〜戦  雲〜


作・ゴーアル様


 第三話 襲来(その2)



 半刻後、晴れ渡った空の下、九峪の背中は清瑞の冷たい視線に晒されていた。比喩ではなく本当に背筋が寒くなっている。
 完敗だった。
 伊雅の言葉のあと、さっそく訓練が開始された。
 まずは第1戦、九峪にとってはもちろん初めての経験である。中学、高校と水泳をしていたこともあり、チームスポーツの経験はほとんどない。当然、他人を指揮するというのも初体験であった。
 今回、九峪の指揮下には清瑞のほか、10人の男たちが入っていた。年齢は20代後半から30代後半までいる。いずれもが清瑞よりも年長で乱波としての腕、経験も上である。彼らは伊雅から九峪の指揮には素直に従うように命じられていた。その一方で、積極的に九峪に助言することは禁じられていた。もちろん、九峪が助言を求めてきた場合は応じることになっている。
 男たちは九峪が神の遣いであることを知っている。伊雅が九峪を敬っていることも。しかし、彼らも乱波である。清瑞ほど、露骨ではないが、九峪のことを疑ってもいる。彼らも九峪を見極めようとしていた。
 いろいろな思惑はあるにせよ、男たちは九峪の指揮に反することはない。となれば、九峪がどのような指揮を執るかが問題となる。相手側とは戦力の数も質もほぼ同等、指揮官の差がはっきりと出る条件である。
 そして、戦の素人である九峪と百戦錬磨の武人、伊雅との差は明らかだった。
 何も分からない九峪はまず全員の名前を聞いた。名前も知らなければ指揮を執ることなどできはしない。一人一人の名前と顔を一致させる。と、そこまではできたのだが、それから何をすべきかが分からない。
 とりあえず広場の両端にそれぞれが陣取ったところから戦闘は開始された。
「それで、どうする?」
 清瑞が不遜な態度で支持を仰ぐ。と、言われても、九峪には何をやらなければならないのかわからない。
「こちらから動くのか? それとも相手の動きを見るのか? どっちだ?」
「いや、そうだな……、まずは……」
 九峪が迷っている間に、伊雅のほうが動き出した。とくに奇をてらうことなく、真正面からゆっくりと進軍している。伊雅が先頭に立ち、そのあとに男たちが5人ごと横に2列になっていた。
 だんだんと両隊の距離が狭まってくる。
「このままではただ間合いを詰められるだけだ。伊雅様はおそらくもう少し距離を詰めて、あとは一気に突進されるつもりだろう。……とっとと指示を出せ。何もしないうちに負けるぞ」
「わかってる! こちらも前に出るぞ!」
 九峪の指揮に従い、九峪隊が動き出す。伊雅隊と同じように九峪が先頭に立つ。
 今回の訓練は素手での戦いとなっている。もちろん相手への打撃や組討は禁止されていない。
 距離が40歩ほどまで縮まったところで、伊雅隊が突進を始めた。伊雅自身は2列目に下がっている。数は10余人に過ぎない。しかし、先頭にいた九峪にはそれ以上の迫力があるように感じた。思わず足がすくむ。
「ちっ、はやく指示を出せと言っただろう」
 清瑞の声は冷静だった。その冷静さに引きずられるようにして、九峪は正気を取り戻した。九峪の武力などたかが知れている。先頭のままでは簡単に負けてしまう。
「楠名、砺波は前に出てくれ!」
 指揮下にいる男たちの仲でももっとも体格の良い2人に前線を任せる。2人は何の逡巡も見せずに九峪の前に出た。
 その瞬間、伊雅隊が動いた。
 伊雅の両脇を固めていた男たちが、隊の左右に広がった。九峪から見ると、右から3人、4人、3人の部隊に分かれているように見える。
 先手先手を打たれていた。
 相手の動きに九峪のたどたどしい指揮がさらに乱れる。伊雅の意図が見えない。どう対応するべきなのかも分からない。
 その戸惑いは戦闘において致命的だった。
 九峪の前を守る楠名、砺波に伊雅隊の前衛4人が圧力をかける。
