北海道の蔵
JUDIニュース:2000
函館・大火と防火建築
防火造の建物はそれぞれの都市の形成と一体になり、さまざまな歴史のエピソードを語りかけてる。函館において、防火建築の成り立ちは大火の歴史と切っても切り放せない。函館は「大」のつく大火の街である。2000戸以上消失した大火だけでも、明治12年、29年、32年、40年、大正10年、昭和9年と6回あり、戦前はほぼ10年に一回、被災したとことになる。被災後の道路拡幅や防火帯の設置などの復興計画と防火造建築の奨励が街の姿の骨格をつくっていく。
<大火と復興建築>
明治11、12年の大火後、現在の函館西部地区の街区が矩形の整然としたものになり、道路幅も大通(現在の電車通り)が4間(約7m)が12間(21、6m)に、基坂、二十間坂が20間(36m)に拡げられる。この大火後、現存する最も初期の防火建築である金森洋物店(現市立函館博物館郷土資料館)と旧開拓使函館支庁書籍庫が、明治13年(1890)に建てられる。旧開拓使函館支庁書籍庫はこぶりのレンガ蔵であり、金森洋物店が外部は漆喰仕上げ、入口や窓にも厚い土塗りの戸が取り付けられ、一見土蔵造りに見えるが、実はレンガ造である。そのレンガは北海道開拓使が明治5年、函館郊外上磯町茂辺地に設立した官営レンガ工場でつくられた。屋根の瓦の下にもレンガを敷き詰め、十分に防火に備えた建築であり、その後の大火にも耐えた。官営レンガ工場から生まれた素材がその後の函館の防火建築の基礎をつくる。商家や住宅の付属蔵の他、ロシアやイギリスの領事館、中華会館、高龍寺の開山堂や防火壁など、様々な用途の重要建物がレンガ造が造られていく。
明治40年の大火は、消失戸数8、977戸、それまでの被害をはるかに超える大災害であった。その大火からの復興過程では、日露戦争後の函館好景気を背景に、港周辺に大規模なレンガ造建物が港近くに次々と建てられていく。明治42年の金森倉庫1〜5号、明治44年)の函館郵便局、金森船具店、明治45年日本郵船倉庫などの大規模なレンガ倉庫群である。
大正10年の大火は商業中心街2、141戸が消失した。大火後、甲種防火線として蓬莱町銀座街が指定され、銀座通りに66棟の防火建築が建てられた。その建物構造はRC造24棟、補強ブロック造19棟、レンガ造15棟他であった。時代はレンガからRC造に変わろうとしていたのだが、建築家中村鎮設計になる補強コンクリートブロック造も商店街の大火復興に「鎮式ブロック」として歴史を残すことになる。防火建築への工夫アイディアが様々に試みられた函館ならではエピソードである。こういうエピソードは他にもあり、伝統的な寺院建築も函館では、RC造でつくられることになる。元町になる東本願寺は大正4年、日本最初のRC造の伽藍としてが京都東本願寺大師堂をてがけた9代目伊藤平左衛門設計し、表門、塀などもすべてRC造でった。
<昭和9年の大火と復興都市計画>
函館での大火復興は昭和9年の消失家屋2万4、186戸、死者2、054人という大惨事後、もっとも大がかりな復興計画が実施されることになる。関東大震災の復興計画を参考に、復興事務局が設置され、防火線としてのグリーンベルトの新設、交通幹線の拡張、不燃橋梁、防火地区の設定等がうたわれた。市内にネットワークとしてはりめぐらされたグリーンベルトと一体につくられた学校や公共建築のRC造の建物は函館の新たな街並みを生み出した。しかし耐火構造として定められた防火地区内の建築物は、急速な復興のため、バラック建築を黙認せざるをえない状況になる。消失家屋が市全体のおおよそ2/3とあまりにも大規模でありすぎたこと、函館の都市経済が下り坂にさしかかっていたことなどから、この期にたてられた建物は木造のバラック然とした建物がおおく、函館の新たな防火造の建物伝統を生み出すことにはいたらなっか。
<市民レベルでの建築再利用から西部地区がよみがえった>
明治から大正、昭和初期までにつくられてきた函館の様々な防火建築は、函館の街の繁栄と転変を見続けてきた生き証人だが、昭和40〜50年代頃から再び、脚光をあびることになる。長い歴史に耐えたレンガ造などの防火建築を再利用して、レストランや喫茶店、ペンションなどの商業的再利用が港近くや坂道沿いに誕生する。個々の例はいずれも若いオーナーによる創意工夫にとんで、魅力的な小スペースをつくりだし、次第に人気を集めていく。昭和58年には地域の若者グループが事業主体となり、旧函館郵便局庁舎の大規模な商業的再利用を展開するに到る。
