市内におけるまちづくり及びまちの色彩文化に関する事業又は活動に対する助成を行い、もって美しく、個性的で、魅力あふれるまちづくりに寄与する」ことを目的に、平成5年6月29日、北海道知事の認可を得、設立が許可されました。その後、各運営委員のご努力及び函館からトラスト事務局様のご支援を得ながら助成を行ってきた。この2年間に延8チームに対し合計140万円の助成を行いました。
このように、小さいながらも全国的に注目されだした当基金にも悩みがございます。それは助成金の原資が少なくなってきたことです。この基金は収益により助成を行っておりますが、昨今の低金利(貸付信託5年もの年1%)により、年間20万円しか収益を生みません。(基金元本2,000万円)収益と元本を取り崩してでも積極的な助成を行うか、あるいは収益のみで規模を縮小して存続を優先させるか、二者択一を迫られております。助成らしい助成もできず、どうしたものかと各運営委員を悩ますことになったわけです。来年はこのままでは総額50万円程度の助成額しか見込めないことになります。けれども市民レベルのまちづくりの熱意は拡大方向にあり、これに応えていくためには70万円の助成額でも充分ではないという現状があります。
これに関して函館からトラスト事務局から、公益信託の運用方法である「ペイ・アウト」を含む積極的な助成方針が提案された。
★函館からトラスト事務局からの提案
当基金は基金は小さいけれども全国から注目されています。当基金では助成活動が面白いということで注目されています。そのほか指定建造物以外の歴史的町家の保全など、助成活動がますます活発になってきている現状です。
これに対して金利が低く、企業の寄付もいまひとつ盛り上がらない状況もあります。
公益信託は財団法人とは違って、不況時にも柔軟に対応できるシステムで、米英での事例を見ると、基金などの不況対策としてペイアウトという原資取り崩しの制度があります。ペイアウトによって活動の成果が出てくると、企業や行政から寄付が見込めるようになります。現在、当基金は収益活用法式ですが、元本取り崩し方式は公益信託独特の方式で、日本の公益信託でも毎年取り崩しを行っているところもあります。
取り崩しといっても基金を食いつぶしてしまおうというわけでなく、収益と原資とあわせて助成を行っていき、前向きに助成活動の成果を上げていこうということです。景気の悪いときこそ積極的に市民活動を支援していってはどうかと考えています。
2)1995年9月の運営委員会での議論
この提案に対して各運営委員からは「PRのためにも積極的に助成を拡大すべきだ」「民間基金ならではのフットワークの軽さで柔軟に対応したい」「活動あっての基金だから、今は充分に活動助成できるようにしたほうがいい」など、提案を支持する意見が相次いだが、一方で「先の見通しもないのに、目先の活動にとらわれるのはどうか。きちんと寄付の予算を立てて寄付集めを行うべきだ」という反対意見も出され、結論は次回、2月の運営委員会に持ち越された。
3)1996年2月の運営委員会での議論
前回の運営委員会において基金の元本取り崩し方式が検討されたが、今回は総額50万円の金額がすでに前回から決定しており、次年度の助成に際して取り崩しを行うかどうかが検討された。低金利により助成総額を縮小せざるを得ない状況であり、現状のまま少額であってもできる限りの範囲で助成を続けていくか、あるいは元本を取り崩すことによりあえて積極的に助成していくかが論点となった。経費の見直しや広報宣伝などの意見も出されたが、寄付の拡大に務めることで、基本的には基金取り崩さず、寄付の状況を見ることが確認された。

4)基金の弾力的運営と元本取り崩し方式
公益信託の特質の一つとして基金の弾力的運営と元本取り崩し方式が可能であるという側面があるが、実際上の運営ではこれを実行することがなかなか難しいことが結果確認されたといえよう。基金の元本が減少することへの抵抗感や現時点では助成活動の将来見通しを明らかにして寄付行為をもっと頑張るべきなどの意見もあり、元本取り崩し方式の意義は理解されるものの、実行するとなると越えるべきハードルはなお高いという印象であった。
設立の経緯でも基金の監督官庁である北海道庁は元本取り崩し方式へは許可しない空気があった。今後も運営委員会でこの問題については、機会を改めて議論を深めていく必要がある。

