〜戦  雲〜


作・ゴーアル様


第六話 決意(その2)



 木漏れ日の下、清瑞と女は見詰め合っていた。
 清瑞は地面に組み敷かれ、女の手は清瑞の首へとかかっている。傍から見ているだけでは、とても友好的な関係には見えない。敵だと判断した伊万里と上乃が刀を抜く。
「待て!」
 背後からの鋭い声に、抜き放たれた刃は止まった。
「その人は敵じゃない」
 汗をぬぐいながら、九峪は両者の間に入り、地面で向かい合っているふたりに声をかけた。
「桔梗さん、だよね?」
 確信を持っていながらも、恐る恐る尋ねてしまうのは仕方のないことだった。死んでしまったと思った相手がここにいる。女が振り返った。
「九峪様? ……ご無事でしたか」
 女──桔梗が安堵のため息をつく。力が抜けたのか、体重が清瑞へとかかり、
「……桔梗、どいてくれ」
「あ、ごめんなさい」
 慌てて、清瑞の上からどいて、立ち上がる。
「はい、清瑞」
 地面で寝ている清瑞に手を差し出す。桔梗の顔をしばらく見つめ、清瑞は素直に手を取った。
「相変わらず、腕は落ちていないな」
「……そうでもないわよ。清瑞だと分からずに、飛び掛ったんだから。現場から離れていると、このざまね」
「その相手に見事に投げ飛ばされた当人にとっては皮肉にしか聞こえない」
「相変わらず、口が悪いわね」
 桔梗の顔がほころび、清瑞もまた表情がわずかに緩んだかのように見える。錯覚かと思うほど小さな変化だったが、一瞬、緊迫した空気を元に戻すのには十分だった。
「九峪様、ご無事で何よりでした」
 振り返った桔梗の柔らかい笑顔を見て、九峪はいままで気づかなかった心の中の氷が溶けていくのを感じた。じわりと目の奥から熱いものが出てくるのを感じ、慌てて頭を振る。
「いや、桔梗さんこそ、無事でよかった。本当に良かった。……他の人たちは?」
「それは……」
 桔梗の視線が見知らぬふたりに移る。
「そちらは伊万里様と上乃殿、逃げるのを手伝っていただいた──味方だ」
「伊万里、様?」
 問いかけるような視線が今度は清瑞へ向けられた。
「詳しい話は後にしたほうがいい。隠れ家はすぐそこだろう?」
「そうね」
 桔梗は一つうなずき、初めて会ったふたりへと向き直り、頭を下げた。
「私は音谷の里の桔梗と申します。どうぞ、よろしく」
「伊万里です。こちらこそよろしくお願いします」
「あたしは上乃、気楽に呼んでくれていいから」
「はい、それでは、私についてきてください」
 にこやかに挨拶を交わし、桔梗は体の向きを変えようとして、
「清瑞、伊雅様は、どうされたの?」
 空気が重くなった。先ほど清瑞が投げ飛ばされたときとは、違う緊迫感。その変化だけでわかったのだろう、桔梗の顔が曇る。
「詳しい話は後だ」
 桔梗の顔をしっかりと見つめ、清瑞はその一言だけで、歩き始めた。暗い表情のままの桔梗も動き出し、九峪たちも後に続く。
 ──いいことばっかじゃないか……
 こみ上げるため息を寸前でこらえる。
 ため息をつくたびに、幸せが逃げていく──そんな言葉を信じたわけではないが、これ以上、気持ちを重くするようなことは避けたかった。それに、伊雅や里人たちのことを伝えるのは、生かしてもらった者の責任だった。
 清瑞の言葉通り、隠れ家まではたいした距離ではなかった。
 遠目からでは何があるのか分からなかった岩壁の一部が、それと分からぬように装飾をつけた板になっている。おそらく、その後ろが洞窟となっていて、そこを隠れ家にしているのだろうと、九峪は検討をつけた。
 桔梗が板を二度、叩いた。
「桔梗です。九峪様、清瑞、それに女性ふたりをお連れしました」
 中から板が叩かれ、板が動かされた。現れたのは白髪が混じった中年の男だった。九峪も里長の屋敷で、一、二度見かけたことがある。
男は九峪を見ると、深く頭を下げた。
「よく、ご無事で。さ、お入りください」
 壁際に寄り、通り道を開ける。桔梗が先に入り、続いて、伊万里、上乃、九峪、最後に清瑞の順番で入っていく。全員が入ったことを確認して、男が洞窟の入り口を閉めた。
「けっこう、広いんだな」
 奥のほうからこぼれる光。目が慣れるまで少し時間がかかる。
 誰にというわけでなく、九峪がつぶやく。
 この時代では長身のはずの九峪でも身をかがめることなく歩くことができる。横幅はさすがに狭く、ふたりが並んで歩くのは難しい。これだけのものを人間の手で作るのは、すさまじい労力が必要だろう。壁には明らかに人が手を加えた跡がある。天然の洞窟を拡張したのかもしれない。しばらく進むと、急に開けた空間に出た。天井には穴が開いており、まったくの暗闇ではない。差し込む光が照らす広間には五人ほどの姿が見えた。それぞれ自分の武器の手入れに励んでいる。
