〜戦  雲〜


作・ゴーアル様


 第四話 遺志(その2)



「今の音、大きかったよな」
 九峪はそうつぶやいた。
「里の中央、おそらく避難所からだな」
「避難所? ああ、あの石造りの建物か……って避難所にみんな逃げ込んでんだろ。そこで爆発が起きたってことは――」
「やられたのかもしれん」
 仲間が今まさに危機に直面しているかもしれないのに、清瑞は表情も語調も崩すことはない。
「なんでそんなに冷静なんだよ!」
「声を落とせ、馬鹿者」
「……悪い」
 九峪と清瑞、そしてキョウは林の中に隠れていた。
 そこから見える里は無残の一言だった。
 里を外敵から防ぐはずの柵は無残にも破れ、家は炎に包まれている。その手前には魔獣の死骸。
 この光景を見た瞬間、九峪は思わず走り出そうとして、清瑞に止められた。
 ――貴様は足手まといだ。
 ただの一言、その一言で九峪の足は止まった。
 自分が未熟であることは十分すぎるほど分かっていた。しかし、先ほどの衝撃を感じては我慢も限界だった。
「避難所がやられたんだろ。助けに行くしかないじゃないか」
「わたしたちに課せられた役目があるとすれば、それは退路の確保だ。伊雅様たちが目的を達し、また達することができずに後退する場合にそれを助ける。里に入るわけにはいかない」
「人手不足かもしれないだろ。俺たちが行けば助けになるかも」
「里の中に入れば、おまえを守るのに三人は割かなければならん。逆に負担となるだけだ」
 清瑞はいっそ冷淡とでも言ったほうが良いような口調で、九峪の提案を切り捨てた。
 九峪は反論しようとしたが、清瑞の一睨みで沈黙させられた。
「九峪〜、清瑞の言うとおりだよ。ここまで来ただけでも十分に危険なんだから。ね、大人しくしていようよ」
 キョウは九峪の懐の中から声を出す。キョウの考えでは、九峪はこんなことをしなくても良いのだった。というか、むしろ九峪は邪魔になっている。
 とはいえ、九峪に向かってそのまま言うわけにはいかない。
「伊雅に任せておけば大丈夫だってば」
 キョウとしてはこう言うしかなかった。
 一方、九峪は言われるまでもなく分かっていた。意思だけではどうにもならない――反論するだけの実力も自信もなかった。それでも頭では理解できても心が納得しない。
 ――わたしはあなたを信頼しています。
 地面に張り出した大樹の根に並んで座り、話したときの伊雅の言葉。
 うれしかった。
 その言葉に応えなければいけない。そう思う。
「なあ、清瑞……」
 九峪がもう一度、清瑞に提案しようとした瞬間、
「清瑞、上っ!」
 キョウが叫んだ。
 清瑞の反応は速かった。
 九峪を突き飛ばし、その反動で地面に転がる。
 二人がいた地面に棒手裏剣が刺さる。
「縛!」
 九峪の懐から飛び出し、上を向いて短く言葉を発するキョウ――ガサッと木の上で音がした。
 清瑞にはそれで十分だった。
 手には三本の棒手裏剣。認めた人影めがけ投げつけた。
 ――捉えた!
 確かな手ごたえを感じた清瑞は追撃を駆けようと、膝を曲げ上方の枝まで飛ぼうとして――その一つ上の枝が大きくしなった。
 そのしなりを利用して、影は飛んだ。
 となりの木の枝に飛び乗り、それを繰り返して逃げていく。その動きは見事なものであったが、どこか不自然さがある。
 ――足だな。
 投擲した棒手裏剣が足に突き刺さったのだと判断した清瑞は、すぐさま追おうとして、思いとどまった。
 自分の役目を思い出したのである。
 護衛対象へと声をかける。
「怪我はないな」
「あ、ああ」
 清瑞の声を受け、九峪はうなずいた。
 大した運動をしたわけでもないのに膝が笑っている。胸の動悸は心臓がのどから飛び出るかと思うほどに激しい。
 思えば、殺し合いを経験したのは初めてだった。
 今なら分かる。
 音谷の里に初めて来たとき、清瑞に刃物を突きつけられた。殺気というものを知った。そう思った。――違っていた。本当の殺気、相手を殺すという何よりも激しい意思。それは思っていたよりもはるかに鮮烈で物理的な力を持っていた。
 そんな九峪をよそに、清瑞とキョウは状況の確認をしていた。
「キョウ様、先ほどの御力は?」
「ん? ああ、さっきのだね。これでも神器の精なんだ。それなりの特技はあるさ。もっともさっきのは使い勝手はいいんだけど、力としては大したことないんだよ」
「そうですか、……ところで、これからのことですが里に入ろうと思います」
「えっ! どうして? 危険なのは分かっているだろ」
 キョウはバタバタと手を動かし、反対の意を伝える。
「ええ、そのつもりでしたが、発見されてしまった以上、ここで伏せておくことは危険です。しかも、先ほどの影はすさまじいまでの手練でした。キョウ様に言われるまでまるで気配に気づきませんでした」
