〜戦  雲〜


作・ゴーアル様


第五話 思いは届かず(その1)



 月夜に林を散歩と言えば、少しは風流に思えるかもしれない。
 木漏れる月の明かりが、ぽつぽつと大地を照らし、山を緩やかに流れる風はそっと肌をなでてくれる。汗ばんだ肌には心地よく、時折、強く吹くと、初春の寒さが身にしみる。
 そんな普段ならば楽しめるであろう行楽も、今の九峪には苦行に他ならなかった。
 前を歩くのは三人の女。
 キョウにかけてもらった夜目の術のおかげで、林の中にもかかわらずしっかりと顔も確認できる。一人は警護役である女乱波。残りのふたりは窮地を助けてもらった命の恩人であった。
 つい半刻ほど前、九峪は絶体絶命の危地にあった。
 敵は一人。
 生ける髑髏を顔とせし魔者。
 絶叫を上げる幽魂が迫り、死んだと思った瞬間、何が起こったのかは分からない。
 気づけば辺りは煙に包まれており、肩にかけられた手に促されるままに逃げ去った。
 それからは何も言わずに道なき道を駆けた。
 一度は振り切ったと思ったところに追いつかれたのである。口を利いている暇はなかった。正確には余裕がなかったというべきだろう。夜間の林を逃げるためにキョウにかけてもらったもう一つの術、時増期甲――持久力を上げ、なおかつ足が速くなるという便利な術であるのだが、欠点というよりも副作用があった。
 術で身体能力を上げる。つまりはドーピングをしているようなものだ。想定外の負担を身体にかけることになる。子供のころから続けてきた水泳と音谷の里での鍛錬がなければ、とっくに倒れ伏していたに違いない。
 髑髏の左道士に追いつかれたときのように、息切れがしているだけではない。かなりのやせ我慢の末、前の三人についていたのだが、それも限界だった。
「……すま……ない……」
 声に出した本人も驚くくらいのかすれた声に、三人の女は振り返った。一番手前にいた女――清瑞が振り返り、舌打ちをして前の二人にいったん休憩することを申し入れた。
 二人も九峪のしんどそうな姿を見ては、受け入れるしかない。それに林も静かで、追手の気配もない。簡単に安心できる相手ではないことは感じ取っていたが、無理強いさせるような危険性はないように思えた。軽く顔を合わせて、うなずいた。
 九峪は息を整えながら、さっき会ったばかりの女たちを見た。
 夜目の術といっても、昼間のように見えるわけではなく、はっきりと色彩を判別することはできない。それでも、二人がそれぞれ魅力的な女性であることは分かった。
 会話もなく走っていたのだが、さすがに名前と出身だけは聞いていた。
 意思の強さがすぐに見て取れる美しい目をした娘は伊万里、たれ目をきりっとさせている娘は上乃とそれぞれが名乗り、近くの――と言っても山を二つ越えたところにある――山人の里の出身だと言う。
 あの危地を助けてくれたのだ。敵ではないだろう。そんなことをしても意味がないからだ。
 九峪が地面に張り出た木の根に腰を下ろし、息を整え、痛む関節に手を当てている横で、清瑞が二人の娘に問いかけた。
「先ほどは聞きそびれたが、わたしたちを襲っていたのは狗根国の左道士だ。それを承知の上で助けたのか?」
「ええ」
「連中に逆らっても良いのか? 狗根国に敵対するという意味が分からないはずもないだろう。……まあ、あんた達がただの山人だとすればの話だが」
 乱波としては疑うことが仕事である。この程度の探りは当然でさえある。が、窮地を助けた側としては意見が異なるのだろう。上乃と名乗った娘が、頬を膨らませた。
「せっかく、助けてあげたっていうのに、そういうこと言うの!」
「見ず知らずの人間を簡単に信用するほど楽天家ではないのでな」
「だからって、まずは一言礼くらいしてもいいんじゃない」
 語気を強める上乃だったが、清瑞は微動だにしない。
「待ちなさい、上乃」
 険悪な雰囲気になりそうなところをもう一人の娘が止めに入った。
「ただの山人にも、狗根国を快く思わない人間はいるのですよ」
 清瑞へと向けられた視線には力がこもっていた。清瑞はじっと伊万里を見つめる。
 風が流れた。
「……危ないところを助けていただき、礼を言う」
 表情は崩さず、清瑞が頭を下げた。ひとまず信用したということだろう。
 息を整えた九峪も清瑞に続き、頭を下げる。
「ほんと、助かったよ。ありがとう」
「いえ、狗根国と戦う人を見過ごしてはいられませんから」
 清瑞ほどではないが、この山人の娘も表情があまり変わらない。清瑞を無愛想とするなら、生真面目といったところだろうか。
「いや、あのままだったら本当に死んでいた。ありがとう」
 もう一度、深く頭を下げる。伊万里は面映いような気持ちになりながら、少し眉をひそめた。
「それにしても、九峪さんと清瑞さんでしたよね。あなた方のような服は見たことがありません。先ほどの言葉を返すようですが、ただの旅人というわけではないようですね」