 体格に優れる2人と言えども、2対1の状況を作られてはどうしようもない。胸の竹板を守るだけで必死となる。
 2人の動きが封じられたと見るや、左右の部隊が九峪隊の前衛を飛び越して突撃した。部隊の2列目でただの動かぬ的となっていた九峪に襲い掛かる。
 相手は6人、実際に九峪に飛び掛ってきたのは2人だったが、九峪に対応する術があるはずもない。左右からの突撃に九峪の足はすくむ。――何の抵抗もすることもできず、九峪は取り押さえられ、竹板を奪い取られた。
 これが第一戦の経過である。九峪の指揮にはまるで見る物はなかった。
 次の第2戦では、九峪は第1戦の反省を踏まえ作戦を立てた。
 第1戦の敗因は後手に回ってしまったことだと、九峪は考えていた。先の戦闘では伊雅の意志が戦場を支配した。戦闘の変化に柔軟に対応する心構えを持ちながら、相手よりも先に動き、心理的な圧迫をかける。九峪の指揮の迷いも見抜いていたのだろう。九峪が素人であることを知っていれば当然のことだが。
 素人相手に見事なまでの正攻法で戦闘を仕掛けてくる。大人気ないといえばそれまでだが、それだけ真剣に戦闘というものを教えてくれているとも言える。そんな相手に後手に回っては負けるだけだ。――何もすることができずに。
 そこで九峪は相手よりも先に動くことを決めた。かといって、前と同じように動いては結果は変わらない。そこで九峪はゆっくりと広場の周縁を回るようにして、相手との距離を詰めていくことにした。
 さらには前衛の数を5人に増やした。相手との競り合いが始まったときに、対応する時間を稼ぐためである。一瞬で、九峪の懐まで飛び込まれては勝負にならない。
 第2戦が始まった。
 九峪は作戦の通りに広場の右側から近づいていく。ゆっくり、ゆっくりと伊雅隊との間が詰まっていく。
 前衛の男たちの後頭部に何度か遮られながら、相手の動きを探る。伊雅隊は動きを見せない。伊雅が先頭に立ち、じっと九峪隊の動きを見つめていた。
 その姿は九峪にとって見覚えのあるものだった。
 剣術の訓練をしているとき、伊雅はあえて九峪に先手を取らせることがあった。自身は不動の構えで、九峪が間合いの中に入ってくるのを待っている。このとき、九峪はどの訓練のときよりも嫌な雰囲気を味わっていた。恐怖が向かってくるのではなく、自分から恐怖の中に足を踏み込んでいく感じ。一歩、踏み込むことにどうしようもない恐怖を感じる。
 そして、いざ九峪が間合いを詰めると、鋭く重い一撃が九峪を迎える。この一週間で何度弾き飛ばされたか分からない。
 今、伊雅が動かないのも狙いは同じだ。
 九峪はその訓練でいくつかのことを学んでいた。伊雅の不動の構えを崩す。九峪が思うには方法は二つしかない。一つは伊雅の攻撃に耐えて、攻撃のあとに生じる隙をつくこと。もう一つは、伊雅よりも速く重い一撃をお見舞いすること。
 剣術の訓練と同じように追い詰められていく中、九峪は後者を選んだ。剣術の訓練のときならば、絶対に成功することはない。作戦に九峪の力量が伴わないためだ。しかし、現状では九峪の武力は大きな問題とはならない。直接戦うのは九峪を囲む男たちだからだ。
 あとは突撃の号令をかける機会を見誤らないこと。
 九峪が自分の考えを確かめている間にも、両隊の距離はさらに詰まってきた。
 胸がつっぱるような感じがした。
 一度、深く息を吐き、心を落ち着ける。
 目で伊雅隊との距離を測る。まだ100歩ほどの距離があった。
 ザッザッという足音が一定のリズムで九峪の耳に入った。周りの男たちの足音はしない。5歩進むたびに1回という割合で前衛の男の後頭部が伊雅の姿を隠す。
 伊雅の自信にあふれた頑強な身体が消えるたびにホッとし、また目に入ると身体がこわばる。九峪の身長は同年齢の平均身長を数センチ上回っている程度。九峪の知る古代では大男と言っても良い背丈のはずだが、周りの人間もなかなかに背が高い。前衛の男の後頭部が伊雅との間を遮る盾となる。それでも、決断の時期が迫ってきた。
