小樽の歴史的環境の再生に関する研究

小樽の船入潤と石造倉庫群
−1.その形成と削減:有幌地区−
日本建築学会大会学術講演梗概集(北海道)昭和53年9月

 歴史的町並みの保存の重要性は、様々な角度から指摘されている。しかし、現実に歴史的町並みが保存されるには十分な条件が整っているとは言いがたい。法制上等の不備もその一つと言える。しかし、歴史的町並みが人との係わりで存在する以上、次の条件が整っていることが基本になければならないと思われる。一つは住民により日常的に使用されていること。さらに、住民がその場に誇りを持っているということである。
 小樽市は北海道の中では、長い歴史を持つ都市である。ここでは、その二つの基本を念頭に置きながら、小樽市に置ける代表的な歴史的町並みの形成から変化を追うことによって、歴史的町並みの保存の可能性の一側面を検討してみる。
<歴史的町並みとしての船入潤と石造倉庫群>
 小樽は明治4年、札幌に北海道開拓使庁が置かれ、その海の門戸として重要視されて以来、商港を中心に発達した町である。当時の船舶は帆船が停泊し、荷役のできる船入潤と、物資の集散のための倉庫であった。小樽の場合、明治の初めまで、天然の入江であった入船川河口が船入潤の役割を担っていた。しかし、入港船舶の増加に対して、天然の入江だけに頼るのでは不十分であったといえる。入港船舶の増加に対応して本格的な船入潤が建設されるのは明治20年代になってからである。明治22年に色内・手宮町地先海岸3万1千坪の大規模な埋立が行われ、翌23年からは、港・有幌町地先海岸3万9百坪の埋立が行われたが、各々の埋立地に、波浪除けの石垣を積み亀甲形の張石をした船入澗が新設されたのが、本格的な船入澗 新規の埋立て地には明治23年に建設された小樽倉庫株式会社の倉庫を始め、明治20年代後半には営業用倉庫が続々と建設されていく。明治24年の営業倉庫棟枚数63棟。6年後の明治30年には2倍以上の149棟にのぼっている。特筆すべきことは、これらの倉庫の大半が石造倉庫であったことである。小樽で短期間に多数の石造倉庫が建設可能であった背景には次のことが考えられる。一つには、背後の山から軟石が切り出せたことがある。もう一つは倉庫の構造の特殊性である。この石造倉庫は正確にいうと洋風トラスの木骨軸組に15pほどの厚さの切石を手 いでとめたもので、木造建築の施工の容易さと、組石造の耐火性を兼ね備えた構造であったのである。地場の材料の使用とこの構造の結びつきは、急速な発展をとげた港湾都市小樽に必要不可欠なものであったと思われるのである。
 港湾を中心とした物流の拡大は、かつての海岸線であった色内通りを小売店舗を主体とする地区、さらには問屋、商社、銀行を主体とする地区へと飛躍させる。これらの内、名取商店、旧早川支店、岩永時計店などの商家や、旧清水合名会社、川田商店などの事務所建築、あるいは旧百十三銀行支店、三井銀行支店などの銀行建築もまた、石造あるいは木骨石造の建物であった。
 従って小樽が北海道の商業金融の中心として存在した大正末期の市街地の基本的イメージは次の様なものであったと考えられる。一つは船入澗に代表される港の水辺と、石造倉庫群であり、一つは背後地に広がる問屋、商社、銀行建築がそれである。
 これらの要素を備えていた代表的な地区をあげるとすると、南浜船入澗のあった色内地区と、港・入船町船入澗のあった有幌地区がそれにあたるであろう。前者の地区は、大正12年に完成した運河とともに知名度も高く現存する地区である。一方、後者の地区は昭和47年まで旧状を良く残し、その後大半を道路建設により消滅した地区である。
 ここでは有幌地区を対象に、消滅以前の状態を形成過程から明らかにし、消滅後の状態と対比してみる。
<有幌地区>
 有幌地区は、勝納川河口と入船川河口とを結ぶ海岸線沿いの地区である。明治23年の埋立が行われる以前の有幌地区は、小樽で最初の市街地を形成した勝納川河口、信香町の繁栄に伴い海関所や常灯台が設置され、海の玄関としての体裁をすでに整えていた。明治14年、勝納川河口一体が大火により焼失した後も、信香町に代わって繁華街となった入船町の海の玄関として機能し続けていた。しかし、船入澗の建設と海岸線の埋立が行われた明治23頃には、経済の中心が北部の港・色内町に移行しつつあった。
「そのため明治20年代に建設された倉庫は8棟で、1棟を除き50坪以下の規模のものであった。100坪を超える大規模倉庫が建設されるようになるのは、日露戦争後の南樺太領有以後のこととなる。
 明治30年から大正4年末までの建設棟数は25棟にのぼっている。建設地も、20年代の倉庫が船入澗沿いに限られていたのに対し、埋立地全域に及んでいる。この大正初めの時点において、有幌地区の市街地イメージは固定したといってよいだろう。しかし、この大正の始めにおいては、小樽の市街地中心は完全に、色内から小樽駅にかけての地区に移動してしまっていた。」

