〜戦  雲〜


作・ゴーアル様


 第四話 遺志(その1)



 太陽が傾き、夜の足音が聞こえ始める、そんな時間。人の足では入り込めないような山奥に似つかわしくない麗しき女の姿がふたつあった。
「今日はどこまで行くの、伊万里?」
 軽く気だるさを感じさせる声。それでいて声の主の動きに疲れは見えない。
「まだ一頭も獲れていない。――里に帰っても義父上に怒られるだけ。そうでしょ、上乃?」
「ま、それもそうね」
 上乃と呼ばれた青みがかった髪をした女は素直に同意した。
 伊万里は横を歩く上乃の姿を見る。
 印象的な大きな目。愛くるしい笑顔を浮かべるとき、その目は最高の威力を発揮する。里の男たちにはその笑顔の虜となってしまった者も多い。
 もっとも、里の中には上乃のお眼鏡にかなう男はいないらしく、伊万里の知る限り、恋仲となった男はいない。そんな女性らしさを裏切るように、木製の弓を背負い、腰には鉈(なた)を吊るしている。
 着ている服は動物の革をなめしたもので、ところどころ白い肌がむき出しになっている。男ならば艶かしさを感じてしまう光景だろうが、乳姉妹として育ってきた伊万里には見慣れた姿だった。もっと、だらしない姿も見たことがあるのだから、とくに感じることもない。
 そう思う伊万里も似たような格好だ。同じように弓を背負い、大き目の鉈に、動物を解体するための肉厚な小刀。自分が狩人であることを主張している。
 上乃と違うのは、その茶色がかった長い髪。山歩きで光沢を失っているが、風呂上りには見事な艶やかさを発揮するだろう。その目にはまっすぐに進むことを恐れない正義感にあふれている。
 ふたりはここから2つ山を越えたところにある山人の里に住む狩人だった。
 山の中を歩いているのは当然、狩りのためである。冬も終わり、里の蓄えも少なくなっている春先は狩りに精を出さなければならない。ふたりは女だてらに里でも1、2を争う腕前を誇っていた。
 もっともこれまでの成果はまったくない。昨日の朝に出発したのだが、狩りの腕に自身を持っているふたりにとっては不本意な状況である。必ず大物をしとめてみせると張り切っていたが、なかなか出会いはない。
 狩りには忍耐が必要である。そのことは熟知している伊万里であったが、ここまで当たりがないとさすがに苛立ちが高まってくる。気分を切り替えるために、上乃へと話しかけた。
「それにしても昨日の義父上はおかしくなかった?」
「どこが? いつもの父さんだったと思うけど」
 上乃は軽く首をひねり、答えた。
 ふたりが話題にしている人物は上乃の父親であり、伊万里の育ての親であった。名を趙次郎(ちょうじろう)と言う。
 趙次郎はかつて耶麻台国に仕えており、一軍を任される武将であった。耶牟原城が狗根国によって陥落したとき、砦の守備を任されていたのだが、もはや耶麻台国に勝ち目なしと見て、仲間と共に逃亡した。そして、弓の腕を頼りに狩人となり、自らが長となって、山奥に里を作ったのであった。
 趙次郎はよくふたりの娘に言っていた。自分が里を作ったのはいつか狗根国打倒に立ち上がるためだと。
 周辺の街に出向き、獲物の肉や毛皮、なめし皮を売ることも多いふたりは狗根国の圧政に苦しむ人々の姿を知っている。それだけに趙次郎の言葉はよく理解でき、その日のためにと狩りをしながらも武芸に励んでいたのだった。
 その趙次郎がふたりに、昨日の朝、突然、狩りに出るように命じたのだった。
 今までもふたりで狩りにでることは多く、そう命じられることはめずらしいことではない。ただ、いつもならばその前日の夜には話をしているはずだった。
「たしかにちょっと急だったけど、でも、こうやってふたりで狩りに出られたんだからいいじゃない」
 上乃にとって、山歩きや狩りは生活とは切り離せないものである。たいして娯楽があるわけではない里において、その成否が里の食糧事情に直結するとはいえ、狩りは十分に楽しみであった。それが大好きな伊万里といっしょならなおさらである。
「わたしだって狩りは好きだから、こうやっていることに不満はない。ただ、ちょっと気にかかってるのよ」
「う〜ん、伊万里は心配性だね〜。どうせ、その前の晩に言うのを忘れていただけだって。気にすることないよ」
「そうかもしれないけど、……それにしても、上乃は楽天的ね」
 たしかに上乃の言うとおり考えすぎなのだろう。伊万里は首を振り、髪をなびかせた。
「その言い方はちょっと引っかかるけど、一昨日の夜は、仁清のところのおじさんとずっと話しこんでいたみたいだし、きっと忘れていたんだって」
「ええ、そうね」
 伊万里はうなずき、目の端に映った影を追った。鹿のように見えたのだが、どうやら違っていたらしい。
「そういえば、仁清も狩りに出たんだってね」
「そうらしいわね、他にも若手が付いていってると聞いたわ」
「ちゃんとやってるかなあ」
「フフッ、もう仁清も16になるのよ。姉離れくらいできてるわよ」
「それってわたしは弟離れができてないってこと? 自分だってかわいがっているくせに」
 仁清とはふたりが弟のようにかわいがっている少年で、その弓の腕は大人でも勝てるものは少ない。口が堅く素直な性格で、里の若者の中でも一目置かれる存在であった。ふたりともいっしょに狩りに出ることは多いのだが、今回は別々となっていた。
「わたしは仁清には良い男になってほしいと思っているから。まあ、少しは寂しいけど」
「やっぱり、そうなんじゃない」
「……もういいでしょ、それよりこの辺りにも目ぼしい獲物はいないみたいだし、もう一山越えるわよ」
 伊万里の歩く速度が少し上がった。
「はいはい」
 ――もう少し愛想が良ければ、選り取りみどりなのにな。
 上乃はそう思いながら、伊万里の後を追う。
 伊万里は決して無愛想ではないし、むしろ人に気を使うほうだ。しかし、どこか人が近寄りにくい雰囲気を持っている。もっとも、幼いころからいっしょに育ってきた上乃には気になることではない。おかげで、からかいがいがあるとしか思っていない。
 ずっとこれからも共に生きていく、適度にからかうとおもしろい姉。それが上乃にとっての伊万里である。
「ちょっと。待ってよー」
「早く来なさい」
 上乃は足を速め、伊万里の横に並んだ。







