希望の通りーダドリーストリート・ネイバーフッド・イニシアティブ−

                                地域開発1995


柳田良造

ボストンのダウンタウンから3kmほど南、ロクスベリーのダドリー通り地区にダドリーストリート・ネイバーフッド・イニシアティブ(DSNIと略)という名のNPOがある。1993年友人につれられて訪れて以来筆者は、住民主導の民間組織でありながら、ボストン市から土地収用権(eminent domain )を獲得し、荒廃したコミュニティの再建にダイナミックに取り組むDSNIの活動に、アメリカのインナーシティ再生の新たな方向として興味を持ってきた。昨年、このDSNIのユニークな活動は初代事務局長ピーター・メドフ1)によって「希望の通り」2)としてまとめられ出版された。「希望の通り」を参照しながら、DSNIの活動を紹介してみたい。

背景

ボストン市のダドリー通り周辺は古い歴史を有する地区で、1630年に最初の入植が始まり、ダドリー通りの名はマサチューセッツ湾植民地の初期の総督のひとり、トーマス・ダドリーに由来する。その後この地区はボストン都心周辺の白人の住む良好な住宅地として発展し、市電が縦横に走り、有名なストランド劇場や1920年代には世界で最初のスーパーマーケットも誕生しにぎわった。しかし50年代に入ると、急速に地区の環境は変貌する。1940年代〜50年代、南部諸州の農業地帯や鉱山の閉鎖合理化から、何百万もの黒人労働者が職を失い、ボストンなどの北東部の都市に移住した。インナーシティに従来から住んでいた豊かな白人市民は黒人等低所得者層の流入を契機に次々と郊外へ移転し、その結果残されたコミュニティは投資のストップとバンダリズムによる急激な環境悪化に直面することになった。ダドリー通り地区でも1950年代から1970年代にかけて、組織的な放火と放棄されたビルによる荒廃地の増大、ゴミの不法投棄などにより地区の環境は地滑り的に悪化し、またたくまに犯罪やドラッグの温床に変貌していった。地区内の白人の居住人口の割合は1950年の95%が、79%(1960年)、45%(1970年)、16%(1980年)、7%(1990年)と劇的に変化した。

組織化−荒廃した地域コミュニティの再生へ

現在ダドリー通り地区は人口約12、000人、人種的に多様なコミュニティで40%が黒人、30%がラテン系、7%が白人の割合で、面積は1.5平方マイル(388ha)である。地区の一人あたりの収入はボストン全体の1/3以下で、マサチューセッツ州で最も貧しい地区のひとつである。しかし多くの問題をかかえてはいるが、コミュニティはフレンドリーで暖かく、人種的な調和と寛容の雰囲気は残している。
このダドリー通り地区で、コミュニティを改善して住める環境を回復していこうという機運が生じるのは1980年代に入ってからである。1981年のロクスベリー・コミュニティ・カレッジ(RCC)の住民生活調査が地区の小さなきっかけとなり、次にタニー・リー教授率いるMITの建築・都市研究チームによるダドリー通り地区の調査が行われ、1981年12月のMITのレポート"From the Ground Up''が発表された。レポートはコミュニティの住民の組織化、公園などのオープンスペース整備、住宅建設と長期的な地区環境の再建のためのランドトラストの設立とそれを通した土地の取得を提言した。1984年2月、地区のラテン系のNPOラ・アリアンザ・ヒスパーナと地区のCDCsのNuestra Communidad Development CorporationはMITの支援を得て、コミュニティ活動家の戦略的な会議の場であるコミュニティ研究会議を設立した。4月ラ・アリアンザ・ヒスパーナの事務局長ネルソン・メルセドはライリー財団へ地区の再建への助成を申請した。ライリー財団は独自の方針をかかげ、インナーシティの問題に積極的に助成を行い、実際に環境を変える(making a difference)成果をあげることを財団運営の目標としていた。9月ライリー財団事務局のニューエル・フラッター等による検討が行われた結果、ダドリー通り地区再建の重要性が認められ、その助成額は結果的には89年までに200万ドルに達するものとなった。ライリー財団と地域の住民組織からなるダドリー・アドヴァイザリー・グループが作られ、どの住民グループにも偏らない中立の立場で進めることが決められ、ファシリテーターにインターミディアリーのコミュニティ・トレイニング&アシスタンス・センター(CTAC)が招かれた。
しかしそのころ、ボストン市再開発局(BRA)が以前に計画していたダドリー・スクェアー・プランがマスコミにリークされた。BRAの計画は総額7.5億ドルの複合開発でオフィスタワー、ホテル、住宅、歴史的環境の公園、北部地区での軽工業からなるもので、典型的なスクラップアンドビルド型の再開発構想であった。結局BRAはこの計画は住民の追い出しにつながり、本質的な貧困や荒廃の問題解消にはならないということを認めることになるが、構想が表に出たことで、長く投資対象からはずされていたこの地区は民間デベロッパーの投機的なターゲットに浮かび上がった。
1985年2月、200人近い参加者によるDSNIの最初のコミュニティ・ミーティングが聖パトリック教会で開かれ、BRAの計画への批判、計画を普通の住民にわかりやすく伝える方法、すべての人種のグループに参加してもらう必要性、地区での雇用機会の創出、代表ではなく直接住民が活動に参加できる仕組み、外部からのデベロッパーの投機的な開発を押さえるためコミュニティが土地の開発コントロールを行う必要性、などの議論がなされた。ミーティングの途中、組織の構成と理事会の立候補者が発表されたとき、会の雰囲気は大きく変わった。23名中直接の住民代表はわずか4名しか含まれていなかったので、怒った住民が次々と立ち上がって発言したのである。「コミュニティの名を冠してはいるが、この組織で地区を本当に代表しているのか」、「ライリー財団とは何者だ、信用できる人たちなのか」、「過去の組織づくりの失敗をまた繰り返すのか」等々。ネルソン・メルセド達は驚いた。住民達の真剣な声は本当に地区のコミュニティを代表する組織、住民のコントロールによる組織づくりを求めていたのである。結局、理事会のメンバーは31名となり住民代表の枠は過半数をしめるという変更案が提出され、承認された。この最初の集会で確認されたコミュニティの住民主導がすべての基本であるという姿勢は、その後のDSNIの活動を特徴づける最も基本的な原点となった。

