20世紀都市問題の宿題

                        早稲田建築:2000


「都市とは欲望をすみかとして人間が夢と覚醒のあいだの日々をおくる場所なのである。」(都市の政治学 多木浩二)
住宅私有の欲望が20世紀の資本主義の原動力であったといわれる。住宅私有の欲望が20世紀の資本主義の原動力であったといわれる住宅とその地域コミュニティにおいて、満足できるものがつくられていない。住宅と郊外の夢。人々は住宅ローンに追われ、土地は高騰し、通勤時間は途方もなく長くなり、都市の周辺の自然は破壊され、せせっこましい庭とさびしい郊外住宅団地が生まれた。供給された住宅とそれのつくる地域コミュニティ。日本の近代には重大な問題が生じているが、近代化の達成については「控えめ目な自信」を持ってもいい。急激な近代化の代償とでもいうべき問題がさまざまな形で噴出しているが。環境、教育、家族、地域社会など住宅とその周辺にいま深刻な問題が詰まっている。20世紀資本のおもむくままに作られたきたこのコミュニティ、これをどう人間の住む環境として救いだし、再構築するか、21世紀の課題はこれにかかっているといってよいだろう。
近代とそれ以前の都市遺構の保全という発想や衰退した都市の再生の概念は、20世紀の最後の四半世紀に定着した。

郊外の悪夢
これこそが今日のすべての都市問題の元凶となっている。人々は住宅ローンに追われ、土地は高騰し、通勤時間は途方も長くなり、都市の周辺の自然は破壊され、せせっこましい庭とゴミのようにうすぎたない郊外住宅団地である。
○現在のニュータウンには子どもの居場所がない。居場所にはダークサイドが必要。歩けない街。
退屈な郊外生活
○郊外化によって、地域的な共通感覚を失っていった。設計するがままにまかせておくと、非常に不快なものがどんどん建ってしまう。
開発されたが、人口減少で、一世代で終わり、次に住むもののいない街もできつつある。

社会の同質性が崩れる
日本は戦後人々は会社に帰属し、会社が家族の福利厚生も含めたコミュニティを形成してきたといえる。その会社もグローバルな大競争時代を迎え、終身雇用制度が崩壊しはじめた。高齢者と若年者、都市と地方、衰退産業と成長産業のような大きな対立軸があり、経済危機、雇用危機の中で社会の同質性が崩れはじめている。そういうなかで国民統合を進める上でのナショナリズムの高揚が叫ばれるきな臭ささをいま感じはじめている。
日本はせまい共同体の範囲を超えた正しさという観念をもちにくい文化的伝統がある。そこここにローカルな所属集団があるだけで、それをこえるパブリックなものを構想できないといわれる。しかし共にという目的をつくりあげるのは国家的なレベルではなく、これからもっとも必要とされる生活レベル、コミュニティレベルでこそ、協同性、共同性をつくりあげていく必要がある。高齢化社会への対応、地震などの都市防災への対応は地域や住民間の相互扶助の仕組みが否応なく必要となる社会である。住宅や公共建築も、地縁や血縁とはまったく無関係に個々人が結ばれていくという絆を演出していくステージのような部分があるわけで、そうした生活と建築物のアクティブな関係を再生する試みこそがこれから求められるのである。

これにともない環境、福祉ケア、健康、教育などの社会分野が成長分野として重要になる。
21世紀型社会において発展を支えるのは新しい人材資源である。
富の再配分。税金、NPOへの寄付、選択ができる。
地域の自立住民の自発的な意識と活動を主体とする。

コミュニティの構築

20世紀型政策の延長で地域への利益環流を続けるのか、21世紀型政策によって地域の自立化を図るのかという明確な争点が形成された。
環境とか、まちづくりは公共に委託しており、住民は消費者として、受けとめればよいとの考え方自体が変わらざるえなくなっている。
自らたちあがって動く必要性は、阪神大震災を契機し、ようやく市民の間に生じてきている。
自ら行動しないと、環境の質を維持・創造できない時代にきている。
これからのまちづくりのテーマはハードとソフトが融合した事業後もユーザーがかかわっていく持続的な生活環境づくりとなる。
参加を単純化して言うと、従来つくる側とつかう側にわかれていた関係を、つくる側とつかう側の領域を交わらせ、その重なった領域のなかで環境における行動を考え、実践していこうとすることである。
つくる側とつかう側が交わることは主体と客体と別れていた関係を超え、それぞれが権利と義務を有する多様な複合主体が形成されるということである。
重なり、接触する領域が圧倒的に増える分、創造的な協同も生まれ、いままで解決ができなかった問題が解決になる可能性がある。
一方様々な摩擦や葛藤も生じ、その葛藤の処理は自分たち−複合主体−が取り扱わねばならないものとなる。