 清瑞の眉間に、わずかにしわが寄った。
「まあ、僕は人とは知覚能力が違うからね。でも、たしかに清瑞の言うとおりかも。あんなやつらが数で攻めてきたら、この林の中は逆に不利になるかもしれないし」
「では、里に入るということでよろしいですか」
「うん、ぼくに異論はないよ。……九峪もそれでいいよね」
 キョウが話を振ると、九峪はようやく膝の震えが収まったところだった。
「……ああ、分かった」
 初めて味わった恐怖。それでも九峪は立つ。
 伊雅の言葉、桔梗や子供たちの声。
 必死なまでの決意。
 しかし、戦場の恐怖はまだその全貌を明かしてはいなかった。





 
 鬼火は林の中を駆けていた。
 足に激痛が走るが、それを耐え、少しでも距離を稼ぐ。
 一際大きな木の下まで走り、その陰に隠れた。
 耳を澄まし、追手の有無を確認する。
 ――ひとまずは大丈夫か……
 一息つき、右足の太ももに目をやった。刺さっていたのは二本の棒手裏剣。すでに抜いているが止血ができていない。
 自分に傷を負わせた棒手裏剣を目の前にかざす。
 ――毒は塗っていないようだな。
 手裏剣を捨て、懐から布を取り出す。布を傷口に当てしっかりと結ぶ。これで一応の手当てはできたが、傷は思った以上に深い。戦闘は避けたほうが良い。
 とりあえずこの場からは動かなければならない。
 地面を見れば血が滴っている。
 この時点で追手がいないということはほぼ大丈夫なのだろうが、地面を濡らした血は十分以上の目印になる。
 そう判断した鬼火は歩き始めた。
 右足をかばいながら歩く。
 先ほどの戦いは予期しない事態に驚いて失敗してしまった。
 敵は二人、どちらも自分には気づいていなかった。まずは手ごわそうな女のほうを始末する。そう判断して攻撃したのだが、誰かの声で邪魔されてしまった。
 さらに気づかれた以上はいったん引こうとしたが、「縛」の一言によって動きが封じられてしまった。なんらかの術なのであろうが、心当たりはない。最後の瞬間に見えた、人形のような生き物。おそらくは精霊。あれが術者だったのだろう。
 身体が固まったところに女からの攻撃。かわしようがなかった。
 それでも痛みで身体が覚醒したのか、となりの木へと飛び移り、追撃を防ぐことはできた。
 ――問題はこれからどうするかだが……
 歩き始めてからしばらく経ち、今後の行動について考えていると、
「やられたようだな」
 唐突に声をかけられた。
 思わず総毛立ち、辺りを見回そうとして、声の主に気がついた。
 ただ一言だけで相手の魂をつかんでしまうような声の持ち主などそうはいない。聞きなれているはずなのに背筋には冷や汗をかいていた。常に心構えを求められていたのだということを自覚する。
 周囲を確認する。しかし、どこにも姿はない。
「ここだ」
 声がした方向――正面に目をやると、いきなり林の風景が崩れ出し、次第に人の姿が見えてきた。
「これは蛇渇様、気づきませんでした」
 膝を突き、頭を下げる。
「ふむ、気づかぬでもしかたないな。この魔獣は大した力はないのだがな」
 蛇渇のまわりにはアメーバ状の魔獣が不気味に動いている。
「名は水蜘蛛という。牙もなく、なんら強力な武器があるわけでもない。その代わりに自身の存在を他者に悟られぬことに関してはまさに一級品。生物とは面白いものだ。――それで、おまえはどのような奴らにやられたのだ?」
「男と女の二人組みです。男のほうはまったくの素人のようでしたが、女のほうはなかなかの使い手と見受けました。さらには精霊らしきものがおりました」
「ふむ、精霊とな?」
「その精霊が妙な術を使いまして、『縛』の一言にて私の動きは止められてしまいました」
「……霊言か」
 蛇渇は手を皮ばかりのあごに当て、興味深そうにうなずいた。
「あれを使える精霊はとうに消えたかと思っていたのだがな、まあ良い。今日はなかなか面白い日だ」
「蛇渇様?」
 鬼火は思わず顔を上げた。蛇渇が声を上げて笑っているのだ。
「わしは孤影の援護に向かうとしよう。どうやらあやつでは荷が勝っているようだ」
 思わぬ蛇渇の言葉。
 鬼火は蛇渇が孤影を買っていると思っていた。しかし、蛇渇の言葉を聴く限りではそうでもないようだ。心中で孤影の優先順位を下げる。
「おまえは足の傷が重いようだな」
「はっ、お役に立てず申し訳ありません」
「かまわん。貴様にはこれからも役に立ってもらうつもりだからな」
「ありがとうございます」
 鬼火は深々と頭を下げ、安堵した。
 仕えるべき主は自分の能力を認めてくれている。となれば、使い捨てにされるようなことはないだろう。無論、時と場合によれば簡単に見捨てられるであろうことは分かっている。それは蛇渇に仕えようと決心した時点で覚悟していることだった。