我々の土地にごみをすてるな−地区の組織化

1986年に入ると、体制も確立しDSNIは本格的な活動を開始する。活動の基本方針はまず短期的で目に見える成果をあげながら、長期的で総合的な計画(マスタープラン)づくりを推進していくというものであった。最初の目標は、地区の誰ものが一番に困っていた空き地のごみ問題解決に取り組むことであった。ダドリー通り地区には空き地は1300以上もあり、車や冷蔵庫などあらゆるものが捨てられ毎日600tにも及ぶごみが違法に投棄されていた。DSNIは早速、近隣の扉をたたいて住民のボランティアを募り、空き地の清掃とごみを捨てるなキャンペーンに取り組み始めた。キャンペーンは大きな反響を呼び、マスコミもとりあげ、フリン市長もダドリー通り地区を視察し、市がごみの除去と投棄を防ぐフェンスの設置を行い、また違法なごみ捨て場を閉鎖することを約束した。100名以上の住民が参加した清掃活動では、美しくなった空き地でミニフェスティバルも開かれ、住民活動の最初の成果を祝う交流の場が出現した。

アーバンヴィレッジを計画する

マスタープランは住民主導で地区の将来計画をつくることであったが、計画のテーマはアーバンヴィレッジであった。アーバンヴィレッジとは住宅と商店、オープンスペース、コミュニティセンターを融合させた、多様で活気のある地区中心づくりである。多様な地区文化の顔であるだけでなく、住民の最も関心の高い街の安全にも応える、J・ジェイコブスのいう「通りへの目」のある環境、顔のみえる人間関係のコミュニティ核をつくることをめざしたものであった。計画づくりは1986年から始まり、コンサルタントを雇い、何度も住民主体でコミュニティ・ミーティングを開きながら、2年かがりでマスタープランを完成させた。その内容はトライアングルといわれる中心地区30エーカー(約12ha)に300戸のアフォーダブル住宅を建設することをはじめ、オープンスペースやコミュニティセンターを建設し、ダドリー通り沿いには商店街を再建する構想であった。1987年10月のマスタープランは地区のフェスティバルで発表され、ボストン市もただちに地区の基本計画としてオーソライズした。

