産業遺産の収集に関わって


記/富岡由夫(函館産業遺産研究会)

産業遺産という言葉はちょっと耳慣れない。これは残されている古い産業建造物とか、機械記念物の総称である。昭和50年以降、これらを調査し、歴史的に貴重なものには、文化財として正しい評価を与えようという運動が起こった。各地に産業遺産研究会、○○産業考古学会などができ、中央には産業考古学会が設立された。40年代の高度成長期にスクラップ・アンド・ビルド政策で旧式の機械設備や生産施設はほとんどが姿を消した。これでは日本の近代化を成し遂げた技術的な証拠は消滅し、わからなくなってしまう。大事なものは何とかして残そう。その反省が始まりである。

 調査研究の対象は昭和30年以前のものが多いが、最近の技術革新の速さから40年代のものも含まれるようになった。消滅寸前で今すぐ手を打たねばならぬものも増えた。

 函館産業遺産研究会が発足したのは平成8年の夏である。青森港に繋留してあるメモリアル・シップ「八甲田丸」の側に、みちのく銀行の肝いりで漁船博物館ができることになり、函館から36隻の木造漁船が搬出された。この作業に係った元船大工の山田佑平氏は地元の無関心さに危機感を抱いた。これとは別に数年前より古い産業機械の調査に当たり、同じ思いを抱いていた私たちと意見が一致したのである。このようにして研究会が生まれたので、会員には鉄工所、造船所関係者が多い。年に2〜3回研究発表会、見学会などを催しているが、保存も手がけるようになった。ところで前述の漁船博物館では青森県内を含めて111隻を収集し、そのうち67隻が昨年の11月に国の重要有形民俗文化財に指定された。函館で製造されたものもたくさん含まれており、この秋には開館の予定である。

 私たちの会の保存物はFRP船の普及で技術消失が時間の問題になった木造船用船大工道具の収集から始まった。マスコミの協力もあり、元船大工や、遺族からの提供で、1200点が集まった。木造船業の最盛期に函館には7軒の刃物鍛冶がいたから、彼らの作品が多い。これらは函館型として道内はもとより、東北地方、日本海側各地に普及していた。

 次に取りかかったのは産業機械である。かつて函館の産業を強力に下支えしたものに、焼玉機関、缶詰機械、工作機械などの製造業があった。開発された機械は昭和30年代の技術革新で新型に替わり、ほとんどが姿を消した。明治期より盛んだった蒸気機関の製造は、その後、焼玉機関に引き継がれ、北洋漁業向けに盛んだった缶詰機械の製造は、工作機械の製造に繋った。これまで収集したのは昭和10年代のものが主で、25馬力焼玉機関1台、工作機械(旋盤2、フライス盤1、中ぐり盤1、形削盤1)5台である。この中に函館で製造されたものが3台含まれている。かつて函館の産業を支えた名機ばかりである。

 ところでこのような産業遺産の収集には、克服しなければならぬ問題がある。機械類は容積も大きく、重量も2〜3トンあるので、保管場所を確保しなければならない。無償提供を受けても運搬に多額の費用がかかる。会員の協力で今回はなんとかやり遂げたが、これからは公的な助成を含め、多くの援助がなければ難しい。

 振り返ってみると、函館地区は道内各地とは異なった産業発展の様相を呈している。それは幕末に横浜などとともに開港し、西洋文明がここから入り込んだためである。ブラキストンの製材工場は、蒸気機関を使った道内最初の工場で、この技術は民間に鍛冶屋に引き継がれて、大小の蒸気機関の製造となった。造船業の場合も同様である。幕末の洋型船「函館丸」に始まり、各種の木造船の製造では道内随一に成長した。昭和初期には32の造船所が操業し、函館型道具もこのような背景のもとで生まれた。機械、造船の分野にとどまらない。幕末にガトネル(独人)が拓いた様式農場、トラピスト修道院による酪農事業、ゴスケヴィッチによる写真術の伝播など枚挙にいとまない。

 先人が営々と築いた産業技術や遺産に光をあて、歴史面から技術面から明らかにしていきたい。それが私たちの願いである。収集した機械類は歴史的な証拠(あかし)である。将来的には工業技術博物館のようなものを造り、ここに展示して若い人達に伝えていきたい。「テクノポリス函館」の方向づけにも役立つであろう。市民の理解と協力をお願いする次第である。