○船入澗の埋立て
 昭和7年に船入澗は埋立られる。埋立てに作用した要因としては、船入澗が帆船の積載貨物の荷役に使われたものであり、荷役方式の変化から不用になったことが第一であろう。船入澗跡の埋立地は、市堂成果物卸売市場と中小工場の建設用地とされた。この時点で、石造倉庫群と港の水辺との関係は完全に弱められたといえる。

○石造倉庫群の消滅
 港湾貨物の取扱い量の拡大に伴い、倉庫規模拡大の動きが生じたが、有幌地区の石造倉庫群は戦後も建設当時とほとんど変わらない状態で使用されていた。石造倉庫の大手が破壊されるのは昭和47年秋からの臨港道路の建設によってである。現在、当時のまま残存するのは、6棟であり、一部残存するものは7棟にしかすぎない。
 残存する石造倉庫の機能変更は認められない。また倉庫跡地の利用に関しては、木造倉庫2棟、屋外資材置場、ガソリンスタンド各1軒が新設されるにとどまっている。
 石造倉庫が二列に並び、海岸線から山ぎわまでの空間を密に埋め、群としてのまとまりを感じさせていた当時を現在まったく感じとることができない。

○市民の反応
 昭和7年頃まで船入澗と石造倉庫群という強力な市街地イメージが残存していたにもかかわらず、当時の新聞を見る限り石造倉庫群の消滅に大して、小樽市民の間から保存を求める声はあがっていない。


小樽の船入潤と石造倉庫群
−2.その形式と保存:色内、運河地区−

日本建築学会大会学術講演梗概集(北海道)昭和53年9月

 ここでは、前稿の続きとして、色内・運河地区の船入澗と石造倉庫群の形成と変化を追い、有幌地区との比較で、保存の可能性と課題を考察する。
■色内・運河地区
 色内・手宮町地先海岸の大規模な埋立が行なわれ、南浜船入澗が建設されたのは、有幌地区と同時期である。しかし、地理的に鉄道と海路の接点であった手宮と旧来の繁華街であった入船の中間に位置した色内地区は、銀行、商社、問屋等が集中した地区として、有幌地区とは異なった発展形態を示した。発展形態の差は新設された船入澗の維持管理の状態にも える。南浜船入澗も港・入船船入澗も共に、波浪に耐えられず破壊するが、南浜船入澗が明治33年に修築を行なっているのに対し、港・入船船入澗は修築の記録がない。また、埋立地に建設された石造倉庫群も、建設時期の早さ、倉庫規模の点で、有幌地区に優っていた。現在確認できるだけでも、明治25年以前に建設された石造倉庫だけで9棟にのぼり、1棟あたりの平均規模は、136坪になっている。明治期に建てられた倉庫の棟数は現在確認できるだけで、36棟にのぼる。
 また、両船入澗の重要度の差は、その後の築港工事にも明らかである。帆船主体の荷役から汽船からの 取り荷役への変化に対応して、運河が建設されたのも南浜船入澗が9年程先んじている。大正3年から建設の始まったこの運河は、明治22年の埋立地をそのままにして、巾40mの水路を残し、沖合を埋め立てる方式のものであった。そのため、船入澗と石造倉庫群という市街地イメージは、運河と石造倉庫群に置き換わったものの、石造倉庫群と水辺の関係には、大巾な変更は生じなかったといえるであろう。
 また、明治36年の中央停車場(小樽駅)の開設は、小樽経済の中心地であった色内地区の背後に、新たな繁華街を形成させ、中心市街地が入船を中心とした地区から色内・稲穂を中心とした地区に移動する大きな契 となった。明治から大正にかけての中心市街地の移動は、有幌地区に比較して色内・運河地区が市民との係わりを強める働きをしたといえる。現在の中心市街地は、稲穂を中心とした地区に集中しているが、稲穂商店街から色内・運河地区までの距離は、人間がひとつのまとまりとして認知できる800m以内になる。