5)結果としての96年の寄付の拡大
元本取り崩し方式の議論の過程で、助成財源拡大が緊急の課題であることが運営委員会と事務局の共通認識となった。この危機感を背景に96年は寄付金集めが活発化し、6月現在80万円を越える寄付が集まっている。特に函館での寄付の拡大が急激であり、3年目にはいり、基金が地域に定着してきたともいえよう。その中にはチャリティコンサート、チャリティ茶話会などのイベント的な基金拡大の活動(Fund Raising)も昨年からトラスト事務局を中心に始まり、草の根から市民に浸透していく方法が引き続き行われている。一方全国的規模での企業への寄付要請はスタート時からの課題ではあるが、今年度も十分な働きかけは行うところまではいかなかった。

(2)−2 運営委員の交代
9月2日函館元町の五島軒において、公益信託函館色彩まちづくり基金の運営委員会が開催され、基金発足以来、運営委員長をお願いしていた足達富士夫氏が北海道大学を退官されて道外に移られ、また函館市都市建設部長の藤沢重人氏が市役所内の移動により、それぞれ運営委員を退かれ、代わって北海道大学建築工学科教授の越野武氏と函館市都市建設部長の金子隆敏氏が、新たに就任となった。運営委員長は当日、委員の互選により建築家の山内一男氏に決定、副委員長は委員長からの指名により越野武氏に決まった。
今回の運営委員会は欠員の補充という面での運営委員の交代であった。今後運営委員の任期等も、運営委員会の議題として議論していくべき問題となろう。

(2)−3 函館と札幌の2事務局体制の役割
事務局の活動としては、基金拡大(ファンド・レイジング)が今後重要な仕事のひとつとなる。今までは寄付集めまでは十分手が回らないという状況であったが、今後は基金拡大専門の事務局スタッフも望まれる状況となっている。
函館からトラスト事務局は函館と札幌の2事務局体制で進んできたが、2事務局体制は良い面もあったが、コミュニケーションが円滑にいかないなどの問題も抱えていた。
良い面としては対銀行(信託銀行は札幌に支店がある)や対道庁(監督官庁)などの交渉での好都合や、札幌は専門家的なチーム、函館は住民サイドのチームということでうまく役割分担をはかって、全体として活動が大きく活発化している側面も指摘できた。しかし相互の役割分担では、けっしてうまく調整がとれていたわけではなかった。
この問題に関連して、寄付集めの動きを軸に函館事務局は寄付等の地域への働きかけと助成団体への日常的接触、札幌事務局はニュースの発行を中心に基金の全国的への情報発信を行うという分業体制が、ようやく見えてきたといえるかもしれない。
また函館の事務局活動に若い新しいメンバーが参加しつつあるののも活動が3年目に入って、次第に地域に定着しつつある成果といえよう。
一方函館からトラスト事務局のニュースの発行など、様々な費用がかかるが、今後も自主財源をどうやって恒常的に確保していくかは、課題である。

(3)函館におけるまちづくり公益信託の定着化と今後
(3)−1函館におけるまちづくり公益信託の定着化
3年目にはいり、基金が地域に定着してきたといえる現象を列記すると、
★運営委員長に函館在住の市民が選ばれる。
★基金財源の危機感を背景に96年は寄付金集めが函館で活発化し、市民各層からの寄付が拡大した。
★チャリティコンサート、チャリティ茶話会などのイベント的な基金拡大の定着。
★地域FMでの基金の紹介、映画祭、などの他の領域への拡がり。

また助成活動においても、地域に密着した作業や住民活動からの応募がふえてきつつある。
★ペンキ塗り替え支援活動への地元高校生の参加
助成活動の核となるペンキ塗り替え支援活動は、札幌勝手連を名乗るように北大建築工学科など札幌からのボランティアが12名と多いが、今年は函館工業高校で建築やインテリアを勉強中の高校生も5名参加して、楽しく実地の伝統的町並み保全作業を行った。地元の高校生を巻き込んだことで、地元での若いまちづくりの芽ばえが期待されるのである。
★MGMの住民参加で地域の住環境をともに考えていくワークショップ
★第3回助成への地域の様々な活動団体からの応募
地域の商店街振興組合や図書館のあり方を考える市民グループからの応募など、地域の様々な活動団体から「函館からトラスト」への助成支援が増えつつある。