 蛇渇はひれ伏している鬼火を一瞥し、アメーバ状の魔獣――水蜘蛛に周囲を覆わせる。
 その瞬間、蛇渇の気配は消え去っていた。
 なおもしばらく鬼火は頭を下げ続け、心臓の鼓動が六十回を超えた辺りでようやく頭を上げた。
 ――蛇渇様はああおっしゃられたが、里の中には入っておくか。何か手柄を立てる機会があるやもしれん。
 鬼火は立ち上がり、里へと足を向けた。
 ――それにしてもあの女……
 彼の太ももを傷つけた青髪の女を思い出す。
 ――どこかで見たような気がするな。
 間者として働くための技術の一つ。一度見た顔は忘れない。
 鬼火は自身の能力に自信を持っている。
 その自分がはっきりと思い出せない。おそらく相当古い記憶なのだろう。
 はっきりとしない記憶に少しいらつきながらも鬼火は里へと向かう足を速めた。








「遅かったか!」
 伊雅のつぶやきは、彼に従う男たち全員の心を代弁したものだった。
 乱波の技術の粋を凝らして築かれた防壁は跡形もなく崩れ、倒れこんだ人間が何十人も見える。ぴくりとも動かない。
 この時点で里に戻った目的は失われてしまった。
 客観的に見ればこの時点で撤退――逃亡するべきである。
 勝敗の見極め、これこそが指揮官に求められる資質の一つだろう。
 そんなことは伊雅には言われずとも分かっていた。
 しかし――
 そこにあるのは圧倒的なまでの死。耶牟原城が陥落してから後、ここまで親しい人間が一度に死んだことはなかった。
 兄、同僚、兵士、そう何人もの人間が死んだ。
 心の鎧が崩れる。
 思い出すのはここまでの道のり。
 柵は破られ、長屋は焼かれた。魔獣に喰われた里人の死体。
 嘆くのは後でいい。
 そう思ってわざと思考の外に置いていた光景。
 左道士がこちらを振り返った。
 しばらくして口をゆがめた。
 哂った――伊雅にはそう見えた。
 猛る武人を止めるものはもう何もなかった。



 避難所を破壊した孤影は後ろを振り向き、そこに見知らぬ男たちを見て驚いていた。
 男たちからは明らかに敵意を感じる。
 ――バカな! 李興らが敗れたというのか!
 左道士三人に魔獣十頭、見れば相手は二十人弱、負けるような戦力ではなかったはずだ。
 しかし、目の前には確かに敵がいる。
 現実を無視したくなるような気持ちを抑えつつ、李興は魔狼へと意識を伸ばした。里の外で逃亡阻止のため待機状態になっている魔狼が三頭。これらは李興に支配権を預けていたが、すでに支配の糸はかなり細くなっている。
 李興がやられたのは間違いなかった。
 ――役立たずめ! ただ歳をとっただけの凡人が!
 舌打ちと同時に、冷静な分析が頭を占める。
 孤影の側に残っているのは左道士二人と魔狼が八頭だけ。李興が率いていた戦力とほぼ同程度。無論、相手も戦闘で損害を受けているだろう。だが、圧倒的な戦力とはいえない。
 自分の力には自信を持っている孤影ではあったが、震音法で疲労していることを認めないわけにはいかなかった。
 震音法――呪を繰り返すことによって左道の威力を極限にまで高める術である。正確に言えば、呪を繰り返す合間に別の術式を織り交ぜ、全体として一つの構成となるように組み立てる。
 当然、詠唱にかかる時間は長くなり、要求される集中力も高くなる。利点ばかりではないのだが、威力という点から見れば便利な術であった。
 実際に左道対策がなされた避難所を孤影一人で崩壊させた。
 ――だが、さすがに消耗が激しい。
 肩で息をしている状態では虚勢も張れない。
 それでも戦わずにはいられないだろう。
 細くなった支配の糸をたどり、魔狼への支配を確立する。とにかく戦力を整えねば、戦いにもならない。
 ――わたしは天才だ。こんなところで負けるはずがない。
 左道士としての自信。
 孤影は口をゆがめた。



 すでに落日の残照もなくなり、里の中の光源は燃える家屋と炎を宿す剣のみ。その中を伊雅は駆ける。
 それは獅子の突撃。
「伊雅様!」
 補佐役を務めているはずの朱玲が大声で制止する。
 声が聞こえていないのだろうか、伊雅はまるで速度を落とさない。
 意を決して朱玲が伊雅の後に続くよう命令を出そうとして、
「手出し無用!」
 伊雅の大喝が朱玲を打った。
 朱玲は見た。
 神剣、天の火矛が今までに見たこともないほどに赤く輝いている。それは伊雅の叫びだった。
 ――許しはせぬ!
 正面に見える敵は左道士が二人に魔狼が五頭――まずはこちらに引き付ける。
 武人の威圧に満ちた突撃を座して待つ孤影ではなかった。
「行けい」
 孤影は突っ込んでくる男相手に魔狼を五頭――部下から支配権を奪った――けしかけた。しかし、このまま魔狼を突撃させても無理だとも悟っていた。
 ――あの剣、なんという力よ!