 雲が薄赤く染まり、山は黄昏のときを迎えようとしていた。
 カラスの鳴き声がやけに大きく山々に響いている。普段なら人の心にもの悲しさをかき立てるそんな鳴き声――それが今、凶兆の印となっていた。
 ――いったいどうしたって言うんだ。
 奥歯を強く噛み締めながら、九峪は心の中で毒づく。
 伊雅とふたりで話をしていたところに来た砺波(となみ)の報告は九峪の中の何かをはっきりと変えていた。
 里の方向へと目をやる。
 相変わらず立ち昇っている煙――今までに感じたことのない焦りがじわりと全身を包んでいく。ブルッと頭を横に振り、視線を目の前へと戻す。周りには当然のように伊雅を始めとした男たちがいた。
 伊雅は九峪からは少し離れたところで、朱玲(しゅれい)、そして清瑞と話をしている。
 ほかの男たちは雑談などする様子も見せず、じっと黙っていた。直立不動ではなく、身体から力を抜き自然な立ち姿。一見したところでは緊張感などまるでないようにも見える。
 しかし、九峪はこの上ない居づらさを感じていた。男たちの姿、それ自体は恐ろしさを感じるものでもない。普段と、そして先ほどの訓練とそう変わらない。それでも、猛獣の群れに放り込まれたかのような心細さを覚える。――その雰囲気の意味するところは九峪にはまだ分からなかった。
 状況の分からない苛立ちと心細さが九峪の中でいよいよ荒れ狂おうとしたそのとき、話し合っていた伊雅たちに動きがあった。
「しかし、伊雅様っ!」
「朱玲、決めたのだ。――皆、聞いてくれ」
 伊雅は全員に声をかけ、注目を集める。そのとなりでは朱玲が伊雅に言い募ろうとしていた。伊雅はそれにかまわず話し始めた。
「おそらくみなも考えているように、里の方角で立ち昇る煙はひとつの事実を指している。里が襲撃を受けたと考えて間違いはない」
 言葉の通り、予想していたのだろう。聞いている男たちに動揺する様子はない。
「音谷(おとや)の里を襲う勢力……この付近に山賊が出たという話も聞いてはいない。狗根国軍と考えるべきだ。煙が昇ってからまだそれほど時間はたってはおらん。急ぎ、救援に向かう」
 伊雅が言い終わると同時にザワッと気配が動いた。九峪には男たちが戸惑っているように見える。その理由は分からない。里が襲われたならば、助けに向かうのは当然だろう。
 先ほどから、側で伊雅をにらむようにして見ていた朱玲が、我慢しきれないというように言葉を発した。
「……なりませぬ! 隠れ里に攻撃を仕掛けてきたのです。敵は十分な戦力を整えてきているはずです。しかも、我らに気取られずに里まで達したということは、敵が精鋭であることも示しておりまする。これから救援に向かえば、みすみす窮地に陥るだけです。ここは里は見捨て、急ぎ逃げるべきです」
 里を見捨てる。その言葉は里に住む人間にとっては衝撃的であるはずだ。九峪は周りの男たちを見る。男たちは先ほどの伊雅の言葉のときとは違い、戸惑う様子も怒る様子もない。そうすることが当然というように、じっと朱玲の話を聞いている。
 九峪にはそれほどの達観はない。里を見捨てるという言葉を聞いた瞬間、里の人たちの顔が頭に浮かんだ。
 朝餉を運ぶ桔梗、畑仕事に精を出すおばさん、滝の近くで遊ぶ子供たち――その人たちが襲われている? 想像することも苦しい。なぜこの男たちは冷静にしていられるのだろうか。
 いや、そんなことはないはずだ。
 男たちの多くは30代、九峪と遊んだ子供の親もいるに違いない。助けにも行かず、里を捨てることが軽いことのはずがない。
 それでも、男たちは何も言うことなく話を聞いている。九峪はこのとき初めて『覚悟』という言葉の意味を知ったような気がした。
「朱玲、もう決めたのだ。これから我らは狗根国を九洲から追い出し、耶麻台国を復興する戦へと突入していく。逃げてばかりでは勝ちなど望めようもない。戦わなければならない時はたしかにあるのだ」
「……では、はっきり申しましょう。我らの家族のことなど気にしなくてもけっこうにございます」
 朱玲は乱波の組頭を務めている。その責任感、そして誇りが悲壮な言葉を口にさせていた。
「気にするなというのは無理だがな。それだけで救援に向かうといっておるわけではない。勝算があるからだ。――この山奥に大軍を動員できるはずもない。もしそうなら気づかぬはずがないからな。おそらく百を超えることはない。その程度であれば十分に蹴散らすことも可能だ」
 伊雅は語気を強めて、朱玲だけでなく全員に語りかけた。口調に迷いはない。
「……分かりました。伊雅様がそこまでおっしゃるならば」
「うむ。――九峪様」
 決断を下した伊雅は、九峪の方へと身体の向きを変えた。
「九峪様にはここから離れていただきます。清瑞をつけますのでご安心ください」
「なっ!」
 九峪は驚きの声を上げ――自分の声に誰かの声が重なっていたことに気づいた。横を向くと、清瑞が表情をこわばらせていた。伊雅の言葉が信じられないといった様子だ。
「失礼ながら九峪様の足では間に合いませぬ。ですから、しばらく山奥に潜んでいただき――」
「それはできない」
 伊雅の言葉をさえぎった九峪の声は震えていた。
「おれは神の遣い……だから、逃げるわけにはいかない」
 建前としての言葉――九峪の心は未知の恐怖で満たされていた。知り合いと会えなくなる。この世界で得た初めての確たるものを奪われる。何よりも後ろめたさが決意をもたらせていた。
 そんな心の動きが分からない伊雅ではない。一歩、九峪に近寄り、いさめの言葉を発しようとし、
「口論している時間はないだろ」
 九峪の目の奥のわずかな揺らぎ、伊雅はそこに子供の意固地さを見て取った。
「俺は後から付いて行くから、伊雅たちは先に行ってくれ」
 時間がないのは確かだ。煙が発見されてからすでに五分は経過している。口論している暇はない。伊雅は決断した。清瑞の方へと振り返る。
「清瑞、決して九峪様に無理をさせぬようにいたせ」
「はっ」
 清瑞は頭を下げ答えた。清瑞にとっては、自分だけは山奥に隠れ、伊雅を危地に向かわせることなど望むことではない。九峪の言葉は彼女にとっても許容の範囲内であった。
 決断を下せば、伊雅の指示は早い。
「では、まかせた。――皆の者、われに続け!」
 伊雅が先頭をきって走り出し、男衆はその後に続く。その姿はまさに風。見る間に林の影に飲み込まれていった。
 残されたのは九峪と清瑞のふたり。
 九峪は清瑞へと顔を向けた。
「じゃあ、行くか」
「ああ」
 短い答えと共に、清瑞は駆け足で里の方へと進み始めた。先の伊雅たちの速さに比べれば、大した速度ではない。九峪にとっては、里までの距離を考えるとぎりぎりの速さだった。
 無論、少々きつくても文句を言っている場合ではない。九峪は清瑞の後に続いた――そのとき、九峪の懐が膨れ上がった。
 いきなりのことに驚いた九峪だが、何が起きたのかは想像がつく。
「なんだよ、キョウ」
 もぞもぞっと九峪の上着の中から出てくると同時に、キョウは九峪へと食って掛かった。
「なに考えてるのさっ! 里は狗根国に襲われているんだよ。そこに向かうなんて無茶だよ!」
 耶麻台国の神器というのがうそのように、顔を赤くし、手を振りまわしている。それだけ九峪の行動に戸惑っているのだろう。そんなキョウを尻目に、九峪は足を進めていく。
「そりゃ、危ないのは分かってるさ。でも、おれだけ隠れているって言うわけにはいかないだろ」
「九峪は分かってない! 狗根国ってのはたやすい相手じゃないんだ!」
 なんとか九峪を止めようと声を張り上げるキョウだったが、九峪が止まることはない。
「どうしたのさ、九峪。おかしいよ」
「別におかしくはないだろ」
 今、九峪の中にあるのは義務感、ただそれだけだった。
 伊雅からもらった信頼の二文字。それに応えなければならない。
「キョウ様、声を立てないでください」
「あ、うん……」
 里の外に敵がいることも十分に考えられる。敵に居場所を教えるようなまねは避けなければならない。そんなことがわからないキョウではなく、口をつぐみ、九峪の顔の横に浮かんで、じっと視線を送っていた。
 その視線が九峪の歩みを止めることはない。