改革モデル
巨額の財政赤字や官僚制の制度疲労など、国レベルでの解決策の提示(開発型産業政策、福祉国家モデル)という手法が限界をみせ、21世紀には、代わってコミュニティレベルで解決策を探るコミュニティ・ソリューションが模索される。
そのための方法としては情報公開、情報共有がなによりも重要である。
まちづくりにおいて問われているのはコミュニケーションそのものである。
情報公開によって政策の恩恵がどのように社会に還元されているかを住民がしること、それに基づいて政策論議の場に参加し、政策の優先順位についての合意を形成することこそ、これからの民主主義の姿である。
ともすれば、日本人は民度が低いとか、日本の政治は日本人の意識の反映と言われる。しかし、それは住民が政治を判断する情報を十分にもっていないためである。
個人個人で家計を運営する際に収入との関連で欲望の優先順位をつけるように、住民が自らの自治体において収入との関連で政策の優先順位をつけることができれば、民主主義は統治能力をもつ。
従来の民主主義が問題について解決能力を持っていなかったのは、自民党政権のもとで政策に関する情報が秘匿され、特定の集団に特権がふりまかれ、それらの既得権者のみが政治に参加する強いインセンティブをもっていたからである。その意味では、情報公開と参加を進めることこそ統治能力を向上させる途である。
国家としても大きな変革を迫られている時代に、地域のまちづくりも新たな仕組みを創り出していく必要にせまられている。
まちづくりの仕組みを中央集権から地域やコミュニティベースのものへ、一元的で硬直的なものから多様で有効に機能する仕組みへ変えていく必要がある。

「わが街、わが地域の家屋倒壊の危険度、火災発生時の消化作業の困難度などが一目でわかる被害予測をみることで、住民の意識は変わる。地価への影響を懸念する声もあるが、松本市は地番を明記した危険度マップを全戸に配った。都市防災の決めては、住民の自覚と協力という判断である。
被害予想は住民意識の向上ばかりでなく、震災時の救難・救命の計画などにも役立つ。阪神大震災は、救命活動にとって、初動がいかに大切かを教えてくれた。地震から住民の生命と財産を守るのは防災システムしかない。震災という常在する危機を軽減回避する投資は、大抵の公共事業に優先する。」(日経新聞2000年1/16社説」

「情報共有」
今回の「情報」についても「公開」ではなく、目指すべきは「共有」だと。「情報公開」は求められてから、情報をだす考え方。「情報共有」はもとめられる前に用意し、あらかじめ知らせておくということ。役所の情報、能力、考え方を知りたい時にだれもが手続きなしに見られる考え方。役所言葉の追放もその一環。

「具体的な例」では、
住民と行政が情報を共有し、同じ土俵(情報の質と量)の上で議論することのできる場の創設につとめている。たとえば、主要な事業については計画構想の前段階から誰もが参加でき、自由に議論できる「住民検討会議」を全ての町民に公開する中で、必要に応じて開催している。これまでの行政では行われていないこうした計画の前段階からの住民の自由参加(円卓方式)による住民検討会議を開催するにあたっては、「できるものもできなくなる」「混乱を招くばかり」など、役場内部の議論は否定的な意見が大勢を占めていた。しかし一方「役場は住民の事務局であるとの自治の基本を再確認し、住民相互の議論からはじめるべき」「一歩でも自治を進めるには、まず結果をおそれず取り組むことが大切」との意見も出され、平成7年度からの住民検討会議を開催することになった。この検討会議も当初の段階では、相対立する激しい議論もありましたが、参加者がお互いの情報を共有する中で話し合いが進められた結果、住民相互の理解が進み、活発な議論の中で住民の手による「合意形成」が着実に進む道筋が生まれた。「道の駅」の建設や「駅前地区の活性化事業」などはその成果で、町民の合意のもと進んでいるようである。 柳田良造