 両隊の距離が50歩に縮まる。第1戦ではこの距離から一気に間合いを詰められた。これが伊雅の攻撃の間合いのはずだ。
 鋭い一撃を伊雅の間合いの外から放つ。
 ――突撃するのは今だ。
 と、男の後頭部が伊雅の姿を隠した。
 そして、再び偉丈夫の姿が現れたとき――伊雅は突撃を始めていた。
 九峪はまた後手に回ってしまった。あわてて突撃の命令を下す。
 両隊の距離が一気に詰まり、前衛同士がぶつかった。
 第1戦とほぼ同じ状況。しかし前衛を厚くしていたため、今回は一気に抜かれるようなことはない。そのことが九峪を安心させた。
 ――まだ負けたわけじゃない。
 最初の突撃では先手を取られた。ならば、次の一手を先に打てばいい。
 肉体と肉体がぶつかる鈍い音を耳にしながら、九峪はとなりにいる清瑞に指示を出す。
「清瑞、みんな、回りこんでくれ!」
 チラッと神の遣いを見たあと、清瑞は前衛の右を回って伊雅へと向かおうとする。九峪の側にいた男たちも無愛想な女乱波に続く。前衛が伊雅隊の攻撃に耐えている間に、伊雅への攻撃が成功すれば勝ち。
 目の前で繰り広げられる男たちの激しい戦いに九峪の心拍数は急激に上昇する。冷静に戦闘を見ることなどできるわけもない。
 それでも何とか清瑞の攻撃はどうなったかと目線をずらす。その瞬間、九峪は身体を押され倒れこんでしまった。不自由な体勢ながらも受身を取り、飛びついた相手に反撃を試みる。――上に乗りかかられては大した抵抗もできなかった。
 竹板を吊るしていた紐が首からはずされ、九峪隊の連敗が決定した。
 九峪には何が起こったのか分からなかった。
 最初は前衛を突破した人間に組み付かれたのかと思った。
 しかし、違っていた。
 戦闘後の伊雅の解説によると、伊雅は突撃を開始する前から前衛以外の男に命令を出していた。「前衛がぶつかった後、合図と共に前衛の横を回りこんで九峪の竹板を奪え」という命令だった。
 前衛がぶつかり、両隊の勢いが失われたところを見計らい、伊雅が手で合図を出す。4人の男たちが2組に別れ、左右から回り込む。九峪を取り押さえたのは右――九峪から見れば左――から回り込んだ部隊だった。
 では清瑞たちは何をしていたのか?
 攻撃へと手をかけた分、伊雅の防備は丸裸となっている。伊雅から竹板を奪うことは十分に可能だったはずだ。
 しかし清瑞たちは同じく回り込もうとしていた伊雅隊の男2人と鉢合わせしていた。数は清瑞たちのほうが圧倒的に上回っている。それでも突破はできなかった。伊雅隊の2人が足止めに徹したからである。2人の竹板を奪った時には、すでに九峪は竹板を奪われていた。
 2戦続けての完敗。百戦錬磨の武将が相手だったのだ。素人の九峪が勝てるはずもない。負けてもともとなのだ。それでも九峪は周りの目が気になった。
 神の遣い。
 その言葉が九峪の自意識を過剰なものにしていた。
 神の遣いという割には大したことないじゃないか、そんな声が聞こえてくるような気がするのだ。
 とくに九峪の後ろにいる女乱波は自意識過剰ではなく、はっきりと疑いの目を向けている。
 冷たい視線を背中に感じながら、九峪は広場の端にある岩の上で休憩を取っていた。横には桔梗から渡された弁当を置いている。まだ広げられてはいない。そばにある木が日を遮り、日傘代わりとなっている。風は緩やかに吹いていて汗に湿った服をなでる。
 伊雅や男たちは少し離れた場所で座って昼食をとっている。九峪としては一人になって考えたかったのだが、職務には忠実な女乱波は無言でついて来た。離れいてほしいと言っても聞きはしないに決まっている。あきらめて無視するほかなかった。
 ――なんで、こんなことしてんだろ?