 伊万里の問い。
 簡単に答えるわけにはいかなかった。それは九峪にも分かる。左道士から助けてくれたのは善意であっても、こちらの素性を言っても良いものか、この状況で神の遣いと名乗っても意味はない。
 判断に迷う九峪を尻目に、清瑞が答える。
「狗根国の左道士に追われるような立場ということだ。悪いが、それ以上は言えない。そちらに迷惑がかかるかもしれないからな」
 ほとんど何も分からない答えに、上乃が噛み付こうとしたところを伊万里が止める。
「詮索は無用と言うことですか……まあ、よろしいでしょう」
 たしかに素性についてはまるで話してはいないが、狗根国と敵対する立場であることは明言している。それは自分たちの志とも一致する。しばらくして、もっと信用してもらえれば話してくれるだろう。
 伊万里はそう結論付けた。
「九峪さん、もう動けますか」
「まあ、何とか」
 手をついて立ち上がる。何とか歩ける程度には回復していた。術が切れかかっているようで、視界も暗くなり、だるさも増してはいるが、息切れのほうはかなりましになっていた。
「では、もう少しすれば私たちの里に着きますから、歩きましょう、休むにしても屋根のあるところのほうが、ゆっくりとできるでしょうから。それに温かいものも食べたほうが良いです」
 言われてみれば、空腹だった。前に食べたのは、昼間のおにぎりと鳥の燻製。
 ――桔梗さん……
 死んでしまったのだろうか。
 ちらりとしか見ていないが、それでも魔獣の恐怖は感じた。しかも避難所は木っ端微塵になっていた。そして、子供も――死んでいた。
 今さらながらに震えが来る。
 一週間前、現代の九州から三世紀の九洲へと連れてこられた。
 非日常の出来事。
 それでも里の暮らしにも少しは慣れ、親しみも持てた。楽しいとも思えた。
 再び襲い掛かった非日常。
 失い、追われる恐怖。
 それでも歩かなければいけない。
「それでは、行きましょうか」
 伊万里の先導で、再び歩き始めた。





 半刻後、一行は山人の里へとついた。
「ここが、私たちの里です」
 伊万里と上乃に案内された里は、同じく山奥にあるからだろう、音谷の里とそれほど変わりはしなかった。木の柵が里の周りを囲っており、里の入り口には見張りの男が立っていた。
 男は伊万里に気づき、声をかけてきた。
「これは伊万里様、上乃様、お帰りは二、三日後かと思いましたが、それに後ろの方々は……」
「ええ、ちょっと山の中で会ったので」
「さようですか」
 ごまかすような伊万里の言葉だったが、男はうなずき、門を開けた。
 門をくぐって、里の中へと入る。
 すでに月は中天に近づこうとしていた。当然のことながら、住人たちは家に入っており、姿を見ることはできない。
 伊万里は迷うことなく、足を進め、九峪たちも後に続く。やがて着いたのは一際大きな屋敷だった。
 黙って歩いていた清瑞がつぶやく。
「里長の屋敷か――先ほど門番が様付けをしていたが」
「ええ、わたしたちの父が里長です」
 伊万里はそう言って、屋敷の扉を開けた。
「どうぞ、お入りください」
 促されるままに屋敷の中に入り、靴を脱ぐと、奥のほうから大柄な男が出てきた。いかつい顔をしている。九峪はどことなく伊雅と同じような雰囲気を感じた。
「伊万里に上乃か、いったいどうした。狩りに出たはずであろう」
「あ、父さん、山の中でこの二人に会ってね。狗根国の左道士に襲われるところを助けたの」
 上乃は屈託のない笑顔を父親に向けながら、九峪と清瑞を指差した。
「狗根国の左道士に! ……それは真か?」
「嘘ついてもしかたないでしょ」
「いや、それはそうだが……」
 男の顔に焦りの色が浮かんだ。が、それも一瞬のことだった。九峪と清瑞へと笑顔を向ける。
「それは大変でしたな。わたしはこの里の長で、趙次郎と申します。狗根国の左道士に襲われて良くご無事でいらっしゃった。お疲れでしょう。どうぞ、お上がりください。お腹も空かれているのではありませんか? たいしたものは出せませんが、用意させますので――上乃、奥の部屋にご案内しなさい」
「うん、分かった」
 上乃に指示を出した後、趙次郎はどこかに行った。その後姿を清瑞がじっと見ている。
「どうしたんだ?」
 清瑞の態度に気づいた九峪が小声で問いかける。
「あの男、私をじっと見ていたような気がしてな」
「そりゃ、そんな格好しているんだ。目が行っても仕方ないんじゃないか」
 訓練のために里を出発してから着替える暇があったはずがない。清瑞は乱波装束に身を包んでいる。着慣れていることもあり、似合ってはいるが、普通の人が見れば驚くだろう。
「この格好か……なるほどな」
 九峪の指摘に、清瑞は無表情のまま頷いた。
