小樽の歴史的環境の再生に関する研究
その10.歴史環境の変容実態(2)
−戦後における色内地区の衰退過程−

日本建築学会北海道支部研究報告集No.56(昭和58年3月)

1 はじめに
 小樽市は明治末から大正、昭和初期にかけて物資流通の一大拠点となり、商港都市として大きな繁栄をみた。しかし戦後、さまざまの社会、経済情勢の変化を背景に、小樽は都市全体として衰退の方向にある(表−1)。本研究対象である小樽の歴史環境を形成する色内地区は、繁栄時の経済中枢であったが、それがために都市衰退の影響を最も直接的に受けた地区である。
 本稿は、この色内地区の戦後における衰退過程を社会的、経済的な側面から詳細にあきらかにすることをつうじて、地区再生の手がかりをさぐることを目的としている。具体的には、1)小樽市全体における人口、産業経済の動向との対比からみた地区衰退の概要、2)地区内主産業の変化の実態、3)主産業の業種別にみた変化のパターン、の3点から分析をおこなった。

2 地区衰退の概要
 市全体の人口は昭和35年以降漸減傾向にあるが、色内地区ではそれより以前の30年から減少し、しかも減少率がきわめて高い(図−2)。55年人口の対30年比は、市全体の96%にたいし、地区では39%、2,430人であり、25年間で2/5に激減している。世帯数についても、市全体では戦後増加の一途をたどっているのにたいし、地区では昭和40年をピークに以降減少し、55年世帯数の対40年比は57%、809世帯と激減している。
 産業従事者総数は、市全体では昭和41年までは増加し、以降横ばいの傾向にあるのにたいし、地区では38年から44年および47年から56年にかけて減少を示している(図−4)。56年の従業者総数を対47年比でみると、市全体の86%にたいし地区では74%、9,859人と減少率が高い。また、小樽市の中心的な産業である卸売業の年間販売額の推移をみると、市全体の全道占有率は昭和29年の21.4%から51年には2.5%へと大巾に低下しているが、そのなかで地区の市全体における占有率も29年には60%余あったものが54年には46%へと低下している。以上、総じて小樽市全体が戦後、社会的、経済的に衰退する傾向にあるなかで、色内地区の人口減、世帯減、産業経済のポテンシャルの低下はとくに著しく、地区の激しい衰退化がうかがわれる。
 図−5は、産業別従業者数および事業所数の構成比の推移を示したものである。これによると、昭和29年における地区の主な産業は卸売・小売業(商業統計によると、卸売業が従業者数の79%、年間販売額の98%を占めており、卸売業が中心であるといえる)、運輸・通信業、製造業、金融・保険業の4産業であったことがわかるが、このなかで卸売業と金融・保険業に減少傾向がみられるのが特徴的である。

3 地区内主産業の変化の実態
 地区における4つの主産業について、従業者数および事業所数の推移を図−6、7、8に示す。これによると、各産業の変化にはいくつかの共通する傾向や特徴的な点がみられる。一つは、運輸・通信業と金融・保険業の事業所数の変化において、昭和32年から38年にかけて増加するが、38年を転換点として減少に転じ、以降44年までそれが続くという共通点がみられることである。これは、38年ごろにこれらの産業に大きな影響を与えるようなインパクトが地区に生じたことをうかがわせるものである。もう一つは、従業者数の変化において、運輸・通信業では事業所数の変化と同様に38年ごろに増加から減少へ転じる変曲点がみられるのにたいし、金融・保険業では41年ごろに、卸売業ではさらに事業所数とともに41年ごろに変曲点があることで、これらの産業の変化の過程には微妙なズレがあることがうかがえる。他に特徴的なこととして、運輸・通信業の従業者数の変化において、32年ごろにも変曲点がみられることと、41年以降になると大巾な変化はほとんどなく、おおむね一定していること、ピーク時とくらべて最近の従業者数の割合がとくに金融・保険業では昭53/41比23%と激減していること(他の2つの産業ではいずれも70%台である)などがあげられる。なお、もう一つの主産業である製造業は、従業者数の変化でみると、昭和43年まではおおむね増加の一途をたどり、45〜49年ごろを変曲点として以降減少傾向にあり、他の主産業とは大きく異なる変化を示している(図−8)。