 今さらながらにそんな思いに取り付かれる。
 出発前、キョウや伊雅が言っていたように、今回の訓練は九峪にとってあまり意味のあるものではない。
 キョウ曰く、神の遣いとは耶麻台国復興への象徴である。
 神々は九洲の民を見捨てておらず救いの手を伸ばしてくれた、そのことを表しているのだ。神の遣いの存在は在りし日の耶麻台国を偲ぶ民の心の支えとなる。つまり九峪は『存在』することだけに意味がある。危険を伴う戦場での部隊指揮などやらせてもらえるはずもない。そんな覚悟もありはしない。
 復興に向けての実務を引き受けるのは伊雅だ。百戦錬磨の武人であり、王族として政務にも通じている。その上、人望も厚い。狗根国に抵抗する体制作りから、戦場での駆け引きまで真に中心となるのは伊雅と言ってよい。
 希望の象徴としての九峪を経験豊富な耶麻台国副王が支える。そして実権は伊雅が持つ。これがキョウの考える基本的な復興構想なのだろう。
 であれば今回の訓練はむしろ害のほうが多い。
 指揮振りに見るべきところはなく、評価をどんどんと下げているからだ。
 もともと神の遣いとしての信頼は天魔鏡の精であるキョウの言葉、そして耶麻台国副王である伊雅の丁寧な態度によって担保されていた。九峪に貴人としての威風があるわけではない。しかし今回の調子では、担保ではなく依存になってしまう。それは九峪にとって悔しいことだった。
 ――朝、誘われたときに断っておくべきだったかな?
 剣術の訓練においても九峪は伊雅に打ちのめされている。それでも剣術の訓練には意味があった。九峪もまだ頭で理解しているに過ぎないのだが、復興運動が勢いを増せば、狗根国にとってはやっかいなこととなる。まだ被害の少ないうちに鎮圧しようとするだろう。もっとも効果的な手段は頭を狙うこと。頭とは伊雅であり九峪である。護身術としても十分な価値があるのだ。
 今回の訓練には意味がない。しかし一度はじめた以上やめるわけにはいかない。止めてしまえば、それは――負けだ。
 強い風が吹いた。頭上の枝が揺れる。ザワッという音がして、木の葉が1枚落ちてきた。ゆらゆらと揺れながら九峪の肩に落ち着く。
 懐に気配を感じた。
「どうしたのさ、九峪?」
 キョウが出てきた。この鏡の精は戦闘の最中は空に浮かんで全体を眺めていた。それが終わると鏡の中に戻って休息を取っていたのだった。
「まだ弁当も広げてないみたいだけどさ。昼も訓練やるんだし、食べとかないと身体が持たないよ」
「……ああ、そうだな。食べるよ。――ほらっ、おまえの分」
 並べておいてあった竹の葉で包まれた弁当の一つをキョウへと手渡す。九峪も縛ってある紐を解き、竹の葉を広げた。おにぎりが3つと鶏肉の燻製が2つ入っていた。
 グゥッと腹が鳴る。九峪は自分が空腹だったことに気づいた。
「ちょっと塩が濃いけど、おいしい♪」
 キョウの幸せそうな声。横を見ると、鏡の精はすでにおにぎりを1つ平らげていた。九峪はおにぎりを1つ手に取り、口に入れ噛む。キョウの言うとおり、塩加減は少し濃い目であったが、汗をかいた身体にはちょうど良い濃さだ。もう一口食べる。
「それで、九峪、どうしたのさ? 何か考え込んでたみたいだけど」
 ころあいを見計らってキョウが話しかけてきた。
 チラッと後ろを振り返る。女乱波は相変わらず、九峪を見ていた。
「……完敗だったからな。敗因を考えてたんだよ」
「ふ〜ん、でも相手は伊雅なんだから負けて当然じゃないか。勝てるほうがおかしいんじゃない?」
「そんなことは分かってるよ」
 竹筒の栓を抜き、グィッと水を飲む。
「勝てると思っていたわけじゃない。でも、一矢報いたかったんだよ」
 悔しげな表情のまま、手の甲で唇をぬぐう。
 そんな九峪をキョウは不思議そうに見つめる。相手は苦境だけが続く防衛戦のなか指揮を執り続けた武将である。負けても悔しがる必要ないのだ。
「まあ、さっきの戦闘じゃあまるでいいところがなかったしねえ」
「おまえ、上から見てたんだろ。何か気づかなかったか?」
「う〜ん、ぼくに分かるのは伊雅の部隊のほうが迷いもなかったし、統制も取れてたってくらいかなあ。でも、それは伊雅のほうが経験があるからだろうし、経験の差っていうのは一朝一夕で詰められるものじゃないよ。ましてや昼休みの間に何とかなるものでもないさ」
