〜戦  雲〜


作・ゴーアル様


第七話 戦運(その2)



 国府城。
 この城が建てられたのは、十年以上前のことである。
 それまでの国府城は、狗根国の支配に最後まで逆らい、劫火の海に沈んだ。焼き討ちは城民を追い出してから行われたので、炎に巻かれたものはいなかったが、だからといって悲しみがないわけではない。それまでの攻防戦により命を落とした者の死体は城と共に焼き尽くされた。
 故郷を失う。
 狗根軍の行動が盛んだった頃には、どこでも見られた光景である。
 村が消え、街が燃える。
 しかし、人が生きている限り、住処を作らなければならない。自分の手で故郷を作らなければならないのだ。
 住み慣れた城を失った民は新たな城を作った。いや、作らされた。城を焼いた者たちの命令に従って──
 国府城建設を指揮した狗根軍の武将は徹底的に国府の民を酷使した。
 新たな国府城はより海側に近いところに建てられた。城の位置が変われば、道もまた変えざるを得ない。街道や水路の整備、やらなければならないことはいくらでもあった。
 中でも力が注がれたのが城壁であった。
 二丈六尺(約八メートル)を誇り、角楼まで設けられた城壁は辺境の城には過ぎたものである。実際、一番近い城である久指間城の城壁は二丈余り(約六メートル)であった。
 戦略的な要所であるわけでもなく、敵となる存在が見受けられない状況においては無用の長物と謡われても仕方のない建築物。その意味は、ただ狗根国の力を示すことのみにあった。
 巨大な建築物とは、すなわち力の象徴である。しかも、生活の一部とならざるを得ない城壁は、朝日が昇るごとに狗根国の力を示してくれた。城を訪れる人間は城壁のすばらしさに圧倒され、萎縮したままに城内へと入ることになる。だれもが狗根国に頭を下げて城に入るのだ。支配者としては、意味のあるものだった。
 ただ、忘れてはいけないことがある。
 たしかに、この城は狗根軍によって作らされた。槍で脅され、怒鳴られながら、土を掘り、石を積み、木材を運ばされた。それは、強制であった。だが、作ったのは、九洲の民である。
 風雨に耐え、故郷を喪失した苦しみを抱えながら、城を作ったのは彼らだ。
 今はまだ、誇りとはできないかもしれない。屈辱の証であるかもしれない。
 でも、いつかは九洲の民の誇りとなる意味を与えることができるかもしれない。
 そう、いつか──




 太陽は西へ傾こうとしていた。とはいえ、日が暮れるまでにはまだ時間がある。にもかかわらず、国府城外には市場での商いを終えた者たちがぽつぽつと姿を見せていた。
 彼らは城から遠く離れた村からやってきた者たちだった。日が暮れれば、野盗や魔獣に襲われる危険が大きくなる。かといって、城で一泊するような贅沢な真似をする余裕はない。まだ日の高いうちに家路に着かなければならないのだった。
 べつにつらいことはない。彼らにとってはいつものことなのだから。
 しかし、今、彼らの前に普段は見ることのない光景があった。
 二百人余りの集団が国府城に向かって歩いている。
 その様子を表すのに最もしっくり来るのは、凄惨、だろうか。服は血で濡れ、見ただけで鼻の奥に鉄臭さを感じてしまう。
 集団は一見して二つに分類できる。
 すなわち、勝者と敗者。
 鎧を着込んだ兵士が、血に汚れた薄手の服を着た男達を取り囲んでいる。兵士が背筋を伸ばし、胸を張って歩いているのに対し、男達は手に縄を打たれ、背を丸め、顔は地面にしか向けられていない。
 どちらが勝者で、どちらが敗者かは、わざわざ述べるまでもない。
 ──兵士が少なかったのはこのためだったのだ。
 市場の光景を思い出し、彼らは思わず嘆息した。
 捕らわれた男達が何をしたのかは分からない。だが、九洲の民だということは一目瞭然だった。
 狗根兵に取り囲まれながら歩を進める男たちの姿は、火を尊びし民の現状をはっきりと表現していた。
 個人的な粗暴さはともかく、狗根兵は軍規によって統制されている。兵士としての任についている限りは、理由もなく、武器も持たない一般人に暴力を振るうことはない。
 しかし、過酷な重税に、際限のない労役。家畜の如き扱いというのだろうか、傷つけてしまっては、働かせることができなくてもったいない。直接的な暴力が振るわれることのない背景には、そのような事情もあるのではないかと勘ぐってしまう。そして、それは決して深読みのし過ぎではなかった。
 生きているのだ。全てが苦しみというわけではない。子供の成長を喜び、友人と話しては笑う。そのくらいの楽しみはある。それでも、生かされているという思いは消えはしない。
 結局、手に縄を打たれている男達と変わりはしないのだ。
 絶望、いや、もともと望みなどはない。彼らの心の中で、諦めの色が、また、濃くなっていた。



 集団は南門の前で足を止めた。
 城門を警備している兵士は十人。その内のひとりが声をかける。彼は逃亡者を捕まえるために部隊が出撃したことを知っていた。
「任務、お疲れ様です」
「うむ」
 部隊長がくぐもった声で答える。門兵の顔に怪訝なものが浮かんだ。
「顔をどうかされたのですか?」
 部隊長の顔は頬から下の部分が布で覆われていた。兜と合わせれば、ほとんど表情は見えない。ただ、兜の上にある青色の飾りが部隊長であることを示していた。
「それに、てっきり東門から戻られるのかと思っておりましたが」
 東門は、一般人が利用する南門とは違い、使用用途が軍事目的に限られていた。昼前に部隊が出撃したときも、東門から出発している。門兵の眉が中央に寄った。
「……やつらを取り押さえるときに石をぶつけられてな。痛むのだ」
 もごもごと声色がなかなか聞き取れない。相当の痛手のようだ。見れば、後ろに続く兵士の鎧もところどころへこんでいる。さらには、捕虜の服は血に染まっているものが多い。激しい抵抗があったらしい。
「南門から入るのは、相馬様のご命令でな。見せしめにしろということだ」
「なるほど、そうでしたか」
「兵士たちを休ませたいのでな。通るぞ、良いな」
「はっ」
 門兵は城門の壁際まで下がり、兵士と捕虜の列を見送る。
 ──あいつはいるかな?
 この部隊には友人がいるはずだった。部隊長も負傷するほどの抵抗を受けたのだ。もしかしたら、友人も負傷しているかもしれない。心配をしてやるくらいに仲の良い関係だった。
 一人ずつ顔を確認していく。
 そして、列の中ほどまでが城門をくぐったとき、列の中から誰かが彼に向かって飛び出した。思わず、体を固め──腹に熱を持った痛みが走った。
 ──……敵!?
 その一文字が頭に浮かんだとき、すでに彼の命のともし火は消えかけていた。