 一目見ただけで並みの剣ではないことは分かっていた。魔獣であっても苦にはしまい。
「魔は魔を超え、極へと通ず、そは力の本流……」
 右の拳を人差し指と中指の二本を突き出すような形で握り、前方に突き出す。存在の根源、その『極限』を呼び出すための呪を唱える。
 魔獣は召還によって人界へと現れる。
 召還方式にはさまざまなものがあるが、もっとも一般的なのが生贄を用いた方式だった。
 術式と媒介により人界と魔獣界の門を開き、魔獣を呼ぶ。
 ここで問題となるのが人界と魔獣界の違いだった。人界と魔獣界ではまったく構成要素が違うという。実際に魔獣界に行った事がある者はいないのでくわしいことは分からないが、左道の研究者の間では常識であった。
 つまり魔獣界に住む魔獣がそのまま人界で暮らすことは急激な力の後退を意味する。それでは魔獣を召還する意味がない。
 そこで考えられたのが、生贄に別の効果を求めることだった。
 魔獣を呼び寄せるための餌というだけでなく、魔獣に人界の要素を組み入れることでこちらの界へと定着させる。生贄はその要素という役割をも担っていた。
 この結果、魔獣は人界への適応力を高めることができた。ただし、その反面、取り入れた人界の生物の要素によって魔獣本来の力が制限されることになる。
 では、その制限をはずしてやればどうなるか。それが孤影の唱える呪の目的であった。
「界を超え、今また限を超える、そは獣の本なり!」
 孤影の詠唱が終わった瞬間、魔狼の変貌が始まった。
 身体は二周りも大きくなり、首が伸び、頭が大きく突き出る。それとバランスを取るためか、大きな尻尾が伸びた。鉄のうろこは形を変え、とげのようになり全身を包んでいる。
 その姿は狼ではなく出来損ないの竜のようであった。
「ギュルロロォー!」
 魔狼――いや、今の姿からすれば愚竜というべきだろう――が、奇声を発する。
 人たるものならば、怯えずにはいられない響き。
「うおおおっ」
 伊雅は吼えた。気迫を超えた魂の叫び――持ち主の心と同期する剣、天の火矛はさらに輝きを増し、剣身からは炎がこぼれ出る。
 大地を深くえぐりながら駆ける愚竜が伊雅へと迫り、大きく口を開けた。
 魔狼のときよりもはるかに凶悪さを増した牙。
 それを一瞥し、伊雅は剣を振るった。
 刃が牙を切り落とす。
 身体をひねり襲い掛かる尾を跳び上がってかわし――
 別の愚竜が放った炎が横から襲ってきた。
 天の火矛をかざす。
 すでに炎は敵ではない。
 火炎を天の火矛に吸収させつつ、膝を曲げ着地する。
「禍し餓鬼!」
 伊雅の動きが止まったと見た左道士が呪文を発動させた。
 うめき声があたりに木霊し、薄暗い闇の中、紫色の幽魂――髑髏の形をしている――が伊雅へと軽く蛇行しながらも迫る。
 その様は死んだ里人の嘆きに重なり――
 間近に迫ったそれを伊雅は斬った。
 左道が四散する。
「何だと!」
 孤影が叫ぶ。
 彼には分かっていた。
 左道が防がれたのは剣のせいではないことを。
 目の前の男は純粋に左道を斬り払ったのだ。
 ――そんなことがあるはずがない。
 左道には実体がない。斬ったところで意味はないはずなのだ。しかし、実際に左道が無効化されている。
 そんな驚きは無論、伊雅に伝わるわけもない。
 余裕もない。
 魔獣の攻撃をさばき、魔獣を引き付ける。
「ギャルルルゥッ!」
 新たに三頭の愚竜――里の外で待機していた――が伊雅へと突撃してくる。
 合計八頭が入れ替わり伊雅に襲い掛かっていた。愚竜は互いにぶつかりながらも闘志を損なうことはない。むしろどんどんと暴力の本能を活性化させ、興奮を増している。
 ――師匠。
 魔獣の猛攻をいなしながら伊雅は師のことを思い出していた。


「我が剣の極みはモノの根源を断つことにある」
 白髪の初老の老人が言った。
 老人といってもその体躯はたくましく、体からあふれる活力は隠すことはできない。とはいえ、それだけではこの老人の強さを知ることはできない――伊雅はそう思っていた。
 宗像の末社の一つに二人はいた。
 末社の人間はある理由があって、ここには一人もいない。
 外はすでに漆黒の夜。部屋の中は幾本ものろうそくの火が照らしていた。
「では根源とは何か? それを口で説明することはできん。わしが説明下手だからというわけではない。それも理由の一つではあるが、根源とは多分に感覚的なものであるからということが一番大きい。――そうじゃな、女心のようなものと言ったところかのう」
 思わず笑みがこぼれる。
 この老人はたまに一言多いところがある。喩えがあっていないことも多い。