この頃から行政側も歴史地区の観光価値に気づき始め、地区を散策する路の整備にとりかかる。坂道の石畳舗装や街灯を整備がすこしづつ進むことになり、それにつれて、長い間放置されていた歴史的な建物が、所有者の自主的判断によって、修理や修復がなされていく。昭和63年は様々な意味で西部地区の街並みの転換点となった年である。この年の青函博を契機に地区への投資が活発化し、ウォーターフロントの倉庫群の大規模な商業的再利用などがオープンする。西部地区の街並みは函館山の夜景や五稜郭などと並ぶ観光拠点として定着し、函館への観光入り込み客数も年間500万人を超える規模となり、一気に大衆化する。その流れはさらにバブル期のリゾートマンションブームにも反映し、函館西部地区に数多くの高層マンションが計画されることになる。地区の景観条例が制定されるのもこの年である。一方函館の歴史的建物のもうひとつの顔である下見板張ペンキ塗の建物群のいわゆる「こすりだし」運動もはじまり、函館の歴史的街並みの新たな魅力が掘り下げられていくことにもなる。
松の並木道が美しい宝来町の護国神社の坂に面する角地に蔵を改造した茶房がある。通りに面して切妻2棟と寄せ棟の3軒の建物が連続して並んでいる。いずれも外壁は黒漆喰の土蔵風にみえるが、構造はそれぞれRC造、土蔵造、石造で、建設年も明治38年から大正10年にまで渡る。3回の大火と2回の地震に耐えた。函館の歴史を物語る建物である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小樽・木骨石造の伝統
明治13年新橋・横浜間、大阪・神戸間についで3番目の鉄道が幌内炭坑から小樽の手宮まで開通し、港湾商業都市として小樽の発展が始まる。この街の市街地の形成には、やはり大火が関係している。小樽の最初の市街地は勝内川河口付近にあったが、明治14年の信香の大火後、入船、住之江界隈に中心が移る。いまでもこの界隈には土蔵づくりの建物がわずかに残り、当時の防火建築の名残を伝える。
<小樽における木骨石造の誕生>
斜面地で平らな土地のない小樽の市街地形成は海岸線の埋め立てとともに進んでいく。明治22年、現在の小樽運河の山側の色内地区地先の大規模な埋め立てが竣工する。この年、小樽は特別輸出港として指定される。明治18、19、20年と数百戸を消失する大火が続き、防火建築の必要性が強く要請されていた。
埋め立て地には新しいタイプの建物、石造の営業倉庫群が次々と建てられていく。木骨石造構造と称され、その後商都小樽の象徴となる建物である。これは構造的には木造で持たせ、外側に15cm前後の厚さの切石(小樽軟石)を木軸組にカスガイでとめ、石造の防火性や堅牢なイメージを備えた建築であった。この木骨石造構法のアイディアは、ブリジェンス設計の新橋や横浜の停車場(明治5年)や北海道では札幌の開拓使本庁舎(明治6年)の原設計案に見られるなど、明治初期の洋風建築にはよく知られた手法であった。
この木骨石造の建物が明治から大正にかけ、米穀、海産物、回漕業など小樽の豪商達の店舗や倉庫、事務所に数百棟を超える規模で建てられるていくことになる。外来の構法である木骨石造建築が小樽に定着した理由には、商都小樽の急成長による防火建築への需要とそれをつくりうる財力が備わっていたことのほか、材料となる石材(小樽軟石)が周辺で産出され、構法的にも伝統的な土蔵造りと似通っており、しかも土壁のかわりに石壁を使うことで、寒冷地での施工や工期短縮にもつがったことなど、技術的な条件も備わっていたことがあげられよう。さらに小樽軟石という凝灰岩の材質感が、鼠漆喰のような質感に対し違和感がなく、建築に和風様式の色濃い小樽の街の人々に受け入れやすかった面もあるかもしれない。
<小樽の最盛期を演出した石造建築>
