小樽の歴史的環境の再生に関する研究 
             その1.研究の目的と方法
           
           日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)昭和56年9月


■研究の目的
 現在、歴史的環境としてとりあげられる多くの地区は、特色ある景観や伝統文化を有するが、反面その地区自体や地区の位置する地域が活力を失っている状態で、整備課題が問題となる場合が多い。整備手法としては、特色あるものを保存していくということ以上に、地区の生活内容の改善や環境の底上げが必要となるケースである。本研究の目的は、小樽市の臨港部に広がる歴史的環境を対象として、地区整備、環境開発の方向を分析することにより、地域社会における「ストック」の保全的革新の課題と方法をさぐることを目的とする。
■研究の概要
 ○調査対象地区
 小樽は明治初期に北海道開拓の玄関口として位置づけられて以降、明治後半から大正にかけては北日本有数の商港として栄え、物資流通の一大拠点となった。しかし、その後、第二次大戦をはさみ、商港の喪失や流通システムの変動により、経済的な活力を失ったが、反面急激な都市の更新が進まなかった故、明治から大正にかけての築栄時の特色ある景観を現在も有する都市である。
 とくに、小樽の都市景観は、木骨石造という特色をもつ石造建築によって特徴づけられる。この小樽の木層石造建築の成立あるいは意匠的、構造的特質については、すでに建築史の分野からの論考があるが、その明治中期から後半にかけての木骨石造建築の遂行とまちの発展や市街地の拡大との結びつきは、まちづくりと建築のダイナミックな融合をかいまみさせるものがある。
 また明治から昭和初期までの木造、レンガ造、RC造の幅広い機能にまたがった近代建築群が市街地に数多く残り、石造建築からなる景観とともに特色ある市街地景観をつくり出している。とくに石造倉庫群を中心に、これらの近代建築群はかつての商業中心であった臨港部に位置し、当時の土木産業施設である運河や桟橋とともに「水辺」と一体となった歴史的環境としてその特色を一層高めている。
 臨港部に広がる歴史的環境の性格により分類すると、
 倉庫地区・・・・・小樽運河地区、有幌地区
 商業業務地区・・・色内地区、緑山手地区、堺町・旧港町地区、入舟地区
に、分けることができる。地区別の形成過程、景観上の特質・市民生活とのかかわり、環境の質、維持能力等の概要をまとめたものが表である。このなかで有幌地区については、形成過程においても、運河地区と同様、舟入潤に開いてつくられた倉庫群であったが、昭和47年から48年にかけて、現在「小樽運河保存」の問題となっている道路計画により、面的な集積が破壊されてしまった。また堺町・旧港町地区についても、当道路計画の影響により大きく環境は変わりつつある。
○研究の方法
 道路計画をはじめ、港湾との関係など、変動要因の多い地区であるが、次の三つの視点から地区を分析する。
1)都市構造の変遷からみた歴史的環境−都市問題上の問題点の仮説化
2)地区レベルでの維持主体の動向−維持能力の低下
  建物レベルでの維持主体の動向−維持主体の流出
3)市民意識として歴史的環境−関心の高まり