 城の住民は、悔しさ、悲哀、恐れ、ありとあらゆる負の感情がこもった視線を彼らに向けていた。
 彼らのうち半分は敵。
 紛れもない敵。
 戦から十年以上が経ったとしても変わりようのない関係。
 いつもなら目をそらすこともできる。仕方のないことだと、自身の力のなさを恨み、一時の自己嫌悪で済ますことができる。酒でごまかすことができる。
 しかし、このような姿を見せられては、嫌でも現実を見ざるを得ない。
 やつらは敵なのだ。
 彼らのもう半分は同胞。
 一つ間違えば、自分があちら側にいたかもしれない。見物人と当事者の差はほとんどない。いや、見物人という立場などないのだ。常に当事者であった。そのことを思い出す。
 城の住民はじつはそれほど狗根兵の暴虐には晒されてはいない。
 女性の暴行、店の代金の踏み倒しなどはよくある話だ。しかし、村や里はそれ以上の搾取にあっていた。
 月に一度、各村の持ち回りで、妙齢の女性を差し出す。軍の部隊長辺りが村に見回りに来て、村長宅に泊まっていくときなどは、村長の妻や娘が夜の相手をすることすらある。
 血反吐を吐くが如きの屈辱。
 城は狗根国の支配拠点である。だから、暴力にも制限がかかっている。
 とはいえ、城の民が何も知らないわけではない。
 市場で、噂で、いろいろなところから情報は入ってくる。九洲の民だという共感が胸を締め付ける。知らない振りをすることで、心に傷がつく。大声で叫びたくなる。
 何もできない。
 狗根兵は強い。一斉蜂起すれば、この城の兵士くらいは倒せるのかもしれない。だが、それは一時の勝利に過ぎない。すぐさま、征西都督府から大軍が派遣され、鎮圧されてしまう。それは、耶麻台国滅亡後、幾度も起こった叛乱の結末であった。
 心を切り裂く光景はいつものこと。目をそらすのもいつものこと。無力さを感じるのもいつものこと。
 違う。
 大通りをさらし者として歩かされる男たち。
 最初はだるそうに、一歩、足を進めるだけでつらそうにしていた男たち。
 それが宮殿に近づくに連れ、地面を蹴る音が力強くなり、背筋が伸び始めていた。
 違う。
 うつむき加減だった顔に日が差す。その目は敗残者のものではなかった。
 ──なんなんだ?
 変化に気づいた城民の胸に疑問が浮かぶ。
 男たちの視線にこもっているのは憎しみや恨みではない。そもそも取り囲む兵士には目を向けていない。視線の先にあるは宮殿。込められているのは決意。
 空気が動いた。



「まだ、早い」
 列の前方を歩く兵士がつぶやいた。
「気が昂ぶるのは仕方がない。それに、ここまで来れば問題はない」
 隣の兵士が答える。低めではあるが、女の声だった。
「……それもそうか」
 兵士の声には、焦慮の響きがこもっている。
「自信を見せろ。ここまで来て、焦ってどうする」
「ああ、分かってる。──手順の変更は必要ないよな?」
「ここまでは順調だ。城門の封鎖も上手く行った。想定外の事態も起きてはいない。変更する必要はないな」
「じゃあ、まずは兵舎だな」
「宮殿の正門は桔梗たちに任せておけば問題ない」
「分かった」



 兵士と捕虜の列が宮殿の正門の前で右に曲がった。
 その際に、列から数人の兵士が正門に近寄り、門兵と話をする。慣れなれしく何言か話すと、門兵が急に話しかけてきた兵士にもたれかかった。
 そんな光景を尻目に列は宮殿の壁沿いに東に向かう。宮殿の東側は兵舎となっており、また、捕虜を収容するための施設もあった。
 すでに大通りから外れたこともあり、城民の姿はない。
 足音だけが通りに響く。
 まるで統一感のなかった足音に一定の拍子が生まれてきた。
 兵士と捕虜の歩き方が重なり、その足は大地をしっかりと踏みしめる。
 兵舎へと繋がる門の前に着いた。
 門兵が話しかけてくる。
 顔を布で覆った部隊長の後ろで、兵士がつぶやいた。
「行くか」
「ああ」
 答えは簡潔だった。
 一つ深呼吸をし、目を見開く。パッと槍を掲げた。
 突然の行動に唖然とする門兵の目の前で、捕虜を縛っていたはずの縄がするりと地面に落ちる。赤色の染料で染められた鉢巻を懐から取り出し、頭に巻く。そして、隣にいた兵士から刀を受け取り、抜刀した。
「て、」
 敵襲──そう叫ぼうとした門兵ののどに棒手裏剣が突き刺さる。
「伊万里、上乃、いけるな?」
「もちろんです」
「任せてよね!」
 無骨な兜の下から聞こえたのは女の声。耳に心地よい響きを残したまま、兵士がふたり、すぐさま走り出した。門をくぐり、兵舎へと突入していく。
「なん……」
 斬──ちょうど門から出ようとしていた相手に躊躇なく刀を振るう。誰何(すいか)の言葉を言い終えることなく、運のない男は倒れた。
 先陣を切った二人に後続も動き始める。
 鬨(とき)の声もなく、突撃と言う割には静かではあったが、殺気だった雰囲気は隠しようがない。百三十名ほどが侵入し終わり、残るは五十人余り。
「私たちも行くぞ」
「ああ!」
 兵士──九峪が気合を声に出す。
「全員、敵と会ったらためらうことなく槍で突き、刀で斬れ。相手の体勢が整っていない今が好機だ」
 九峪の隣にいる兵士──清瑞が女にしては低い、しかし、よく通る声で周囲の兵士に注意を与えた。まだ武器を持っていなかった者に槍を渡し、九峪に一瞥をする。すぐに視線を前方に戻し、刀を抜き、歩き出す。
 一つ頷き、九峪も後に続いた。
「俺たちの目標は国府城主、行くぞ」
 進撃が始まった。



 狗根国の兵士とその捕虜になって国府城に侵入する。それが九峪の立てた作戦だった。
 言うは易し。
 実際に作戦を実行するとなるといくつも問題が出てくる。
 狗根国の兵士に成りすますには、狗根兵の装備を手に入れなければならない。どのように呼び寄せるかについては問題ない。相手が勝手に見つけて、逃亡者を捕らえるために兵を出すだろう。ちょっとした小細工をすれば十分。乱波という工作の専門家のありがたみだ。
 では、どうやって狗根兵から装備を奪うか?
 まさか、武具一式を下さいと言うわけにはいかない。
 倒して奪うしかない。
 どうやって奪うか?
 わずか二百人程度では、まともに戦って勝つことなどできない。
 ならばまともに戦わなければよい。
 その舞台が旧国府城だった。
 準備と罠──鍵はこの二つ。
 狗根兵の装備は手に入れた。そして、情報も。
 国府城の狗根兵は分散している。
 左道士総監が獲り逃した男女ふたりと征西都督府に送るはずだった囚人二百人を探索するために。
 好機だった。
 国府城に侵入できたとして、攻略できる可能性はあるのか?
 その答えだった。