4 主産業の業種別にみた変化のパターン
 ここでは、4つの主産業のなかで、変化に共通する傾向がみられた運輸・通信業(主に運輸業)、金融・保険業、卸売業について、地区の性格を特徴づけていた業種にさらに細かく分類し、それぞれについて戦後における変化の特徴をあきらかにする。
 各業種の変化の実態を分析すると、おおむね次の7つにパターン化することができる。以下、その内容と特徴について述べる。
1)昭和25年以降減少し、46年までにほとんど姿を消してしまったもの。海産商、木材商、繊維商など一部の外部資本の卸売商がこの時期に撤退してしまったのである。
2)昭和33年以降減少し、46年までにほとんど姿を消したもの。3)の影響にくわえて、エネルギー革命、港湾政策の転換など、この時期にさまざまの変動要因が複合化したことを背景に、海運業、銀行、石炭商、総合商社・貿易商といった大手外部資本の諸業者が軒並撤退していった。
BAと同様に33年以降減少傾向にあるが、現在でも33年時の5割くらいの勢力を保持しているもので、地場資本の海産商、雑殻商、港湾運送業などがこれにあたる。
CAの影響をうけて46年以降減少し、現在ほとんど姿を消してしまったもの。海上火災保険業・外資、繊維商・地場、 工品品商・地場など。
D大巾な変化がみられず、おおむね一定しているもので、とくに倉庫業・地場がこのタイプである。他に海運業・地場、食料品商・外資など。
Eおおむね一定しているが、Dにくらべて若干の変動がみられ、昭和46年以降やや増加傾向にあるもの。地場資本の食料品商、漁網・漁具商、金物商などがそれで、@からCの変動の影響をうけながらも地道に勢力を保持し続けている。
F昭和25年以降現在まで、増加の一途をたどっているもので、地場資本の陸運業、菓子商がこれにあたる。

5 まとめ
 戦後、小樽が都市全体として衰退化の方向にあるなかで、とりわけ色内地区の衰退が激しい。地区の人口・世帯の減少および産業経済の沈滞の度合いは市全体とくらべていずれも高い。繁栄時の経済中枢であった当地区は、小樽の都市衰退がもっとも象徴的にあらわれている地域だといえる。
 地区の衰退過程は、戦後まもなく一部の外部資本の卸売商(海産商、木材商)が姿を消したものを皮切りに、30年代半ばから40年代半ばにかけて、地区に支店や出張所をかまえていた海運業、銀行、総合商社、石炭商などの大手外部資本の業者のほとんどが撤退するという、地区の産業構造をゆるがす大変動がおこり、それが他の産業の動向−とくに地場の業者に大きな影響を及ぼしたと考えられる。影響のあらわれ方は、ほとんど潰滅状態におちいったもの(木材商、繊維商など)、そこまでにはいたらないが勢力がほぼ半減したもの(海産商、雑殻商、港湾運送業など)、大巾な変化がみられずあまり大きな影響をうけなかったと思われるもの(食料品商、漁網・漁具商など)、逆に勢力を伸ばしているもの(菓子商など)等、さまざまである。総じて、地場の業者においても経済的な活力の低下がみられることは否めないが、変動の影響をうけながらも根強く生き残り、地道に勢力を保持し続けている面もある。
 地区再生には、これら地場の産業の底上げを基盤とする産業経済のたて直しをはかることが重要な課題の一つであるが、その場合、先の変動の影響をあまりうけなかった産業に関して調査、分析するなかから、課題にとりくむ具体的な手がかりが生まれてくるかもしれない。また一方、陸運業の中央ふ頭への立地や倉庫業者の勝納ふ頭への転出の意向など、地区の主産業である運輸業の地区外への流出傾向が著しく、かつてのような港湾背後地の物流拠点としての性格がほとんど失われつつある現状においては、地区のあらたな位置づけを明確にし、住機能の回復とあわせて新しい産業機能の設定とそれを誘導していく対策が講じられる必要があろう。




小樽の歴史的環境の再生に関する研究
その11.市民意識と保存運動(3)
−保存運動の展開過程と市民意識の変化−

日本建築学会北海道支部研究報告集No.56(昭和58年3月)