こういった一連の動きは基金が3年を経過し、着実に地域に定着しつつある印であろう。今後はこの動きを確実に受けとめ、地域で成果のあるまちづくりにつなげていく支援策を基金が用意していけるか、財源問題も含め、しっかりとした体制の確立が求められる。
   
(3)−2 まちづくり公益信託のこれからの展開
まちづくり公益信託のこれからの展開について、函館において1995年7月興味深いシンポジウムが開かれた。この内容を紹介して、まちづくり公益信託のこれからの展開を考える材料提供としたい。

「まちづくりと公益信託MEETING/日本土地法学会」
去る7月25日(火)、函館の金森ホールにおいて、「まちづくりと公益信託」をテーマに日本土地法学会主催のミーティングが開かれた。
ちょうど一年前の昨年7月、東京・世田谷で、まちづくり公益信託研究会(代表・篠塚昭次(早稲田大学))と財団法人トラスト60が主催し、まちづくり公益信託の可能性と課題、市民主体のまちづくりの支援システムのあり方などをめぐって「まちづくり公益信託全国シンポジウム」がおこなわれている。
今回のミーティングでは、先の全国シンポジウムでの成果をふまえ、その後の新しい情報の交換をしながら、市民のまちづくり活動とそれを支援する仕組みとしてのまちづくり公益信託の発展の可能性を広げるような討論を深めることがねらいとされた。
各パネリストとスピーチのテーマは、吉村正男氏(財団法人トラスト60副理事長)「公益信託の様々な利用の可能性」、柳田良造氏(函館からトラスト事務局)「展開期をむかえる日本のまちづくり公益信託」、山本真也氏(元町倶楽部・函館の色彩文化を考える会)「まちづくり公益信託の活動と課題−函館から」、林泰義氏(玉川まちづくりハウス、まちづくりプランナー)「市民まちづくりと共に歩む公益信託の未来」、岩田恒男氏(公益信託コンサルタント)「まちづくり公益信託の実務と課題」であった。司会は私と鎌野邦樹氏(千葉大学)がつとめた。
吉村氏は、信託とは、「ある人(委託者)が、自分の財産を信頼できる他人(受託者)に引渡して、その人にその財産(信託財産)を管理・運用してもらうことにより、自己のやりたかったこと(信託目的)を実現すること」という、大変わかりやすい、明快な定義をされた。委託者の志しこそが信託の原点にほかならない。吉村氏はまた、スプリット・インタレスト・トラストとよばれる私益、公益混合型の公益先行信託−例えば、土地を20年間公園として信託し、その後は所有者に返却する−などの利用可能性の例をいくつかあげ、さらに「信託の事例は無数にありうるわけで、それを制限するものがあるとすれば、それは法律家や実務家の想像力の欠如にほかならない」という(故)四宮和夫教授の言葉を引用し、まちづくり公益信託の様々な可能性を示唆した。
主要な論点は、市民まちづくりと公益信託のこれまでの成果をふりかえり、今後をどう展望するかにあった。
函館や世田谷をはじめ、全国各地で市民による自発的でユニークなまちづくり活動が持続して展開されてきた。行政の気がつかない地域の魅力や価値の発掘、再発見。行政の目の届かない、市民にとって身近で大切な環境のみつめ直し。タウンウォッチングやワークショップなどの新しい手法を用いた柔らかな、自由な、創造的な活動。それらは行政とはちがう質をもち、市民が主役となったまちづくりの新しい領域を切り開いてきた。こういう市民まちづくり活動を支援するために、公益信託を利用し、市民サイドにたった基金をはじめとして、いろんな仕組みもあみ出されるようになった。市民まちづくりの世界がかなり具体的な姿をあらわしつつある、と林氏は指摘した。
柳田氏によれば、日本のまちづくり公益信託は、行政ではなく住民のアイデア、発意によって誕生した1983年の「佐倉街づくり文化振興臼井基金」を嚆矢とする。それから10年ほど経過した1990年代初頭に「世田谷まちづくりファンド」や「函館色彩まちづくり基金」が生まれ、創造力に富む運営体制、助成活動、地域の市民活動のネットワークなど、新たな展開が始まっている。しかしそれでもまだ市民には十分に認知されていない。まちづくり公益信託制度が社会的に広く認知され、地域に根付いたものになっていくか、あるいは試みの段階でとどまるかはここ10年ほどの展開にかかっていると暗示し、とくに、目に見えるまちづくり活動の成果をどうつくっていくか、多様なまちづくりの可能性に応えられるか、結果を出すこと(making a difference)が求められているとした。
今後、市民まちづくりの一層の発展、飛躍を図るには、よりダイナミックな活動をいかにして展開していけるかにある、と林氏は展望した。そのためには、即時行動可能な活動資金の準備と社会全体がまちづくりの担い手を育てていく新しい制度が必要である。
前者については、現在のような低金利時代では、基金の運用益だけでは限界があることがわかってきたので、基金を取り崩し、しぼりこんだテーマ−例えば、歴史的建築物の買取り・再生、アフォーダブルな住宅の建設などに集中的に投資して事業をおこなう、ペイ・アウトという手法(逆に高金利時代には運用益を基金の元本に取り込むペイ・インをおこない、景気に左右されず常に一定の活動資金を確保する仕組み)が考えられる。
また、アメリカで普及しているリボルビング・ファンドとよばれる、会員制度を活かす回転型基金方式も有力な方法である。例えば、NPOが一定金額の基金を準備し、歴史的建築物を買い取って、補修し、それを誰かに売却する。売却金額が投資を上回って利益をうめば、それはそのまま次の事業費として使えるし、逆に赤字となったら会員がその穴埋めをして、次の事業を展開していくというものである。この場合、最初の一定金額の基金をどのようにして集めるか、ファンド・レイジングが重要で、そこに知恵をしぼり、大勢の人が寄付をしたくなるような楽しいアイデアを出しあうことがキーポイントになる。
後者は、市民まちづくり法人制度の創設である。これについては今までもよく言われていたことだが、制度創設に向けて山岡義典氏らを中心とする市民公益活動基盤整備に関する調査研究グループ、本間正明氏らを中心とするNPO(民間非営利法人)研究フォーラム、NGOや林氏らを中心とするシーズの3つの市民組織の結集や、当面は税制優遇措置を切り離して、新しいNPO制度の創設を先行させるといった制度化に向けての基本戦略など、現在進行中の新しい具体的な動きが紹介された。
こういった動きや阪神大震災後の民間ボランティアの活躍などが実を結び、今度の国会で「市民公益法人」制度が創設される見通しである。市民まちづくりは新しい段階を迎えつつある。   
記/森下満(函館からトラスト事務局)