 ──これだけなのか……
 広い空間が寂しさを強調する。
 清瑞が桔梗の側に並び、ゆっくりと広間を見渡した。
「逃げられたのは、これだけか」
「ええ、私を入れて八人だけよ。誰かが後から来ないかと、期待していたのだけど」
 話す桔梗の顔に特別な感傷はない。彼女もまた乱波であった。
「……八人か、だれか外に出ているのか?」
「え?」
「ここにいるのは、桔梗を入れて六人、入り口のところに一人だ。計七人。一人、見当たらないが」
「おかしいわね。外に出たのは私だけのはずだけど」
 桔梗が小首をかしげ、一人ひとり確認していく。五人しかいないのだから、確認作業にもたいした時間はかからない。
「あ、老師がいないわ」
「……あのじいさんがいるのか」
 めずらしく清瑞の表情が変わった。嫌なことを思い出したような顔だ。
 一方、伊万里と上乃はどこか気まずさを感じていた。
 ふたりとも、とくに上乃は人見知りするような人間ではない。人好きのする笑顔で誰とでも仲良く話せることが特技といっても良かったが、洞窟を満たす重い空気に気おされていた。
 戦いへの準備。
 武器の手入れをしている五人──七歳くらいの子供もいる──の決意や覚悟がひしひしと伝わってくる。暴発しそうになる感情を、武器の手入れをすることで押さえ、より研ぎ澄まされたものに変えていく。
 ふたりには狩りの経験はあっても、戦の経験はない。狩りの最中に、狼の群れに襲われるという、ある意味、人と戦うよりも恐ろしい体験をしていることもあり、戦うことへの恐れはないつもりだった。実際、昨夜は育ててくれた親とも剣を交えた。それでも、殺し合いとは違う。ここまで押し殺した気配を要求されるということに、のどの渇きを感じる。
 伊万里と上乃は目を合わせる。血は繋がらずとも、心は繋がっている姉妹、視線だけで考えていることは通じ合う。復興への厳しさを感じながらも、戦う決意を交わす──と、そのとき、ふたりは同時に、ぞわぞわっと背中に悪寒が駆け上った。
 誰かが自分のお尻を触っている──ふたりの視線は繋がったまま、言葉に出さずとも考えは伝わる。
 同時にパッと後ろを向く。
 そこにいたのは九峪だった。突然、前にいたふたりが振り向いたことに驚いているようだが、怒り心頭の乙女にはどうでもいいことだった。
 薄闇を利用して、痴漢行為を働いた卑劣漢。
 乙女の敵に神の遣いも魔人も関係ない。姉妹の気持ちは一つだった。
 伊万里の右手が、上乃の左手が肩上まで挙がる。
「はい?」
 九峪のとぼけたような声を合図に、ふたりの手が唸りを上げ、空気を斬る。九峪では対抗できるはずのない武力を誇る相手の平手打ちである。よけられるはずもない。
 頬を打つ音が洞窟に鳴り響く。
 両頬をわずかの乱れもなく同時に叩かれ、九峪はあまりの痛みに膝をついた。
「どうしました?」
 突然、大きな音が響き、見れば神の遣いが頬を押さえている。武器を手入れしていた五人も何事かと顔を上げ、清瑞が伊万里に近寄った。
「九峪様が私のお尻を触ったので!」
「あたしもだよ! 平手打ち、一発で勘弁してあげたんだから、感謝してほしいぐらいよ!」
 伊万里の顔は強張り、上乃は大きく頬を膨らましている。いきなり触られたのだから当然だろう。怒りという激しい感情を隠さないふたりを見て、清瑞は桔梗に振り返り、人知れずため息をついた。そして、九峪の側に膝をつく。
「大丈夫か?」
「……かなり、痛い」
 九峪が頬から手をのけると、薄明かりでもはっきりと分かるほどに赤く腫れていた。
「こっちは気持ち悪かったんだから!」
 糾弾する上乃の声は、昨夜、趙次郎に向けられたのと変わらないほどに厳しい。伊万里も軽蔑するような視線を送っている。
「いや、何のことだか分からないんだけど」
「しらばっくれる気!?」
 聞く耳持たない上乃の声が響き渡る。
 ──いや、本当に分かんないんだけどな。
 いきなり、ふたりが振り返って平手打ちを放ってきたのだ。もちろん、尻を触ってなどいない。九峪の目は棒手裏剣を磨いている子供に釘付けになっていたのだ。
 音谷の里の近くにある滝で遊んだ子供たちの中で、近づいてきた九峪を警戒して声をかけてきた子だった。
 生きていた──そのことだけで頭が一杯だったのだ。いくら伊万里と上乃が魅力的な女性であったとしても、痴漢行為を働くわけがない。まったくの濡れ衣だった。