 炎――それは耶麻台の象徴。
 破壊、そして再生をもたらすもの。
 九洲の民は火を恐れ、慈しむ。
 そして、今、彼らは炎に身を焼かれていた。
 木造の建物は暴風にあったかのようになぎ倒され、幾人かはその下敷きになっている。
 一瞬のことだった。
 里と外界を仕切る柵は意味を成さなかった。見張り台で警戒に当たっていた男が異変を察し、鳴子を弾けるように揺らしてからわずか一分。二十頭の魔獣により柵は紙でできているかのようにあっけなく弾けとんだ。
 傾いた太陽と炎によって、里は赤く照らされている。
 壊れた家の柱の下に男がいた。
 彼の手には弓と矢。
 文字通り一矢報いようと矢を番えたその先には、異形の獣がいた。
「グルゥゥゥゥ」
 地獄の底でうめくような鳴き声。
 闇の世界より招かれた漆黒の獣の口は閉じていても炎をこぼし、目は赤く染まり、破壊の歓喜に酔いしれている。
 風を切る音。
 鋭いやじりを先端につけた矢が空を切り、獣へと迫る。矢は獣の中心を狙っており、人ならば避けようもないはずの勢い。
 命中した――矢を射った本人がそう思った瞬間、獣はそこにはいなかった。
 ふっと辺りが暗くなる。
 上を見た。
 やつは命中する瞬間、高く跳びあがったのだ――それが彼の最後の思考だった。
 獣はその巨体で柱ごと彼を踏み潰した。
 果物がつぶれるような音。
 獣の足は肉片と血にまみれた。