土地収用権を通しての開発コントロール

1988年に入ると、DSNIはメンバーやスタッフも増え、ライリー財団以外に、ボストン・ファンデーションなどの多彩な支援組織もそろってきた。いよいよ計画の実現に向けて歩み出すことになったわけだが、計画の実現に向けての最大の問題は膨大な空き地、特にトライアングルと呼ばれる地区の中心部の空き地をコミュニティ再建の種地に転用できるかどうかであった。2月の凍りつくような寒い日、事務局長のピーター・メドフらスタッフがトライアングルエリアの空き地の調査して歩いていた。トライアングルのうち15エーカーは市所有の土地であったが、それぞれが細切れの状態で、インフィル型の住宅を建ててもバラバラになってしまい、総合的に街を再建することはできないという課題がわかった。その時、スタッフのひとりの頭に残りの民間所有の15エーカーの空き地を合わせて大きく集約する方法として、土地収用権のアイディアがひらめいた。
土地収用権とは、公共の目的のために所有者の同意なく補償だけで土地を買い上げることのできる権利で、1960年代の都市再開発等では強力な武器として使われたものであった。土地収用権を手にすることのできる団体としては行政以外には都市施設や鉄道、都市再開発を行う公益性のある限られた民間企業に限定されていた。DSNIのような草の根のNPOが土地収用権を行使できる団体かどうか、DSNIの顧問となっていた弁護士事務所の最初の仕事は土地収用権の適用可能性の調査であった。ボストンで土地収用権を行使できる組織はBRAか、BRAによって認可されマサチューセッ州法令121Aに適応した計画に取り組む都市再開発会社であることがわかった。法令121Aに基づく計画とは荒廃地区、あるいは標準以下の地区での公益に合致する安全で衛生的な住宅、商業、工業、研究、文化、行政施設とその関連施設の建設および維持管理であり、そのための土地の取得、整理統合であった。DSNIが土地収用権を獲得する法律的可能性はわかったが、次の問題は地区住民にDSNIが土地収用権を獲得することの重要性を理解してもらうこと、さらにボストン市とBRAの認可をどうとりつけるかという課題であった。
最初土地収用権に対する住民の反応は否定的であった。住民のなかには土地収用権のために、自らの住む場所を追われるような苦い経験をしたものもおり、土地収用権と聞いただけでまた住民は追い出されるのではないかと、不安に駆られたのである。この先入観を克服することはなかなか難しかった。DSNIはこの問題に関しコミュニティ・ミーティングを地区の様々な場所で開催して、土地収用権に関する徹底した話し合いを進めた。土地収用権の意図は「投機的な目的の土地所有者からダドリー通り地区全体の利益を守るために土地を取得し、コミュニティ再建の基盤を確保することであって、けっして住民の追い出しジェントリフィケーションを進めるためのものではない」と、最初は懐疑的あった住民のなかにも、土地収用権の重要性を理解する強力なリーダーが現れ、住民のなかの理解は急速に深まっていった。一方ボストン市行政に対する働きかけは同時に進められ、ライリー財団の理事などDSNIを支援するボストンの著名な法律家たちの説得がフリン市長やBRA局長など行政トップの合意をうる大きな力となった。またごみ問題やマスタープランづくりで生まれていた行政とのパートナーシップや信頼関係も問題理解に大いに役立った。1988年11月、フリン市長の強力なバックアップのもと、BRA理事会は全米で初めて草の根のNPO組織への土地所有権の承認を決定した。ただちにDSNIは土地収用権行使に必要なダドリー・ネイバフッドInc.という土地の保有と開発のコントロールを行うコミュニティ・ランド・トラストを設立し、土地取得の準備をはじめた。
土地収用地域15エーカーの買い取り資金、200万ドルの資金の手当はなかなかつかなかったが、1992年ついに、フォード財団からのローン(1%の金利)を獲得した。ただちにダドリー・ネイバフッドInc.は土地の評価額2.75ドル/平方フィートの提示し、土地収用に入った。所有者側は15ドル/平方フィートを要求したので裁判所から仲裁人が派遣され、結果的に3〜4ドル/平方フィートで土地を取得することになった。
住宅建設は1993年から始まり、10月最初の6戸がドュプレックスタイプで完成した。DSNIが誕生してから9年目のことである。95年現在では全体で74戸の住宅が完成している。うち40世帯は「持ち家」方式で、入居資格は年間所得1万8千ドル〜4万ドル、残り34世帯は「コーポ」方式で、所得レベルは1万ドル〜2万5千ドルのものである。今後は残りの住宅とタウンコモン、コミュニティセンターなどの建設が進められる予定である。

コミュニティから

DSNIの事務所を訪れた印象は、若いスタッフやボランティアで熱気にあふれ、様々な人々の出入りする様子は、土地収用権のような極めて戦略的な方法や多くの住宅の建設を進める組織の事務所というよりも、コミュニティセンターかサークルの部室のような楽しげな雰囲気であった。それは筆者の訪れたいくつかのCDCsの事務所の比較的落ちついたたたずまいとも異なっていて、いかにも地域の拠点という印象であった。DSNIの真のねらいは住民が自から誇りをもってよりよいコミュニティを求めて立ち上がり、自ら成し遂げるための核となる組織である。土地収用権やアフォーダブル住宅などの建設はその手段であり、目的はそのプロセスにある。
CDCsが多くの成果をあげながらも近年、コミュニティにある(based in communities )が、コミュニティからの方法を忘れている(not community-based)3)との批判のなかで、改めてコミュニティの原点に戻り、住民主権でその再生をめざすDSNIの取り組みは新鮮である。

注)

1)ピーター・メドフ(PETER MEDOFF)は1988年まで事務局長としてDSNIの基礎を確立し、1994年にはDSNIの活動を描いた「希望の通り」を出版したが、直後エイズで亡くなった。
2)「STREETS OF HOPE− The Fall and Rise of an Urban Neighborhood」
Peter Medoff and Holly Sklar 1994South and Press
3)同上P260