「ほら、立て」
 九峪を促す清瑞の態度は奇妙だった。警護役なのだから、気遣うのは当然なのだが、少なくとも九峪にとっては清瑞の態度は腑に落ちない。これまで清瑞が九峪を気遣うようなそぶりを見せたことはない。それが、いきなり隣に膝をついて、頬の腫れ具合を診るなどおかしいとしか言いようがない。さらには九峪の痴漢行為を責めないのも変だった。
「清瑞、おまえ、何か変じゃないか?」
「……おまえがやってないのは分かっている」
「信じてくれるのか!?」
 昨日からの苦労で少しは関係が改善したのかと喜ぶ九峪だったが、清瑞は二度、横に首を振る。
「そういうわけではない」
「じゃあ、どういうことだよ!」
「犯人が分かっているということだ」
 そう言って、清瑞は目をつぶった。周囲の空気が張り詰める。
「──そこか」
 清瑞の右手がかすんだ。空を切る音──
「ふむ、腕を上げたのう」
 しゃがれた声が上乃の背後から聞こえてきた。
「えっ!」
 上乃が慌てて振り返ると、小柄な老人が立っていた。手には棒手裏剣を持っている。清瑞が投げつけたものだろう。
「返すぞ」
 老人の手が先ほどの清瑞と同じようにかすむ。清瑞が投げたときよりも鋭く小さい風切り音。聞こえたと思ったときには、すでに清瑞の手には棒手裏剣が収まっていた。
 白い眉毛を満足そうに揺らしながら、老人はひとしきり笑い続けた。九峪、伊万里、上乃はあっけに取られ、桔梗を始めとした他の面々はやれやれと首を振ったり、ため息をついたりしている。
 老人が笑いを納め、九峪へと真剣な顔で向き直った。
 ただ見られているだけなのに、九峪はたじろぎそうになる自分を感じた。生きてきた人生の重みとでもいうのか、目には熟練された光があり、重厚な迫力がある。伊雅に感じていたそれとは違う。王家の武人の迫力が真っ向から押しつぶされるようなものだったのに対し、老人のそれはゆったりと全方向から迫り、息苦しさをもたらす。
 まだまだ武術の端をかじっただけの九峪であっても、おぼろげながら達人としての気配を感じ取れる。老人が重々しく口を開いた。
「神の遣い様、情けないですぞ! 見目麗しい女性が目の前にふたりもいるのです。男ならば触らなくてどうしますか!?」
 発言内容はどうしようもなく軽かった。
 唖然とする九峪をよそに、老人は熱弁を振るう。
「見れば九峪様はまだお若い。秘めたる感情を表に出すのは恥ずかしいのかもしれませぬ。ですが、内にためていてはなりません。気持ちが内にこもれば、行動が明快ではなくなり、とんでもないところで失敗することになります。この歳になれば後悔するものです。若いころにどうしてもっと無茶をしなかったのかと……、そのような後悔を九峪様にさせたくないのです。麗しき美女を見れば、触りたくなるのが男というものにございます。さあ、正直になりなされ」
 立て板に水とはこのことだろう。言葉だけでなく、身振り手振りを加えて説明する姿はとても老人には思えない。
 九峪はうつむき、細かく肩を震わせている。
「なるほど、言葉だけではすぐに納得できぬやもしれませぬ。ですから、先ほど、わたしが手本を見せて差し上げたのです」
「手本?」
 初めて九峪が言葉を返した。
「そうです。こう、尻をですな、なでるのです」
 老人は両手をゆっくりと回す。触り方を手振りで説明しているようだ。老人の顔は真剣なままで、その眼差しは教師のそれであった。九峪の肩がピクリと大きく動いた。
「ふざけんなーっ!」
 言葉と同時に、固く握り締められた拳で殴りつける。もともとは簡単に人を殴るようなことはない九峪だったが、今回は心の制御が吹き飛んでいた。
 まったく手加減なしの一撃だったが、棒手裏剣を手でつかむような相手である。鍛錬を始めて一週間の素人がどうこうできるはずもない。拳は空を切り、勢いよく体勢を崩した九峪は倒れないようにするのが精一杯だった。
「どうされました、九峪様、驚きましたぞ」
 その顔は平然そのもの、体勢も崩してはいない。
「どうしたもこうしたもない! つまりはおまえのせいで、俺はふたりにひっぱたかれたってことだろうが!」
「何をおっしゃいます。わたしは、ただ良かれと思って」
「その結果がこれだ!」
 九峪は自分の頬を指す。
「……九峪様」
 老人の眼がまっすぐに九峪の顔を捉える。
「何かを得るためには、代償が必要なのです」
「何も得てねーっ」
 九峪の絶叫が壁に反射した。
 ──なんなんだ、このじいさんは?
