まちづくり論争の展開と環境の教育力に関する研究
日本建築学会北海道支部研究報告集No.57(昭和59年3月)
●はじめに
本研究は小樽運河の保存=埋立問題をまちづくり論争の展開過程という視点から明らかにしようとするものである。昭和58年度大会発表研究にひき続き、計画の背景と論争の問題提起の意味するものを分析し、実践的まちづくり論の方法的知見を得ようとするものである。研究の方法としては、計画の背景としては文献資料による探索をおこない、運動等実際の動きについては、当事者へのヒヤリング等により基礎資料、知見を得、それを研究者間での討論をもとに分析をおこなった。●戦後の小樽の都市計画の推移
運河問題に関して行政側の既定道路計画への固守はきわめて強い。その背景はどこにあるのか。戦後の都市計画資料の収集分析を通して、計画の流れと基本的な視点をさぐった。資料は、戦後の主な都市計画、総合計画の計画書、「小樽市のまちづくり計画の歩み」(小樽市総合計画策定会議、昭和53年6月)、小樽市史他である。
小樽市の戦後から現在に至る都市計画・総合計画の流れを図1にまとめた。おおよそ5次の計画からなるが、大きくは2つに分けられるといってよい。戦後の復興期の計画と日本全体が高度成長期に入った昭和30年代後半からの計画である。昭和48年のオイルショック以降の日本が安定成長期に入ってからの計画は、小樽の場合のそれは高度成長期と大きな変化はみられない。
戦後復興期の計画とは、昭和27年の「小樽市産業開発調査委員会答申」と呼ばれるもので、法、計画ではないとは言え、単なる産業開発の調査報告書を超えた内容をもつものである。全二万頁におよび、商業から文化厚生までに分科会による報告をまとめたものであり、戦後復計画の熱気が伝わってくるとともに、本来の意味において総合計画を呼びうる「真剣そのものの答申である。」(小樽市史大巻)
高度成長期の計画は、昭和37年の「産業振興の基本構想」にはじまる。それは小樽の都市の性格を、港湾と商工の都市として位置づけ、それまでの総合的な都市振興の方向から産業経済優先のまちづくりを目ざしたものである。運河地区の再開発、港湾道路計画なで現在の計画内容の骨子はほぼこの計画で確立されたといってよい。その後それを交通計画の面から計画補強したのが、昭和42年の「小樽市総合計画」である。この計画により小樽運河を埋め立て道路にする計画=小樽臨港線計画が、都市計画決定(昭和41年)として、はじめてオーソライズされたものである。その後昭和48年の「小樽市総合計画、総和55年〜昭和64年」と法定計画は続く。その内容は骨格として変化はなく、部分的な事業の修正がなされている程度である。その間行政機構としても、首長の後退は内部からの昇格により、連続的な行政執行がなされてきている。以上、運河埋め立て道路計画は、小樽の都市計画全体の流れと密接に関係し、高度成長期の計画思考によって組み立てられてきていることが明らかになった。その問題は、埋め立て計画の計画思想の「古さ」という直接面だけでなく、諸条件の変化に対し計画の「意味」あるいは「有効性」をチェックする機構がプラニングサイドの中で十分に作用してこなかったことにこそあると思える。●市民のまちづくりと運河問題に対する意識
小樽市民のまちづくりと運河問題に対する意識についてはアンケートとした結果をすでに発表したが、その後昭和58年10月小樽青年会議所で、まちづくりと運河問題に対するアンケートがおこなわれた。実施時期が、昭和58年10月ということで、昭和58年8月の小樽商工会議所首脳の保存宣言以降ということでもあり、昨年との対比でどういう違いがあらわれるか関心をもった。
アンケート調査は、小樽市民1000人を対象に、ハガキでの回答郵送式で、回収率は56.4%であった。回答者の属性としては、男62.8%、女34.4%職業では、商業8,2%、会社員41.9%、公務員2.8%、サービス業15.2%、会社経営4.6%、主婦9%、学生3.9%、その他11.7%である。
まず小樽のまちについては、イメージとして従来からよく言われる<親しみやすさ>があげられる一方、<保守的>、<やぼったい>、<暗い>などマイナス面が高い点を示し、将来の生活環境や人口数の予測でも、現状以下が過半数を超えるなど、暗い小樽のイメージが市民のなかに強くあることが示された。
次にその対策としてのまちづくり振興についても、<非常に不活発30.1%>、<やや不活発28.7%>と沈滞した点が示され、不活発な要因として、<市政62.8%>が一番強くあげられ、ついで<経済界39.7%>、<小樽的体質39.7%>、<計画性(シティポリシー)32.7%>と、行政と計画行為への不満が市民の中に高い程度であることが示された。