●現在の運河と石造倉庫群
 港湾荷役の方式が、艀荷役から埠頭からの直接荷役に変化したため、昭和52年における運河沿いの倉庫搬入件数34件のうち、艀荷役によるものは2件と減少している。これに伴う運河の維持管理の低下によって、水環境は悪化している。倉庫の機能変更を行なわれ、32棟中10棟が工場や事務所に変更している。しかし、倉庫として利用している22棟中12棟が現状のままの利用を希望し、機能の変更をした10棟中8棟も、現状の建物の利用を希望しており、全体の2/3が、石造倉庫を何らかの形で利用することを希望していることになる。
 運河は港湾施設であるため、一般市民の直接的な利用は無い。しかし知名度は高く、市民の95%は運河の存在を知っており、80%は、実際に行なった経験をもっている。また、水辺の憩いの場として、散策やスケッチ等に利用されることも見られ、市民とは親しみ深い場所となっている。

●臨港道路計画の運河と石造倉庫群に与える影響
 有幌地区の石造倉庫群を消滅させた臨港道路は、その延長として運河の全長の約7割を埋める計画である。
運河水面は、巾10mの河川水路が中央分離帯に残るだけで、他の水面は道路かそれに付随する用地として埋め立てられることになっている。
 臨港道路計画の石造倉庫群に対する直接的な影響としては、石造倉庫4棟が取り壊されることがあげられる。間接的な影響としては、7棟の倉庫が解体を希望していることに反映している。この結果、部分的な石造倉庫の消滅と材能変更は考えられる事態であるが、その他の誘発的変化を含めた、その地区の変貌については、予測はつかない状態になっている。

●市民の反応
 臨港道路計画による運河水面の埋立てと石造倉庫の取り壊しに対する一般市民の反応で特集されるのは、昭和48年の「小樽運河を守る会」の設立である。この運河の保存を求める市民運動に対して、小樽市民の間では、賛成、反対の意見が陳情や投書の形で反応が出てきている。市民に対するアンケート調査によると、保存を支持する意見が46%、道路建設の促進を支持する意見が27%、判断しがたい、あるいは無関心であるという意見が27%とでている。賛成反対の意見を要約すると次のようになる。保存を支持する意見は、運河と石造倉庫群は、港町小樽の繁栄の象徴であり、絵画的、情緒的風景であること、あるいは観光資源としての価値がありそれを活用すべきことを挙げている。道路建設の促進を支持する意見は、運河の港湾地区としての機能が低下することと、道路変更に伴う工事の遅れを危惧する意見などがあるが、一般には、運河の水環境の悪化をとりあげ、埋立てによる解消を主張する意見が多い。

●まとめ
 船入潤と石造倉庫群という、小樽の繁栄時の市街地イメージを代表する築2ヶ所、有幌地区と色内・運河地区の形成と変化を追ってみた。現在、有幌地区は消滅し、色内・運河地区は消滅をくい止める働きが見られる。両地区を比較すると、両地区とも、その歴史的町並みとしてのまとまりにおいては、優劣つけ難しい状態であった。ここでその相違点を考察すると、
1.有幌地区に比べ、色内・運河地区は、港湾の隆盛を極めた時期に中心市街地との結びつきを強めていたこと。
2.その結果、市民生活との接触をもつ契杙は、色内・運河地区の方が多かったこと。
3.色内・運河地区が船入潤に代わって港の水辺を感じさせる運河が建設されて、その要素が継承されたのに対し、有幌地区が、昭和初期には、港の水辺を感じさせる要素を喪失したことが、挙げられる。
 保存の可能性は、その歴史を代表する要素としての水辺と石造倉庫群が一体であること、中心市街地との結びつきを保持していることに見出せる。