「ふん、笑っていられるのも今のうちよ。若造にはまだまだあの苦労は分かるまい。わしなどは幾度、女の笑みと涙に一喜一憂させられたことか……と、話がずれたな。モノの根源を理解する。これは剣の用い方にも通ずる。何もかも斬ろうと思えば、どれだけの体力自慢といえどもいつか疲弊する。斬るべきモノ、斬らなければならないモノの根源を斬る事ができさえすれば、最小の力にて最大の効果をあげられよう。――そのほうが楽ができるしな」
「まったく師匠はほんと一言多いですよ。その一言さえなければ、けっこう渋みがあっていいって言っている女官たちもいるんですけど」
「何! 本当か! なぜそういうことを早く言わんのか!」
「まあ、青爛(せいらん)の話ですから信用できるかどうか分かりませんがね」
 友人にして好敵手である男の姿を思い浮かべる。伊雅としては悔しいことだが、剣の腕では一歩遅れを取っていた。
「あやつか、少々ほら吹きなところがあるからのう。少しは悠伝(ゆうでん)を見習えばよいのに」
「いや、悠伝はちょっと堅物すぎると思いますが、それにほら吹きについては師匠も人のことは言えないでしょうに」
「わしがほら吹きじゃと言うか」
「だって、幽霊をただの刀で斬るなんてできるはずがないでしょ」
「……ふん、まだ分かっておらんようじゃの。まあ良い、見れば分かる」
 老人はそう言って姿勢を正した。
 部屋の中の空気が変わる。
 おどろおどろしい気配が増す。
 そんな変化を恐れる様子も見せず、老人は立ち上がった。
 刀の柄に手をかける。
「伊雅よ、しっかりと見ておけ。我が流派を極めれば、たとえ実体がなかろうとも、断てぬものはない」
 風が巻いた――
 ろうそくの火が揺れる。
 現れたのは赤く光る霧。
 老人が刀を抜き払った――


 すさまじい一撃だった――伊雅は今でもはっきりと思い出す事ができる。
 あれから三十年近くたった今でも師に追いつけたとは思っていない。師の言う『根源』らしきものは分かるようになった。左道を切り裂くことができたのだ。おそらく間違いはないはず。
 そして、師の教えは天の火矛の扱いにおいても役に立ってくれた。
「むんっ」
 剣の腹で愚竜を叩きつけ、別の愚竜へとぶつける。
 瞬間、伊雅の周りに空白ができた。
 距離にすればわずか五歩、時間にすれば一秒にも満たない空白――
 だが、必殺の瞬間。
 ――我が奥義を見よ!
 天の火矛を逆手に持ち、大地へと突き刺す。
 八頭の愚竜が一気に飛び掛る。
 裂帛の気合を込めて伊雅が叫ぶ。
「地炎輪!」
 天の火矛が煌めく。
 荒れ狂う魂――それは炎の根源。
 剣に集められた力が大地へと移り行く。
 幾筋もの炎の線が渦を巻くように地面を走り、円を描き出した。
 愚竜の牙が伊雅に届く、その一歩手前で――大地は爆発した。
 爆炎――
 炎の舞踏が幕を開け、風が彩る。
 全てを飲み込み破壊する――火の根源の一つ。
 炎の竜巻は愚竜を焼き尽くす。
 たとえ火を操る魔獣であったとしても、その業火の中を生き延びる術はない。
 天の火矛は火魅子が鍛えし剣――火の御子が生みし剣。
 その真価が発揮されれば火の精霊であっても生きてはいられない。
 劫火が収まった後、愚竜の姿は欠片もなかった。



「ふ、ふざけるなーっ」
 敵にかけるにはあまりに情けない言葉。だが、孤影は叫ばずにはいられなかった。
 火を吐く魔獣は当然のように火への耐性が高い。しかも、魔獣本来の姿に戻したのである。耐性もまた高くなっているはずだった。
 それを一瞬にして焼き尽くしてしまうなど、非常識に過ぎる。
 恐怖――
 師である蛇渇に仕えてから常に感じてきたもの。
 自分が恐怖を感じる存在など人ではいないと思っていた。師はすでに人間ではない。
 だが、その人間が目の前にいる。
「わたしが負けるなどあってたまるものか!」
 膨れ上がる忌々しい感情を振り払い、詠唱を始める。
 相手は大技を使った後だ。疲れもあるはず。
 少し離れたところで部下も詠唱を始める――が、その呪文は先ほど先ほど切り払われてしまったものと同じであった。
 ある意味では無理もないことだったのかもしれない。相手の強さに混乱してしまったのだろう。
 ――なんと無様な。
 孤影にとってはいらだたしさ以外の何物でもない。
 すでに戦力は限られているのだ。
 せめて役に立ってから死ね――孤影の本音だった。
「禍し餓鬼!」
 恐慌に陥った左道士が呪を発動させる。
 骸骨を形作った幽魂が伊雅へと迫り――当然のごとく切り払われた。
 すでに左道士に身を守る術などない。
 身を翻し、逃げ出そうとしたところを、背後から一刀のもとに切り伏せられた。
 断末魔が破壊された里へと響き渡る。
 ――ちっ、臆病者めが!