 いきなり出てきて、わけの分からないことを言ってのける老人。周囲からの視線が痛い。
「えっと、つまりあたしたちのお尻を触ったのは、このおじいさんってこと?」
 何とか呆然状態から脱した上乃がつぶやく。
「ふむ、そうじゃ。おぬしの尻は安産型でなかなか良い」
 手をにぎにぎと動かす。そのしぐさを見た上乃の顔が瞬間的に赤くなる。
「このスケベ爺っ!」
 鋭い踏み込み──
 上乃の頭にはすでに手加減という言葉はない。思いっきりぶん殴る。ただそれだけしか考えていない。
 九峪のそれとは明らかに違う速度、体の扱い方にも無駄がない。踏み込みが支点となり、生まれた力はそのまま打撃へと伝わる。相当の破壊力を持った拳は、しかし、老人に当たることはなかった。衝突の瞬間、たしかに捉えていたはずの細身の体躯が消えたのだ。先ほどの九峪はここで体勢を崩した。
 上乃は違う。初撃を交わされただけで、動きを止めるようなことはありえない。
 すぐさま支点を切り替え、体をひねり裏拳を放つ。おそらく相手はそこにいる。ただ直感だけの動き。
 拳は唸りを上げ──止められた。
「なかなか良い筋をしておるが、頭に血が上っては仕方ないな」
 老人の手が上乃の腕をしっかりとつかんでいた。
「じゃが、勘だけとはいえ、わしの位置を捉えるとはたいしたものじゃ。期待がもてるの」
 上乃の力量を語りながら、その視線は舐めるように上乃の全身を移動する。品定めをするかのような目つきは、ただのスケベ爺には見えない。
 ポンッと上乃の尻を叩き、手を離す。ただそれだけのことで、上乃はたたらを踏むようにして、伊万里のところまで戻った。
 その顔は驚愕に満ちている。まるで赤子のようにあしらわれることなど、ここ数年なかった。すでに親を抜いて久しい。里の若い男たちと鍛錬するときも一対一なら負けることはない。弓については仁清が一歩も二歩も前を行っているが、苦手というわけではない。しかし、強風が吹けば飛んでいってしまいそうな老人にあっさりと負けてしまったのだ。また尻を触られたことを怒ることも忘れていた。
「老師、少々、おふざけがすぎます」
 苦笑を浮かべつつ、桔梗は老人へと近寄り、九峪たちのほうに向く。
「九峪様も会うのは初めてでしたよね。こちらは響衆の長老として乱波の師範をなされている方です」
「うむ、一応、霧遊老(むゆうろう)と名乗っておる。以降、よろしく頼みまする」
 浮かぶのはただの好々爺にしか見えない笑み。その下には容易に見ることのできない強さがある。
「どうしましたかな?」
 未だに対応を決めかねている九峪たちを見て、霧遊老は眉を動かした。
「老師のお遊びにあきれているんです。お歳なのですから、もう少し落ち着いていただければ、うれしいのですが」
「何を言う、わしはまだ六十五じゃぞ」
 この程度のたしなめが通じる相手でないことをよく知っている桔梗はため息をつき、九峪の顔をすまなそうに見た。
「九峪様、老師が失礼なことをして、申し訳ありません。とにかく、こちらに座っていただけるでしょうか?」
 桔梗が指し示した先には、座るのにちょうどいい大きさに切られた丸太があった。ここで、口論していても何も始まらない。言いたいことは山ほどある九峪だったが、素直に桔梗の言葉に従った。
 同情するような視線で九峪たちのやり取りを見ていた五人が、手入れしていた武器をしまい、一ヶ所に集められていた丸太椅子を動かし始めた。九峪の横に椅子を二つ置く。
「さあ、おふたりもお座りください」
 桔梗の声に促され、伊万里たちも椅子に座る。九峪の右隣に伊万里、そのとなりに上乃が座り、九峪の左隣には清瑞が膝をついた。九峪の対面には桔梗と霧遊老が地面に腰を下ろしている。他の五人はふたりの後ろに座った。洞窟の出入り口を守っている男を除く、全員と話す場が出来上がった。
 洞窟内の音が絶えた。
 ──どうすりゃいいんだ?
 全員が九峪の顔を見ている。九峪に注目している理由は明らかだった。神の遣いを差し置いて、発言するわけにはいかない。今までは感じなかった──だれかが肩代わりしてくれていた──重さがずっしりと背中にかかってくる。
 ──そうだ。
 焦りを背中で感じつつ、懐の袋の中から、天魔鏡を取り出した。こういう役目は押し付けるに限る──少し情けない気はするが、仕方ない。神の遣いとして場を仕切るなど、できるわけがない。
「おい、キョウ、出て来い」
 九峪の声に応えて、鏡が光った。
「やあ、みんな、初めて会う人もいるね。ぼくが天魔鏡の精、キョウって呼んでくれたらいいから」
 音谷の里人たちに向かって手を挙げる姿は、いつもと同じでまるで雰囲気にとらわれることがない。音谷の里人は神器の精を初めて見たのだが、戸惑うこともなく、いっせいに頭を下げた。これが、九洲の民の普通の態度ということだろう。
「九峪、とりあえず情報の交換をしないといけないね」
「あ、ああ、そうだな。まずは……」
 何から話すべきか、尋ねるべきか迷う。
「我々のことから話したほうがいいだろう」
「そうだな……」
「私から話そう」
 左からの冷静な声。いい加減聞きなれたはずの無愛想な響きが、耳に痛い。任せたほうがいいことは分かっている。託された者の責任は今の九峪の頭にはない。左を向いてうなずいた。
 今日二度目の説明。
 伊万里と上乃に話したことの繰り返し。ただし、内容はより詳しい。
