共同体のルールと風景


                      JUDI関西フォーラム2002/10/26


柳田良造 


 風景とは、その都市や地域での暮らし(生活のいとなみ)の現れ(物的表現)であり、その場所の特質(アイデンティティ)をシンボライズするものである。シンボライズという意味は、歴史的環境のように特徴的な風景が地域のアイデンティティをシンボライズするのは言うまでもないが、どこにでもあるような郊外の住宅地においても、「何も特徴がない」ということを、シンボライズしているのが風景であるように思う。風景の不在はなにもない風景をシンボライズしている。

 ハンナ・アーレントは公的領域の喪失によって、「人びとの介在者であるべき世界が、人々を結集させる力を失い、人びとを関係させると同時に分離するその力を失っている」大衆社会を描き出している。ここでいう人びとを関係させると同時に分離する構造とは何か。アーレントはテーブルの比喩をつかって、その周りに座っている人々の真中に位置して、人びとを関係させると同時に分離している状況を説明している。それは田村隆一のいう「農夫がするトランプ遊びも、詩人が食卓で書く詩も、共同体をはなれては不可能のゲームである。そして、ゲームであればルールがあるだろう。ルールやロゴスの自由を保証するものが共同体であり、そういう共同体こそ、農夫や詩人にとって、真の意味での都市なのである。」と、同様のものである。アーレントのいう「テーブル」も、田村のいう「食卓」も共同体のルールと風景を表している。

 「場」とは地域のまちづくりエネルギーを発生、共有、増幅させる社会的環境で、人と人の関係で成立するものである。「像」とは地域のまちづくりエネルギーを凝集できる対象で、物的環境のあるべき姿を示したものである。まちづくりで語られる「場」と「像」も地域での共有されるルールづくりの方法とシンボライズされる風景を表している。

 山本理顕は住居論のなかで、「都市という、流動し新しくなっていこうとするすべてのものの中で、”住む”という概念だけが、それと矛盾するようなかたちである。、、、、住むための場所は、十分にそしてきわめて注意深く、都市の流動性、革新性から防御されている」べきものと述べているが、我が国のなかにも「住むための場所」に内在する共同体のルールは、今も存在すると思う。

それでは全く無秩序な風景が生まれたり、風景が極端に変わり、生活環境が脅かされるのは、なぜであろうか。それは「住む」とは異なる論理や価値基準が、何の脈絡もなく、「住むための場所」に突然進入してくるからである。あるいは「住む」ということが否定されたり、制限されたりするからである。例えばそれは、「住む」とは関係のない開発と販売の条件から設定された地区の容積率、販売戦略から決まる規模、商品としての眺望やデザイン、「住む」ことに適さない場所や環境、地区のファブリック(都市構造)の破壊、「住む」ことに直接関係しない車、「住む」ことの延長としての生業の否定、「住む」ことの作法としての近隣への挨拶や配慮の不在、などであるが、、、。これらにきめの細かいルールを設け、適切に排除や制限を加えることこそ、都市計画で詳細に決定しなければならないことである。

都市からこれら「住む」ことを脅かす要因を丁寧に排除し、地区の生活環境を保てるだけの経済社会条件をキープしたうえで、1世代ほど時間を熟成させることができれば、魅力的な街並み風景を日本中いたるところにつくりあげることができるように思う。

そこでは函館元町界隈のような色彩にこめた、家族の思い出「娘がいるのでピンクのかわいらしい色を選んできた」とか、近所にあわせて「塗り替えは向かいや隣と一緒にし、色も同じものにした」とか、有名な建物の「公会堂や遺愛女子校などの有名な建物にあこがれて」とかの街への思いと自己表現−他ではそれは緑や花かもしれないし、屋根や窓の表情かもしれないし、通りの佇まいかもしれないが−そういう様々な風景の中に、街並みへの素敵な自己表現をみることができるようになると思うのである。