「やはりこの程度よのう」
 左道服を身にまとい、神経質な顔つきをした男――孤影(こえい)はつまらなそうにつぶやいた。
 もともと気乗りしない仕事だった。
 尊敬する師――蛇渇の命令でなかったならば指一本とて動かしてはいなかっただろう。
 軽くため息をつき、あたりを見回した。
 彼がいるのはちょうど里を囲む柵があったところである。柵自体は魔狼の突進により用を成さなくなっているが、木々がばら撒かれているので歩くには不便この上ない。
 便利な移動用の魔獣を持っている師とは林の途切れているところで別れた。おまえたちだけでやって見せよ、そう言い残してどこかへと消えた。どこかで自分の仕事振りを見張っているのだろう。
 後ろを振り返ると、部下である四人の左道士がいる。中には彼よりもかなり年長の者もいた。
 彼が蛇渇を尊敬する理由はここにある。
 徹底したまでの実力主義。
 もともと武を重んじる国である狗根国では力ある者が尊ばれるという気風がある。それは軍において著しいのであるが、伝統というのは厄介なものである。かつて滅んだ耶麻台国の四百年には及ばないとはいえ、狗根国にも百二十年の歴史がある。その歴史の中で培われてきた武の名門。コネが通用する世界へと変わってきたのだ。
 それが軍の弱体化に繋がっていないところが尚武(しょうぶ)の気風というものなのだろう。
 しかし、蛇渇自身の統括する左道院においては左道の力のみが絶対的な価値基準となっていた。
 すさまじいのは左道院に所属する全ての者が力こそを第一の条件であると心の底から思っている。であるからこそ、実力絶対主義が機能するのだ。
 左道においては才能こそが重視される。努力ではどうしようもない天分というものがあるのだ。左道院にて左道士の称号を得ている者で才に恵まれていない者などいない。でなければ厳しい競争を勝ち抜けるはずもないからだ。そして、孤影はその中でもとくに才に恵まれた者の一人であった。
「李興(りこう)、風で邪魔な木を飛ばせ」
「ハッ」
 孤影はその年長の左道士――李興に命令した。
 このように三十手前の自分が四十を越えた男に命令できるのも蛇渇の実力主義のおかげであり、何よりも自分の力によるものだった。
 李興は孤影の命令に間髪いれず反応する。
 呪を唱え、風を操り四散していた木を一ヶ所にまとめる。このあたりは熟練の操術なのだが、力の強さ自体は孤影には及ぶべくもない。
 孤影としては安心して命令できる部下であった。
 きれいに掃除された地面をゆったりと歩き出す。
 ――おそらく今回の仕事は試験なのだ。
 この程度の里を攻めるのに左道士五人を投入するというのは破格の戦力である。左道士自身でも左道という超絶的な武器があり、さらには魔獣を召還することもできる。実際、今回も二十頭もの魔狼を放っているのだ。
 たとえこの里に住むものが全員兵士であったとしてもまず勝利は確実だ。
 となれば勝ち方が問題となる。
 彼の所属する左道院には『星持ち』と呼ばれる者たちがいる。その全てが最高級の左道士であり、左道院における支配層といっても良い。孤影の望みは自身も星持ちになることであった。
 自分の左道はすでにその域に達している。
 そう確信していた。
 ――しかし、こう何もなくては試験にはならないかものう。試験は一度では終わらぬということなのかも知れぬ。
 眼前では魔獣が勢い良く駆け回っており、家を次々と打ち壊し、炎を吐いては烈火の地獄を作り出している。木が燃える臭いに混じって肉の焼ける臭いも漂ってきた。
 大した抵抗もない。しかし、油断は禁物。
「全員、自分の魔獣は把握しておろうな」
「問題ありませぬ」
「李興、里の包囲に抜かりはあるまいな」
「ハッ、五頭ほどに包囲させております」
「ならば、我らは隠れておるであろう里の者どもを狩り出していく。よいな」
 李興たちは一斉にうなずく。
 孤影は満足そうに細い目を緩ませた。
 しかし、強大な左道を誇る彼らであっても無視し得ない者たちが急速に近づいていた。
 伊雅たちである。





 
 視界に映る木々が次々と後ろに流れていく。
 里へと急ぐ伊雅はその意識を戦闘用へと切り替えていた。
 走るのには邪魔となるはずの木も伊雅、そして後ろに続く男たちにとっては問題にならない。先の先を予見しているかのように最短距離を走り続ける。
 恐ろしいほどの速度であるが、彼らにとっては全速力ではない。
 あといくらもしないうちに戦闘に入る。
 誰もがそのことを認識していた。戦う力を残しておかなければ救援に向かう意味がない。
 そして、林を抜けた。
 そこに見えたのは地獄。感じたのは後悔。
 ためらいは一瞬のことでしかない。
「皆、行くぞ」
 伊雅は短く声を出した。
 視界に入った里の姿はひどいものだった。
 里を囲む柵の一部分がなくなっている。敵に侵入されたと見て間違いない。ただ気になるのは柵の残骸が一ヶ所にまとめられていることだ。どこか違和感を感じる。
「伊雅様、前衛は我らにお任せを」
 砺波の進言を受け、二列目へと下がる。統率者は常に冷静でなければいけない。戦場において例外はない。
 柵の壊れている部分をめがけ駆けていく。
「左右から敵です」
 伊雅の斜め後ろにいた朱玲が短く警告する。その言葉を受けて左右を確認すると、漆黒の獣が左右から一頭ずつ迫ってきていた。すさまじい速度――追いつかれるのは必死。
「全員散れ、まずはあやつらを片付ける」
 魔獣への恐れ、それは確かにある。戦場の恐怖。常に命が危険に晒されている。しかし、その恐怖を打ち負かして生き抜いてきた。今さら身がすくむほど生ぬるい人生を送ってきたのではない。
 伊雅自身は右手の魔獣に向かうこととした。左からの魔獣には朱玲たちに任せることとする。
 ザッザッと大地をえぐる音が見る間に大きくなっていく。
 速度を落とした伊雅は足元を確かめるようにゆっくりと魔狼のほうへと向かっていく。魔狼は牛よりも大きい。そして尋常ではない速さ。真っ向勝負ではまず人には勝ち目がない。
 肝心なのは初撃を交わすこと。
 すでに魔狼との距離は二十歩の距離まで近づいていた。――魔狼にとっては完全に間合い内。
 目の前の男を獲物だと判断したのだろう。
 わずかに身体をかがめ、飛ぶようにして一気に距離を詰める。


 獣は血に飢えていた。
 召還主からの命令で仕方なく柔な柵の手前をうろついていた。
 里の中からは同類の歓喜の声。
 血に酔う。
 彼の根源からの欲望であった。
 今ようやくその欲望を満足させる事ができる。
 牙にかかる肉の感触。口の中にほとばしる血しぶき。
 さあ、ここだ。
 大きく広げていた口を一気に閉じる――そこには何もなかった。