運河問題に関しての質問では、昨年のアンケートでは、道路計画見直し派、道路派と3分され、条件つきを合わせて道路派が半数を超えていたが、今回のアンケートでは、見直し派が44.7%、条件つき道路派が31.9%、道路14.0%と、見直し派が増加したことが注目される。今回の調査の被調査着の属性が男6割と就業者8割などの点を考えると、市民全般の傾向としては(昨年等のアンケート結果では、女性、若年層は保存見直し派の率が極めて高いので)、更に見直し派が増える可能性も考えられる。(図−2)こういう市民意識の変化をうまくとらえ世論化したものに、昭和58年9月からスタートした「小樽運河百人委員会」の10万人署名の運動があげられよう。次に計画の見直し、変更の成立する条件として市民があげたものは、<運河地区再開発計画>、<市民の合意>、<予算>の3条件であり、現完には大きなネックになっているとみられる<行政手続き>については、第4位にしかあげていない点は、注目に値しよう。●運河問題をめぐる意志決定の構造
実際の運河問題をめぐる意志決定のしくみに関しては、昭和56年〜昭和58年11月にかけての動きを当事者へのヒヤリング、研究チームのメンバーが直接その動きにふれるなかで得た情報を内部討論し、分析した内容が図3に示すものである。この期間は、運河問題の10年間のなかでも最も、めまぐるしい動きと流動化した展開があった時期であり、その動きを客観的に構造づけるには、情報的条件、判断的条件、時間的条件等から、現時点では大きな制限のなかにあることは免れない。ここで呈示した仮設的粗阻を今後より一般化したものへ、研究を緑化させていくのは課題であるが、現時点からの分析で報告しうることは以下の備点である。
@行政と特定の経済界(港湾業者中心)の結ぶつきが強く、重要な動きは両者の合意の上に進められること。
A行政の内部でも、土木、港湾セクションが中心であり、経済、文化部局の力はほとんど作用しない。
B市議会の多数派を保守政党が@、Aの動きを完全にバックアップしていること。
C従来から「小樽運河を守る会」を中心とする保存派「小樽運河百人委」(「守る会」を含み、商店主、工場主等、大学教宜、労働組合等の幅広い市民の連合組織)小樽商工会議所正副会 等による保存声明等の動きから、昭和58年11月に、見直し保存署名が人口の過半数を超え、10万人に近づく数(11/13、約9万5千)をあげ、大きな世論をつくった。
Dその世論の包囲網と従来から保存見直しの心情を持った革新知事の誕生から、昭和58年、11月の運河埋め立てクイ打ちの中心を目標に運動がつくられたが、上記の@ABのスクラムによって包囲網が破られた。
Eしかし、それらの過程で小樽JCのアンケートにみられる行政、計画に対する不満や、決定機構における市民参加、世論尊重の姿勢の欠如等、運河にクイが打たれた後、運動目標の設定等から、行政機構そのものを問う姿勢が、今後のまちづくりへの模索となりつつある。●まとめ
10年近い保存運動の問題提起の展開構造と環境への働きかけのかかわり通して、図4の仮設的構図を考えた。まちづくり論争を構造化したものである。まず計画論争は図4のなかではDの部分に位置づけられるが、運動は当初第1期は、計画への異議申し立てから、代替案の提示による計画論争であったが(AD)、第2期以降、環境学習型イベントをへて、運河に対する市民の環境造を変えるのに成功した後でのけいかくろんそう()は、表面上の対立点は、類似の面はあっても、その深さと質においては、新しい面を獲得していた。それが昭和58年に背理、経済界の見直しの動きや、市をとりまく経済、環境の諸条件の変化に合わせ、計画論争では保存見直し派の勝利に近いところまで進んできた背景と考えられよう。しかし、計画変更の実際のプログラムを含め、まちづくり全体へのプログラムを十分に示しえない点で、DEの動き、すなわち決定、推進の機構では成功をおさめるには至っていない原因があるといえよう。
次に保存運動の展開とは逆に からはじまり と続く、行政側での「逆流」の動きが注目されよう。機構では審議会、市議会、行政を重視したしくみである。積極的な市民の参加、合意の機構は持っていない。この点などが全般的な小樽の不振の原因のひとつともいえよう。計画においても戦後の計画の流れをそのままに延長したものであり、埋立道路計画の背景を十分に説得力あるものにしえていない。変化対応した計画立案とはなっていない。いずれにせよ行政側の「逆流」は運河問題という環境問題において、運河という環境そのものを十分にとらえ、計画、機構に反映することがなかった故(運動側にみられるの動きがまったくなかった)、折衷案というかたちで計画変更し、一定程度の歩みよりを示したにもかかわらず、十分な世論の支持を得られなかったといえよう。ここに環境の教育力の の意味と位置づけがあるとかんがえる。のち となる過程で当事者の何かがかかわるのである。この部分については、すでに 報での研究があるが、更にイノベーション論などを採用しつつ今後分析を深めてゆきたい。