小樽の歴史的環境の再生に関する研究
その2.歴史的環境の動向
−色内・運河・緑山手地区を中心に−



日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)昭和56年9月

■はじめに
 本編では、小樽の歴史的環境を形成する地区として、色内・運河・緑山手地区を中心にその現況を肥え、さらにその動向を分析し、今後の歴史的環境維持の課題をさぐる。
■地区の現況
 この地区は港湾背後地であり、人口3129人、世帯数1001世帯(注1)で市全体の約2%を占める。人口密度は約70人1haよりかなり低い。土地利用は、北側が工業地域、南側は、色内大通りの港側が準工業地域、市街地側が商業地域となっている。地区の商業機能の中心は、市域全体の売上高の60%を占める卸売業であり、雑殻、医薬品、非鉄機械などの業種が集中している。歴史的にも、港湾商業都市小樽の最盛期以来、経済中心の位置を占め、金融業、倉庫業など、往時の小樽を象徴する建造物が、多く残されている。(図−1,図−2)
■地区の動向
 地区の経済機能は、戦後、小樽の港湾商業の性格の変化や、地位の低下とともに変容しつつある。昭和35年には、地区内に12行を数えた銀行も、中央への引揚げや出張所への格下げなどで、現在では2行を残すのみであり(図−3)、卸売業の道内におけるシュアも下がり(図−4)、地区の経済的ポテンシャルの低下を示している。また小樽港の港湾としての地位も下がり(図−5)、大手海運業者も、日本郵船、三井船舶、三菱海運など本州資本が、昭和30年代から現在に至るまでに、そのほとんどが引上げてしまった。昭和56年から実施される倉庫近代化事業により、運河地区の倉庫機能が勝内に移るなど、港湾背後地としての地区機能も大きく変容しようとしている。
 地区の人口は、市全体の夜間人口が漸減傾向であるのに対し、昭和30年〜昭和40年の間に約1/2に激減している。一方世帯数でも、市全体の漸増に対して、3/4に減少しており、この期間の地区の大きな変容がうかがわれる。(表−1)これは既成市街地内でのドーナッツ化現象、住居併存商店などの企業倒産、転出などによるものと考えられる。流出人口の大半は、若年層であり、地区の人口構成の老齢化が進行している。
 地区をとりまく環境の変化として、交通量の変化とそれに伴う道路事業があげられる。地区のほぼ中央、小樽中央郵便局前交差点の交通量の変化は、海岸と平行する色内本通線の交通量増加が著しく、地区には直接関与しない地区内通過交通量の増加によるものと考えられ、バイパス化の傾向がある。(表−2)この様な交通量の増大に伴ない駐車場整備の立ち遅れなどから、無制限な路上駐車がみられ、地区の景観を悪化させている。さらに、6車線の幹線道路が、運河を埋め立てて地区内に建設される計画があり、一部事業化に伴う通過交通量の増加がみられる。
 歴史的に地区を特徴づけている、水辺と市民の係わりにも、変容がみられる。かつては市民に身近な存在であった水辺も、海岸の埋立てや岸壁化、あるいは河川の暗渠化によって自然の姿が失われた。運河も、港湾の近代化で海運の中心が、埠頭岸壁へ接岸荷役に移ったため、生産活動の場でなくなり、維持管理が行われず、水質汚濁、悪臭発生などの環境悪化がみられる。さらに埋立地の臨港鉄道の建設も、海面への接近に対する障壁となった。このように、港湾整備の動向は、市民の水辺との係わりが疎遠になる過程でもあった。この動きに対して、港湾中心への旅客桟橋の設置の他、古くは、開道50周年記念博覧会(T−7)や海港博覧会(S−6)、最近では、潮祭り(S42〜S45)やポートフェスティバル(S53〜)など、市民を水辺へ誘う動きに注目したい。(図−6)
■まとめ
 以上の分析から○歴史的建造物の所有者、および地区の経済的ポテンシャルの低下 ○地区の環境維持主体である居住者の現象 ○モータリゼーションの影響 ○市民と水辺の係わりの疎遠化、という地区の動向が把握された。
 従って地区の歴史的環境再生の課題は、○経済的ポテンシャルの低下と地区機能の変容に伴う地区の見直しと新たな位置づけと関連して、新規居住者の誘引によって過疎化に歯止めをかける。特に若年層の流出を防ぎ人口構成の活性化をはかる ○モータリゼーションの圧迫をのぞくために、交通規制や駐車整備、さらには、交通体系を見なおすC疎遠になった市民と水辺との係わりを港湾地区の見直しをつうじ新たに組立てる。合わせて市民と水辺との係わりを取りもつイベントを継続する。などが上げられよう。