1.はじめに
 小樽の歴史環境は、一部では早くからその価値が評価されていたが、市民の広範なかつ積極的関心を得るに至らず、地区のポテンシャルの低下、環境の荒廃も進行し、現在、その再生が必要とされている。物的環境の再生はもとより、再生の原動力として市民の歴史環境に対する誇り、まちづくりに対する積極的関心をいかに回復していくかが重要である。
 長年に渡り展開されている小樽運河の保存運動は、単に道路建設による歴史環境の破壊に対する異議申し立ての運動にとどまらず、広く市民の歴史環境に対する石に働きかけ、自らもまちづくりに対する積極的関心を生みつつある点、注目される。個々では、保存運動の展開過程を概観するとともに、市民に与えた影響をアンケートをつうじ明らかにし、歴史環境の再生計画にどのように影響しているかをながめてみたい。

2.保存運動の展開過程
 小樽運河の保存運動は、1973年の「小樽運河を守る会」の発足に始まる。小樽の貴重な歴史環境である小樽運河(周辺石造倉庫群を含む)が、幹線道路建設により破壊されるのに反対し、小樽運河を保全し歴史環境を市民生活に生かしたまちづくりを代案に運動がすすめられている。運動の展開過程を年表にまとめたのが表−1である。運動は大きく次の3期にわけてみることができる。
第1期(1973−1976)
 「小樽運河を守る会」と市行政の間で話し合いがもたれた時期。貴重な問題提起ではあったが、運動は議会への陳情や行政への抗議に終始がちであった。
第2期(1977−1981)
 保存運動のすそ野が広がり運河を舞台にした市民手作りの祭りや、歴史的町並みをめぐるタウンオリエンテーリングなどの「環境学習型」イベントが矢継ぎ早に展開された時期。創意にとんだ方法により、共感をよび歴史環境に対する市民意識を啓発したと考えられる。全国的にも注目を集めるようになった時期でもある。
第3期(1982−    )
 環境が大きく変化する要因が生じているなかで、運動が実際の環境の工場に資しているかどうかが問われている時期。啓蒙から実践の段階への移行が必要であり、その模索として石造倉庫買取り再生募金運動(ロフト基金運動)が着手されている。