「ねえ、どうしたの? 早く着いてきなよ」
 足の進まないふたりに上乃が声をかける。
「ああ、ごめん」
 清瑞を促し、九峪は上乃の案内で奥の部屋へと入っていった。
 奥の部屋といっても、山奥の里にある屋敷である。街中ほど豪華であるはずがない。それでもしっかりと板履きとなっており、竹細工の飾り物が壁には飾られている。籠堤燈には火がともされ、部屋を明るく照らしていた。
 ぐるっと部屋を見渡した後、九峪は上乃から渡された座布団に腰を下ろした。
 思わず、深く息を吐いてしまう。
 それほど厚みのある座布団ではなかったが、やはり木の根とは違う。身体から無駄な力が抜けていくのを感じた。
「九峪って、何だか親父臭いね」
 そんな九峪の態度を見て、上乃が笑う。
 彼女にとっては、同年代の男がさっきくらいの移動で疲れるということはあり得ないのだ。もちろん、左道士から逃げていたのだから疲れていてもおかしくはないのだが、清瑞のほうはまるで疲れた気配を見せていないのである。体力不足と言われても仕方ない。もっとも、九峪としては別の意見があるだろうが。
「こらっ、上乃」
「だって、本当に情けないんだもん」
「まったく、――すみません、清瑞さん」
「こいつが情けないのは本当のことです」
 九峪を弁護する声はまったくない。上乃を叱る伊万里も情けないことを否定してはいない。
 これには時代背景も関係している。
 侵略者に支配された九洲――税は重く、幾度も労役に駆り出される。人心はほころび、治安は悪化する。家族を守るものは自分の手しかない。さらに山人の里であれば、狩りの腕も問われる。何よりも強さが求められる時代なのだ。
 そういう目で見れば、九峪は男として落第点なのかもしれない。
「ところで、伊万里さんと上乃さんの――」
「呼び捨てでいいって、こっちも清瑞って呼ぶから、ね、伊万里」
「ええ」
 自身はさん付けをしている伊万里だったが、呼ばれ方には問題がないということだろう。
「分かった。では、伊万里と上乃の父、趙次郎殿はただの里長ではないように感じた。刀を持たれていたのではないか?」
「ええ、そうです。父上は昔、耶麻台国の武将でした。今も剣の鍛錬は欠かしていませんよ」
 久方振りの休憩を味わっていた九峪だったが、伊万里の答えに納得するものを感じていた。伊雅に似た雰囲気とはそのことだったのだろう。
「父上はずっと耶麻台国の復興を目指しておられるのです。この里も耶麻台国が滅亡したあと、父と仲間がいつか耶麻台国の復興を果たそうと、築き上げた。もちろん無謀なことはできませんが、こうして山奥であっても狗根国打倒の志を灯し続けているのです。ですから、狗根国と敵対する者を嫌ったりはしません。ご安心ください」
 清瑞の探るような言葉に直球で返す伊万里――駆け引きのような言葉のやり取りは好きではなかった。
「……少しは話していただけませんか」
 目じりが少し吊りあがった目で清瑞と九峪を見つめる。信用してくれても良いのではないですか、そう言っている。清瑞がちらりと九峪を見た。
 ――私の話に合わせろ。
 視線で意図が分かるほどの付き合いはまだない。実際に清瑞の声が聞こえていた。昼の訓練で実際に経験していなければ、声を上げたかもしれない。木霊の術――便利な技ではあった。
 九峪は目をつぶり、軽くあごを下げた。
「こちらの里と似たようなものだ」
「どういうことです?」
「私たちもまた、狗根国に反抗するために山奥に潜んでいたのだが、狗根国の左道士に発見され、襲撃を受けた。そして、逃げたのだが、追いつかれてしまったということだ」
「潜んでいたというのは、どのあたりに?」
「伊万里たちにあった場所から、東にある山の上だ」
 伊万里が上乃に視線を送る。上乃は顔を横に振った。
「あの辺りに行ったことはありますが……」
「簡単に見つかるようでは、潜んでいるとは言えない」
 音谷の里の周りには人が近寄りづらくなる結界が張られている。普通に狩りをしているだけでは、山に慣れ親しんだ山人であっても侵入することは難しい。伊万里らが気づかぬのも無理はなかった。
 九峪が音谷の里にたどり着くことができたのは、里の存在を知っており、人間ではないキョウの案内があればこそだった。
「潜んでいたのは、あなた方だけなのですか?」
「いや、仲間がいた。が、私たちを逃がすために……」
 清瑞の表情は変わらない。しかし、九峪は里の無残な光景を思い出し、顔をゆがめた。演技などではない。だから、その顔を見た伊万里と上乃は信じた。
「……ねえ、伊万里、左道士が近くにいるなら、わたしたちの里も危ないんじゃない?」
 九峪の表情に不安になった上乃が大きな目を振るわせる。答えたのは清瑞だった。
「おそらく大丈夫だろう。この里は隠れ里ではないように見える。普段から里の外との交流があれば、いきなり左道士が襲ってくるような危険性は少ない。城主の権限を確実に侵してしまうからな」