 伊雅はしっかりと炎がちらつく魔狼の口の奥を見て――かわした。
 歩法――人が人として手に入れた最高の速度。右前方へと踏み込み、身体を横にし獣を見送る。
 人は獣にはかなわない。しかし、動きを見切ることはできる。
 この魔獣がまだ理解できる形態であったのが、幸いだった。魔獣の中には人智を越えた形をしたものも多い。もっとも形態が人界の生き物と同じだからといって安心できるわけではない。
 異形の能力を隠しているかもしれないし、何よりも強い。
 これまで行った数々の魔獣との戦いが一瞬脳裏をよぎる。無論、その間も気を緩めることはない。
 目の前を魔狼の巨体が過ぎる――
 勘だった。
 手を胸の前で十字に組み、後ろへと跳ぶ。
 ドンッ、鈍い音とともに伊雅の鍛え上げられた体が弾き飛ばされる。衝撃を後ろにそらしたというのに、身体が千切れそうな威力。
 目的の場所に獲物がいないことを悟った魔狼は空中で身体をひねり、伊雅へと叩きつけたのだった。鉄のうろこの硬い感触を手に受け、伊雅は思わずうめく。
 ――そう何度も耐えられはせんな。
 軽くしびれた――あの衝撃を受けて軽くで済むこの男もやはり只者ではない――両手をぶらぶらと振り、魔狼を見る。
 魔狼もまた伊雅のほうを向いていた。
 先ほどの攻撃が空振りに終わったためか、足を止め、伊雅をにらみつけている。思ったよりも手ごわいと警戒しているようにも見える。
が、破壊衝動の塊である魔狼がいつまでも待ちの体制でいられようもはずがない。
 頭が地面がつくほどに下がり、四肢が膨れ上がる。
 ――来る!
 緊張感が最高潮まで達した瞬間、獣が伊雅めがけ――息を吐いた。
 溶鉱炉に渦巻くかのような熱風が地を這い伊雅へと襲い掛かる。
 予想とは違った攻撃、熱風に足を取られる。
 魔狼が跳んだ――いや、飛んだ。
 すでに太陽は沈み、その残光と燃える里の明かりだけがあたりを照らす。漆黒の巨体は夜を呼び込むように、空と一体化しようとしている。
 今度こそ逃さない。
 鷲が獲物を狙うように宙高くから一気に滑空する。
 熱風はいまだに伊雅を捕らえて離さない。まるで意思を持っているかのように。
 伊雅は逃げられない。
 魔狼の牙が伊雅を捕らえ――赤い光が黒を切り裂いた。
 噴出した黒い体液が炎と変わり、空気を揺らめかす。
 激突の瞬間、絶命したのは魔狼のほうだった。
 伊雅の右手には赤い輝きを放つ剣――天の火矛があった。そう、伊雅は逃げられなかったのではない。逃げなかったのだ。
 魔狼の牙が眼前に迫るまで伊雅は動かなかった。
 一瞬の動き、剣の師から学んだ最小にして最速の斬撃。
 鞘から抜かれた光は鉄の毛皮に包まれた魔狼の頑丈な身体を真っ二つに切り裂いた。
 熱を持った体液があふれ出し、強烈な刺激臭が辺りを包む。
 魔狼が大地に倒れ伏す音を聞きながら、伊雅はもう一つの戦いのほうへと振り向く。
 一息つく暇などありはしない。
 もう一頭の魔狼と男たちの戦いは一方的なものとなっていた。
 魔狼の首にいくつもの縄がかけられ、動きを封じられている。そして、男たちの中でも一際大きな男――砺波が魔狼の死角から魔狼へと飛び掛る。
 振り落とそうと身体をひねるが、砺波はしっかりと魔狼に張り付いた。拳を掲げ、魔狼の首へと打ちつける。
 魔狼の口から悲鳴がこぼれた。
 鉄の身体が小刻みに震え、ゆっくりと倒れた。
 巨体の上に立ち上がった砺波の右の拳。その握り締められた指の間からは太目の釘のようなものが突き出ている。鉄製の鎧をも貫く威力を持つ暗器である。その殺傷能力は折り紙付きだ。
 続けて何度か魔狼の肉体へと突き刺す。
 反応はない。
 ようやく安心したのか、砺波は魔狼から離れた。
 皆の視線が伊雅へと集まる。
 魔獣がいるとなれば、当然のことながら左道士の存在が思い浮かぶ。ここから見る限り狗根兵の姿はない。しかし、里の中からは破砕音が聞こえていた。まだ、魔獣は間違いなく残っている。
「急ぐぞ」
 縄を回収した男たちに声をかけ、伊雅は里の中へと向かった。





 プツンと紐が切れる感覚。
 李興は魔狼が死んだことを感じ取った。
「孤影様、魔狼が二頭、死にました。場所は先ほど我らが通った、柵の壊れたあたりです。どうやらだれかと戦闘を行ったようで」
 李興の報告に孤影は唇を歪めた。いや、笑ったのだろう。
 すでに二年、孤影に従っている李興にはその事が分かる。上司が十歳以上年下であることについてはとくに思うところはない。自分よりも明らかに左道に長けていることが分かるから。
 李興もまた力の信仰者であった。
「ギャウゥゥゥン」
 矢が目に付き刺さり、魔狼が吠えた。
 孤影の目が釣りあがる。なかなかに分かりやすい御仁だ。
 堅牢な石造りの壁。
 大きさは一戸建ての家程度だが、矢を放つための穴も開いており、小さな要塞にも見える。
 先ほどから魔狼が何度も体当たりを繰り返しているのだが、震えるだけで崩れる気配はない。特殊な工法を用いているのだろう。
 左道による攻撃も大した効果を上げていない。
「たしかに耶麻台の乱波は侮れませんな」
「所詮はあがきに過ぎぬよ。――魔狼を打ち倒したというのはおそらく鬼火の言っていた者だろう。李興、わたしの魔狼を二頭くれてやる。あと二人をつけるから、魔狼を率いて、そやつらを始末せよ」
「ハッ」
「わたしは震音法にて、この目障りな壁を壊す」
 李興にそう告げ、孤影は呪を結び始めた。
 今回、魔狼の召還は五人の連名によって行われた。呼び出したのは二十頭。つまりひとりが四頭の支配を行っていることになる。支配といっても、魔獣の行動を全て操れるわけではなく、その意識を誘導すると言ったほうが正しい。
 もしこの支配が外れてしまえば、魔獣は召還主であろうと関係なく襲い掛かる。そんな未熟な左道士はこの場には一人もいないが。
 李興は二人に声をかけ、敵の援軍への対処に向かう。
 その背後からついてくるのは、ゆったりとした足取りをした魔狼たち。赤く光る目が新たな暴虐を連想させた。