 毒づく孤影も余裕があるわけではない。
 伊雅は残った左道士――孤影のほうを向いた。剣の輝きはまるで損なわれてはいない。
 最後の一人。
 無論、油断などはない。
 詠唱が終わるよりも先にと、地面を蹴る。
 ほんの数瞬だった。
 本来なら孤影は部下に感謝しなければならなかった。逃げ出そうとした左道士を斬るために伊雅が費やしたほんの一歩――その差で孤影の左道は完成していた。
 力が渦巻く。
「水鬼冷咆!」
 伊雅へと突き出した孤影の右手から水が生まれ、濁流のように宙を這う。その先には剣を構えし武人――剣で斬るが、それだけでは水は止まらない。
「くっ、これは!」
 水が伊雅へとまとわりつき、冷気を強める。水は氷へと変わり、伊雅を氷の彫像にしようと勢力を増す。
 剣が輝く。
 炎が氷を溶かす――が、氷はそのまま溶けるようなことはなく、増殖を続けてはまた溶ける。炎と氷が絡み合うという異様な光景となっていた。
 これが孤影の狙いだった。
 相手の動きを封じたところで、もう一撃加える。
 左道が効かないわけではないのだ。ただ防いでいるだけ。
 ならば勝機は十分にある。
 逸る心を抑えつつ、孤影は詠唱を続ける。ただ、目の前の男をにらみながら――
 孤影はあまりにも視界が狭すぎた。
 敵は一人ではないのだ。
 詠唱が終わりに近づき、勝利を確信したそのとき、自分に迫る影に気づいた。
 慌てて逃げようとするが、すでに遅い。
 身体をかばうために右腕を前にし、影が女だと気づいたところで、
 ザシュッ――
 孤影の右腕は切り飛ばされていた。



 九峪が声をかける間もなく清瑞は駆け出していた。
 黒装束が夜の薄闇に紛れ、闇の精であるかのように溶け込む――が、その動きに闇の穏やかさはない。雷光のように鋭く迅い。
 目標となっている左道士が気づいたときには遅かった。
 清瑞の斬撃が敵の腕を切り飛ばした。
 ――最初は動いたことも分からなかった。
 清瑞の強さを改めて思い知ることになった。
 それはともかく、どうやら戦いは終わったようだ。
 九峪は伊雅に向かって歩き始めた。周りには里の男たちもいたが、九峪を止めることなく、自分たちも歩き始める。
 伊雅のところに着いたとき、清瑞は伊雅に怪我はないか確認していた。
「お怪我はありませんか、伊雅様」
「最後の左道には手を焼かされたがな。それだけだ。左道士の集中が切れたのだろう。氷はすぐに勢いを失ったから、天の火矛で払うことができた。――助かったぞ、清瑞」
「……いえ、当然のことです」
 伊雅の感謝の言葉に清瑞はわずかにうつむきながら答えた。
「無事だったんだな、伊雅」
「これは九峪様、……危険なことはなさらぬようにと申し上げたはずですが」
「……いろいろあったんだよ」
 ごまかしながら九峪は伊雅から目をそむけた。
 そして、見てしまった。
 瓦礫にうずもれた何十もの人間。
 それまでは気づかなかった、いや気づかないようにしていたむせるような血の臭い――あるのは死という圧倒的なまでの事実。
 その中には滝の淵で遊んでいたときに、九峪にイワナをくれた子供もいた。
 足は変な方向に曲がり、頭からは血が流れている。
 吐き気がこみ上げてくる。
 ――この臭いはあの子の血……許せない。
 薄暗さのせいで遠くからは分からなかった。
 だから知らなかった。
 あの笑顔が失われているということを。
 他の子供たちはどうなった?
 そして――頭に浮かんだのは血まみれの桔梗。
 全身の血が一気に引いた。
 うめき声が聞こえた。
 口を押さえながらそちらを向いた。
 声を出しているのは右手を失った左道士。
 右手を斬られたことで気を失ってしまったようだ。
「伊雅様、あの左道士はどうしますか?」
「いろいろと聴かなければならぬことがある。手当てはしておけ。それから息がある者がいるやもしれん。避難所の瓦礫をのけるぞ」
「はっ」
 九峪からは伊雅の態度に感情の揺らぎは見て取れなかった。
 死者を嘆くのではなく、生きているかもしれない人の探索に力を割いている。
 大人の対応というべきなのだろうか。
 九峪は知らなかった。
 避難所の崩壊を見た後の伊雅の咆哮――
 九峪が伊雅の戦いを見たのは、炎の竜巻が上がったところからだった。
 部下の制止を振り切り、魔獣に向かってひとり突撃した伊雅の心情を知ることはなかった。
 そんな九峪の心情にはかまわず、伊雅たちは瓦礫の撤去に動き出そうとした。それを見た九峪も手伝おうと、瓦礫のほうに歩を進める――そのときだった。
 音程を持った言葉のつながり。
 それは左道の詠唱。
「禍し餓鬼」
 気づいたときには遅かった。
 発動者は地面に転がっていた左道士――孤影は気絶した振りをしていただけだった。
 ――このままで終われるものか。