 征西都督府にとって各地の城は支配の拠点であった。耶牟原城陥落から十五年、ここ数年は大規模な反乱はなく、都督府の統治は安定している。しかし、それは九洲の民が狗根国に心から恭順したというわけではない。民は狗根人を支配者だと思っているし、狗根人は九洲を支配していると考えている。表立って反抗する者は少ないが、両者は変わらず敵対関係にあるのだ。
 まだ、九峪には未見のことではあるが、この世界の城とは城郭都市を指す。
 都市とは信仰、政治・軍事の中心であり、交易の拠点でもある。農村への陸路・水路の整備にも携わっており、自然に地域の各村や里を統括する位置を占めることになった。
 つまり、城とはあらゆる意味での地域の中心である。強兵を誇る狗根国といえど、全ての村や里に兵を駐留させるほどの兵力はないし、実行したとしても、兵力分散の愚を犯すことになり、無意味どころか愚策と言える。そこで、征西都督府としては各城にそれなりの兵力を配置し、地域支配を任せる。また、先に述べたように住民とは冷たい敵対関係にあるため、軍政を分離することは危険であり、統治の安定を害する可能性が大きい。よって、各城の城主は武人が配置されており、その地域における支配を任されている。
 対して、左道士は軍とは別個の組織に属している。
 その統括組織の名は左道院――左道に関する全てを取り仕切り、狗根国の武力を支える重要機関であった。
 この左道院と軍は決定的とまでは言わないが、かなり仲が悪い。競争意識以上、対立意識未満と言ったところだろうか。
 であるからこそ、簡単に相手の職権に立ち入ることはできないのだ。
 うかつに手を出してしまえば、徹底的に追及される。
 たとえ左道士総監であっても、辺境の城主程度ならば強弁もできようが、大将軍や上将軍に知られれば、やっかいなことになる。隠れ里討伐程度が、屁理屈をこねることもできる限界でもあった。
 ゆえに、左道士がいきなり襲ってくることはまずありえない。
 これらの情報は、音谷の里で九峪も知識としては知っていたが、そこから情報を導き出し、現在の状況と刷り合わせ、判断を下すのは、さすがに乱波であった。
 不用意に警戒されることを防ぐため、上のような詳しい説明はしなかったが、清瑞に明確に断言されたことで、上乃はひとまず安心したようだった。
「お二人とも、ゆっくりされておりますかな」
 話が一段落着こうとしたところに、趙次郎が入ってきた。後ろには健康そうに太った中年の女性が続き、手には料理が乗せられた膳を持っていた。九峪たちの前に料理が並べられる。
 白米に、山鳥の蒸し焼き、山菜の和え物、そして味噌汁。山奥の里、しかも突然に押しかけてきたことを考えれば、かなりのご馳走と言える。
「夜分に押しかけてきたのに、こんなに……」
 おいしそうな香りに食欲をかき立てられながらも、空腹を我慢して、九峪は趙次郎に礼を言う。
「いえ、いえ、かまいませんよ。少しお聞きしただけですが、狗根国の左道士と戦われたのでしょう? 娘たちから聞いたかもしれませんが、私は昔、耶麻台国の武将でしてな。力及ばず、耶麻台国が滅んだ後、そのときの仲間を集めて、この里を作ったのです。狗根国と戦われている方々を粗略に扱うわけには参りません。さあ、ご遠慮なさらずに、お食べになってください」
 趙次郎は無骨な顔に親しみのある笑みを浮かべ、食事を勧めた。
 ここまで歓迎してもらって受け取らないほうが失礼である。九峪はもう一度、礼を言って、箸を手に取った。清瑞も料理に箸をつける。
 思っていたよりも、はるかに腹が空いていたのだろう。空腹に勝る調味料はない。また料理自体の味も良いとなれば、箸が進まないはずはない。それは九峪だけでなく、他の面々も同じことであった。会話もそこそこに、料理を口に運び、あっという間に平らげてしまった。
「いや、見事な食べっぷりですな。……酒のほうもいかがですかな?」
 そう言って、趙次郎は徳利を見せる。
 九峪は、現代にいるとき、ビールは何度か口にしたことはあるが、特に酒が好きというわけでもない。とはいえ、断るのも悪いので、一杯程度は飲むべきかと考え、答えようとすると、
 ――だめだ、絶対に飲むな。
 再び、耳に清瑞の声が届いた。意図を確かめようと視線を送るが、清瑞は視線を合わせない。が、意味もなく指示を送るようなことはないだろう。
「いや、すみません。酒は苦手でして、せっかくの言葉ですが」
 丁重に断る。
 趙次郎は残念そうな顔をしたが、無理にすすめてくることはなかった。
「正直、お聞きしたいことはあるのですが、今日はお疲れでしょう。一室を用意しましたので、そちらでお休みになってください。同室でかまいませんかな」
 ――それは、まずい!
