PRAHA HISTORY

2003年で遂に15周年を迎える PRAHA。15年という月日は本当にアッという間に過ぎてしまうものですが、やはりそれまでに色々な出来事や、時代があったりしました。
ここではそのホンの一部ですが、簡単に紹介してみましょう!


プラハのはじまり

 札幌には美術館や色々なギャラリーがありますが、閑静な住宅街にあるフリースペース・プラハは一風変わったスペースとして、独特のアートやイベントを行っています。
フリースペース・プラハは、昔病院だった建物を1988年に改造して、建築家 柳田良造、石塚雅明の2人を中心に若手のアーティスト、写真家、劇団などが集まって、制作から発表までを全て行うスペースとして始めたのが始まりです。


プラハの由来

 「プラハ」の名前の由来は、そこをクリエイティブな空間にしたいとみんなで考えているときに、代表でもある柳田氏が、市電が走るヨーロッパの都市風景とのつながりと、チェコスロバキアに行ったときの東欧のアバンギャルドな空気をイメージから、首都でもある「プラハ」を提案し、満場一致で決定したところからついたものです。


プラハ最初のアーティストたち

 当時のアーティストには、ドイツ留学をへて活動の幅ひろがっている端 聡や、ヤン・フート氏とともに札幌の北3条通りでの「ポロメンタ」の企画や現在はS-AIRなどの事務局をになっている柴田尚、バリに留学していたメタルアートの小林重代、写真の植村佳弘(まなざしの力展)、演劇ではプラハの建物の特徴を活かした舞台が個性的な劇団「水上SHOW会」などがありました。
 プラハで直接活動していない人も沢山の企画を持ち込んで、今では伝説ともなった数々のイベントを立ち上げました。その中でも、1989年に行われた「移舞」という企画は、プラハの庭から始まって屋上までに7つのステージが作られ、各ステージに舞踏家とミュージシャンがセッションし、舞踏家がお客さんをリレー式に次のステージまで連れていくという大イベントで、そのパワーや完成度は未だに越えるものがないとも言われています。


プラハの過去現在

1934年
市電の開通に合わせ、山鼻界隈の開発が進み始める。昭和9年(1934年)、PRAHA のある南15西17 の斜め通りが当時の田園郊外の住宅地(有名な田園調布などの開発と似ている)「伏見花園街」として売り出される。
1宅地の基本面積110坪/戸のゆったりとした町並み。ちなみにPRAHAの敷地は2宅地分の220 坪あります。

1961年
ブロック造の仲村病院として、1階は診察室と病院長家族の居住スペース。2階は病室として建てられる。
1階240.03 2階153.09

1987年
10月新事務所を探していた柳田良造が南15西17丁目に空き家として「建物」を発見する。
12月より2階部が柳田石塚建築計画事務所となる。

1988年
1階部は柳田良造の提案で、アートの共同アトリエとして、6月「PRAHA」が開設される。
「PRAHA」=建物の名前であり、住民体(ミクストメディア集団)の総称となる。

1989年
端聡(美術作家)、小林重予(美術作家)、柴田尚(アートディレクター)、植村桂弘(写真家)、
柳田良造(建築家)等、共同アトリエの作家が中心となって、実行委員会形式の「PRAHA’89(住民主体のイベント展)」を開催。
(8月〜10月)

1990年
住民チームに小室治夫、露口啓二など、多数の写真家(まなざしの力展)の参加も有り「PRAHA’90」が開催。

1994年
chibashi(千葉晋也)が中心となって、Free Space PRAHA(PRAHAの展示室)を拠点に、
札幌でおこっている美術、音楽、演劇などの情報発信をはじめる。

1995年
この年は、仲嶋貴将、小川智彦、三宅道子などの意欲的な展が続き、アートスペースとして盛り上がりをみせる。
[Go to 1995 Project]

1996年
「SAPPORO CAFE」(色々な人達がおしゃべりできる場(=カフェ))を提案。

1997年
木村友弥恵、高瀬美紀子により、Free Space PRAHAが運営される。

1998年
大橋拓が中心となって、PRAHA(建物の名前)を拠点に、アートの実験と環境づくりを実践する計画(集団)
PRAHA Projectが発足する。

2000年
PRAHA Projectが中心となって、PRAHA1階の再々生計画、「PRAHA・リセット・ Project」を実施され、
アーティストに向けて、製作と発表を目的としたPRAHA studio(9室)を提案する。

2001年
PRAHA1階に、ウィークエンドcafe、黒田、ジャマニ、ブルース桜井など、個性的なメンバーがアトリエ住居を構え始める。
2階建築事務所が、プラハアソシエイツ株式会社に改組。


PRAHATIC!!

プラハは時代にそって、さまざまに姿を変えています。

オープン期(1988年〜92年)は物のなかにアトリエをもつ8人のが中心となり民主体のイベント展形式で、運営されていました。2この時期はアーティストが住み込みで制作したり、仕事をしていました。X年)は、建物のなかにアトリエをもつ8人の住民主体のイベント展形式で、運営されていました。1993年〜は、chibashiがオープン当初の志を引き継ぎつつも時代の変化に対応した(ある時は背を向けた)クールな企画を立ち上げています。
90年代後半〜は住み込む人はいなくなりましたが、2001年以降は、また住み込みのアーティストがふえてきて、1階のフリースペースを
大橋拓などのPRAHAProjectを中心としてアートや演劇・ライブなどの企画運営と製作の場となっています。

 企画は基本的に貸し画廊のように、やりたい人がお金を払えば出来るというものではなく、また、企画画廊のようにキュレイターがいて企画を呼ぶというものでもなく、その中間として企画を持ち込んできたアーティストとプラハのスタッフのコラボレーションとして、じっくりと企画を立ち上げるという形式をとっています。それは、プラハという場所がもともとギャラリーとして作られた建物ではないこと、そして都心部から市電で20分程度かかり比較的不便な場所ということがあり、やる側にとっても、観る側にとっても「プラハらしい(=PRAHATIC!!)もの」、「ここじゃなくてはやれない(観れない)もの」でなくてはだめだというコンセプトから、そのような形式に自然となっていったのです。持ち込まれた企画の中で「プラハらしい(PRAHATIC!!)」と決まったものは最低限の料金(管理費)で2週間まで自由に使用できるシステムとなっており、札幌の若手アーティストのデビューの場として最大限のお手伝いをしています。
 
プラハでは、オーナーでもあるプラハアソシエイツ株式会社(旧株式会社柳田石塚建築計画事務所)が、ノンプロフィット(非営利)の組織として「PRAHAまちづくり情報センター」を開設し、札幌、函館などを中心としたまちづくり活動やワークショップ、勉強会などの情報発信の場としても機能しています。