小樽の歴史的環境の再生に関する研究
その3.歴史的環境の変容実態
−色内・緑山手・運河地区の昭和40年代を中心に−

日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)昭和56年9月

 
本編では、歴史的環境が著しく変容した昭和40年代を中心に、地区レベルでの変容実態を、所有者の動向などを通じて明らかにし、計画の課題を検討する。

1.色内・緑山手地区
 当地区は昭和初期に金融・卸売業を主とする小樽の経済中枢として形成され、昭和40年以前までは個々の建物についてはほとんど変化することなく、すぐれた歴史的環境を構成していた。しかし、昭和40年代に多くの建物が改造され(図−1)、景観は大きく変貌しつつある。47棟の建物のうち、建替8棟、取り壊し2棟、転用15棟で、全体の53%を占める。これらは周囲の町並みに調和せず、連続感をそこなうものが多い。表−1は建物変容の具体的な内容を示したものであるが、これによると、○4行あった大手都市銀行は軒なみ撤退し、建物は他の用途に転用されたと同時に改変されている ○銀行以外の外部資本業者も撤退あるいは降格している ○転用された建物は、主として地元資本業者が同じ地区内の他の建物に機能を移したものである。また、移動後に入居した建物は維持状態のよくないものが多い ○建替がおこなわれた建物には自動車関連業種の進出が目立つ。これらは、異質なファーサードや駐車場確保のための壁面線の後退など景観の連続性をそこなっている ○大改造をおこなっている建物には、主として地区の性格とは関連性をもたない家電関連業種(主に札幌資本)が進出している、ことなどが変容の特徴としてあげられる。
 建物所有者の変動に伴う歴史的建築物の改造に対して、建造当初より所有関係に変更のない建物は、概念維持管理が良好である。

2.運河地区
 当地区は明治22年の埋立て、石造倉庫の建設、大正12年の沖合い埋立て、RC造倉庫・工場群の建設という過程をへて形成された。その後、大きな変化を受けることなく、現在の景観は概念大正末のそれをつたえている。しかし詳細に分析すれば、いくつかの変容の特徴をあげることができる。
 運河の海側の岸は大正末以降、ほとんど変化がみられないが、市街地側の岸は昭和30年代以降、A,B,C,Dの4つの地区に変化の跡をたどることができる(図−2、表−2)。
 A地区はもともと海運、漁業などに関連する事業所の事務所、店舗などが建ち並び、倉庫の連続する運河地区の中では特異であった。昭和30年代に、港と小樽経済の不振により大手船会社支店の転出をきっかけに海運諸業の入れ替わりが起こる。それに伴い、雑多は業種の混在地区となる。昭和40年ごろからは、海運関連の事務所が陸運関連の業種に転用されたほか、自動車関連の洗車場、販売センター、整備工場などの新築や建物取り壊し跡地の駐車場化が起こる。これらの変容は、臨港道路の事業と関連しているとみられる。新築の建物は周囲の景観と不調和なものが多く、駐車場と相まって景観の連続性が失われている。
 B地区は、建物所有者の変化・転用が数棟みられるものの、用途は倉庫と変わらず、外壁、屋根材とも石壁、瓦葺きを維持しており、景観、地区機能が最も安定している。
 C地区では、昭和30年代に、工場の進出による石造倉庫の転用が特徴的にみられる。これら金属加工(製缶、メッキなど)、飼料の生産工場は、外部石壁にモルタルを塗るなど、運河地区の景観と不調和な改造がなされている。
 D地区には、旧日本郵船支店の倉庫や運河北端の日本専売公社の塩倉など、まとまった石造倉庫群があり特徴的な景観を形成していたが、昭和40年代後半に両者ともほとんど解体された。跡地には魚市場との関連で冷蔵庫など材質、色、形態等著しく不調和な建物が新築されたり、タクシー会社が進出するなど、景観も含め、地区機能が一変している。

3.むすび
 色内・緑山手地区および運河地区の変容は、大手都市銀行や海運業界の撤退という産業・経済上の大きなインパクトによって生じたものである。そのインパクトが建物所有者の動向に大きな影響を与え、建替、転用などの改造を引きおこしている。新築の建物は地区の景観にそぐわないものが多く、また転用された建物についても所有者の管理能力が弱体化しているために維持状態の悪いものが多く、地区全体として環境の質の低下を招いている。とくに運河地区では、水辺との関わりの中で成立していた倉庫業、海運業などの機能が、徐々に、運送形態の変化等による自動車関連や工場などの機能へと変容しつつある。これらの変容実態をふまえ、歴史的環境再生の課題として、大きなインパクトを地区内にもちこまず、修復的な再開発をおこなうことがあげられるが、運河地区では、倉庫業近代化事業や臨港道路建設事業によって大きなインパクトが与えられる可能性があり、これらの計画の見直しが必要となろう。


小樽の歴史的環境の再生に関する研究
その4.歴史的建築物の取り壊しの経緯
−最近の事例をつうじて−

日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)昭和56年9月

□はじめに
 本稿では過去10年間に新聞紙上で注目されながら取り壊された歴史的建築物(一部取り壊し予定を含む)11例について、その経緯、実態を明らかにし、個々の歴史的建築物の保存を考えるうえでの課題を概観する。−図1−