 清瑞が自分を嫌っていることは十分に分かっている。伊雅たちに救われた命をこんなところで失うわけにはいかない。慌てて断ろうとすると、
「ええ、それでかまいません」
 何のためらいもなく、清瑞が頷いた。
「えっ、九峪と清瑞ってそういう仲なの?」
 興味津々そうに上乃が目を大きく開ける。
「気にするような仲ではないということだ」
「エ〜〜ッ!」
 はっきりと断言する清瑞に、上乃は黄色い声を上げる。気にするような仲ではない――つまり、ふたりは深い仲ということになる。だからどう、ということでもないのだが、恋愛話の好きな上乃としては見逃せない話題だった。
 九峪の意見は違う。
 気にするような仲ではない――つまりは、もし九峪がそんなことをしようとしても、一蹴することなど簡単だと宣言しているのだ。木霊の術を使わずとも十分に分かった。
「では、ご案内いたしますので」
 趙次郎の案内に従い、部屋を出る。伊万里と上乃は自分の部屋で休むのだろう。おやすみ、と一声かけ、別れた。






 案内された部屋は、それほど広くはなかったが、人ふたりが眠るには十分であった。籠堤燈にも火がともされており、丁重に扱われていることを実感する。
 二つぴったりと並べられた布団を、九峪はさりげなく離し座った。背中にしょっていた荷物を下ろす。そして、疑問に思っていたことを女乱波に聞く。
「なあ、なんで、酒を飲むなって言ったんだ」
 清瑞も布団の上に座った。
「……もう気が抜けているのか。さっき言ったように、いきなりこの里が襲われる可能性は少ない。しかし、我々を追ってきた左道士が我々を追って、この里を襲うかもしれない。そんな危険があるというのに酒を飲めるわけがないだろう。酒は判断力を低下させるからな」
 言われてみれば、確かにその通りだった。
 あの恐ろしさを忘れたわけではない。忘れられるはずがない。それでも、丁重な歓迎を受け、温かい料理を食べたせいで気が緩んでいたのかもしれない。
「それに、まだこの里の人間を信頼したわけではないのでな」
「……疑いすぎじゃないのか。伊万里や上乃は俺たちを助けてくれたんだぜ」
「ああ、それは分かっている……」
 どこか言葉を濁して同意する清瑞。
「どちらにしろ、この里に来るのは初めてだ。見も知らぬものを簡単に信用しては足元をすくわれることにもなる。疑っておくことは安全につながる」
 正論と言えば正論だった。同室を了承したのも同じ理由だろう。
 乱波としては当然の心得なのかもしれない。少なくとも、伊万里や上乃のことは信頼しているように見えるので、九峪としては納得するよりほかなかった。
 一瞬の沈黙。
 思えば、この女乱波と部屋にふたりだけというのは初めてのことだった。これだけ会話するのも初めてのような気がする。いや、昼間の鍛錬の時には、かなり話した――
 息が止まる。
 あのとき、訓練に参加していた男たちは、一度の攻撃で倒れた。
 自分をかばった砺波は、上下に両断されていた。
 血に濡れた手を思い出す。
「……なあ、あの髑髏頭って何なんだ?」
 低くおどろおどろしい声。
 顔は皮膚が骨に張り付いている。人であるはずがなかった。
「狗根国左道士総監、蛇渇、それがやつの名だ」
「蛇渇……」
 不気味な響きを持つ名が九峪の胸に刻み込まれる。
「左道士については知っているな?」
「ああ、今日戦った相手だろ。木簡に書いてあったことくらいは目を通しているけど」
「やつらはこの世ならざる力を操る。だからと言って、人間でないわけではない。刀で斬ることもできるし、当たり所が悪ければ、石をぶつけられただけでも死ぬだろう。だが、蛇渇は違う。人にして道を外れた者だ。……魔界の黒き泉は知っているか?」
「いや、知らない」
「私も見たことがあるわけではないが、その魔界の黒き泉からは、魔界の力が湧き出しているそうだ。その泉には人間の身体を活性化する力がある。だれでも耐えられるものではないらしいがな。蛇渇はその泉の力により、絶大な力を得たと言われている。はっきり言って、狗根国の中でも最も警戒すべき相手だ」
 憎むべき相手だというのに、清瑞の口調に変化はない。それだけに事実を語っているのだということがはっきりと分かった。
「それにしても、左道士総監って左道士の一番偉いやつってことだろ。なんでこんな辺境に来てるんだよ」