 





 間に何もない更地を挟み、里を囲む林の中、鬼火は周囲の警戒に当たっていた。
 木の枝に登り、耳を澄ます。
 木々のざわめき、小動物の動き、鳥の鳴き声、全てを把握し、その動向を分析する。彼の『目』から逃れられるものはいない。
 先ほど林の中を駆け抜け里へと向かった集団のことはもちろん捉えていた。そして、その戦いぶりを。それは懐かしいものだった。
 唇を噛む。
 狗根国の草――それが自分の役目であり、存在価値。
 心中に浮かんだ感傷を打ち消す。
 遠き思い出は意味を成さない。
 里の中からの破砕音が小さくなった。戦力をまとめた。
 つまりは敵の援軍に気づいたということだ。
 ――バカではないようだな。
 神経質さが顔面に表れている左道士――孤影を思い浮かべる。
 あの居丈高な態度、甲高い笑い声に思うところはない。左道士とはそんなものだと悟りきっているからだ。
 興味があるのはその能力。
 どのような事ができるのか、得意な術は何なのか、そして、その力を活かすことができるほどの頭があるのか。
 左道という力は鬼火の理解を超えている。
 一度、意を決して蛇渇に質問したことがある。
 ――左道とは何なのでしょうか?
『左道とは世界を変革する力よ』
 ――世界とは?
『世界とはすなわち在り方。理をもって界を崩し、混沌から理を見出す。これが左道の真髄よ』
 まあ、おまえにはわかるまい、そう続けて、蛇渇は哂(わら)った。
 仕えるべき相手とはいえ、あの異相には慣れそうもない。
 結局、蛇渇の言葉を理解することはできなかった。左道を扱う者でなければ分からないことなのだろう。
 理解を諦めた鬼火は左道をただの力として捉えることにした。
 力はその威力、使い勝手などから評価する事ができる。何よりも重要なのは力を活かすことができるかどうか。
 左道士に仕える者として、その見極めは重要だった。
 ――とはいえ、賢くはないか。
 魔獣を使っての奇襲はたしかに功を奏している。しかし、ただけしかけるだけでは芸がなさ過ぎるだろう。今回はたまたま上手くいったが、あれでは敵の逃亡を完全に防ぐのは難しい。
 ――いや、むしろ誰も逃げていないほうが……
 思考が何かを捉えようとしていたそのとき、南のほうで鳥が三羽飛び立った。
 知覚をめぐらす。
 ――先ほどの部隊の後続か? ……行かねばならぬな。
 一族の仲間を使うことができたならば、完全な包囲網を引くことも簡単であった。が、ここにはいない。
 ないものねだりをしても仕方ない。
 鬼火は木の枝を蹴り地面に降りた。
 同じ枝に止まってさえずっていた小鳥は飛び立つこともなく、歌を奏でていた。
 
 