「清瑞、こっちでいいのか!?」
 九峪は駆け足で走りながら、兵舎区域を西に突き進んでいた。目の前には清瑞の背中がある。
「ああ、国府城は音谷の里から一番近い城だからな。城の構造を調べる必要があって、そのときに私も侵入していた。宮殿の構造にも調べがついている。この道で間違いない」
「そっか、──後ろはかなり騒がしくなっているな」
 大声と鐘の音。
 狗根兵の対応も早い。
「すぐに前方も騒がしくなる」
「そりゃそうだ」
 声はともかく、鐘の音は間違いなく本宮にも届いている。異変に気づいた狗根兵が駆け足で動き始めているのは明らかだ。
「ただ、兵舎の側から攻められるとは予想していないはずだ。配置から考えて、こちら側への対応は遅れる。それに、桔梗たちが正門のほうから侵入している。烽火台を壊してから、私たちに呼応して行動するはずだ」
「……桔梗さんか」
 黒髪の大人な女性。
 笑顔がきれいで、柔らかな雰囲気。背もそれほど高いわけではなく、強さ、に繋がるものはないように見える。清瑞を一瞬で地に組み伏せた手際は覚えているが、手錬(てだれ)だとは思えない。
 視線を正門のほうへと向ける。
 木々の向こうに立ち昇る煙を見つけ、里の襲撃を知ったのは一昨日のこと。死の恐怖を味わった瞬間だった。
 今も自分の見えないところで誰かが戦っている。しかも、自分の考えに従って。
 怖い。
「集中しろ」
 低く、冷たい声。清瑞は振り向いてもいない。
「あちらは隠密行動なのに対して、こちらは奇襲とはいえ、真っ向勝負。どちらが厳しくなるかは明白だ。それに、桔梗は強い」
「……そりゃそうか」
 九峪程度に心配されても、相手は反発するだろう。自分の心配をしてください、と。
 役割は分担した。
 伊万里と上乃は兵舎を強襲、九峪と清瑞は兵舎から本宮を狙い、桔梗たちは、烽火台を破壊し、兵舎で騒動が起きたことに気づき、迎撃に向かうであろう狗根兵を後ろから襲う。
 当初、九峪は本宮を直接狙うつもりだった。城主を倒すことが勝利に繋がると考えたからである。
 反対意見を唱えたのは清瑞だった。
 今回の戦では、味方に不利な点はいくつもある。響衆はともかく、兵のほとんどが素人、情報も十分とはいえず、何よりも余裕がない。弱点を挙げれば切りがない中で、いくつか有利な部分もある。
 それはこちらに先攻の利があること。
 全てが上手く行きさえすれば、最初の一撃だけは優位な状況で行える。ならば、もっとも効果を望める部分を突くべきだ。
 そう状況を述べた清瑞が第一目標に挙げたのが、兵舎であった。
 緊張感を常に保つことは難しい。
 体力の保持、武器の扱いなどは訓練によって改善することはできるが、大規模な叛乱もなく、一見、平和に見える状況で戦場の空気を保つことはできない。それでも、宮殿の内部ならばある程度の心構えも期待できる。だが、寝食をする場、もっとも心を落ち着けることができる場では、警戒心が薄れるのも当然だ。
 つまり、兵舎こそがもっとも警戒が緩んでいる場所。また、先に本宮を攻めた場合、兵舎に残っている兵士が応援に駆けつけてくるだろう。最悪の場合、挟撃される恐れすらある。錬度が皆無と言ってよい状況では、挟み撃ちされることだけは絶対に避けなければならない。
 ただし、いくつかの懸念もある。
 最初に兵舎を狙えば、本宮の攻略に手間取り、城主に逃げる時間を与えてしまうかもしれない。また、本宮に配置されている兵士は完全武装とまでは行かずとも、武装はしているはず。彼らに対応への時間を与えてしまう。
 利点と欠点、相互を比較し、九峪は兵舎に一撃を加え、大きく二つに分かれることにした。
 城主を逃がすわけにはいかないからだ。
 国府城を解放できれば、最悪、城主を捕り逃しても問題はないとも考えられる。しかし、現在、国府領に分散している狗根兵への対応を考えに入れれば、最高指揮官である城主を逃すことは致命的な失敗ともなりかねない。
 兵力分散の愚。
 仮想戦記小説などでよく見る言葉が、頭の中心にどんと座っているのを自覚しながらも、九峪は決断した。
 ──何かを決めるっていうのはつらいんだな。
 駆け足を続けながら、胸中でつぶやく。
 現在、国府城解放軍の総大将は、火魅子の資質を持つ伊万里ではなく、神の遣いである九峪だった。
 九峪は、軍議の席で、伊万里の敬意に満ちた態度に流されていたことに気づき、王家に連なる伊万里のほうが総大将にふさわしいのではないかと席を譲ろうとした。それに反対したのがキョウだった。
 ──火魅子の資質を持つのが伊万里だけとは限らない。
 そう耳元でつぶやいたのだ。
 国府城を解放したあとも、戦いは続く。もしかしたら、火魅子の資質を持つ女が出てくるかもしれない。そのときに、彼女らの上に立つことができる人物がいなければ、軍は分裂する。だから、神の遣いが火魅子の資質を持つ女の下につくようなことをしてはならない──キョウの意見をまとめると、このようになる。
 九峪としては、頷かざるを得なかった。キョウの言葉に納得したというわけではない。自分がまた逃げようとしている──そう、思ったからだ。
 総大将、すべての決断とその責任を持つ者。
 神の遣いを名乗ることへの決意とは、また違った決意が必要となる。一つ一つの決断に覚悟を求められるのだ。
 ここまで駆けてくる間にも清瑞は狗根兵を何人か手にかけている。
 それもまた九峪の決断の結果。
 後方で、伊万里と上乃に率いられた部隊が狗根兵と激突している。どれだけ上手く事が運んだとしても、死者は出るだろう。
 建物の角を曲がった。門が目に入る。
「あの門を抜ければ、本宮だ。私が先行する」
「えっ、おい!」
 九峪の声に答えることなく、清瑞の走る速度が上がった。
 門の前にいるのは狗根兵二名。向かってくる敵の多さに驚いたのか、慌てて、本宮側に入り、門を閉める。ここで攻略に手こずれば、勢いを失ってしまう。