「だからって、このままじゃあ3戦目も何もできずに負けるだけだ」
 九峪はギュッとこぶしを握り締めた。
「ぼくも専門家じゃないし、何が悪いのか分からないし、――こういうときは専門家を頼るべきなんじゃない?」
 キョウは意味ありげな視線を九峪に送る。その意味は明らかだ。
 九峪は背中を曲げ、気だるそうに後ろを振り向く。
 冷たい視線が彼を迎えた。
 くじけそうになる気持ちを抑えながら、身体ごと女乱波のほうへ向ける。
 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。
 キョウの言葉はたしかに正しい。自分の欠点を知らなければ、改善することもできないのだから。
「清瑞、教えてくれないか? どこが悪かったんだ? 頼む、教えてくれ」
 九峪は清瑞に向かって頭を下げた。
 清瑞の表情がわずかに動く。しかしそれも一瞬のことで、
「……神の遣いが頭を下げるとはな。ただでさえ風格がないというのに」
 冷たい声で九峪をあざける。その声に九峪はピクッと肩を動かしたが、頭は上げなかった。
「まあいい。伊雅様から補佐をするよう命じられているし、いくつか教えてやる。――ただ、その前に一つ聴きたいことがある」
「何だ?」
 九峪は顔を上げた。
「さっき、勝てるとは思っていなかったと言ったな」
「……ああ、言ったと思う」
「ではおまえが勝つことは絶対にないな」
 はっきりと断定した口調。可能性すら否定する言葉に九峪は反駁する。
「どういうことだ?」
「最初からあきらめているのにどうして勝つことができる? 一矢報いるとも言っていたが、それは最初から負けを認めているということだろう?」
 清瑞の指摘に、九峪は返す言葉もない。弱気になっていたのは事実なのだから。
「力量の差を認めることと負けを認めることは違う。――今、狗根国は絶大な力を誇っている。我々との力の差は歴然としたものだ。おまえは負けると思いながら、みなを復興に導くつもりなのか?」
 相手に負けない気力があれば戦いには必ず勝てる、そんな精神論を言っているのではない。圧倒的な力があるからと言って、最初から勝利をあきらめていては何もできはしない。
 女乱波の口調は強いものではない。ただ淡々と事実を述べ、九峪の心構えを問うている。
「それは……」
 強い視線。口調とは裏腹な強い光。口先でごまかせるものではない。
 ――自分はなぜこの訓練を受けているのか?
 先ほどと同じ問いが九峪の心を占める。
 いや、この訓練だけではない。剣術の訓練でも同じことだ。一週間毎日、身体にあざを作りながら鍛えている。
 しっかりと腰を落とした構えを取り、下段に剣を構える伊雅の姿。刀を弾かれる後の手の震え。投げられる瞬間の天地が逆転する感じ。受身で殺しきれない衝撃。目を開けた瞬間の青空――よみがえる訓練の光景。
 伊雅に訓練を頼んだきっかけは目の前にいる女乱波に殺されそうになったから。隠れ里――音谷の里を初めて訪れたときに、のど元に刃物を突きつけられた恐怖は忘れようがない。ただ、それはきっかけにすぎない。思い立ったときの理由と継続する理由は違う。
 右の二の腕をさする。昨日の訓練で打たれた痛みがまだ残っている。
 ――そう、痛む。
 訓練で腕が震え、足がなえ、痛みを感じる度に深まってきた思い――この世界が夢ではなく、現実なのだという実感。
 この世界を嘘だという思いが強がりに変わり、いつの間にか認めていた。
 そして、不安になった。
 桔梗の料理、子供たちの笑顔。
 何もかもが現実感を備えていく中で、自身の存在感は消えていく。妙な肩書きが増えた一方で、それまでの九峪を知る者はいない。本当に新しい世界。
 そして、伊雅のすごさ。
 キョウから聞いた話によると、伊雅は兄王からの信頼も厚い人物だったという。今から15年前というと30歳前後だっただろう。有能であり周囲からの信望も厚い人物。
 苦労もあるが充実している、そんな生活をしていたに違いない。
 その生活も続きはしなかった。