(4)函館における市民まちづくりの試みと展開
「函館からトラスト事務局」を単なる基金の事務局としてだけではなく、まちづくりのNPOとして、重要なまちづくり問題について市民が活発、公平に議論ができる土俵を用意する、まちづくりウォッチドッグ(番犬:まちの動向の監視役)の試みを行ってきた。その背景には函館におけるここ20年来の市民が主導する地域のまちづくりという歴史がある。ここではまず、函館における市民まちづくり活動の系譜をふりかえる。続いて、今回の活動で行った市民まちづくり活動への展開を紹介する。
(4)−1函館の市民まちづくり活動の系譜
函館の市民まちづくり活動に特徴的なことは、旧来の要求運動や反対運動から自ら企画し実践する活動あるいは提案型の活動へと大きく転換してきていることだろう。もちろん高層マンション建設問題(1990)などの個別の事象については、まちづくりに関心を持つ市民としての反対運動や要求運動も展開されているが、日常的な市民活動は、自らの発想を自ら実践しあるいは行政などへ提案する活動へと移行してきている。市民のまちづくりにおける新たな主体性の萌芽である。
★例えば、特別史跡五稜郭後を舞台にまちの歴史を市民が演じる「市民創作函館野外劇」(1988〜)、五稜郭後のイルミネーションによる夜間演出「五稜星(ほし)の夢」(1989〜)市民総参加で夜景を豊かに輝かせようとする「函館・夜景の日」(1991〜)と、まちをステージとして、市民が発案し自ら実践するイベントが相次いで誕生している。また往年のチンチン電車の復元・動態保存を実現した「チンチン電車を走らせよう会」(1988〜)まちづくりの広範な分野において政策提言と実践を展開しようとする「街づくり函館市民会議」(1988〜)などと、企画・提案型の市民活動も生まれ、具体的成果もあげてきている。さらにいえば元町倶楽部の色彩研究活動、まちづくり公益信託の設定、そしてじろじろ大学の展開なども企画・実践型の市民活動の一例といえ、公益信託による助成活動もそのすべてが企画・実践・提案型の市民活動である。
★これらの市民活動に共通しているのは、自らのまちを自ら再認識・再発見し、より豊かなまちをつくろうとしている点だが、それはいずれも、まちへの強い愛着と、まちづくりへの主体的な参画意識に裏打ちされている。そしてこれらの市民活動を通して、函館の市民は、手の届かなくなりつつあった自分達のまちを、徐々に手元に引き戻しつつあるようだ。
★このような市民活動は突然表れてきたわけではない。今以上に経済優先・行政主導でまちづくりが進められ、市民がまちづくりに直接的には関与できずにいた時期に、函館山の自然環境と西部地区の歴史的環境というふたつの代表的な環境を保全しようとするところから函館における市民まちづくり活動は始まっている。函館山周遊道路建設問題を契機とする「南北海道自然保護協会」(1971〜)の活動、旧北海道庁函館支庁庁舎の移転問題を契機とする「函館の歴史的風土を守る会」(1978〜)の活動などだが、これら環境保全を軸とした先駆的活動が繰り広げてきた市民への意識啓発が、20年前後を経過した今、広範な市民まちづくり活動をもたらしているといえる。市民の手の届かないところから押し寄せる開発の波から大切な環境を『まもる』活動が、もう一度まちを市民の手の届く位置に引き寄せ、自らの手で『そだて、つくる』活動を醸成してきたといえるのだ。
★このように連綿として大きな流れをつくりつつある市民意識と、その中で多彩かつ広範に広がった市民まちづくり活動は、時代を少しづつ変えていく。
★現在市民公募による「100人会議」からの意見もいかしながら策定作業が進められている「第4次函館圏総合計画」(1996〜2005)においては、「協議」の文字が随所に登場し、「行政主導型からパートナーシップ型のまちづくりへの転換」、まちづくり活動への支援や調査・研究を行う組織としての「まちづくりセンターの設立」、さらに「函館色彩まちづくり基金などの民間基金による活動への支援と連携」などについてもうたわれることが予定されている。総合計画におけるまちづくりの主体としての市民の回復である。