 里を離れての訓練。
 帰る途中に気づいた里の異変。
 伊雅の決断。
 左道士、魔獣との戦い。
 避難所の崩壊、里人の死亡。
 蛇渇の登場。
 伊雅にかばわれての逃亡。
 蛇渇の追撃。
 伊万里、上乃に助けられて、再び逃亡。
 口調を変えず、感情も交えず、ただ淡々と事実を述べる。聞く側も事実を事実として受け止め、時折、質問をするときにも感情の揺らぎは見られない。里ではいつも笑顔を見せ、感情が豊かに思えた桔梗も今はじっと清瑞を見つめ、悲しみを面に出すことはない。唯一の子供もしっかりと話を聞いている。
 九峪は彼らが誰なのか分からなくなっていた。仲間を失うという事実にまるで身じろぎもしない。彼の知っている人間像からはかけ離れた存在。清瑞ならば分かる。普段から感情を抑えている女乱波ならば悲しみを殺すこともできるだろう。
 悲しみという感情は彼らにはないのか──疑問が胸をいっぱいに膨らませる。
 清瑞の説明が一段落ついたところで、老人がぽつりとつぶやいた。
「十五年前の再現か……」
 ただ一言。その一言が九峪の胸に突き刺さった。
 里で桔梗から聞かされた音谷──響衆の歴史。
 かつて耶牟原城が陥落し、耶麻台滅亡が確定したそのとき、彼ら耶麻台国に仕える響衆は存亡の危機に立たされた。滅亡した国のために戦うか、それとも安全を求めるか、選択する時間はあるはずだった。
 希望は常に裏切られる。
 同じく耶麻台国に仕えていた華辣衆(からつしゅう)の裏切り。彼らを案内役とした狗根軍は響の里へと迫った。衆寡敵せず。圧倒的な数を前に、響衆は多くの者の犠牲の上に滅亡を免れるのが精一杯だった。
 それが今から十五年前、そして、昨日、わずかな生き残りを残して響衆は壊滅した。
 悲しくないはずがない。悔しくないはずがない。
 里で桔梗が話しているとき、その目は潤んでいた。
 彼女は過去を振り返っていた。過ぎ去った記憶も感情を生む。あのかすかな涙は悲しさと悔しさだった。
 桔梗の顔を見る。
 人を気持ちよくさせる笑顔はもちろん浮かんでいない。
 今は、振り返るときではない。しっかりと見つめ、戦う時──そう言っているような気がする。
 自分のふがいなさを痛感する。
 彼らとは違い、結局、自分は逃げている。彼らに説明するのは自分のはずではなかったのか。伊雅たちに思いを託された者としての責任を果たさなければならなかったのではないか。
 隣では清瑞が説明を続けている。
「──こちらの伊万里様、上乃殿に助けられ、お二方の里へと招かれました。そこで、どうやら報奨金につられた者たちに襲われたのですが、そのときにもまた助けられました」
 報奨金につられた者たちについて、清瑞は具体的には話さなかった。
「そして、こちらにおられる伊万里様は──」
 清瑞は手のひらを上に向けて、伊万里を指し示した。
「耶麻台王家に連なり、火魅子の資質をもつ方にございます」
 今までじっと話を聞いていた里人たちがざわめく。
「ぼくが確認したからね。間違いないよ」
 耶麻台の神器であるキョウの一言が駄目押しとなり、霧遊老、桔梗を始めとした里人が一斉に頭を地面にこすりつけるほどに平伏した。仕えるべき主筋にあたる人に無礼を働くことはできない。
 最大限の礼儀を向けられた伊万里は戸惑っていた。
 里長の娘として、一応の敬意は払われて育ってきた。年上の人間であっても、語尾には敬語がついていた。しかし、その程度のことである。特別扱いはほとんどなかった。同年代の子供たちといっしょにいたずらして、怒られたこともある。ここまで頭を下げられることなどない。
「伊万里、一言でいいから、決意表明のようなものをしてくれないかな」
 気づかずに膝の上で手を固く握り締めている伊万里をキョウがうながす。一瞬、逡巡を見せはしたが、伊万里はすくっと立ち上がった。
「みなさん、顔を上げてください」
 呼びかける声には力がこもっていた。はっきりとして聞き取りやすい。里人たちは声に従い、ゆっくりと顔を上げた。一人ひとりの顔を確かめるように見つめ、口を開いた。
「キョウ様のおっしゃられた通り、私は火魅子の資質を持っているらしい……曖昧な言葉ですみません。私は物心ついたころから、山人の娘として育ちました。自分が王家の血を引いているなどということは想像したこともありませんし、王族としての振る舞いも分かりません。しかし、わたしは狗根国を九洲から追い出したい。九洲の民の手に平穏を取り戻したい。この気持ちだけはずっと持ち続けてきました。立場が変わってしまいましたが、今もその気持ちに変わりはありません。まだ若年ゆえ、ふがいないところもありますが、どうか力をお貸しください」
 自分の感じている戸惑いを隠さず、それでいて真正面から向き合う言葉。丁寧な言葉遣いでありながらも、力が込められている。里人の視線にもひるむところはない。
 キョウは、期待以上の振る舞いを見せる伊万里に満足げにうなずいた。彼女には人を引きつける魅力がある。上に立つ者として不可欠の資質だ。伊雅というカリスマには比べるべくもないが、彼女は若い。そして、これからの成長を期待させるには十分な資質を見せた。今はそれで十分。未来が少し明るくなったように感じられた。
 伊万里もまた、自分の気持ちを素直に言葉に出せたことに安堵していた。生まれて初めての経験。しかも、火魅子の資質を持つ女としての言葉。自分を偽らないことができるか不安だったが、里人の反応を見ていると失敗はしなかったようだ。