明治37年5月8日。この日は日露戦争で遼陽が陥落し、小樽でその祝賀提灯行列が行われた。その日の晩、稲穂町から出火した火は延々27時間燃え続け、小樽未曾有の大火となる。罹災戸数2481戸、明治36年の世帯数が11、675戸であるから、大火の規模の大きさがうかがい知れる。その大火後の市街を記録した写真があるが、文字どおり灰燼に帰した街に巌として残った石造倉庫や石造商家がみてとれる。当時の人々の目に、未曾有の大火にも財を守り抜いた石造建築はどれほど心強く映ったことであろう。この大火後、街区改正や火防線街路の新設などの都市計画的な施策が行われるが、建築レベルでは石造建築がさらに質を高めて建てられていくことになる。外壁に軟石を張り、両袖にうだつを建て、窓に土塗りの防火戸を付け、屋根を瓦でふいている商家建築が盛んにつくられ、また小樽新聞社社屋(明治42年)のような3階建てのオフィスにも木骨石造の建物がつくられていく。さらには佐立七次郎や長野宇平治など当時の第一線のアーキテクト設計の純石造の建物もつくられる。日本郵船小樽支店(明治39年)や旧北海道銀行本店(明治45年)などであり、この頃が石造の街小樽の絶頂期である。
大正12年、小樽運河の海側埋め立てが完成し、運河形式の港湾施設が完成する。第1次大戦後の復興のため、ヨーロッパ方面へ北海道の豆類、澱粉の輸出が急増し、豆成金が続出、色内界隈は銀行各支店が建ち並び、北海道のウォール街と言われたのはこの頃である。銀行街をつくりあげたのは、RC造のオフィス建築群であった。小樽に誕生して40年近く商人の街をつくり、財産を守ってきた木骨石造の建物は都市防火建築としての役割を新式の鉄筋コンクリート造にその席をゆずるのである。
<小樽運河の保存運動からはじまった石造建築の再生>
その後、商港都市小樽を取りまく経済地図は激変し、戦後長い停滞の時代がやってくるとともに、石造の街小樽も人々の記憶から忘れ去れてしまうようになる。ようやく、石造建築が人々に再発見され、注目を集めるようになるのは、半世紀近くの時間が流れてのちである。昭和48年、小樽運河が道路建設によって失われようとした時、小樽のまちづくりをめぐる大きなうねりを生じ、街を2分するほどの論争が起こる。小樽運河保存運動である。
保存運動の結果は道路計画を一部変更して、小樽運河を残すことになり、かなり姿は変ったが、周辺の歴史的街並みと合わせ、その後商業的な再開発が進むことになる。道路建設が完成した昭和62年以降、石造倉庫の再利用や運河地区への投資が始まり、バブル期の観光ブームとも重なり、小樽歴史地区の活性化が文字どおり堰を切ったような勢いで進む。もともと小樽は観光都市ではなかったが、運河や石造倉庫はにわかに全国区の観光スポットとして注目を集め、商業的利用のため市外から投資が殺到する。ガラス、レトロ、オルゴール、グルメなど時代にフィットしたキーワードが次々と打ち出され、ゴーストタウンのようであった街並みが、ショップや土産物、ホテルや飲食店街に変わり、狭い道路には観光客と車があふれる。平成4年には観光入り込み客数も500万人を超え、函館と肩を並べる観光地となる。
運河とその周辺の変貌はあまりの急激な開発と観光化のため、歩行者空間の未整備や景観的混乱、行き過ぎのアンバランスな状況が続き、ブームも一過性のものかと心配された。しかしその後も不況にかかわらず、観光客の数は減らずリピーターも増えている。地区にはエネルギーがあふれ、新しい店や石造建築の再利用がつぎつぎとオープンし、来るものを楽しませる力がある。運河地区のエネルギーは街の中心部にも波及し、商店街なども以前とくらべてはるかに元気になった。
この大きな小樽のまちづくりや改造のエネルギーは一体どこから生み出されたものであろうか。確かに開発がブームを呼び、時代の流れも後押ししている面は大きいが、そのエネルギーは石造建築や運河を造り上げた明治、大正期と、その時代の精神をもう一度小樽に蘇らせようとした昭和の運河論争の間に蓄積された地下のまちづくりエネルギーのように思えるのである。昭和53年運河や港に共感を寄せる祭り好きの小樽の若者達が、将来の夢を具現化するために運河を舞台に手づくりの祭り、ポートフェスティバルを行った。運河沿いには何十店もの市民の手作りの出店が並び、運河に浮かぶはしけや港の空き地ではロックコンサートが、運河沿いの石造倉庫もはじめて開放され、シンポジウムやジャズコンサートの場となった。20年後の現在、レストランやショップに数え切れないほど再利用されている運河沿いのなどの石造倉庫再生の出発点となった試みであり、祭りは2日間で延べ20万人以上の人を集めた。運河に圧倒的な人が集まることを実現化したこの祭りは、一瞬とはいえ「保存か道路開発か」の対立を忘れさせる開放感を、運河に集まった人々にかいま見させた。その反響も大きく、以後小樽運河問題は一層全国的にも注目されるようになる。道路開発派も運河や石造倉庫の価値や可能性を認めざるをえなくなり、運河の全面埋め立てから、一部水面を残す現計画への変更につながっていく端緒となったのである。