(4)−2 市民まちづくり活動への展開
函館での市民の主体的な企画・実践・提案型の活動は実に多様である。現在も次から次に生まれてきている函館の市民まちづくりを基金の情報誌「から」の紙上などを通して紹介し、市民のまちづくり議論の活発化や全国への情報発信を行った。
★じろじろ大学
地域のFM局いるかの番組「じろじろ大学」を通してまち、まちづくりの興味深い話題の情報発信をつづける村岡さんの試みを「から10号」で紹介。

特別講座「赤瀬川原平・じろじろの心」
去る7月15日「元町倶楽部のじろじろ大学(学長:村岡武司)」は、名誉学長である赤瀬川原平さんを招き、函館元町の聖ヨハネ教会において、特別講座「赤瀬川原平・じろじろの心」を開催した。
赤瀬川師は皆さんもよくご存じの方だが、元町倶楽部の関係では、かつてトヨタ財団の研究コンクールの審査委員として倶楽部の色彩研究(こすり出し)を積極的に支持いただき、以来、交友を深めるとともに倶楽部の精神的支柱ともなっていた。
今回は7年ぶりの来函で、講演では函館の話もまじえながら『じろじろ』とまちを観察する楽しさや、「路上にある無用の変なもの」を発見する楽しさを紹介するとともに、「経済優先で機能的には役に立たない変なものがどんどん失われ、観察の喜びがなくなるのは寂しい」などと語った。
赤瀬川師は、講演に先立ち、倶楽部のメンバーと元町周辺を路上観察。かつてのデパート建築や古い廃屋を探索し、「今のものと比べて材質に迫力があり、職人の気合いの入れ方も違う」としきりに感心する一方、街角にたたずむ猫を見かけてはパチリと、変わらぬ『じろじろパワー』をいかんなく発揮していた。
これら路上観察や講演の様子は、地元マスコミを通じて報道されたほか、FMいるかの番組「じろじろ大学」においても紹介をし、広く函館の市民に『じろじろの心』を植えつけることとなった。