□分類
 事例の分析に当たっては、取り壊し原因別に(A)倒壊、(B)施設近代化、(C)道路事業、(D)その他、の分類に従う。−表1−

□事例の分析
 <A>主たる倒壊原因については、3例のうち2例は、隣接建築物の屋根からの落雪(A−1、A−2)。1例は屋根面への過度の積雪(A−3)による。前者2例の落雪は、瓦からトタンという屋根材料の変遷に旧来の雪処理方式がそぐわなかった点に、第一の原因がある。第二には、除雪費用の問題がある。隣接建築物の除雪費は年間100万円前後と大きな負担であり、除雪がおろそかになりがちであった。第三に、倒壊にあった倉庫は近年、長期備蓄倉庫に転換しており、常時周辺に監視の目がゆきとどいているとは言いがたい状態にあった点も事故の背景としてあげられる。後者のA−2の場合、屋根面に1M厚の雪を放置していたことに原因がある。倉庫として使用されていたにもかかわらず、除雪を怠った背景には、貸借関係の複雑化に伴う、維持管理責任の所在の不明確化があげられる。このような貸借関係の複雑化は、地区の問屋街としての地位低下に伴って生じたものといえる。

 <B>施設近代による取り壊しは予定も含み4例であるが、そのうち3例(B−1、B−2、B−3)は移転を伴っている。移転の背景には、所有当初の立地条件が大きく変動したことがあげられる。跡地利用は、屋外駐車場、空地などであり、変動後の地区の機能が明確化していないことがうかがわれる。それに対しB−4は、都市公園内という安定した立地条件にあるが、所有者(小樽市)が歴史的建築物との評価を下さなかったことが大きく作用し、全面建て替えが決定されている。

 <C>道路事業に係わる取り壊し事例は、第2編で述べた臨海部を通る幹線道路事業によるものである。C−1は、道路事業にかかる部分としては、付属倉庫の一部であったにもかかわらず、全面取り壊しに至った背景は、道路建設による立地条件の変化があげられる。C−1の建つ地区は、すでに問屋街としての地位が低下しており、前面通りである色内通りと、背後に建設される幹線道路に挟まれる立地が、転出の意向を決定づけたといえる。跡地は、しばらく空地の後、屋外中古車展示場となっており、道路建設が、地区機能の変化と環境の質的低下を招きつつあることがうかがわれる。
 一方、C−2の石造倉庫群は、道路建設により32棟中19棟が全面取り壊し、一部取り壊しも含めると26棟となる。この石造倉庫群は、丘陵を背後に、船入澗を中心に形成されたものであるが、昭和初期の埠頭、臨港鉄道建設にあわせ、船入澗や海岸が埋め立てられ、倉庫の立地条件が大きく変化しており業界にも大型埠頭や他港への進出の動きがみられた。道路建設は、それらの動きを助長する働きをしたといえる。道路用地以外の跡地は、ガソリンスタンド、木造倉庫3棟の他は、屋外資材置場と、空地になっている。

<D>その他の2例は、居住者の転出(D−1)跡地利用の計画を持った企業による買取り、(D−2)が取り壊しの要因となったものである。D−1のニシン漁家は、ニシンの不漁と海岸の埋立、地区の観光地化など、生産形態と地区機能が大きく変わったことにより、所有者の老齢化とともに転出を余儀なくされたものである。所有者の建物に対する愛着は強く、現地保存を望んだが、市行政が具体的保存策に欠いたため、北海道開拓の村へ移築保存されている。
 D−2は、所有者の会社倒産による土地、家屋処分の必要性がきっかけになったものである。敷地が国道沿いの市街地にあり、面積が3,600mとまとまっていたことから、マンション建設を目的とした企業に買いとられ、取り壊しに至った。前者同様、所有者の建物に対する愛着は強く、保存を望んだが、市行政が、歴史的建築物としての評価を下さなかったため、企業の買い取りが進行したものである。