 狗根国の侵攻、首都の陥落――それまでとは違う、当てのない生活。きっと全てが変わったはず。それは新しい世界と言ってもよいのではないだろうか。
 新しい世界――家族が死に仲間がいなくなった世界で生きてきて、今も自分の夢、使命のために戦っている。
 すごいと思った。
 同じことが自分にできるのか。
 当てのない世界の中で、一つの目標となっていた。
 それを見失いかけていた。
「……たしかに弱気になっていたみたいだな。悪い」
 九峪は右手を見ながら、開いたり握ったりを何度か繰り返す。
「最初から勝つことを諦めてたら、何も学べないもんな」
 ギュッと拳を握り締めた。
 本音を見極めるようにじっと見ていた清瑞は、
「……まあいい。本当に分かったのかどうかはすぐに分かるからな」
 と皮肉げに言ったが、九峪に動じる様子はない。
「それで玄人(くろうと)の目から見てさっきの模擬戦はどうだった?」
 問いかける男の目は真剣だ。先ほどの弱気は影を薄め、変わりに何かを追い求めるような意思が満ちてきている。女乱波は男の視線にどこか気おされるものを感じ、それを打ち消すように冷たい声で話し始めた。
「第1戦については言うべきことは何もない。ただの集団と部隊との違いだ」
「集団と部隊?」
「集団とはただ人が集まっただけのもの。そうだな?」
「ああ、そうだろうな」
「一方、部隊というのは目的達成のために各々が明確な役割を持ち、指揮をする者が定まっている集団のことだ。――統一された意思もなく、自分の役割も分かっていない群集が、統一された意思を持ち一匹の獣となった部隊に勝てるはずがないだろう」
 模擬戦での九峪隊では指揮官は定まっていた。しかし隊の一人一人の役割は決まっていなかった。せいぜいが前衛と後衛の区別をしている程度。前衛は突破を目指すのか、それとも防衛を目的とするのかも決まってはいなかった。それでは戦いにすらなりはしない。
「明確な役割か……」
「まあ、いきなり細かな役割分担を考えるのは無理かもしれない。ならば、まず優先順位をつけることだ。絶対にしなければならないこと、絶対にしてはいけないことをはっきりさせておけば、各々が迷いのない努力をすることができる。それが大事なのだ」
「なるほどな」
 指揮とは指図して人々を動かすことである。さらに、指図とは言いつけて仕事などをさせることである。つまり指揮とは仕事を与えることで人々を動かすということになる。
 九峪にはその基本ができていなかった。
「それから第2戦のことだが、おまえは伊雅様より早く先手を打とうとしたな?」
「ああ、そうしなきゃ第1戦の二の舞だと思ったからな」
 第1戦と同じことをしていては勝てない。相手よりも先に動こうとした判断には間違いがないはずだった。しかし、清瑞は一本芯の通ったようなきれいな立ち姿を崩さず、九峪の失点を指摘し続ける。
「待っていては負ける。その考えにそれほどの間違いはない。しかし、おまえは第2戦においても先手は取れていなかった」
「なに?」
 第2戦では九峪がまず部隊を動かした。突撃の場面ではたしかに伊雅に先手を取られはした。しかし、戦況を先に動かしたのは九峪だったはずだ。
「あのとき伊雅様はどんな攻撃にも対応できる陣形を作り上げていた。おまえの指揮ではどうやろうとも突破できない陣形をだ。伊雅様としてはあとは相手が近づいてくるのを待つだけでよかった。――つまり伊雅様は状況作りにおいて先手を取っていたのだ」
 第1戦、第2戦ともに伊雅は万全の体制を敷いていた。どちらも本質的な状況においては違いはなかったのだった。
「分かるか? 伊雅様は2戦ともに戦場を支配されておられたのだ」
 清瑞の口調に変わりはない。それでもどこか熱いものが混じっていたような気がした。
「たしかに……たしかにそうなんだろうな。あのままじゃ勝てないわけだ。それは納得した。――じゃあ、どうやったら勝てる?」
 疑問の声。女乱波に向けられたものではない。キョウに向けられたものでもない。自分自身に問うたものだ。
「今回の模擬戦の勝利の形ははっきりしている。どちらかの大将の竹板が取られたら負け、取ったら勝ち。ただそれだけ。ただし、相手は強い。どうしたらいい?」