3.保存運動が市民に与えた影響
 小樽運河の保存運動と市民の関わりについて、アンケートで次の点を調査した。@保存運動は市民にどの程度認知され、共感をえているか。またどの程度参加しているか。Aこの間、市民の歴史環境に対する意識はどのように変化したか。B運河の保存問題にどのような意見をもっているか。
 アンケートは、1982年7−8月に実施。対象は山手住宅地区(緑町)、都心商業業務地区(稲穂…色内町)各150戸。回収率は84%、235戸。@の項目でアンケートの対象とした運動は、「小樽運河を守る会の運動」「運河を舞台にした祭り」「歴史的町並みをめぐるタウンオリエンテーリン」「小樽運河研究講座」の4つとした。Aについては、1976年に北大住居地計画学講座で実施したアンケート(388戸対象)と比較分析した。両アンケートとも回答者は30〜60才台を中心に男女ほぼ半々。自営業、事務・サービス業勤務、主婦などが若干多い。
@市民と保存運動
・それぞれの運動は、市民に比較的良く知られており、「運河での祭り」で9割「守る会の運動」で8割。地味な運動である研究講座においても3割が知っている。・運動に共感する人は5〜6割で、各々の運動を知っている人に限れば6〜9割が共感している。・共感の理由に「運動を見直すきっかけとなった」をあげる人が3割5分と多いのはもとより、「歴史的町並みを見直すきっかけとなった」「観光価値を高めた」「ふれあいが生まれた」「まちへの愛着を深めた」などが2割5分〜3割5分と、まちづくり運動として、巾広い面から評価されていることがわかる。・しかし、運動に直接参加したことがある人は、「運河での祭り」の3割を除けば、それぞれ1割にみたない。(図1、2、3)
A市民と歴史環境
・「環境学習型」イベントを中心とした保存運動第2期を境に市民の歴史環境に対する意識は次のように変化している。・「小樽」といえば第1に歴史環境を想起する市民はどの程度いるか。’82年の調査では、坂・海などの自然環境が約5割で上位を占め、3番目が小樽運河で約1割となっている。’76年の調査では、運河は5番目で約5分。3番目にあげられているのは古い町並みで、1割弱であった。市民の町に対するイメージは自然環境を中心に大きく変わっていないが、歴史環境においては、特に小樽運河という特定のイメージが強まっているといえる。・歴史環境に対しての好き嫌いの評価では、「非常に好き」「まあ好き」合わせて7割。残りは「好きでも嫌いでもない」で、「嫌い」などマイナスの評価をするものは皆無に近い。’76年の調査に比較すると「好き」というプラスの評価が増加し、マイナスの評価が減少している。特に「非常に好き」と答えたものが、1割増加しているのが目立つ。・歴史環境を今後どのようにしていくのがよいかについては、スクラップ・アンド・ビルトの考え方をもつのは1割弱で、8割以上が何らかの保存を考えている。そのうち現状のままの保存を考えているのが2割、必要に応じて内部の改修をおこなうなど修復、再生型の保存を考えているのが6割強となっている。’76年との比較では、若干スクラップ・アンド・ビルトの考え方が減り、保存、特に修復、再生型の保存を考えるものが増えている。(図6、7、8)
B市民と小樽運河保存問題
・市民が運河の保存問題についてどのような考えをもっているか、1977年6月実施の小樽商大経済史研究会のアンケート(800戸対象)との比較も含め分析する。・運河を埋め立てて幹線道路をつくる計画があることは回答者全員が知っている。’77年の調査では8割であったのが市民に広く知れ渡ったといえる。これに関連するが8割以上の人がこの1ヶ月以内に運河を訪ねており、実際に市民の目にふれる機会も多いといえる。・運河の保存問題に対しては、保存の意義を認めず、道路建設を積極的に推進する意見は1割弱。保存の意義は認めながらも道路建設優先の意見が3割。保存を優先すべきだが、一部事業が着手されている現在、道路建設もやむをえないとの意見が2割5分。保存・再生のために道路建設を見直すべきだとする意見が3割強となっている。’77年の調査では、設問が、道路建設か保存かの二者択一であったので直接比較するのは無理があるが、道路建設の意見が3割弱、保存の意見が5割弱であった。他に、無関心、わからないと答えたものが3割弱いたのが今回はほとんど全員が何らかの判断をしていることが注目される。全体としてみれば、現時点に至ってもなお全市的コンセンサスは形成されておらず、意見の分裂が著しいといえる。特に、道路建設事業も運河の直前まで進行し、運輸省の運河埋立認可がおりる寸前の状況での判断で、道路建設の見直しを求める意見が3割強あるのは大きい。(図9、10、11)

4.歴史環境再生計画との関わり
 小樽の歴史環境においては、1966年8月に運河埋め立てによる幹線道路建設(6車線、一部4車線高架)が計画決定され、周辺の石造倉庫群もスクラップ・アンド・ビルトによる近代化が検討されていた。1973年12月に始まる小樽運河保存運動が歴史環境の再生にどのように貢献してきたか、歴史環境に対する国内世論の変化など、運動単独の成果とはいえない面も多くあるが、現在までの再生計画の動きを報告する。
 ・1980年9月、 道路計画の一部都市計画変更。4車線の高架計画をやめ、巾40mの運河のうち埋め立て部分を19.54mとする。・1980年12月、小樽運河とその周辺地を環境整備計画。道路建設にあわせて、運河沿い散策路の整備、運河の浄化の行なうなど、8計画を検討。・1982年5月、市行政、商工会議所などを中心に小樽運河地区再開発委員会を設置。一部石造倉庫の保存再利用を含め、商業、文化、レクリエーション・コミュニティの複合的機能をもつ観光・リゾート地区として再開発の構想づくりに着手。・1982年6月、史行政、学識経験者、市民代表、歴史的建物所有者などからなる小樽市歴史的建造物等保存審議会を設置。建造物及び景観保全のための条例策定を検討。・1982年8月、移転あるいは一部取り壊しが検討されていた運河沿いの代表的石造倉庫を市が買収、現地保存することに決定。今後の用途は未定。(図12)

5.まとめ
 小樽運河の保存運動は@広義の学習活動として歴史環境に対する市民の理解、評価に影響を与えたことがうかがわれる。歴史環境に大きな影響を与える幹線道路計画を変更させるには至っていないものの、断片的ではあるが歴史環境の再生に結びつく施策を導きだす大きな要因となっている。
 小樽の歴史環境の再生を考える場合、現在、ようやく歴史環境の将来像が議論の途についたばかりで、十分コンセンサスが形成されないまま道路建設事業が先行しているのには大きな問題がる。今後、再生をすすめるにあってはコンセンサスを形成することが重要な課題であり、そのためには市行政の柔軟な対応が必要である。あわせて、保存運動(まちづくり運動)を環境再生をすすめる源動力として移動的に生かせる社会的体制を考えることが重要である。