□まとめ
 以上の経緯をふまえ保存を考えるうえでの課題を整理すると所有者の側では、a)歴史的建築物の改修をした場合、維持管理の方法を見直す必要があるb)所有、貸借関係が複雑な場合、維持管理責任の所在を明確にするc)転用に際してはその用途によっては、耐用年数を大巾に縮めることがある。などの点があげられる。また、保存行政としてはd)歴史的建築物の適格な評価をしておく必要があるe)公共事業のインパクトは、間接的にも、歴史的建築物の動向を左右するため、広域にわたり影響の予測を行い、計画の見直しを行なう必要があるf)所有者の維持管理能力に対し、歴史的建築物の維持費がかかる場合もあり、その場合適切な資金補助ができる制度を確立する必要があるg)保存の要望には、具体的な保存対策が必要であり、特に地区機能の変容が取り壊しに与える影響が大きい点、跡地利用が不明確である点などから、地区計画との係わりで位置づける必要がある。などがいえる。


小樽の歴史的環境の再生に関する研究
その5.市民意識と保存運動

日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)昭和56年9月

■はじめに
 歴史的環境の再生には、フィジカルな面での分析とともに、ソフトな面での分析とくに市民の関心をまちづくりの意欲まで高めていくかは、重要な課題である。とくに当地区の場合、現在も活発な保存運動、いわゆる「小樽運河保存運動」が展開されており、市民意識と歴史的環境の係わりについて興味深い問題を有していると思われる。しかし保存運動については、運動が起こるキッカケとなった背景を含めると約10年近い時間が経過しており、その背景や経緯、問題点などは広い範囲にひろがるとともに複雑化しており、その分析には改めて別稿をおこす必要があると考えている。ここでは、運河を中心とする歴史的環境への市民意識の動向を保存運動の経緯ととも分析した。

■市民意識
 ○まちのアイデンティティとしての意識
 保存運動の内部で小樽運河に対して語られる言葉としては、「まちのシンボル」「小樽の顔」……、都市のアイデンティティ(存在証明)として語られる言葉が多い。いつ頃から、こういう意識が複数の市民の間で共有化されていき、破壊の危機に対して抵抗の根拠となったかを明らかにする資料はそろっていない。しかしそういう意識が形成された背景として次の二点を考えることができよう。
景観として     山、水、建物、稿、船、空のひろがり
心象風景として   繁栄の時代の現場、倉庫群、小林多喜二の文字、絵画写真の題材
    魚つり、ハシケ遊びの思い出等
 ○評価の分裂
 しかし反面、「無用の空間」という機能論からの指摘とともに、「小樽発展の癌」「小樽の恥部」などのエスカレートした発言も主として道路建設埋め立て派の方から語られる場合もある。こういう極端な評価の分裂が生じる背景としては、1)運河が長い間経緯されないまま、ヘドロの堆積、汚水の滞流等により、きわめて汚染されている2)運河の護岸、倉庫の維持管理が十分でなく、印象として忘れた感じがある3)路上駐車が運河沿いに無制限におこなわれるなど景観をみだす要因が多い、など現況の環境が悪化していることがあげられる。すぐれた景観でありながら、現完の汚れのなかに価値が埋もれてしまっているとう構造がある。

■保存運動
 昭和48年からはじまる小樽運河の保存運動は、大きく二つの面から運動が展開されている。ひとつは、埋め立て道路化に対する異議申し立ての側面、もうひとつは運河を中心とする歴史的環境に対する市民の共感づくりの側面である。現実の運動過程の中では、両面が分かれて独自に展開しているというのでなく、分析として分けて考えるということであるが、異議申し立ての側面としては、代案の提示、議会への陳情、市行政との話し合い、住民直接請求、住民監査請求などが、計画実現への行政手続き等に対抗して行われている。共感づくりとしては、1)運河清掃2)市民の運河でのまつり3)町並みオリエンテーリング4)運河研究講座などのイヴェントが行なわれ、それぞれイヴェントとして成功し、市民の関心を集め定着化へ向いているものもある。こういう共感づくりを目標とした創意工夫に富んだ試みは、市民が心の奥底ではなつかしいイメージとしていだいていながら、町の発展のじゃまになっている無用のドブくさい水面として見はなしかけていた運河を、町づくりそのものにとって価値と可能性をもつ素材として市民の意識の転換を生みだしつつあるものとして、地道なものではるが評価できよう。

■まとめ
 歴史的環境に対する市民の関心は地区によっても、人々によっても違うし、全体として広範な関心を集めているとはまだいえない。しかしこういう意識が変化している状況では地域開発、再開発の中で歴史的環境を扱う場合には安易に賛否を問うのではなく、十分に時間をかける慎重さが必要であると思われる。