★ウォーターフロント地区の新しいホテル建設構想
函館の景観上最も重要なウォーターフロント地区の新しいホテル建設に関して、オーナーのコメントと構想案を「から12号」に紹介して、今後この地区の開発と景観の問題への議論の場を設けた。

「建築との出会い ウォーターフロント地区のホテル建設に寄せて 
記/清水憲朔(スパホテルオールドベイ函館開設準備室)」
私達は今、函館のオールド・ダウンタウンの中心地ともいうべき、末広町の海岸地区旧浅橋にホテルを建設中です。予定地はいわゆる「ウォーターフロント」の観光商業地の並ぶ延長線上に面しています。ホテルの規模は154の客室に、レストラン、ホール、温泉浴場などの施設が、地下1階地上8階の建物の中に収まる内容です。現在、函館市が重点地区として整備を進めている湾岸線に面していることもあり、「優良建築物等整備事業」の指定を受け、関係諸団体の指導、助言のもと、来春4月のオープンに向け、関係者全力をあげ準備中です。昨年の春、旧造船所等の土地を取得後、さっそく設計の作業を5者に依頼し、内1者の基本プランを採用し、現在に至っています。設計の応募には、私達が客室数、設計の概略のみを提示し、敷地をフルに利用したプランを要望しました。提案された各者の内容は、平面図等のペーパーのみのプランのところから、模型・写真パネル、コンピュータグラフィックス等を駆使したものまでさまざまでした。正面からの立面プラン、パースで、設計の優位性を問おうというのが共通点でありました。私達は利用者の立地への交通アクセス・アプローチ法による建物の見え方と、近隣建設物との配置関係への評価の2点に焦点を置いた決定をしました。それははからずも決まった設計者が建物の立地について、朝夕、四季にわたり知りつくしていたことによってもたらされた勝利でした。
建物とそれと接する人間の関わりについて文化人類学者の山口昌男は、著作の中で次のように書いています。美幌の菓子屋の息子で、5歳の頃、店員に連れて行かれて網走で突然仰ぎ見たときの「この世にこのような建物があってよいものかと思わず息をの」み、「生を受けて最初の大きな衝撃」を受けた建物・・・。後日彼はこの建物は当時の「北見郷土館」であり、設計者は「エゾライト」と称された「田上義也」であることを知る。田上は家屋の形態の関心を通して、北方人類学にも関心を持っていく。
山口は言う。「建築がそれに住んだり接したりする人間の、世界に対するかかわり合い方も変えるということである」と、後日世界的人類学者になる山口と、昭和初期の地方都市に建てられた「モダン建築」との「運のいい出会い」であった。
同じ時期の「モダン建築」が数多く残る西部地区での私達のホテルのプランは、鈴木一博設計集団に委ねられたわけであるが、できた建物の評価は皆様より後日充分お聞きしたいと願っている。オーナーの要望と、市民の住環境を守るために定められた法規制の中で、創造的仕事をしようという設計家は、どのような建築で私達の出会いを実現してくれるだろうか。
(山口昌男「挫折」の昭和史−モダニズムと地方都市−北の建築家より引用)