 門が閉ざされても、清瑞の速度は落ちなかった。むしろ、門が近づくほどに勢いを増している。そして、門まであと五歩というところで跳んだ。本宮と兵舎区域の間を仕切る壁は城壁ほど高くはないが、それでも一丈半弱(約四メートル)はある。それを一度、壁を蹴り、縁に手を掛け、苦もなく登りきった。
 妙技を誇るでもなく、狗根兵の鎧を着た女乱波の姿は、そのまま壁の向こうへと消えた。
「き、きさっ──」
 九峪と兵士が門にたどりついたときには、くぐもった悲鳴が聞こえ、待たされることなく、門は開いた。現れたのは、息も切らすことなく、冷たい眼差しをした清瑞。
「突入するぞ」
 口からこぼれたのは短い言葉。
 くるりと後ろを振り向き、先ほどと変わらぬ駆け足で、部隊を先導し始めた。九峪たちも後に続く。
「おい、いきなり突入するなんて危ないだろ!」
 兵士には聞こえないように、九峪は小声で問う。
「門兵の動きを見れば、他に兵士がいるかどうかは分かる。今は迅速さが優先だ」
 つぶやくように、しかし、はっきりとした声が返ってきた。清瑞の言動に迷いはない。いや、迷っている暇はないのだ。
 すぐ目の前には本宮がそびえ立っている。
 それは城壁と並んで、九峪の歴史観を打ち砕く威容だった。
 太い柱と白い壁、屋根は黒いかわらが敷き詰められており、九峪のイメージにある三世紀の日本ではありえない光景。しかし、視線の先にははっきりと存在している。その中へと突入していく。
 階段を上り、迷うことなく右へ。しばらく進むと、今度は左へ──
「来るぞ!」
 清瑞の叱咤が飛ぶ。
 後ろに続く兵士たちに緊張が走った。
 ここまで、清瑞が厳しい声を出したことはない。その事実は、厳しい戦いの始まりを示していた。
 ──厳しいな。
 清瑞は眉をひそめた。
 角を曲がったところに見えたのは、二十弱の狗根兵。
 こちらは五十。数の上では有利。
 しかし、敵は戦闘するために存在する兵士。槍を構えた姿。適度に間隔を開け、味方の邪魔にならず、自分の動く空間を確保する。それでいて、部隊の形は崩れてはいない。
 ただ数だけをそろえても軍にはならない──伊雅から、里の先達から幾度も言われてきたことだ。
 本来ならば自分だけで動いたほうがいい。
 全軍をまず兵舎の攻撃に集中させ、兵舎の狗根兵を殲滅する。その後、本宮からの攻撃を防ぎつつ目を引き付け、清瑞たち乱波衆が、城主の首級を獲る。
 こちらのほうが策としては単純で、成功する確率も高い。しかし、清瑞はこの策を捨てた。
 この策には重大な欠点がある。
 城主の首級を獲ることは問題ない。自分ひとりでなく、桔梗の協力があれば、確実にやり遂げられる自信がある。
 問題は残った兵士で本宮の狗根兵の攻撃を防ぐことができるか、ということだった。
 槍を持ってまだ一日しか立っていない急造の兵士。本宮の兵が百名と考えても、勝てるとは思えない。守勢に回ったとしても、攻撃され続ける恐怖にいつまで耐え続けられることか。
 ──現状も似たようなものだがな。
 狗根兵との距離が狭まる。
 清瑞の策の仮定と現状は、比率だけを取れば、たいした違いはない。しかし、数が少なければ少ないほどに、個人の力で状況を一変させることができる。
 手甲で覆われた左手を懐に入れる。
 両者の距離が十歩まで縮まったとき、左手を一閃させた。
 ──まずは数を減らす。
 棒手裏剣が空を切り、走っていた狗根兵が三人、うめき声を上げて倒れた。前列が突然、倒れたことで、後続の隊列が崩れる。
「今だ! 全員、槍を構えてやつらを突き刺せ!」
 武器を武器として使う──単純な命令が兵士を戦いへと駆り立てる。隊列を崩しながらも、兵士は狗根兵に向かった。
 九峪はその光景を見ていた。
 兵士が自分を追い越し、前傾姿勢で走っていく。
 胸を締め付けられるような狂おしさを感じ、彼は腰の刀を抜き放った。しかし、足は進めない。
「前に出ちゃ駄目だよ」
 戦場でありながらも、どこか気楽さを感じさせる声。
「分かってる」
「指揮官たるもの、無駄な危険は避けるべきだからね。清瑞が前線でがんばって、士気を挙げているんだから、九峪の出番はない。でも、油断も駄目だからね」
「……分かってる」
「分かってるんならいいよ。それにしても、ここは狭くて汗臭いなあ」
 鎧の下、閉まっている鏡の中から、いつの間にかその精霊が現れていた。
 前方では激しい戦いが続いている。
 槍と槍がぶつかり、時には体当たりしながらの激闘。
 その中でも目覚しいのは、やはり清瑞だった。狗根兵のただ中に飛び込み、隊列をかき乱しながら、相手の足を斬る。地に伏せてしまえば、狗根兵も敵ではない。そこを味方の兵士が止めを刺す。
「味方は優勢みたいだね」
「外が見えてるのか?」
「ううん、感じ取ってるだけ。それにしても、清瑞が仲間でよかったよね」
「ああ、そうだな」
 狗根兵の中に飛び込むということは、当然ながら攻撃が集中する。その中にあって、清瑞は動きを止めることなく、的確に傷を負わせていく。
 戦闘のための技術を叩き込まれているのは狗根兵だけではない。殺すという技術については明らかに清瑞のほうが優っている。それが良いことなのかどうかは別にして。
 いずれにしろ、清瑞の奮闘のおかげで、味方が優勢のまま戦闘は終結しようとしていた。
 血の臭いに顔をしかめながらも、九峪はほっと一息をつく。
「九峪、後ろ!」
「えっ?」
 キョウの厳しい声。一瞬、あっけに取られながらも、嫌な予感が頭に走り、後ろを振り向く。
 雄たけびも上げず、一人の狗根兵が刀を構えて、近寄ってきていた。相手に気づかれたことを悟り、形相が変わった。一気に間合いを詰め、掲げた刀を振り下ろそうとする──
「縛!」
 キョウの霊言が響いた。
 狗根兵の動きが止まる。
 そして──九峪の刀が狗根兵の胸を貫いた。