「伊雅様」
「ああ、来たな」
 部下の注進を受けるまでもなく、伊雅は禍々しい力の接近を感じていた。
 周囲を見渡すと、無事な建物は一つもない。火に包まれ、黒煙を上げている。身を隠すには向かないだろう。
 感じる気配からすれば魔獣は一頭ではありえない。少なくとも十頭は超えている。真っ向勝負を選ぶのはきつい。
 前方の家屋の向こうに敵がいる。
 できれば先手を取りたい。
 里長の屋敷のほうに目をやる。
 ここからでは家屋が邪魔になって直接は見えないが、火の粉が激しく天に向かって飛んでいることから考えれば、すでに業火に襲われていることは間違いない。
 となれば、里の者たちは避難所で防戦に徹しているはず。
 急がなければならない。
「朱玲、まずは近づいてくるやつらを仕留める。左道士がいた場合は、おぬしに任せる。よいな」
「了解いたしました。……伊雅様も無理はなさらぬよう」
「そういうわけにもいかんようだ」
 家屋の向こうの力が増大した。
 この感覚は狗根国との戦の際に何度も感じていた。
「左道だ! 散れ!」
 低めの、しかしはっきりと聞こえる声で指示を出す。
 伊雅自身は天の火矛に手をかけ――
 半焼していた家屋が吹き飛んだ。
 台風のような爆風とともに、折れた柱などが飛んでくる。
 ――大地に根付くように、腰を下ろし、地面を踏みしめる。柄を握った手に力を込め、剣の意識との一体化を果たす。
 炎が揺らめいた。
「斬!」
 鞘より抜かれた炎のかけらが、真の炎へと変わる。
 炎は爆炎と化し、壁となる。
 炎の壁が爆風とぶつかり、せめぎ合う。
 その壁の向こうに黒い影が見えた。
 ――魔獣!
 その巨躯は力の均衡などまるで無視して、境界を越えようと飛び込んでくる。
「グオオゥ」
 魔狼の口が大きく開き、炎を喰らう。黒光りする鉄のうろこが炎を吸い取り、赤く輝く。
 その姿は魔狼というよりも炎狼と呼ぶのがふさわしい。
「ちっ」
 舌打ちしながら、伊雅は身体を倒し地面に転がる。炎狼の強靭な前足をすれすれで交わした。
 が、魔狼は一頭ではない。
 次々と力の境界を通り抜け、獲物を探そうと首を曲げる。
 それが十頭、怖くないはずがない。
 心に浮かんだ恐怖のかけらを振り払うように、片手持ちから両手持ちに変え、より一層の力を剣から引き出す。
 天の火矛――火魅子により鍛えられし神剣。
 炎から生まれ、炎を生み出すもの。
 ――人の意思に感応して剣身に込められた炎が膨れ上がるのだ。
 神剣を授けてくれた兄王はそう言っていた。
 受け取った剣を鞘から抜いたとき、兄の言葉の意味が判った。
 赤く輝く剣身に炎が走る。
 それは自分の心だった。
 剣に魅入ってしまった弟に兄は、
 ――わたしには影すら見せなかったというのにな。
 少し寂しそうに笑っていた。
 こんなところで恐れてなどいられない。
 先ほどまでの炎と暴風の激突はようやく落ち着きを見せ、両者の狭間となった家屋は跡形もなく全壊していた。
 そして、その向こうには――
「むん!」
 再び天の火矛を振るい、炎を飛ばす。
 重い衝撃音――そこではまた炎と風が渦巻いていた。
 左道士の存在、それを忘れては勝ちは望めない。とはいえ、味方の中でもっとも強力な攻撃力を持つのは自分だ。優先すべきは強靭な肉体を持つ魔狼への対処。
 ――朱玲、あとは任せるぞ。
 言葉には出さず、信頼すべき男への期待を胸に、伊雅はその険しい視線を魔狼に向けた。
 すでに乱波たちは魔狼との戦いに入っている。
 無論、伊雅のような強力な武器は持っていない。先ほどのような圧倒的な数的有利もない。それでも乱波たちは二人一組となり、魔狼に的を絞らせず、むしろ翻弄しているように見える。
 そして、伊雅を狙うは三頭の魔狼――うちの一頭は炎を吸収して、うろこが赤く燃えている。その炎狼が伊雅の正面に位置し、二頭が左右から伊雅の背後に回り込もうと、伊雅を中心に円を描くように進む。
 ――ただの炎では通じぬか。
 魔狼は炎を喰った。それだけでなく自身の力にしている。
 天の火矛が通じぬというわけではない。実際、魔狼を一頭、真っ二つに切り裂いている。
 ――つまり、ただの炎でなければ良いわけだ。
 この剣の力はまだまだこんなものではない。
 左足を前に出し、腰を深く落とす。剣を中腰に、地面と水平になるように構え、視線を炎狼に固定する。
 ――包囲が完成する前に動く!
 姿勢を低く保ったまま、炎狼めがけて走り出す。
 その瞬間、炎狼のうろこが潮が引くように赤が消え、もとの黒光りするうろこへと戻った。
 かまわず伊雅は駆け、一気に間合いを詰める。
 炎狼――今はただの魔狼――が口を開いた。
 真っ赤に燃え盛った釜戸。
 溢れんばかりの火がそこにはあった。
 視界が赤く染まった。
 火球が打ち出されたのだ。
 間合いを詰めていた伊雅に逃げる場所はない。
 考えるまでもない。自然に身体が動いた。
 天の火矛で火球を払う。
 剣身と火が触れた瞬間に一体化の感触を伸ばす。白銀の剣は炎の大剣と化した。
 勢いを損なわぬようそのまま身体を回転させ、剣を振るう。耳の側を炎の尻尾がたなびき、風鳴り音が鼓膜を振るわせる。
 回転の間に残りの二頭の位置を確認。
 さらに視線が回り、そこに魔狼がいた。
 ただ黒い巨躯を目指し、炎の塊を叩きつける。
 切る必要はなかった。
 鉄板の上に落とした一滴の水が蒸発する音。
 魔狼は先ほどと同じように炎を吸収しようとする――が、熱量がまるで違っていた。そして、質もまた違う。
 全てを燃やし尽くす神の炎。
 耶麻台の象徴にして真髄。
 ――これが王家の力よ!
「ギャゥ」
 最期の一鳴きを残し、魔狼は炎の中に消えた。
 目の端にその姿を収めながら、背後から迫る二頭へと目標を移す。
 すでに間合いは詰められている。
 一頭は左前から地を這うように、もう一頭は牙をむき出しに右前からはねるようにして襲い掛かってくる。
 かわすのは無理だと瞬時に悟る。
 ――心を細く。
 両手持ちから右の片手持ちに切り替える。左足を軸に、右足を後ろに下げつつ、身体を二度目の回転に誘う。
 魔狼を焼き尽くした勢いを失わぬように剣を――いや、それは剣ではなかった。
 炎はより凝縮され細長く伸びている。
 鞭――火竜の舌のようなそれを伊雅は魔狼に打ち付けた。
 剣よりも速く、捉えにくい軌道。
 しかし、鞭が魔狼を打つことはなかった。
 獣の本能なのか、鞭が襲う一瞬を見切り、地を這う魔狼は飛び上がることで避け、飛び掛ってきていた魔狼はなんと牙ではじいていた。
 人外の反射神経を誇る魔狼を点と線で捉えることは難しい。
 それでも攻撃をくじくことはできた。
 細長く伸びた炎をさらに凝縮し、剣身の部分を薄く覆うように集中する。
 飛び上がった魔狼は伊雅を飛び越え背後へ、鞭を牙で受け止めた魔狼は興奮をあらわにして、伊雅の正面にいた。
 ――これで終わりぞ!
 正面の魔狼との距離はほんの十歩程度。
「うおおおおおっ!」
 気合を吐き、魔狼へと突撃する。
 それに呼応するかのように、魔狼もまた伊雅へと飛び掛り――
 伊雅は牛ほどもある巨躯を正面から見つめ、右足を深く踏み込み、魔狼の口の中へと天の火矛をためらうことなく突き出した。
 同時に剣身に集中させていた炎を解放する。
 肉を貫く感触は一瞬だった。
 炎が魔狼を包む。すぐさま肉は焦げ、鉄のうろこは溶け落ちる。
 ――次!
 身体を反転させ、上段に持ち上げた天の火矛を振り下ろす。
 図ったかのように、伊雅の目線上には魔狼の頭があった。
 鉄のうろこも紙切れ同然。
 どんなものでも噛み切ることができる牙――それが、伊雅に触れることはなかった。