 椅子に腰を下ろした伊万里はホッとするあまりに、隣に座っている妹が複雑な表情を浮かべていることに気づかなかった。
「一つ、お聞きしたいことがあるのじゃが、よろしいでしょうか?」
 思い深げにうなずいていた老人が伊万里に問いかけた。伊万里が一つうなずくと、
「伊万里様のご両親のことをお聞かせ願えますでしょうか。キョウ様の言葉を疑うわけではありません。ただ、少し気になりまして」
「両親……分かりません。養父からも聞いていませんので」
「さようですか……」
 老人の声に含むところはない。疑問に思ったから聞いたという程度のように思える。
「う〜ん、ぼくもそこまでは分からないなあ」
 キョウが空中で腕を組んでいると、上乃が短い声を上げた。
「どうした?」
 伊万里が右を向くと、上乃は目をつぶって、何かを思い出している。
「うんとね、仁良のおじさんが伊万里の技を見て『ゆうでん』って言ってたのを思い出したんだけど」
「ゆうでん? 悠伝将軍か!?」
 老人が目を見開いた。他の里人も、子供を除き、顔色が変わっている。
「なるほどのう、あの方のお子であったか」
「知っているのですか?」
 うなずく老人に伊万里が問いかける。こちらも目を見開いていた。自分の由来が分かろうとしているのだ。無理もない。
「伊万里様の御歳ならば知らなくとも無理はありませんが、かつて耶麻台の鼎(かなえ)と歌われた三人の将軍がおられた。その三将とは伊雅様、青爛(せいらん)様、そして悠伝様。三人は歳も近く、競うように武芸の腕を磨かれておられました。そして、悠伝様は耶麻台の名門のお生まれでした」
「名門っていうのは正しくないな。正確には『名門中の名門』、つまり、王家とも血のつながりが深いんだ。たしか悠伝の父親は先々代の王の弟だったはずだしね」
 老人の言葉にキョウが補足した。
「……つまり、私は王族ではないのですね」
「まあ、正確に言えばそうだけど、たいしたことじゃないよ。火魅子の資質を持っているってことは、それ以上に重要なことなんだから」
「そう、ですか」
 伊万里のつぶやきは小さい。
「その、悠伝という方はどうされているのですか?」
「──亡くなったよ」
 キョウの放った悲しいはずの一言に、伊万里は表情を変えない。まだ実の父という存在に現実味がないのだ。
「かつてまだ耶麻台国が狗根国と直接は境を接していないころ、出面国が耶麻台国にとっての盾となってたんだ。つまり、出面国の存在が狗根国の侵略を防いでいた。そして、狗根国の攻勢が強まったとき、出面から耶麻台に援軍が要請された。さっき言ったように、出面は国防上重要な国だったからね。当然、援軍は送った。その総大将が悠伝だったんだ」
 昔を思い出しながら、キョウは懐かしむように話す。
「出面も決して弱兵の国ではないんだけどね。狗根国は強すぎた。悠伝も奮戦したけど、最後は狗根国の総大将との一騎打ちまで持ち込んで、力尽きた。王からはそう聞いたよ」
「……勇敢な方だったのですね」
「少なくとも恥ずかしがるような父親ではなかったと思うよ」
「そうですか」
 その瞬間、伊万里の顔に浮かんだ表情は、九峪には理解できないものだった。まつげを少し下げ、横顔には儚げな笑顔。ただ、口元はきゅっと結ばれ、感情を押さえ込んでいるようにも見える。
「また、詳しい話を聞かせてください。今は、これからの話です」
 口からこぼれたのは、生真面目な一言だった。キョウはいよいよ満足げな笑みを深める。
「そうだね、じゃあ、これからの方針を固めよう。まず、こうして、神の遣いと火魅子の資質を持つ娘がそろったんだ。耶麻台国を復興させる時は来た。となれば、まずは人を集めなくちゃいけないんだけど、心当たりはあるかな?」
 キョウの視線は桔梗と霧遊老に向いている。座っている位置や、先ほどからの対応を見ていれば、彼らが今の響衆の中心であること容易に分かった。桔梗が口を開いた。
「まず、里の外に出ていた者たちが十名ほどいますので、彼らが戻ってくれば戦力になると思います。それで、おそらく、キョウ様がお聞きになりたいのは、他の抵抗組織のことだと推察しますが、いくつか心当たりはあります」
「ほんと?」
「ただ、連絡を取るのには少し時間がかかります。先ほど言った里の外に出ている者たちの帰りをまたなければなりませんので」
「うん、しょうがないよね。じゃあ、しばらくはここで隠れて置くことになるかな」
「いえ、それは危険です」
 清瑞の声にキョウは振り返った。
「私たちが逃げたことは蛇渇に知られております。部下の左道士は全員、始末しましたが、国府城主あたりに探索させている可能性はあります。また、敵にも乱波はいます。ここを発見される可能性もないわけではありません」
 清瑞の口から乱波という言葉がこぼれた瞬間、桔梗がさっと視線を清瑞に送った。その視線に清瑞が小さくうなずきを返すと、わずかに眉を曇らせた。
「移動したほうがいいってことか? でも、狗根国が探しているんだろ。うかつに動いたら逆に発見されやすくなるんじゃないのか?」
 ずっと黙って話を聞いていた九峪がようやく声を出した。
「ここに着いたといっても、まだ危地から脱しきれたわけではないかもしれないということだ。隠れ家にいれば安全というわけではない。今ならば、まだ相手もここには気づいていないから、先手を打って動ける」