 がくっと狗根兵が崩れる。
 その重さが刀に伝わり、驚きに固まった手に伝わる。腕が震えるが、手は刀の柄から離れない。
 狗根兵が膝をついた。
 唖然とした顔が見えた。貫いた刀が下がり、手には肉をえぐる感触が伝わる。相手の肩に手をついた。押す。ずるっと刀が抜けた。
 狗根兵は前のめりに倒れた。
 足元に転がる。
 ──何だ?
 ようやく浮かんだ言葉がそれだった。
 ひどく心が冷たくなっていくのを感じる。肉体と精神が完全に離れて、体と心にはっきりとした境があることを知る。そうに決まっている。
 自分は殺すつもりはなかった。
 ──殺す?
 二つ目に浮かんだ言葉はそれだった。
 いや、その前に言葉はある。思考はある。でも、それを認めたくない自分がいる。
 目を下に落とす。
 伊雅からもらった刀。
 芸術品のような輝きと造詣を持つ刃は赤く濡れていた。
 武器。
 人を傷つけ、奪うためのもの。
 ──何を?
 命を。



「ちっ」
 清瑞は振り返り、舌打ちした。
 敵の接近を見逃した。
 素人同然の味方を指揮しながら、乱戦を繰り広げていたのだ。まったく別方向からの攻撃を見落としたとしても無理はない。だが、清瑞は自分を責める。
 感情に左右することなく、ただ事実だけを見る。すべてを捉える。それが自分に課せられた役目。
 すっと周囲を見回す。
 すでに立っている狗根兵の姿はない。味方に死者はいない。急造の兵士にしては最高の出来だった。彼らが普通に対峙したら、死者の数は十人ではすまない。それだけの差がある。
 その差を埋めているのは、清瑞の活躍なのだが、苦労の影も見せず、九峪へと近寄った。彼の肩は細かく震えている。その足元には倒れ伏した狗根兵の姿。
 ──自分の身は守ったか、いや、キョウ様のおかげか。
 九峪の右肩の上辺りに、キョウが浮かんでいる。
「キョウ様、申し訳ありません」
 部隊の指揮を任されていても、神の遣いの警護という伊雅の言葉を忘れるわけにはいかない。
「いや、がんばったのは九峪だから」
 キョウの声から、気楽さが抜けている。
「そうですか」
 神の遣いを見る。清瑞の位置からは、九峪の顔は見えない。見えるのは背中だけ。
 ──ちっ、一言くらいは声をかけるか。
 小さく舌打ちし、口を開く。
「良くやった」
 言葉がこぼれた瞬間、九峪の肩が大きく揺れた。その反応に疑問を持ち、顔を見ようと前に回り込もうとしたとき、清瑞の鋭敏な耳は足音を捉えた。音は前方から。
 ──もう一人いたということか。
 九峪が倒したのとは別の兵士が仲間に連絡に行ったのだろう。
「敵だ。全員、隊列を整えろ」
 兵士のほうを振り返ると、多くの者が肩で息をしている。ほとんど初陣に近い状態で戦っているのだ。通常よりも疲労が大きくても仕方がない。しかし、今は休めるような余裕はない。
「敵は後方から。やることはさっきと同じだ。そうすれば、勝てる」
 清瑞の言葉に兵士たちは頷いた。
 ──もっとも、さっきよりも数が多い。三十といったところか。
 被害はないとはいえ、疲労が大きい。どれだけ、清瑞が戦えるかが勝利の鍵となる。そのためには──
「おまえは後ろに下がっていろ。いいな」
 九峪の肩をつかみ、後ろに引く。
 膝がくだけてしまったかのように、九峪は清瑞の手に逆らうことなく後ろに下がった。
 兵士が追い越していく。
 肩や腕から血を流している者もいる。
 槍を構えた。
 建物の陰から狗根兵が現れた。同じように、いや、遥かに慣れた手つきで槍を構えている。
「行くぞ!」
 清瑞の声が遠く聞こえる。
「ねえ、どうした、九峪」
 キョウが耳元で呼びかける。
「もう、何か言いなよ!」
 髪をつかみ揺らすが、九峪は何の反応も返さない。ただキョウの動きのままに、頭を揺らしている。
 戦いが始まった。
 先ほどと同じように清瑞が狗根兵の中に飛び込み、隊列を乱している。しかし、今回は数が違う。初撃に耐えた狗根兵は隊列を組み直し、清瑞に対処と他の兵士への対応を分担する。
 二つの攻撃に同時に対処しようとするから隙が生まれるのだ。役割の分担、それこそが組織としての軍の使い方だった。
 ──まずい。
 戦況を見ていたキョウはうめいた。
 苦戦。
 すでに味方が何人か血を流し、倒れこんでいる。敵がこちらにやってくるのも時間の問題だ。
 ちらっと横を見る。
 九峪の顔は下を向き、何も見えてないようだった。
 ──味方が戦っているのに、指揮官が逃げるなんて、絶対にやっちゃいけないことだけど……
 だが、茫然自失としたままの九峪をこの場に置いておくことはあまりに危険だった。
 こくんと頷き、九峪の手を引っ張る。
「ほら、こっちに来て、九峪」
 言葉は聞こえているようだった。引っ張られるままに、九峪の足は動く。
 ──危険かもしれないけど、建物の中に。
 キョウは自身の感覚を最大限に広げ、敵のいない方向へと九峪を導く。
 沸点に達した水のように激しい戦場から、若者は去った。その手にしっかりと握られた刀からは血がしたたっていた。



 目の前の光景が遠く見えた。
 清瑞に率いられた味方と狗根兵が戦っている。死んでいく。
 誰かに引っ張られた。
 足が勝手に動く。
 戦場が遠のいていく。
 ほっとした。
 まだ歩く。
 となりでキョウが話している。
 こっちに来て──そう、言っている。
 だから、ついて行く。
 右手が重い。
 視線を落とす。
 握っていたのは刀。
 また、見てしまった。
 鮮やかさを失いつつある赤が、それでも鮮明な印象を脳裏に焼き付ける。
 殺した。
 自分の手で殺した。
 体の底から震えが上ってくる。どうしようもなく、泣きたくなる。最後にこちらを見た顔が頭の中にへばりついている。
 声が聞こえた。
 なんで──
 今は考えても仕方ないと先送りにしていた事実が送り主の元に戻ってきた。
 はっきりと思い出す。
 それは旧国府城での戦い。



 国府城解放までの道のりの最初の坂は派遣されるであろう狗根兵の部隊をどうするか、ということだった。
 国府城攻略のためには狗根兵の装備が必要となる。それを奪うには相手を無力化しなければならない。しかし、まともに戦うわけにはいかない。そこで、九峪が提案したのが旧国府城に相手をおびき寄せるということだった。
 この提案をしたのは、狗根兵に連行されていた男たちを助ける前であり、九峪には旧国府城についての具体的な知識はなかった。それを補ったのは清瑞や霧遊老であった。
 九峪の考えを読み取り、宮殿はまだ建物として残っているということ、その宮殿の南門から入ると城壁に囲まれた広場があるということを伝えたのである。
 陣を構える場合、高所と低所ではどちらが有利かは言うまでもない。そして、狗根兵は自暴自棄になった囚人を捕らえるだけと油断しているはず。
 地の利を得、相手には油断、十分に勝算はある。
 そして、勝った。
 あまりにも早い敵の動きを防ぐために、砦からの早馬を足止めし、迎撃の準備を整える。
 囚人の格好に扮した乱波の男が、街道を探索していた狗根兵の目に留まるようにして、旧国府城に潜んでいることを伝える。 
 街道に見張りを立て、狗根軍の接近をいち早く捉える。
 再び囚人に扮した乱波が相手を城内へと誘う。
 作戦行動中の狗根兵に出くわしたように見せかけ、相手を一気に南門内へと引きずり込む。
 狗根兵がすべて門内に入ったところで、門の上部を落とす。その仕掛けには乱波衆が持っていた炸裂岩が使われた。爆発音が二つ、南門とその奥にある門が崩れ落ち、狗根兵百人は閉じ込められた。
 周りは城壁で囲まれており、門はふさがれた。突然の事態に周囲を見回した狗根兵の目に映ったのは、城壁の上に並んだ男たち。狩人だと思っていた自分達がいつの間にか罠にかかっていた。
 狗根兵は部隊長の命令で円形に隊列を組み直そうとする。
 それをただ見逃す手はない。
 男たちは城壁の上に積み上げていた石──中には人の頭ほどの大きさのものもあった──を思い切り投げつける。
 九峪達は反抗組織の男から武器を譲り受けていた。その中には、弓も矢じりもそろっていたのだが、伊万里と上乃に一朝一夕でどうにかなるようなものではないと、弓矢による攻撃は反対された。むしろ、石を投げつけるほうがまだ効果的だと乱波たちの意見も一致した。
 石が飛ぶ。
 壁の高さは二尺(約六メートル)程度。そこから思い切り石を投げつけるのである。人を殺すには十分な威力。たとえ、鎧兜を身につけていたとしても、威力を軽減するのが精一杯。
 しかし、狗根兵も伊達に訓練をつんでいるわけではない。すぐに円形陣を組み槍を立てる。槍が石を防ぐための柵代わりとなり、石の勢いを弱める。
 石の数には限りがある。そこまで粘られれば、決定打がない分、不利だった。
 すでに炸裂岩は使い切っている。そこで投げ込まれたのが、木で作った枠に小枝や松の葉をつめたものだった。大きさは大人の男が手を一杯にしてようやく抱えられるほど。それに火をつけたものが十個、投げ込まれたのである。
 松の枯葉は勢い良く燃える。
 どれだけ訓練しようとも、人の動物としての本能で火を恐れてしまう。鎧の下の服に燃え移れば、じっと耐えておくわけにも行かない。陣形が崩れる。
 その瞬間を見逃さないのが乱波衆、そして伊万里と上乃だった。
 伊万里の放った矢が部隊長の首に突き刺さる。指揮官を失ったことで、さらに連携を崩れたところを、乱波衆の矢が確実に立っている狗根兵の数を減らしていく。
 そこからは一方的な戦いだった。
 九峪は眼下で次々と狗根兵が倒れ伏していくのをずっと見ていた。