 九峪は頭の中に地図を思い浮かべた。
 キョウから地形に関しては、こちらも現代と大まかな部分では違いがないと聞いていた。そして、狗根国の本拠が現代でいう畿内であることは理解していた。さらには、この時代、日本海側こそが日本の表玄関であった。狗根国から見れば、九洲の南端は辺境以外の何物でもない。そこに左道士総監という大物が来ることは奇妙であった。
「それは、分からん。左道士総監が征西都督府に着任したということは把握していたが、愚鈍な長官の補佐が役目だと思っていた……、油断だったな」
 最後の言葉はつぶやくように小さかった。そして、わずかに顔をしかめる。
「おい、どうしたんだ」
「何でもない」
「そんなこと言ったって……もしかして、あの時にやられた傷か」
 蛇渇に追いつかれて、清瑞が立ち向かったところを弾き飛ばされた、そのときに確か腹に打撃をもらっていた。清瑞は逃げ出した後、黒く染められた布を腹に巻いていたが、治療はまったくしていない。
 清瑞が黒い布をはずすと、丈夫な皮で作られた乱波装束は腹部左がちぎられており、肌が露出している。白魚の如き肌は赤黒く腫れていて、酷い痛みが走っていることは容易に想像できた。
 自分でも傷の酷さが分かったのだろう。清瑞は顔をしかめる。
「ちっ……、おい、後ろを向いていろ」
「え、なんで?」
 気づかなかったとしても、九峪に非があったのかは分からない。しかし、清瑞の意見は決まっているようだ。鋭くにらみつけられた。
「おまえの目の前で肌をさらすつもりはない」
「……あっ! 悪い!」
 治療のためには乱波装束を脱がなければならない。そのことに気づいた九峪は慌てて後ろ向きになる。
「振り返れば、命はないぞ」
 すごまれるまでもなく、十分に分かっている。はっきりと頷いて、清瑞に意思を表す。
 清瑞の乱波装束。
 胴体は黒いレオタードに似た服だが、素材は丈夫な皮であり、鎧ほどではないが、それなりの防御力がある。腕の部分は動きを妨げないように布で覆われており、肩当は大きい。手には黒い手袋、甲の部分には鉄板がしつらえられている。
 つまりは腹部を治療するためには上半身裸にならなければならない――と、そこまで考えたとき、九峪の耳ははっきりと衣擦れの音を捉えた。
 パカッと何かが外れる音。おそらく、肩当をはずしたのだろう。ついで、布がすれていく音。そでの部分をはずしているのだろうか。
 音だけの世界。
 ついつい想像力が働いてしまう。
 清瑞は基本的に全身を乱波装束で覆っている。しかし、その肌の白さは顔を見れば分かる。線のはっきり出る乱波装束は、清瑞の身体の作りの良さをはっきりと示していた。
「な、なあ……」
 衣擦れの音だけというのはまずいと焦慮に駆られ、とりあえず声を出す。
「伊雅のおっさんはどうなっ……」
 選んだ話題は最悪だった。
 胸の中で、あらん限りの言葉で自分をなじる。
「伊雅様は強い。しかし、蛇渇が私たちに追いついたということは、答えは一つだろう」
 淡々とした清瑞の声。
「伊雅様を無視して、私たちを追いかけるなどということはありえないのだからな」
「……すまない」
 清瑞が伊雅を尊敬していたこと。それは会話の端々から察していた。伊雅の命令に反しないのも、主だからではなく、もっと親しい者、そう父親からの言葉のように従っていたように思える。
 九峪は伊雅と清瑞の本当の関係、そして刻んできた歴史をしらない。
 それでも清瑞にとって、伊雅は特別な存在であったことは、自然に感じ取っていた。
 胸が重い。
 かける言葉はなかった。
 また沈黙。
 布のこすれる音は聞こえない。
「……傷は大丈夫か?」
「痛みは残っているが、大事はない。特製の塗り薬があるからな。塗っておけば大丈夫だろう」
「本当か?」
「私は乱波だ。自分の身体について判断を誤るようなことはない」
 また、布がこすれる音が始まった。
 音は途切れることなく続く。当然のことながら、着慣れている服だ。すぐに音は終わった。
「もう、こちらを向いてもかまわないぞ」
 振り向くと、清瑞は肩当をはずした以外はいつもの姿だった。傷を負った腹部を見てみると、服の下に包帯が巻かれている。
「ところで、キョウ様は里から逃げ出すとき以来、外にお出になられていないが、大丈夫なのか?」
「おっ、そういえば、出てないな」