小樽の歴史的環境の再生に関する研究
その12.歴史環境の変容実態(3)

日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)昭和58年9月

■はじめに
 2および3稿において、戦後、本研究対象である運河・色内・緑山手地区の物的環境が悪化し、環境の維持主体が流出していること、その大きな要因として地区の経済的ポテンシャルの低下があることをあきらかにしたが、本稿ではそれをふまえて、@地区の産業経済の変容実態を、地区の性格を特徴づけていた産業の業種の事業所数、従業者数のなかで地区衰退の構造をあきらかにすることをつうじて、歴史環境再生の方策をさぐるものである。

■戦後における地区の産業経済の変容実態
 地区の性格を特徴づけていた産業は卸売業、運輸業、金融業であるが、それをさらに細かく業種別に分類し、それぞれの事業所数、従業者数の変化を分析すると、おおむね次の7つにパターン化することができる。
 以上より、戦後における地区の産業経済の変容過程は、戦後まもなく一部の外部資本の卸売商(海産商、木材商)が姿を消したのを皮切りに、30年代半ばから40年代半ばにかけて、地区に支店や出張所をかまえていた海運業、銀行、総合商社、石炭商などの大手外部資本の企業がほとんど撤退するという、地区の産業構造をゆるがす大変動がおこり、それが他の産業の動向−とくに地場の業者に大きな影響を及ぼしたと考えられる。影響のあらわれ方は、ほとんど潰滅状態におちいったもの(木材商、繊維商など)、そこまでにはいたらないが勢力がほぼ半減したもの(海産商、雑殻商、港湾運送業など)、大巾な変化がみられずあまり大きな影響を受けなかったと思われるもの(倉庫業、食料品商、漁網・漁具商など)、逆に勢力を伸ばしているもの(陸運業、菓子商)等さまざまであるが、総じて地場の業者においても経済的な活力の低下がみられ、地区の経済は著しく衰退した。また、勢力を伸ばしている陸運業と大巾な変化がみられない倉庫業についても、前者は中央ふ頭への立地、後者は勝納ふ頭への転出の移行にあるなど、地区の性格を特徴づけていた産業のなかでも唯一勢力が保持されていた運輸業の地区外への流出傾向が著しく、かつてのような港湾背後地の物流拠点、商業業務中心としての性格はほとんど失われてしまったといえる。

■地区衰退の構造
 これまでに小樽の歴史地区の変容実態を経済、環境、社会の各側面からあきらかにしてきたが、それらの相互間連のなかで地区衰退の構造を示したのが図1である。すなわち、小樽をめぐる社会・経済的な条件の変化を背景に、地区の経済が激しく衰退したことを大きな要因として、地区の環境を維持管理していた主体の流出等、コミュニティが衰退し、水辺や歴史的建築物群からなる特色ある景観の悪化等、アメニティが低下した。この経済、社会、環境の相互間連が悪循環となって、ますます地区衰退を進め、深化させていくという構造がある。これに加えて、小樽の場合、都市政策の意志決定機構が保守的、閉鎖的であるように思われ、それが再生へのきっかけがなかなかつかめない要因になっていると考えられるが、この点の実証的な解明は今後の研究課題である。

■むすび
 地区衰退に歯止めをかけ再生へと導くには、社会・経済的条件の変化に対応した都市政策の転換−具体的には、港湾整備中心から地区の特色ある景観をいかした観光振興、手工芸等の地場産業振興などを中心とした産業経済政策へ、郊外の住宅地開発中心から当地区を含む都市中心部の生活環境整備中心へ−を図ることが必要であると考える。


小樽の歴史的環境の再生に関する研究
その13.市民意識と保存運動(4)
−論争の構造とまちづくり運動への可能性−

日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)昭和58年9月

■はじめに
 小樽運河をめぐる問題にいては、都市全体の衰退を原因とする歴史環境の荒廃の問題とともに、10年近いわゆる小樽運河保存運動の持続という「空間をめぐる紛争」の大きく二面の都市問題があるといってよい。保存運動については、すでに運動の経過や市民意識について発展しているが、本編では論争の構造と市民の歴史環境に対する意識の分析を通し、保存運動がまちづくり運動へとすそ野を広げていく可能性について述べたい。