 ――何なのだあやつは!?
 李興は思わず歯軋りした。
 戦術としては間違っていなかったはずだ。
 魔獣の鋭い嗅覚と聴覚によって敵の位置を把握。
 すでに半壊した家屋を挟んで向かい合っている事が分かった瞬間、李興は作戦を立てていた。
 すなわち、風系の左道「烈風」にて家屋を吹き飛ばし、風と家屋の残骸によって足が止まっているところに、魔獣を一気にけしかける。比較的、接近戦の弱い左道士の弱点を補う順当な策であった。
 第一歩からつまずいた。
 烈風は炎によって迎撃されてしまった。
 耶麻台の方術士がいることを想定していなかった自分に舌打ちしつつも、予定通りに魔獣を放つ。さらにとなりにいる二人を促し、左道の詠唱に入る。
 そのうちに風と炎の衝突も収まり、敵の姿を肉眼で捉える事ができた。
 方術士らしきものはいない。不審を抱きつつも、李興は再び烈風を発動させた。
 その瞬間、敵の中のいかにも武人といった様相の男が、剣を振るった。
 炎が飛んでくる。
 こいつが炎の使い手だったのか――方術士でなく、力ある剣の使い手。ある意味、方術士よりもやっかいだ。
 再び炎と風が激突した。
 こうして初期の戦術は頓挫した。
 激突から生じた衝撃に耐えつつ、李興は自分の計算違いを正した。
 力ある剣――その製法や由来によって神剣とも魔剣とも呼ばれる武器はさしてめずらしいものではない。少なくとも左道に関わる者ならば見た事はあるだろう。しかし、これほどの威力を持つ物はほとんど見たことはない。相当名のある剣に違いなかった。
 魔獣十頭ならば勝利は確実と見ていたが、あれだけの強者がいては計算の前提が崩れる。
 ――まずはあの武人を仕留めることに全力を出すべきだ。
 そう決断した李興は二人に指示を送ろうとして――
 嫌な感じがして思わずしゃがみこんだ。
「ぐあっ」
 くぐもった悲鳴。
 声の方向に振り向くと一人が肩を押さえてうずくまっている。肩からは血が流れて――
「ちっ」
 何が起きたか悟った李興は短縮詠唱にて風の結界を張った。結界が李興たち三人を包む。
 結界に何かがぶつかり、地面に落ちた。
「棒手裏剣というやつか」
 明らかに自分たちを狙っていた金属製の武器に目をやる。
 まずい状況だった。
 左道士は接近戦に弱い。それは迷信や誤解ではない。
 一つには装備が貧弱であるということが上げられる。金属製の鎧などを着ると著しく左道の威力を下げてしまうのだ。であるから、左道士は皮製の鎧がせいぜいなのである。
 しかし、それ以上に問題なのが、左道士としての戦い方にある。
 戦闘において左道士は後方からの左道による攻撃に徹する事が多い。前衛は屈強な兵士に任せるという分担が出来上がってしまっているのだ。つまり、接近戦における経験が圧倒的に少ない。
 無論、左道士の中にも接近戦を得意とする者たちもいる。召還主の支配からはずれた魔獣を狩るという任務を負った狩人部隊などはその代表でもあった。
 ――が、我らはあの女のような落ちこぼれではない。
「魔獣を呼び戻すぞ」
 そう毒づきながら、魔狼へと意識の手を伸ばした。
 いったん魔狼を戻し、防御に徹する。
 戦力自体はこちらが上のはずだ。前衛を魔狼に任し、自分たちは後方からの攻撃に徹する。左道士の必勝の形だ。
 急ぎ魔狼を戻そうとして――猛る力の奔流を感じた。
 目をやれば、炎の剣を持った武人が魔狼を二頭続けて切り刻んでいた。
「……何頭やられた?」
「わたしは一頭だ」
「わたしは二頭です」
 ――化け物め!
 魔獣という正真正銘の化け物を使役している者の言ってよい台詞ではなかったが、李興は毒づかずにはいられなかった。
「急いで魔狼を戻せ! 体勢を立て直して一気に叩くぞ!」
 そう告げた李興は魔狼の意識に働きかける。
 ――我のところに来よ!
 李興の指示を受け、肩に棒手裏剣が突き刺さった男も痛みに耐えながら、魔狼を呼び戻す。
 魔狼からの反応は「不満」だった。
 自由に暴れさせろ、と憤激を伝えてくる。
 すでに相当興奮しているらしく、気を抜いてしまえば支配から逃れられてしまう。
 ――我が命に従え!
 さらに言を強め、魔狼を服従させる。
 そして、魔狼が動いた。
 大地を蹴り、主の下に駆け寄ってくる。
 ――これで五分だ。いや、勝てる!
 そう思ったとき、風の結界が衝撃で揺れた。
 続けて何かが投げつけられ、また爆発する。
「炸裂岩か!」
 結界が破れる――
 目の端に黒い影が走った。
 一拍遅れて、胸に感じた激痛。
 胸を見ると、棒手裏剣が深く突き刺さっている。
「何だ? ぐあっ」
 続けて二本の棒手裏剣が刺さり、次の一本がのどに刺さった。
 致命傷。
 天を仰ぐように手を伸ばし、李興はそのまま仰向けに倒れた。
 薄れ行く意識の中、最期に見たのは同じように倒れこんだ二人の左道士の姿であった。



 左道士を倒してからはそれほどの苦労はなかった。
 召還主が死んだからなのだろう。ほんの三呼吸ほどの間だったが、まるで酩酊したかのように足がふらついたのである。
 ほんのわずかな時間。
 伊雅たちにとっては十分な時間であった。
 伊雅自身は手近な二頭を切り伏せ、乱波たちもそれぞれ魔獣を仕留めた――が、魔獣との戦いである。無傷で終わるはずがない。
「何人やられた?」
「三人食われました」
「そうか、――行くぞ」
 今は嘆き悲しんでいる暇はない。たとえ死んだのが苦難を共に乗り越えた仲間であったとしても。
「ハッ」
 朱玲を始め、男たち全員がうなずき、走り始めた。
 ここから里の中央にある避難所までは、燃え続けている長屋をもう一つ越えるだけ。
 ――あともう少しだ。
 焦りと安堵が入り混じった思いが伊雅の中にあふれ――天の火矛が震えた。
 耳をつんざくような破砕音。
 続いて衝撃が長屋を打った。燃え尽きようとしていた柱が折れ、落ちた。
 長屋の角を曲がった伊雅が見たもの。
 それは瓦礫と化した避難所だった。



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