栄光の時代、衰退の時代、再び脚光をあびる時代と転変するまちの歴史を、小樽という街に生まれた石壁の空間が様々なエピソードをはぐくみながら時代の生き証人として語りつづけている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・札幌ビール園と余市ウイスキー工場
北海道にレンガ造や石造など、戦前にたてられた防火構造の建造物がどれくらい現存しているだろうか。日本建築学会北海道支部歴史意匠委員会編のホームページをみると、レンガ造290件、石造126件、木骨石造158件、土蔵32件の建物がリストアップされている。総数的にもっと数はひろえるだろうが、主たるものが網羅されている数字である。
<開拓使のレンガ工場>
そのなかで一番多いのがレンガ造の建物である。レンガの街としては、幕末に開港場として開かれた洋風の伝統があり、大火の歴史の街である函館が一番にあがるが、政治の中心で開拓使のお膝下であった札幌も、レンガ造の建物が多い。それは開拓使が建物の近代化、洋風化政策を開拓の主要な柱として位置づけ、函館、札幌の郊外にそれぞれレンガ工場を建設したからである。札幌レンガ建築の横綱には文字どおり「赤レンガ」の愛称のある北海道庁旧本庁舎(明治21年)があげれらよう。そして大関はサッポロビールの建物群であろう。サッポロビール園として有名な建物は、明治23年、札幌製糖工場として建てられたものを、のちにビール会社が買収、昭和42年に内部を改装し、サッポロビール資料館、ビール園として公開したものである。幅84m、奥行き17mもある大きな建物であるが、内部には鉄骨梁にレンガの浅いボールトを架けたた防火床や鋳鉄製の組立式周り階段など、19世紀の産業建築の手法が随所に見られる。外観もペヂメントの丸窓やアーチ窓、屋根にいくつもついているドーマーなど、工場建築ではありながらも楽しい建築的要素を備えていて、ビールの味とともに市民や観光客に親しまれる存在となっている。
ビール会社には、もうひとつ平成5年、サッポロファクトリーとして再生し、大規模な商業コンプレックスに生まれ変わったレンガ造の建築群がある。これは明治9年開拓使が日本のビール産業の先駈けとして開設した麦酒醸造所を引き継ぎ、札幌麦酒会社(サッポロビールの前身)が明治25年に建設した、いわば本家にあたる建物である。当時、日本最大の近代工場であり、道庁正門からまっすぐ東にのびる北3条通りに面した敷地に建ち並ぶレンガ造の建築群は当時の壮観な姿を今に伝えている。
<レンガのまち江別>
レンガは色合い、質感ともに日本人に愛情をもって長く親しまれてきた建築素材である。函館、札幌のレンガ造の建物群は有名であるが、それらはいわば過去の歴史的存在である。そのなかで札幌から近い江別は、今もレンガやセラミックブロックの工場が立地し、学校や役所などの公共の建物から、住宅や農場のサイロまで、幅広くレンガが街並みをつくる現役の素材としてさかんに使われている都市である。次の時代の遺産を造るものとして、注目される。
<ウイスキーのふるさとを創った木骨石造>
北海道の防火建築としてレンガ造の次に多いのが木骨石造の建物である。この構法の起源は明治初期の開拓使に由来するらしいが、都市のシンボルにまで育てたのは小樽である。その小樽から西に30kmほどいった積丹半島の付け根に、余市という街がある。漁業や果樹栽培が産業の小さなまちが、日本の近代に特異な足跡を残すのは、戦争も近いづいた昭和9年である。スコットランドで日本人としてはじめてウィスキー醸造技術を学んだ竹鶴政孝が、ハイランドに似た気候、原料、水を求め日本中を探し歩いた後、北海道のこの余市の川のほとりに最適の土地を見いだした。ニッカウィスキーの誕生である。その蒸留所と神の水を熟成させる入れ物として選んだ建物は、その風土で生まれ育った伝統の木骨石造建築であった。昭和に入ると耐火建築としてはRC造が普及し、小樽でも木骨石造は時代遅れになっていた。しかし熟成の時間には木骨石造の空間こそふさわしかった。余市のシングルモルトとして、世界レベルの名品がそこから生み出されていくのである。独特の腰折れ屋根のシルエットとともに、ウイスキーのふるさとで木骨石造建築は健在である。 柳田良造