 すっかり忘れていた鏡の精を思い出し、九峪は上着を脱いで、肩に吊り下げていた袋から天魔鏡を取り出した。
「おい、キョウ、出て来い」
 鏡を振り、後ろからトントンと叩く。
 出てこない。
 鏡が壊れているわけでもない。
 業を煮やした九峪がボソッとつぶやいた。
「……鏡を割るぞ」
 鏡が光った。鏡面に影が映り、キョウが飛び出てきた。
「なんてこと言うんだよ!」
「おまえが出てこないのが悪い」
「……あのね、ぼくは九峪に術をかけたので疲れているの。それに、これからどうするか考えなくちゃいけないんだ。だからしばらく休ませておいてよね」
 そう言い捨てて、すぐに鏡の中へと戻ろうとするが、清瑞に止められた。
「お聞きしたいことがあるのです」
「聞きたいこと?」
 さすがに清瑞の真剣な声を無視しきれなかったキョウは、くるっと彼女の方へと身体を回した。
「蛇渇に追いつかれたときのことです。やつは私と、神の遣い様めがけて左道を放ちました。しかし、左道はその威力を発揮することなく消えました。あれはどういうことなのですか?」
 清瑞の疑問は、九峪の疑問でもあった。あの瞬間、自分はただ剣を構えているだけで何もできなかった。ただ、逃げては駄目だという気持ちだけで立っていただけ。正直、左道という――九峪にとっては――非常識な力のことはまるで分からなかったが、死をもたらすものだということは生物としての本能で悟っていた。
 重要な疑問であるはずだが、キョウは、何だ、そんなこと、とつぶやいて説明し始めた。
「ああ、あれね。――九峪は神の御遣いであり、天界、仙界、人界、魔獣界、魔界の五天の外に位置する者なんだ。左道とは世界を歪め、その歪みを力とする術。九峪はその世界のあり方から外れている。だから左道は効果をなさないということなんだ」
「……キョウ様がお助けになられたのかと思っていました」
「無理を言わないでよ。ぼく程度の力では蛇渇の左道を防ぐことはできない。力が回復してからなら、鏡が壊れるくらいまで全力を出せば、威力を半減することくらいはできるかもしれないけどね。……じつは里の中で、一度、九峪が左道の攻撃を受けそうになったよね。あのときも同じようなことが起きたんだよ。そのおかげで、ぼくも分かったんだけどね」
「ちょっと待てよ! 何でそのことを教えてくれなかったんだよ。教えてくれていたら――」
「何もできないよ」
 いきり立った九峪に、キョウは冷たい口調で答えた。
「あのね、たしかに九峪は左道を無効化することができるよ。でも、それは左道が九峪に直接迫ったときだけだ。たとえば、蛇渇の覇軍鳴動――地震と竜巻を同時に起こすような術だけど、あのとき九峪は倒れなかったっけ?」
「いや、それは……」
「倒れたよね。九峪が左道を無効化できるのであって、左道の発動を無効化できるわけじゃないんだ。並みの左道士なら戸惑いもするだろうけど、左道士総監相手には対して意味のある能力じゃない。分かった?」
「……ああ、分かったよ」
 容赦のない言い方だったが、キョウの言っていることは事実だった。発動した左道を無効化する。強力で特殊な能力だ。だが、それだけで救えるほど、戦いとは甘いものではない。
「じゃあ、ぼくは鏡の中で休むから。また明日、これからどうするか考えよう」
 口に手を開け、あくびをかみ殺し、キョウは鏡の中へと還っていった。
 九峪は天魔鏡を袋の中に戻し、枕の側へと置いた。
「……じゃあ、俺たちも寝るか」
「そうだな。……妙な真似はするなよ」
 まるで信用はないらしい。
「だれが襲うかよ」
 そう言って、九峪は籠堤燈の火を消した。
 部屋は闇に包まれた。木窓から差し込む月明かりだけが、唯一の光源。闇の中、九峪は布団に入り、頭を枕にのせた。
 闇は孤独を生む。
 この部屋にいるのはふたり、でも今はひとりだった。
 何もできなかった。
 訓練から帰る途中、里の方向に、立ち昇る煙を見つけた。
 ――敵の襲撃を受けている。
 伊雅は言った。
 ――九峪様はここから離れてください。
 断った。
 助けなければならない。信頼に応えたい。そう思ったから。
 現実。
 ただ、行っただけ。何もしていない。ただ、圧倒的な恐怖と死を見ただけ。そして――
 ――九峪様はお逃げください。
 結局、足手まといだった。自分の命のために犠牲になった武人、乱波の男たち。
 自分は信頼を裏切ったのではないか?