■論争の構造
 ’73年に小樽では、運河地区と並び称されていた有幌地区の石造倉庫群が問題の道路事業で破壊されたのに驚いた市民が「このままでは運河も同じ運命になる…」と、たちあがったのが保存運動のスタートであるが、その時の主唱は@小樽運河と周辺の歴史的建造物は重要な文化遺産であるA運河をきれいにし、公園として整備しようB代案をたてての道路計画の 本的見直しの3点であった。それに対し、行政側は運河埋める既定道路以外は考えられない。運河の文化的価値については、景観の方針であった。この文化価値の無視に対しての市民側の意義申し立てが運動の出発点であった。
 その後、’78年に保存運動側が運河を中心とする市民の祭り(数万のひとが集まり、市民を驚かせた)を成功させたのをはじめ、様々な環境イベントを展開し、小樽運河の名が一躍全国的にも有名になるとともに、出口のない斜陽と続く小樽のまちの再生を、歴史環境の観光・文化的開発による方向に求めるまちづくりの理論武装を行なう過程で、都市開発の方向を従来の港中心に置く行政側と基本的な方向で対立することが明らかになってくる。しかし行政側が世論の高まりを受け、’79年以降「できるだけ運河を残し、整備しながら計画を進めるという方向に軌道を修正し始めるため、運河環境整備、歴史的建造物保全条例の構想、石造  の買い上げ保存といった、保全的側面が強調されていくことになる。しかし、’83年3月に歴史的建造物保全害存会の答申を出した会の代表の発言のなかにも、「運河は歴史的町並みのひとつの重要な要素。だが、その価値裁断にこだわってばかりいては、全体的な保存計画が立てられないので、判断については答申に含めませんでした。」とあるように、現時点でも運河の文化的価値は明確には認められていない。計画時点から17年を経過した道路計画を見直しの方向は示されていない。このように基本像での対立が いたままであるが、’82年に入り大手資本の運河地区への観光リゾート開発の構想とともに、従来道路計画を行政とともに支えてきた商工会議所を中心とする経済興に、保存派=運河観光開発論への急速な接近がみられるようになる。ここにきて対立の構造が大きく変わろうとする側面もみられるようになってきている。

■歴史環境に対する市民意識
 現在そういうなかで、運河を中心とする歴史環境に対する市民の意識が、従来の極端に分裂していた状態から(図1参照)、徐々にではあるが、すくなくとも観光的な面からは、まちのアイデンティティとしての共感を得てきているのではないだろうか。運河を中心とする歴史環境に対する市民の意識についてアンケートを’82年7〜8月におこなった。対象は山手住宅地区(緑町)、都心操業業務地区(  色内町)各150戸。回収率は84%、253戸。’76年に北大住居地計画学講座で実施したアンケート(388戸対象)や’77年6月実施の小樽商大経済史研究会のアンケート(800戸対象)との単純な比較はできないものの大きな傾向としては、市長の歴史的環境への共感が次第にひろがりつつあるといえよう。そのなかで道路問題については、道路建設を積極的に推進する意見は1割弱と減ってきているも、判断は偏然分かれたままで、全史的なコンセンサスは形成されていないといえよう。

■まとめ
 運河の文化的価値について未だ一枚点がないように、論争の構造のなかには、運河=心的な構造世界と、運河=物的な交通空間の、対立が続いており、解決の路は開かれていない。それぞれの当時者にとってみれば、互いが心的ななわばりの侵害ともなるわけであり、一歩も譲れない状態となっている。しかしその内容については、不毛な泥沼化した状態というようりも、それぞれがまちづくりに対して前向きの姿勢を示しているともいえる面もある。とくに石造倉庫の保存再生など徐々に動き出している面もある。本来的に都市の町並みの問題とは、十年、二十年スパンの問題ではないとすれば、この小樽という地域にとって、独自のどういう町並みづくり、まちづくりのルールがつくられていくか、生みの苦しみにつきあいつつ、更に注目してゆきたい。