 選ばれた左道士としての執念が痛みを超越した。
 振り絞った精神力が最大の力を発揮する。
「うわあっ!」
 悔恨の叫びが九峪へと迫る。
 虚を突かれ、誰もの反応が遅れた。
 ――間に合わない。
 そう思いながらも走らない者はいない。
 誰もが九峪を助けようと一歩に力を込める。
 薄く光る幽魂は無情にも九峪を喰らおうとし、ほぼ同時に伊雅の剣が幽魂を捉えた。
 斬られる風の音。
 幽魂が弾けた。
「うあ、あ」
 呆然とした表情で九峪がへたり込んだ。
 体の奥底から震えが昇ってくる。それは死を逃れたことを悟った身体が上げる歓喜の叫び、しかし、九峪にとっては衝撃を回顧させるものでしかなかった。
「今のは……左道が……消え……」
 最後の力を振り絞った左道を防がれた孤影は、ただかすかにうめくことしか出来なかった。
 刀を抜いた清瑞が倒れ伏した左道士に一気に詰め寄り、
「殺すな、清瑞!」
 伊雅の一言で、刃ではなく柄の先で腹を殴りつける。
「グホッ」
 くぐもった悲鳴を上げ、孤影は本当に気絶した。
 清瑞は今度こそ本当に気絶しているのかを確認し、布で口を縛り上げた。
「……九峪様、お怪我はありませんか」
 どこか戸惑ったような声で、伊雅が声をかける。
「ああ、伊雅、ありがとう。助けてくれなかったら――」
 死んでいた。
 言おうとしたことなのに、その言葉は九峪の口からはこぼれなかった。
 ぶるっと大きく身体が震えた。
「……いえ、ご無事ならばそれでいいのです」
 まだ何かが気になっているのか、伊雅の言葉にはどこかにはっきりとしないものがある。それでも心底、九峪の無事を喜ぶ姿にうそはなかった。
 ようやく九峪の身体は震えるのをやめた。
 命あることへの感謝。
 しかし、危機はまだ去ってなどいなかった。




 風が凪いだ。
 破壊の跡など関係なく春の風は吹き、悲しみに包まれた里を癒すかのようであった。
 家屋が焼け焦げた臭い。
 血と肉の臭い。
 それらをどこかへ運んでくれるようなそんな風。
 その風が止まった。
「覇軍鳴動」
 禍々しき声が誰の耳にも届き――大地が揺れた。
 普通の人ならば立ってもいられない揺れの中、伊雅や男たちは重心を低くすることで転倒を免れていた。彼らほどの身体能力がない九峪は地面にうつぶせになって地震の過ぎるのを待つ。いささか情けない姿だが、すでに建物は崩壊し、何も頭上から落ちてくることはない現状を考えれば、十分な防御体型である。何より、立ってなどいられなかった。
 災厄はまだ終わらない。
 風が吹いた。
 それは冬の峻風にして風の乱刃。
 全てを切り裂こうと荒れ狂うそれが伊雅たちに襲い掛かる。
 天の火矛が光り、伊雅は迎撃のために火球を打ち出す。
 今宵何度目かの炎と風の激突――しかし、結果は違っていた。
 風刃とぶつかった火球は断末魔を上げるように爆発し、炎は風に煽られた。爆発で風刃の威力も少しはそがれる。だが、それだけだった。風刃は一本ではない。
 伊雅にできたのは風刃の一部をかき消すことと、狙いをそらすことだけだった。
 乱刃が大地を人を蹂躙する。
 彼らにできたのは身を縮め、自身の表面積を少なくすることだけだった。
 暴虐の風が吹き去り、大地は蠢動をやめた。
 立っているのは伊雅とかばわれる形になった清瑞だけ。
「今の攻撃は……」
 つぶやく伊雅の脳裏には狗根国との戦の光景が浮かび上がっていた。
 戦場の理屈を吹き飛ばすかのような理不尽なまでの力。狗根国の象徴の一つ。これこそが本当の左道士の力だ。
「くっ、九峪様は」
 自分を守るだけで精一杯だった。
 ――あの攻撃では……
 伊雅の心に絶望が走る――が、神は気まぐれだった。
「うう……」
 九峪は朦朧とする意識をはっきりするため、頭をふる。うつ伏せだったのが、いつの間にか仰向けになっていた。
 胸の上に重いものが載っているのを感じた。
 立ち上がろうと、それを横にどける。
 手が濡れた。
「何だ、いったい……」
 顔の前に手をかざす。
 暗くて分からない。ただ、その臭いはわかった。
 胸からどけたモノに目をやる。
 砺波だった。
 話したのは今日の訓練が初めて、まだそれだけの付き合い――そんなこと関係なかった。
「砺波ーっ!」
 その身体は大人にしては軽かった。見れば上半身と下半身が両断されている。動かしたせいで内臓がはみ出してきている。もう、吐き気は感じていなかった。感じる余裕がなかった。
「黙れ!」
 清瑞が九峪を打ち付けた。
 敵がいる。
 混乱していては死ぬだけだ。
 清瑞の喝が効いたのか、それとも心が麻痺してしまったのか、九峪は押し黙った。促され、立ち上がる。
 瓦礫の中から他にも二人――朱玲と楠名がふらつく足を叱咤しながら立つ。
 これで全員だった。
 魔獣との戦いですら最小限の犠牲で切り抜けた男たちがたった一撃で壊滅させられてしまった。