「……なるほど」
 またしても自分の甘さを痛感させられる。腰を下ろしたとしても、心の緊張まで解いてはいけない。常に警戒を求められる状況なのだ。横を見れば、伊万里も首肯している。反対意見はない。
 清瑞の言葉に桔梗もうなずく。
「ならば、すぐに動きましょう……と、この台詞は清瑞のものだったわね」
「桔梗?」
 いぶかしげな声に、桔梗は笑顔を返した。
「里長──父上は死に、組頭も死んだ。ならば、響衆を率いるのはあなたしかいないわ」
「しかし、桔梗は──」
「私にはそんな器も資格もないわ」
 笑顔の色が変わる。そこにあるのは悲しみ。
 清瑞と桔梗、どちらも目をそらさずに見詰め合っている。
 ──今日はこんなのばっかりか……
 静まり返った洞窟に九峪は今日何度目かの息の詰まる思いをしていた。見れば、里人たちは複雑そうな表情を浮かべ、黙ってふたりを見守っている。事態を収拾できそうな霧遊老は目をつぶり、不動の構え。キョウ、伊万里、上乃は状況が分からず、結局、重い静けさに耐えられなくなったのは九峪だった。
「あの、桔梗さんは里長の娘だったよね? だったら、こういう場合は普通、桔梗さんがまとめ役を引き受けるんじゃないの?」
 言い終わった瞬間、いくつもの視線が突き刺さるのを感じた。厳しい視線の主は里人たち。
 ──なんかまずったか。
 焦る九峪に向けられた桔梗の視線は柔らかいものだった。
「私は娘といっても、義理の娘なんです。三年前に里長の息子と結婚したので」
「……桔梗さんって結婚してたんだ」
「ええ──夫は二年前に死にましたが」
 口調を崩さないままの一言。なぜ、にらまれたのかはよく分かった。
「ごめ──」
「清瑞の母は里長の妹なんです。響衆を継ぐのは清瑞しかいません」
 九峪が謝るよりも早く、桔梗は言い切った。そのまま、しばらく清瑞と桔梗は見詰め合っていたが、とうとう清瑞が口を開いた。
「分かった。今は私がやらせてもらう」
「ええ、それでいいわ。──老師もかまいませんね」
 霧遊老は右目だけを開け、ふたりを交互に見やった。
「わしは一線からは身を引いた人間じゃ、不服はない」
 老人の言葉に続き、里人たちも一斉にうなずく。冷静な顔のまま、清瑞が立ち上がった。
「──では、準備に取り掛かる。武器の手入れはしっかりと済ませておくように」
 里人たちに指示を出し、動き始めたのを確認すると、九峪たちのほうに振り向いた。
「目的地については、私に考えがあります。国府城の西に抜けようと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「西に?」
 伊万里が疑問符を浮かべる。
「ええ、おそらく相手は国府城の東を中心に探すはずです。私たちが東側にいたのは間違いないですから。相手が東側に集中すれば、西側が手薄になります。そこに乗じるのです」
「……国府城──敵の城の側を通るのか? それは危ないだろ?」
「すぐ側を通るわけではない。それに、狗根兵は兵卒といえどもしっかりと訓練を受けてはいるが、森や林の中では我々にかなうものではない」
 伊万里には敬語を使っても、九峪には敬語は使わない。組織の観点から言えば、大問題である。しかし、九峪は現状を受け入れていた。伊万里の示した態度と自分のそれを比べれば、考えるまでもなかった。
 いきなり祭り上げられたということから言えば、ふたりに違いはない。違いがあるとすれば、ふたりの内面の差異だろう。
「そういうことなら俺に異論はない」
「私もかまいません」
 九峪に続いて、伊万里もうなずく。彼女としては、嫌な思い出で上塗りされた山人の里から遠くに行きたいという思いがあったのだが、それは仕方のないことだった。
 ふたりの了解を得た清瑞はきびすを返し、里人たちのところに向かった。彼らが集まっている洞窟の一角には、かなりの荷物が積み込まれており、刀などの武器もある。それを一つずつ取り出し、次々に身につけていく。誰もが流れるように作業を続けており、すさまじい訓練と慣れが見て取れる。
 その様子を見ていた伊万里が上乃に顔を向けた。
「上乃、弓とかもあるみたいだし、貸してもらわない」
「そうだね……ほとんど着の身着のままって感じで出てきちゃったし、槍を持ってくれば良かったなあ」
「そうね──上乃、大丈夫? 少し元気がないみたいだけど」
 幼いころから姉妹として育った者だからこそ分かる違和感。心配そうに覗き込む伊万里に対し、上乃はにこやかな笑みを返した。
「こういうのって慣れてないでしょ。だからちょっと疲れちゃったみたい」
「そう?」
「うん、大丈夫だって、ほら、行こ!」
 まだ心配げな表情を崩さない伊万里の手を、立ち上がった上乃が引っ張っていく。無理をしているようにも見える妹の姿に眉をひそめる伊万里だったが、強引に聞き出すことはしなかった。
 本当に大変なことなら話してくれる──そう信じていた。
 後に残された九峪は足をだらんと伸ばし、太もものあたりを揉んでいた。今日もまたこれから、歩かなければならない。すでに昨日から足を酷使しまくっている。足の裏にまめができていてもおかしくはないのだが、今のところ大丈夫のようだ。ただ、筋肉痛は酷い。少しでも乳酸を筋肉から追い出さなければ、歩くのも難しくなるかもしれない。さすがにそれは避けたかった。