 あの攻撃の合図を出したのは自分だった。いや、大まかな作戦を立てたのも自分だ。
 狗根兵がうめき声を上げて死んでいくのは自分のせい。
 その声が頭の中で木霊する。
 南門の跡にも、火がかけられ逃げ道はない。圧倒的に不利な状況に追い込まれながら、なお狗根兵は戦うことを止めなかった。戦いが終わったのは最後の一人が死んだときだった。
 自分はただ見ているだけ。降伏勧告を出すことも思いつかなかった。
 死体から鎧兜を剥ぎ取る。その行為がまた罪悪感を煽った。
 刀をぬらした血が固まり始めている。
 ふっと息が漏れた。
 考えて見れば、この刀で人を殺す前に、手は血に濡れていた。
 今は仲間となった男たちを連行していた狗根兵に奇襲をかけ、殺し、旧国府城では狗根兵を罠にかけ、殺した。
 心が怯え、震える。
 自分は犯罪者になった。
 人殺しという禁忌を犯した。
 正当防衛?
 そんな言葉で血の通う肉を貫いた感触が忘れられるわけがない。
 そう、あの感触。
 手にはしっかりと残っている。
 右の手首を左手で強く握る。まだ、右手は刀を放してくれない。
 ぼやっと目を前に向ける。
 階段が見えた。




 また一人、刃の前に倒れた。
「上乃、そっちは!」
「大丈夫、任せといて!」
 人を斬った感傷に浸る間もなく、次の相手と切り結ぶ。
 狗根兵の錬度は予想以上に高かった。
 完全な奇襲であったのにも関わらず、武器を手に取り、兵舎から飛び出てくる。

「敵だーっ!」
 狗根兵の大声が上がり、午後のまどろみに浸っていた兵舎がわずかな間に戦場へと変わった。
 緊張感のない状況から、何の前触れもなく修羅場に追い込まれれば、人は間違いなく混乱する。それは人が人として生きていく以上、仕方のないことである。だが、混乱する時間を短くすることはできる。
 敵襲を告げる声が聞こえた瞬間、兵舎で休んでいた狗根兵は困惑した。
 ──敵? なぜそんなものが……
 概念としては常に存在している。
 兵士なのだ。その意義は敵を倒すこと。自分の職業を忘れているものなど、ここにはいない。生まれ故郷を離れ、はるか異郷の地にいるのは兵士であることを選んだから。
 しかし、敵の存在を軽視してしまうほどに彼らは強かった。狗根国にとって敵と言える存在は、この地にはない。炎の加護を受けし大地にはすでに彼らの敵となりうる存在はいないはずだった。
 一瞬、抜き打ちの訓練かという思いがよぎる。
 鐘が激しく打ち鳴らされた。
 胸が熱くなる──
 慣れ親しみ、最近は懐かしさすら感じていた雰囲気。
 相手がだれでもいい。攻めてくるならば、迎撃するだけ。そんな単純な考えだけで十分。
 目の前の敵を倒す。それ以上のことを考えるのは指揮官の役目。
 彼らは間違いなく、最強を名乗る狗根兵であった。

 ──このくらいのことは分かっていた。
 伊万里は心の内でつぶやき、つぶやけることに安心した。
 わずか一夜漬けの訓練しかしていない素人だらけのこちらとは違う。本当の兵士。奇襲が成功しただけでは倒すことはできない。
 現状は圧倒的にこちらが有利。
 相手の対応が早いとはいえ、身につけているのは軽甲程度。隊列も組めずに単独で攻撃をしかけてくるだけ。まだ、奇襲の効果が続いている。
 狗根兵が強いと言っても、三対一ならばまず勝てる。
 入手した情報によると、現在、兵舎で待機している兵士は百名程度。国府城に駐留している兵士の総数が二百、つまり半数がここにいることになる。
 こちらは百三十。
 数では有利であっても、戦力として比較した場合、明らかにこちら側が劣勢。
 つまり、最初の間にどれだけ相手を減らしておけるかが、勝敗を決することになる。
 ──だからこそ、私が!
 着慣れない鎧の重さにてこずりながらも、伊万里は最前列に立って目に入った狗根兵に斬りかかっていく。
 慣れない戦場、その狂気は容易に人の精神力を削っていく。
 人を傷つけ、殺し、ほんのわずかな差で自分の命を拾っていく。戦場の高揚感に身を浸し、勢いに乗っている間はそんな自覚はない。それを自覚したときに死ぬのだ。
 指揮官自身が最前線に出るなど、うかつ以外の何物でもない。
 この時代の戦は、大将の首が獲られただけで、負けが確定してしまう。指揮系統が乱れ、戦場での支えを失い、兵は負けを悟る。指揮官は死んではならないのだ。
 だが、伊万里の後ろに続くのは訓練を受けた兵士ではない。戦う決意をした、ただの農夫であり、山人なのだ。
 勢いに乗っている間はいい。恐れることを忘れ、己の決意のままに槍を構え、敵に向かっていくだろう。
 では、もしいったん相手が有利になればどうなるか。
 相手がかさにかかって攻撃してきた場合に、耐えることができるか。
 どこかに放っていたはずの恐怖が戻ってきたときに、槍を相手に向け続けることができるか。
 できるかもしれない。
 負けられないと恐怖を乗り越えていくかもしれない。
 最後まで命をかけるかもしれない。
 しかし、そんな分の悪い賭けをするわけにはいかない。
 伊万里自身、戦場の経験があるわけではない。
 白刃を刀で受け、槍の矛先を切り落とすたびに、何かが磨り減っていくのを感じる。
 ──狗根兵であっても、一対一なら負けることはない。
 里での鍛錬の合間に、同年代の仲間たちと良く語り合っていた。
 刀、槍、弓、どれをとっても兵卒に負けるはずがない、と。
 それは正しくもあり、間違いでもあった。
 今、実際に刀を交え、たしかに腕前については自分のほうが上だった。身のこなし、技のキレ、全てにおいて負けていない。だが、その腕前の差ほどに余裕はなかった。
 重い、しつこい、簡単に死なない。
 たしかに致命傷を与えているはずなのに、最後の一撃を放ってくる。
 それが何に基づくものかは、伊万里にはまだ分からない。
 ただ、自分の磨いてきた技は、実戦以上と思って積んできた鍛錬は、まだ不十分だった。
 呼吸が苦しい。
 視界が狭い。
 力を抜くことができない。
 絶え間ない緊張。
 一瞬の間に、何が起きるか分からない。
 でも──
「貴様らーっ!」
 猛々しい雄たけび。
 狗根兵が憤怒を矛先に乗せて、伊万里に向かって槍を突く。踏み込みは深く、体の中心を狙う矛先は鋭い。鍛錬の成果を存分に示す槍は、しかし、空を突いた。
 声が耳に入った瞬間、伊万里は動いていた。
 体をわずかに左にずらし、一歩踏み込む。右のわき腹を掠めた槍を左手でしっかりとつかみ、右手の刀で相手ののどをつく。肉を貫いた感触が伝わってきた。
 感傷に浸る暇はない。
 戦場では動きを止めてはならない。
 のどから刀を抜き、次の目標に目を向けようとした。
 隙が、生まれた。
 死んだはずの狗根兵が伊万里につかみかかってきた。
 致命傷を受けた相手である。力が入ろうはずもない。突き飛ばせばいいだけのこと──
「伊万里、右!」
 聞き慣れた声が、聞き慣れない調子で耳に飛び込んできた。
 顔を右に向ける。
 弓に矢をつがえた狗根兵がいた。兵の指が弦から離れる。
 矢が風を切った。
 狙いを違うことなく伊万里の頭に突き刺さる。
「伊万里ーっ!」
 彼女はゆっくりと倒れた。
 戦場に動揺が走る──