★函館の新しい映画館
函館の都市文化に欠かせない存在である映画館の新しい形式−函館市民映画館づくり−へのコメントを「から12号」に紹介して

「映画館には無限の夢が詰まっている
函館市民映画館づくり 記/米田哲平」
今、映画館をつくっている。館名は「函館市民映画館・シネマ・アイリス」。僕たちが12年間自主上映を続けてきた「シネマユニット・アイリス・イン」からの命名である。
昭和58年9月の公民館で行った上映会が、僕たちの柿落としであった。上映作品は鈴木清順監督の「けんかえれじい」。以来、国内外の秀作を上映し続けてきた。特定の会場を持たず(持てずか?)、16m/mの映写機にフィルム、菓子箱、パイプ椅子等々、両手に持ちきれないほどの道具を持って、ジプシーのように市内の会場を点々と歩き回った。
その後、今は亡き巴座の地原支配人の協力の下、劇場での上映が実現、1日だけど映画館を手に入れた。この時の作品は、ゴダールの「気違いピエロ」。他の映画を見に来たおばあちゃんがなんの疑問も持たずに、映画を観終わり、受け付けでアクビをしていた女の子に「寅さんは今日はないのかね」と言って払い戻しをした。心優しき若者達はキョトンとしてその場で凍っていた。
劇場との付き合いはこうして始まった。受け付けのおばちゃんや映写係のおじさん達との交流も深まり、劇場ともしっくりするようになった矢先、大変お世話になった地原支配人が亡くなった。
平成5年、劇場はやむなく閉館。同館のフィナーレを飾るべく、「巴座・トムホール最終映画祭」を企画、5日間にわたり開催した。地元館としてたくさんの市民に娯楽・芸術としての映画を提供してきた巴座。その別れを惜しむ延べ1600名にも及ぶ多数の映画ファンが詰めかけた。この時に「地原さんの遺志を引き継いで・・・」と、漠然とではあるが脳裏をかすめるようになった。
巴座が閉館し、ますます市内で上映される映画が少なくなった。ならばと映劇の支配人でお酒大好きの清水さんに相談、月例上映会を始めることとなった。以来2年間で10,000人以上の市民が上映会に足を運んでくれた。とどまることを知らないのが映画の世界、もうこれでよいということはない。どんどん深みにはまっていく。ここまでくれば後残されたものは自分達の劇場を持つこと、ここにとどめをさす。
僕は今、船見町に住んでいる。幸坂の中腹あたり。朝、窓からの眺めは東本願寺船見支院、実行寺、称名寺。3つのお寺が目に入る。函館湾を船が静かに行き交い、遥か対岸の上磯の山からはゆったりとした煙があがる(別にインディアンののろしではない)。思わず「今日もあつうなるぞ」(笠智衆調で)と口をついて出る。そこにはすでに映画としてのシチュエーションが存在している。
公会堂から弁天地区の町並みはセット代0円で、いくらでも撮影場所になる。古い町並みは古いからいい。そこには何世代にもわたってつくられてきた、その時代の人々の工夫が込められている。そこに新しい町にはない深みがある。
映画は人間の過去の中に入っていこうとする。町はどんどん新しくなっていく。そのせめぎあいの中で映画館は少しづつ形態を変えていく。
僕は、今、映画館をつくっている。冒頭に書いた(映画館は2度おいしいのだ)。客席71席、真っ赤な椅子が可愛らしい。場所は五稜郭本町・グリーンエステートビルの1階。市民の方や企業など、たくさんの方々の協力によって、映画館づくりが進んでいる。そしてそこには無限の夢が詰まっている。

(5)まとめにかえて
函館のまちづくりは、確実に市民の手の届く位置に戻りつつある。それをしっかりと手におさめるには、個々の市民のまちへの表現としての活動がより豊かに芽生え、それらが自立し、相互のネットワークが形成されるまでに成長することが必要とされるが、その土壌はできつつあり、またそれを達成する柔軟な知恵と行動力が市民にあることも昨今の市民まちづくり活動は示している。
函館からトラストの試みは種がまかれ、熱心なボランティアの心に支えられ、ようやく小さな芽が地上に顔を出した。2000万円の基金というのは本当に小さな芽である。しかし小さな芽といえども、函館のまちを愛する市民に支えられるならば、その土壌に大きな花を咲かせることもまた可能となろう。
最後に小さな芽が地上に顔を出す過程で、函館からトラスト事務局の活動を財政面から支援していただいた「ハウジング&コミュニティ財団」へ感謝したい。