 顔をしかめている九峪の顔の前にキョウが回り込んだ。
「ねえ、九峪、もう少し、神の遣いとしてふさわしい振る舞いをしてほしいんだけど」
 小声での苦言。九峪の表情は変わらない。
 情けないとは思う。伊万里がしっかりと自分の役目を果たそうとしている姿とはまるで対照的だということも分かっている。
 ──まだ、昨日、戦ったときのほうがましだった気がする。
 客観的に見れば、二対一で戦うよりもはるかに状況は良いはずだった。しかし、命をやり取りする緊迫感はなくても、身体を締め付けられるような圧迫感がある。里人たちにかしこまられ、神の遣いとして接するのは想像以上につらいものだった。
 ──結局、まだ本当の意味での覚悟が決まってないんだよな。
 昨日、紫艶を鞘から抜いて戦ったとき、戦う覚悟を持てた。伊雅の遺志に応えることを決意したと思った。──思っただけだった。
「九峪、聞いてる?」
「ああ、分かってるよ」
 うるさげに答える九峪に、キョウは不満げな顔をしたが、それ以上は言わなかった。いずれ成長せざるを得ないことは分かりきっているからだ。
「ほんと、しっかりしてよね」
 最後に一言だけ残し、鏡の中へと帰って行った。
 ──分かってるさ……
 足を揉む手にぐっと力を込める。太ももに鈍い痛みが走った。
 しばらく九峪がうつむいていると、誰かが近寄ってきた。
「神の遣い様──」
 聞き覚えのある幼い声。予想できる相手は一人しかいなかった。顔を上げるとやんちゃさが影を潜めた男の子が立っていた。




 外は良い天気だった。
 洞窟から必要な荷物を引っ張り出し、各々、最後の準備をしている。皆が忙しそうにしている中、霧遊老は少し離れた岩に腰を下ろしていた。
「老師、どうされました?」
 声をかけられ、首を動かすと、桔梗が立っていた。
「ふむ、着替えたのか」
「ええ、さすがにいつもの着物では動きにくいですから」
 桔梗は男たちが着ているのと同じ黒装束に着替えていた。活動的な衣装は、桔梗のまた違う魅力を生み出しているのだが、老人の趣味にはあわなかったようだ。
「なんじゃ、女乱波用の装束はなかったのか、つまらん」
 興ざめしたようにつぶやく老人に桔梗は苦笑を禁じえなかった。
「それで、どうされたのです?」
「たいしたことではない……ただ、伊雅様の甘さに腹が立ってな」
「老師……」
「あの方が生き残らなければ意味がないというのにな」
 老人の口調は怒りよりも寂しさの響きが強い。それは桔梗も同じだった。
「伊雅様は王家の武人として戦われたのだと思います」
「だからこそ、あの方は生き残らなければならなかったのだ」
「ええ、そうも思いますが、きっと伊雅様は後を託されたのではないでしょうか」
「神の御遣いか……」
 つぶやきには疑念がこもっている。
「どう見ておられるのですか?」
「武術のほうはからきしのようじゃな。わしが目の前で尻を触っていてもまるで気づかなんだ」
「では、頼りにはならないと」
「そうは言っとらん。腕が立とうが立つまいが、上に立つ者にはさほど重要なことではない。まあ、まだ判断は保留じゃな」
「伊万里様はどうです? 真面目で、王家に連なる者として得がたい資質をもたれていると思いますが」
 伺いを立てる桔梗に、老人は苦笑を返した。
「桔梗、おぬしに分からぬはずはあるまい」
 からかうような視線が桔梗へと注がれる。
「……生真面目さ、勇敢さが全て良いほうに向かうとは限りません」
「そういうことじゃ、思えば悠伝将軍も似たようなところがあったからな。伊万里様の長所を良い方向に働かせる者が必要じゃな」
「そうですね、──何をにやけておられるのです」
 老人の顔はいきなり緩んでいた。
「なに、良い触り心地じゃったと思っただけよ」
 どうやら痴漢を働いたときの感触を思い出していただけらしい。桔梗がにらみつけるが、老人はまったく気にしてはいない。
「伊万里様は火魅子の資質を持っておられるのですよ」
「ふ、男という生き物は高貴な女性に憧れをもつものなのじゃよ」
 憧れという言葉だけではすまない行為をしておきながら、まるで罪悪感のない口ぶり。
「もうお歳でしょうに」
「わしはまだまだ現役じゃ」
 そう言って老人の手が桔梗の太ももへと伸びる──
「おいたはいけませんわ」
 桔梗の手が老人の腕をとり、そのまま関節を極めようとひねる。関節技は極まってしまえば、もはや抜け出すことはできない。老人は腕を取られた瞬間、座った体勢から宙返りをしていた。その勢いを殺さず、腕の拘束を解き、着地する。まるで老人とは思えない動きだった。
「さすがはわしの一番の弟子じゃな」
「こんなことで褒められてもうれしくはありません」
 桔梗は深いため息をついた。
「老師、桔梗、そろそろ出発だ」
 各人の様子を確かめていた清瑞が声をかけてきた。見れば、すでに全員が出発の準備を終えている。
「分かったわ、では、老師、行きましょうか」
「ふむ、──ほう」
 振り返った老人が感心したように声をこぼした。
「いや、若さというものはうらやましいものじゃな」
「え?」
「目つきが変わっておる」
 老人の視線の先を追うと、荷物を背負った九峪の姿があった。




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