 ──どうした?
 遠くで誰かが呼んでいるような気がする。
 みんなはどこにいるのだろう?
 やっと冬が終わったのだ。
 獲物も冬眠から覚める。
 狩りを始めなければ。
 今年はこれまでで一番、大きな獲物を仕留めてみせる。
 自分の力を示してみせる。
 みんなに。
 ──みんな?
 そう、みんなだ。
 里のみんな。
 仁清に。
 上乃に。
 父上──
「伊万里!」

 パッと目を開く。
 ──矢で射られた?
 手を頭にやり、兜の感触を確かめる。
 ──狗根軍の兜に助けられたか……
 ちょっとした皮肉を感じつつ、刀の握りを確かめる。問題ない。
 頭が少しふらつくのを感じつつ、体の反動だけで立ち上がる。と、同時に刀を振るい、矢を切り払った。
「このっ!」
 妹の声が聞こえる。
 弓兵ののどに矢が突き刺さった。地面に倒れ伏す。
「伊万里、大丈夫?」
 血の繋がらない妹──上乃が近寄ってきた。
「ええ、今まで、弓で狩ってきた獣の気持ちが分かったけど、大丈夫。それよりも──」
 ぐるっと周囲を見回す。
 伊万里が倒れたことが効いたのだろう。味方の勢いが少し落ちていた。
 兜の端に手をかける。
「せっかく守ってくれたのに、悪いけれど……」
 伊万里は指で兜の縁をなぞり、おもむろに空へ投げ捨てた。兜の中にしまわれていた茶色の髪が解放された。汗で濡れた髪は重かったが、首を振り、無理やりにたなびかせる。ここに自分がいることを主張するように──


 ──伊万里……なんでそんなに戦えるの?
 上乃は声に出さず、呼びかける。
 伊万里を守る。
 それは誓い。
 神でも、刀でもなく、自分への誓い。
 昔から強かった。
 正義感が強くて、強情さが美しいものに見えて。
 好きだった。
 その一番の理解者が自分のつもりだった。
 でも、今は分からない。
 ──伊万里は上乃がいるから、あんなにがんばれているんだと思う。
 神の御遣いはそう言ってくれた。
 本当にそうなのだろうか。自分は本当に伊万里の側にいるのだろうか。
 昨夜から、結局、伊万里とは話していない。
 朝、起きたら聞くのが怖くなっていた。
 それが今、ふたりの間にある壁。

「さあ、これからが戦い。一気に切り崩す! 上乃はあっちを!」
 刀を肩口に構え、伊万里が狗根兵の数が増えているところに足を向ける。

 背中を見るのがいや。
 いっしょに並んで、向かい合うのがいい。
 そうしたい。
 何もかもぶちまけて話してしまいたい。
 それがいい。

 伊万里は足を一歩、踏み出し、止まった。
「さっきはありがとう。上乃」
 風に言葉を残し、伊万里は駆け出した。

 振り向いてはくれなかった。
 でも、伊万里は私を見ている。背中を向けていたって見ている。
 それは、あたしもそう。
 だから、あたしはがんばれる。
 くるっと体を回し、伊万里の指示したほうを向く。


「こんな雑兵に何を手こずるか!」
 大声で狗根兵を叱咤する者がいる。
 おそらくは、この場の指揮官。倒せば、形勢は完全にこっちのものになる。
 後ろは振り向かない。
 上乃がいる。
 そこにいる。
 だから、安心できる。気持ちが強くなる。
 柄の感触を確かめる。
 ここからだ。


 兵舎での戦いの形勢は伊万里たちの側に傾いた。




「何をしている!」
 ここ数日でいったい何度、叫んだのだろうか。国府城主、相馬は肥えた体を震わせていた。
「はっ、どうやら兵舎で何かが起きたようで」
「何かでは分からん!」
「楼上からのぞいたところ、襲われているようで」
「敵襲だと言うか!」
「はい」
「バカを言うな!」
 一言一言、大きくなっていく叫びが広間に響き渡る。
 相馬の前にいるのは、一番の腹心と兵士が五、六人。腹心以外は皆、立って槍を構え、警戒感を露わにしている。
「しかも、敵は我が狗根兵の鎧を身につけている様子。これだけの数……もしや、昼に逃げた囚人を捕らえに行った部隊のものではありませんか?」
「なんだと? 馬鹿な。武器も持たぬ臆病者どもに装備を奪われたと申すか!」
「あれだけの数、そう揃えられるものではありませぬ。間違いないかと」
「……馬鹿者が!」
 相馬は旧国府城に向かった部隊長を罵った。しかし、この場に居もしない者を罵倒したところで、状況は好転しない。
「いかがされますか?」
 腹心が主の気持ちを落ち着けるように、低く抑えた声色で話しかける。
「いかがされるか、だと? どうもこうもあるか! 攻めてきたやつらに己の愚かさを教えてやるだけだ! 兵はどうなっている!」
 今の相馬には腹心の気遣いなど聞き入れる余裕はない。肩を怒らせ、床を踏み鳴らす。
「それが、どうやら各個に迎撃に向かっているようで」
「いないというのか」
「いえ、この広間の前には十名ほどおりますが」
「足りんわ」
 吐き捨てるかのように言う相馬。その心をかき乱すのは、外から聞こえてくる物音だった。遠く聞こえる喧騒は、どうしようもなく耳に入ってくる。
 ──何ということだ!
 東の窓をにらみつける。
 おそらく敵の侵攻は本宮まで達している。戦場から離れてずいぶん経つとはいえ、狗根国の武将であることを忘れるはずもない。
 戦場の空気が広間にまで充満してきたのか、武将としての勘が働きだす。
 戦況は厳しい。
 肌がしびれるような感覚。それだけで、追い込まれていることが分かる。
 ──追い込まれている?
 ぐるっと周りの部下を見回す。腹心の部下は顔を自分へと向け、兵士は背筋を伸ばして立っている。狗根国の武人らしく、戦を前にして怯えるところは見当たらない。
 相馬は深く息を吐く。
 部下の前で醜態を晒すことが恥ずかしいと思えるくらいには冷静さが戻ってきた。敵が攻めてくるならば、迎撃すればよい。このような部屋の奥に隠れるなど、狗根国の武将のとってよい態度ではなかった。
 目を見開き、腹の底から声を響かせる。
「敵は雑兵だな。声に力が入っておらん」
 ここ最近の姿を見慣れている腹心には信じられない光景。もっとも、腹心といっても、相馬に仕え始めたのは、二年前、相馬が国府城に赴任してきてからのことである。吉備王国の服属から始まった征西戦争の頃の相馬を知っているわけではない。
 その頃から、気分屋で知られていた相馬はたいして評価されていなかった。部下の言葉は聞かず、その場だけの判断で、終始一貫とした思想がない。それでも、部隊長という立場でいられたのは、やはり、それなりの長所があったからである。
 直感──戦場で生き延びていくには、最も重要な能力の一つに、相馬は長けていた。
 腹には無駄な肉がつき、好色さだけが表に出ている普段の姿からは、まったく想像の及ぶところではないが、相馬は天才肌であった。理論ではなく、感情、感性で、判断する。
 もともと有力な部族の出ではなく、上司からの覚えも良くない相馬が部隊長という役職につけたのは実力以外の何物でもない。一兵士としては自慢の腕力で、部隊長としては不条理な直感で、手柄を立ててきた。しかし、すべての場合で上手く行くわけではない。征西戦争が終わり、統治者としての能力を問われたとき、天才性はしばしば失敗へと繋がった。その場だけの判断ではなく、先を見通し計画を立てることには不得手だったのだ。
 ゆえに、相馬は、気分屋で粗暴なだけの存在に成り下がった。
 しかし、今、ここ、国府城は戦場。
 武人の生きる場となった。
「出るぞ」
 巨体が揺れる。
「身の程知らずどもを蹴散らす」
 相馬の足が床を揺らした。