 もし、我がままを言わなければ、伊雅は今でも生きているのではないか?
 神の遣いどころか、ただの疫病神だったのではないか?
 ひとりになったことで、今まで深く考えずにすんでいた疑問が、頭の中で木霊する。
 情けない。
 未熟。
 布団から手を抜き出し、目に当てる。手のひらがぬれた。
 今はもういない人たち。会えない人たち。死んでしまった。
 ただ暗い思考の奥底に沈んでいく。
 そこに光は――
「蛇渇の左道、助かった。一応、礼は言っておく」
 無愛想な抑揚の少ない声――声の主は一人しかいないのに、一瞬、誰かは分からなかった。
 パッと手をのけ、隣の布団を見る。
 声の主は背を向けていて、顔は見えない。
 知らずに苦笑が顔に浮かぶ。
 手の甲で目をこする。
 ――何かはできたってことか……
 できなかったことのほうが多いのは間違いない。
 それでも、心が少し軽くなった。





 鏡の中、キョウは一人悩んでいた。
 耶麻台国復興の戦略は完全に瓦解してしまった。
 九峪に神の遣いを名乗らせ、復興のための求心力とする。神の遣いとは最高の宣伝材料になる。そして、復興の実務は、軍事・政治に経験豊富な耶麻台副王、伊雅に任せる。
 九峪が耶麻台復興軍盟主、伊雅が耶麻台復興軍総大将、または、九峪が耶麻台復興軍総大将、伊雅が耶麻台復興軍副将でもかまわない。実態は決まっているのだから。
 派手な神輿(みこし)と堅実な担ぎ手。
 望みうる選択肢の中では最高の組み合わせだった。
 しかし、伊雅は死んだ。
 神輿はそこにあるだけでは大した意味を持たない。担がれてこそ、祭りを盛り上げることができるのだ。担ぎ手を失ってしまえば、ただ作りが良いだけ。
 神の御遣いという名だけでは力とはなりえない。
 担ぎ手を失ったならば、代役を探せば良い。が、伊雅ほどの実力と名を兼ね備えた存在には心当たりはない。有力な武将は十五年前の狗根国との戦いで戦死しており、王族はそのほとんどが死ぬか、息を潜め隠れている。
 しかも、伊雅は実際に各地に点在する反抗勢力との協力体制を築き上げようとしていた。
 それぞれの反抗勢力は規模が小さかった。狗根国の監視の目を逃れるためである。組織を大きくしようとすれば、人が増える。増えれば、見つかりやすくなり、密偵も忍び込みやすくなる。信頼できる者だけで、少数精鋭の方針を貫こうとすれば、規模が小さくなるのは仕方がない。さらに彼らは外部からの接触を嫌う。
 他の組織と同盟を結んだとして、その組織が捕まってしまえば、芋づる式に摘発されてしまう。よって、警戒心が強くなるのも当然であった。
 伊雅は辛抱強く各組織との連携を結んでいった。そのとき助けとなったのが、音谷の里の乱波たちであった。芋づる式に摘発されることのないように、各反抗勢力間の連絡は音谷の里が行うこととした。つまり、完全に音谷の里を中心とした協力体制であり、各勢力に横のつながりはなかった。
 伊雅の死とともにその努力も無に帰した。返す返すも惜しいことをしたと思う。
 そして、復興の心臓を貫いた狗根国の恐ろしさを改めて思い知った。
 伊雅が死に、各反抗勢力との連携の要であった音谷の里も壊滅した。清瑞が残ってはいるが、彼女がどこまで連携の成立に関わっているかは分からない。
 清瑞は伊雅の娘である――天魔鏡の精であるキョウには一目見ただけで分かった。残念ながら、火魅子の資質は持っていなかったが。
 だが、伊雅は自分の娘であることを打ち明けていなかったようだ。娘だからといって、反抗勢力の協力体制について詳しいことまで知らされているかは分からない。
 清瑞については、この山人の里につくまでは、別のことも検討していた。
 火魅子の資質を持つ娘を見つけることができなくとも、王族の男を探し出し、清瑞と契りを結ばせ、女児を設けさせる。清瑞は伊雅の娘であり、王家の直系といっても良いほど血は濃い。子供が火魅子の資質を持っている可能性は十分にある――そんなことまで考えていた。
 九峪が知れば反発は間違いないが、幸いなことに、この計画はひとまず凍結ということになりそうだった。
 天魔鏡の力が反応したのである。
 そのことはキョウを喜ばせ、一方で悩みを濃くした。
 耶麻台復興の機運はたしかに高まっている。しかし、その実行力が決定的に欠けているのだ。
 悩みの雲は晴れそうにはなかった。



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