小樽の歴史的環境の再生に関する研究
その14.市民意識と保存運動(5)
−「環境学習型」イベントと「環境の教育力」−

日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)昭和58年9月

1.はじめに
 本稿は、前稿に続くもので昭和57年度学会大会講演で報告した「環境学習型」イベントが、市民の環境に対する意識にどのような啓発的役割を果たしたかアンケート結果を中心に考察する。
 アンケートは、1982年7−8月に実施。対象は山の手住宅地区(緑町)、都心商業業務地区(稲穂、色内町)各150戸。回収率84%、253戸。回収率は30〜60才台を中心に男女ほぼ半々。職種では自営業、事務、サービス業勤務、主婦などが若干多い。アンケートで対象とした「環境学習型」イベントは@運河での市民手作りのまつり「ポートフェスティバル・イン・オタル」A歴史的な町並みと建物に散策をつうじて親しみ再発見するタウン・オリエンテーリングB運河問題とまちづくりに関する総合的な学習の場づくりとしての「小樽運河研究講座」の3つである。さらに当初より小樽運河保存運動にとりくんでいる「小樽運河を守る会」の運動もアンケートの対象に加えた。

2.「環境学習型」イベントに対する市民の評価
 「運河での祭り」は、市民の9割に知られ、3割が祭りに参加しており、各イベントの中では最も地域の生活に定着しつつあることがうかがわれる。活動に共感するものも6割5分と多く、共感しないものの5倍にのぼる。共感の理由は「観光価値を高めた」「運河を見直すきっかけとなった」「人と人とのふれあいが生まれた」ことによるとするものが多い。特に「観光価値」「ふれあい」といった側面からの評価が、他の活動に比較して高い。
 「タウン・オリエンテーリング」を知っている市民は「運河での祭り」よりは少なくないものの約6割が活動を知っている。市民の評価は、5割が共感をもっており、共感しないものの約3倍である。共感の理由として「歴史的な町並みや建物を見直すきっかけとなった」とするものが、他の活動に比べても多い。その他「まちへの愛着を深めた」「観光価値を高めた」などの評価も高いのが特徴である。
 「小樽運河研究講座」は、イベントとしては地味であるが3割の市民が知っている。(毎回50人程度の参加ではあるが、全9回にのぼる講座の内容が記録集にまとめられ書店におかれている)評価としては共感する市民が約3割で、共感しないとする市民とほぼ同数である。これは活動が市民に広くは知られていないことが影響している。活動を知っている人に限れば、5割が共感しており、共感しないものの3.5倍となる。共感の理由としては「運河や歴史的町並みを見直すきっかけとなった」とするものが最も多いが、「まちについて語り合う話題を提供した」という評価も高い。
 「環境学習型」イベントを「小樽運河を守る回」の運動と比較すると「運河での祭り」「タウン・オリエンテーリング」など”共感しない”という否定的なうけとめ方が少なく、評価も「運河を見直すきっかけとなった」ことにとどまらず、「観光価値を高めた」「ふれあいがうまれた」「まちへの愛着を深めた」など、各々のイベントの特色を発揮し、全体としてまちづくりの啓発運動として巾広い面から評価されていることがわかる。

3.「環境学習型」イベントと「環境の教育力」
以上アンケートをつうじてえられた評価と「環境学習型」イベントの動機・方法などの特徴を図−5に整理した。市民の意識啓発にイベントが実際にどの程度作用しているかについては、短期間の観察では明らかにできないが、市民の評価や、環境に対する意識、まちづくりに対するとりくみの流れをみると何らかの寄与がうかがわれる。この「まちづくり意識を啓発する力」とでもいうべきものの源はどこにあるか。この力を「環境教育力」とし、図−6に示す内容で構成されるものと仮設をたててみた。すなわち、環境そのものがまちづくり意識を啓発する力を内包し、その環境に係わる人間集団による社会的啓発力とともに「環境の教育力」を形成するというものである。歴史環境保全の意味も、従来おもに指摘されてきた景観や観光資源などの面に加え、すぐれた「環境の教育力」をそなえた資源として、まちづくりの実践に新しい示唆を与えはしまいか。この「環境の教育力」については、今後小樽の歴史環境を中心に、環境の物的特質や環境にまつわる歴史、さらに環境・歴史とともに形成されてきた市民気質などの調査研究をすすめ、今後のまちづくり市民運動の展開の分析とともに考察を深めていく。