 密閉された空間だということもあり、足音が響く。
 周りはただ穴が掘ってあるだけでなく、焼きレンガで丁寧に壁が作られている。表には見えないところまで力を注いでいるあたり、国府城を作ったときの狗根軍の強さを思い浮かべることができる。その強さは今も変わることはないが、反旗を翻そうとする者もいる。
 足音を立てながら歩く若者もその一人、いや、首謀者というべき存在だった。
 若者の横には鏡の精霊が浮かんでいる。
 精霊は若者の顔を心配そうに覗き込んでいるが、若者はまるで反応しない。地下にも関わらず、遠くのほうを見るような視線。浮かぶ感情は怯え。
 そう、若者は怯えていた。
 自分の罪に。
 どのような行為が罪となるかは、その時代により違う。
 敵討ちが合法とされていた時代があれば、それを禁じる時代もある。
 若者の行為は、この世界では罪とは考えられるものではなかった。いや、若者の行為は、およそどの時代においても罪とされるようなことではない。
 すなわち、戦場での殺人。
 民間人を殺したわけでも、捕虜を虐待したわけでもない。戦場に立ち、敵を殺しただけ。つまり、若者に罪はないといえる。
 だが、若者は罪に怯えている。
 先ほどの言葉は正確ではなかった。
 時代により左右されるのは、どのような行為が罰せられるか。
 罪は決して法律上のものだけではない。道徳、信心、それらに反すれば、その個人の中では罪となる。
 現代日本に生き、普通の高校生として生活してきた九峪にとって殺人は最大の禁忌の一つ。
 なぜ、人を殺してはならないのか──根本的な理由を教えられることなく叩き込まれた教育。心。それが若者を苦しめる。
「──九峪、あんまり進んだら、危ないって、ねえ、聞こえてる?」
 反響を抑えるためだろう、小声で話す精霊の言葉にようやく若者──九峪は視線を動かした。
「ああ、キョウか」
「キョウかって、ぼくの声、聞こえてなかったの?」
「いや、聞こえてた」
「そう」
「でも、覚えてない」
「えっ!」
 表情を変えるキョウ。
「何で、こんなところにいるんだ?」
 その姿には特に反応を示さず、九峪はつぶやいた。そして、自分の手を見る。
「ああ、そっか、殺したんだな」
 他人事のようにつぶやく。
 殺す、その言葉が口に出ても感情が揺れない。そのことに驚く。
「どうしたら、いいんだろうな、俺」
「どうもこうもないよ。こんな地下に降りちゃったら、敵が来ても逃げられないじゃないか。急いで、上に戻ろう」
「あ、ああ、そうだな」
 覇気のない声の持ち主をせかし、キョウは階段のほうへと振り返った。
「あっ」
「ん、どうした?」
「間に合わなかったみたい。たぶん、狗根兵が三人」
「そっか、狗根兵の格好をしててもだめか?」
「言い逃れられる自信ある?」
「いや、ないな」
「じゃあ、逃げないとって、何か、九峪、冷静だね」
「そうでもないだろ」
 キョウの怪訝そうな顔を無視するように、九峪は奥へと歩き出した。とはいっても、それほど広いわけではない。壁には、いくつか扉が見える。地下に、わざわざ作るようなものなど限られている。倉庫か何かだろうと、九峪は検討をつけた。隠れるなら、これらのどれかに入るしかない。
 ──どれにするべきか? 狗根兵がここに来るってことは、何か目的があるってことだよな。となれば、当然、その目的は、ここにある部屋の中。つまり、その目的の部屋以外に隠れれば、とりあえずは大丈夫。って、鍵がかかってたらどうしよ?
「なあ、キョウ、どの部屋がいいと思う」
「う〜ん、まあ、これは賭けみたいなものだし、一番奥でいいんじゃない?」
 ──それに、何か、感じるんだよね。嫌な気配も一つあるけど、ま、大丈夫か。
 重要な情報を言葉にはせず、キョウは九峪を促す。
「何だか適当だけど、仕方ないか」
 足音を立てないように一番奥へと急いだ。
 ──鍵がかかってなければ、儲けもの。
 目の前の扉は、いかにも頑丈そうだった。蹴破ろうとすれば、足音を立て始めた狗根兵に気づかれてしまう。
 取っ手に手をかけた。
 ゆっくりと押す。
 動いた。
 そのまま足を前に進める──
 どこかで味わったような感覚。
 左側──
 視線が横にずれる。そこにいたのは棒を振り上げた男。
「縛!」
 また、聞こえたキョウの声。
 男が凍りついたように動きを止めた。
 右手が動いた。
 重い。
 何かに押さえつけられたように、わずかに揺れただけでそのまま固まる。まるで横にいる男と同じように。
 男を押さえているのはキョウの霊言。そして、九峪を押さえているのは恐れだった。
 思い出した。
 人を殺した。
 この手で殺した。自分が殺した。
 大きく震え始めた九峪をよそに、キョウが続けて言葉を打つ。
「失!」
 霊言の響きに男の体が雷に打たれたかのように、大きく跳ねる。キョウが息を一つ吐くと、崩れるようにしてその場に倒れ伏した。霊言によって相手の意識を失わせたのだ。
「ほら、九峪」
 震えるだけで、動こうとしない九峪を部屋の中に押し込み、扉を閉める。
 扉が閉じた音と同時に九峪は膝をつき、前のめりに倒れこんだ。
 麻痺していた心、自分の中にもう一つの自分を作るような感覚、自分を客観視することで、自分の手でしでかしたことの意味を忘れようとしていた。また逃げようとしていた。
 罪と悔しさ、情けなさ、ここ数日、何度も味わった感情が再び胸を占める。決意を、覚悟をつけるための痛みが胸を刺す。
 目頭を押さえ、嗚咽をのどで止める。
 もう少し、ほんの少しの時間がほしい。そうすれば、立ち上がれる。そのはずだ。
「誰ですか?」
 地下室のよどんだ空気に、涼やかな声が響いた。



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