「ふむ、破軍鳴動を受けておきながら、五人が立ち上がるか。大したものよ」
 しゃがれた声が響いた。
 九峪を除く面々はすぐさま声の方向に向き直り、それぞれの武器を構える。
 そこにいるのは猿轡をかまされた左道士のみ。
「しかもすぐに戦う姿勢を作るとはな。心も強いか」
 声は確かに聞こえてくる。
 姿はない。
 いつしか東の空には満月が昇っていた。月明かりが廃墟と化した里を照らす。
「これだけの強者相手に姿を隠したままというのは無粋よな」
 空間が揺らいだ。人よりも大きくうごめく塊がゆっくりと地面へと流れ、気絶している左道士を包んだ。
「これでも不詳の弟子でな。まあ、はるかに期待はずれではあったが」
 魔人――声の主を見るなり清瑞は相手の正体をそう判断した。
 人間の言葉を話している。
 豪華ではあったが左道士の服を着込み、二本足で立っている。
 そこまで見れば、人間と考えるべきなのだろう。
 だが――
「左道士総監……」
 伊雅は戦慄を含んだ語調でつぶやいた。
「ほう、わしのことを知っておるか。まあ、この顔では目立ちすぎるのかもしれぬな」
 顔の皮は骨にへばりつき、目がある場所には赤い眼光だけが見える。生ける髑髏というところだろうか。
「我が名は蛇渇、人にして魔道に落ちし鬼よ」
 全身から瘴気があふれ出し、月明かりを曇らす。
「それにしても主らは強いな。狗根国の部隊長、いや四天王級といったところか」
 蛇渇の視線の先にいるのは伊雅だった。
「どちらにせよ、これだけの力の持ち主を見逃すわけには行かんな」
 蛇渇の圧力が膨れ上がる。全てを飲み込もうとする力の波動。
 ――何という力!
 圧力に屈しまいと力を込める伊雅の手では天の火矛が震えている。
 左道士総監――その力はすでに伝説にすらなっていた。
 上級魔人すらも圧倒する魔力、天候すらも左右するという。
 正しく人外であった。
 その化け物が目の前にいる。
 ――勝てるか?
 まったく戦えないということはない。天の火矛と自分の技があれば戦うことはできる。しかし――
「……清瑞、九峪様を連れて逃げろ。ここはわたしたちで防ぐ」
「伊雅様……」
 清瑞には分かっていた。
 伊雅であっても勝つことが難しい相手なのだと――たとえ自分が加わったとしてもたいした役には立てない。
 すぐ側にいた九峪の肩をつかんだ。
「逃げるぞ」
「逃げるって、おい、何で?」
 突然の展開に九峪は頭がついていかない。
 目の前の敵が危険だということは本能で分かっている。現代人が薄れさせてしまった本能であっても感じられるほど危険な存在だ。しかし、逃げるということは、伊雅たちを見捨てるということになる。
「さっさと動け」
「でも、おっさんたちが」
「九峪様」
 伊雅が九峪に声をかけた。その顔はすでに覚悟を決めた男のそれだった。
「頼みます」
 目的語も何もない、ただ一言。
 それでも九峪には伝わった。それだけの重みがあった。
「……分かった」
 九峪がうなずくと、伊雅は笑った。
 死を恐れず戦い抜くことを決めた武人の笑みだった。
 それを目に焼きつけ、九峪は振り返った。清瑞が走り出し、後に続く。
 無論、蛇渇が見逃すはずもない。
「ふむ、逃げる、いや逃がすか。そう思い通りにさせるわけにはいかんな」
 胸の前で印を組み、詠唱を始める。
 左道士との戦いでの鉄則――詠唱の阻害。
 朱玲と楠名が棒手裏剣を投げつける。
 ――この距離ならばはずすことはない!
 事実、棒手裏剣はまっすぐと飛ぶ。しかし、その瞬間、地面に伸びていたアメーバ状の魔獣が勢い良く膨れ上がった。棒手裏剣は突き抜けることなく、ただ吸い込まれただけだった。
 同時に伊雅が放った火球も一部を焦がすだけで終わった。
 蛇渇の詠唱が完成する。
 空気が変わった――
 瘴気が蛇渇の周囲だけでなく、里全体へと広がり、ズルリと何かが這い出るような音があちこちでする。
 ――何だ? いや、瘴気が強まったということは……
「魔獣を呼んだのか」
「ほう、良く分かったな。死んで間もない新鮮な肉がいくらでもあったからな、大した苦労でもなかったわ」
「何だと!? 貴様!」
「ふふふ、ついでに死んだ魔獣の瘴気が心地よく魔獣界の風を呼んでくれたわ。魂無き肉体などただのゴミだが、えさ代わりにはなるようだ」
 嘲りを含んだ哄笑が響き渡った。
 笑い声に呼応するかのように、魔獣が集まってくる。
 亀の甲羅を着た蛇。
 五つの頭を生やした犬。
 鷲の翼を得たトラ。
 同じ種類のものはほとんどいない。
 影は五十を超えた。
 雲ひとつない月明かりの下、異形の宴が幕を開けようとしていた。




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