 自問自答。その問いに対する答えは九峪の中にはない。戦記小説やゲームでは作戦は分かる。たとえば長篠の合戦。この日本史上において有名な合戦では、織田信長は鉄砲の3段撃ちという画期的な戦術を行使した。そこまでは歴史が好きな人物ならばだれでも知っている。しかし、どのようにして戦場を決定し、武田軍を突撃させたのかは分からない。――答えは九峪の中にはないのだ。
 一度まばたきし、視線を上げる。考えても分からなければ、人に聞く。先ほど学んだことだった。
「ヒント……っじゃなくて、なんていうか、手がかりっていうか、そういうのを教えてくれないか?」
 支離滅裂に思えるような言葉。清瑞は少し戸惑っていた。思えば、だれかに教えを請われることなど初めての経験であった。
「……伊雅様はまず負けないための体制を作り上げ、その上で相手を圧倒する戦法を取っておられる」
「ああ」
「先にも言ったとおり、万全の状態の相手にぶつかっていっては勝ち目は薄い。つまり、ここで考えなければならないのは万全の状態と言うものを壊してしまうことだ」
「壊す?」
「そう『崩し』だ」
 相変わらずの平坦な口調。にもかかわらず清瑞は、少し、楽しんでいた。他人である九峪はもちろん、本人も気づかない気持ち。本当にほんの少しの気持ち。
 清瑞の説明は続く。
 また強い風が吹いた。木々がざわめき、こぼれた光が地面に届く。
 キョウはふたりを見守るようにゆっくりと漂っていた。





 第3戦が始まった。
 両者の最初の布陣は第1戦、第2戦と変わらず、広場の両端にそれぞれ陣取っている。違うところといえば、九峪が完全に隊の後ろに下がっているところだ。九峪から伊雅は見えず、当然、伊雅も九峪の姿を捉えることはできない。
 開始の合図が鳴っても、両隊とも動きはない。
 この第3戦、伊雅は決して油断していなかった。
 先ほどの昼食のとき、九峪と清瑞が話し合っていたところをしっかりと見ていた。話の内容は容易に推察できた。九峪が清瑞に模擬戦のことで意見を聞いていたはすだ。あの青年にはそういう素直さがある。だからこそ、相手がじっと動かないことが不可解だった。
 伊雅はこれまでと同じように先頭に立ち、九峪隊を眺めていた。
 このままの状態で伊雅が近づいていけば第1戦の繰り返し。第2戦の伊雅隊をまねしての不動の構えというのも考えにくい。九峪はなかなか筋が良いが、後の先――相手に先に仕掛けさせておいて、相手の体制の崩れたところを狙い撃つ――は荷が重い。相手の攻撃の先を読み、冷静に対処することができるだけの経験をまだしていないからだ。
 となれば、九峪の採るべき策は限られてくる。
 ――動けば分かるか。おそらくこちらが動くと同時に行動を開始するはず。
 伊雅は手を挙げ、前に振り下ろし、前進を命じた。
 合図と共に動き始め、5歩進んだところで、九峪隊が動きを見せた。
 伊雅隊へと向かって着たのではない。
 いっせいに後ろの林の中へと下がっていったのだった。
 肩まで腕を挙げ、全員に停止を命じる。
「九峪様も考えられましたな」
 伊雅隊の副官となっている朱玲が伊雅に声をかけた。
「この広場を戦場とする以上、勝ち目が薄いと考えられたのでしょう。先手を打って戦場を林の中へと移すことで主導権を握るつもりですな」
「で、あろうな。林の中ならば待ち伏せも容易、罠を仕掛けることもできる」
「発案は九峪様ですかな。それとも……」
「どうであろうな。清瑞ならば思いつくではあろうが、九峪様も不思議な方であるからな」
 伊雅にとってはどちらも生徒のようなものである。とくに清瑞は10年以上ともに過ごし、自分の得たことを伝えてきたつもりである。九峪隊のこの動きについても関わっていないはずがない。
「それで、どうなさいますか? あえて誘いに乗らずとも良いとは思いますが」
「まあ、広場の中央で構えておけば負けることはあるまいがな。それではおもしろくあるまい」
「では、動かれますか」
「うむ。しかし、相手が入ったところから林に侵入するのは危険だ。ここはいったん左折し、林に入ってからじっくりと追い詰めさせてもらおう」
 伊雅は部下のほうへと振り返り、これからの方針を説明した。部下は全員、乱波である。もともと何もない平原での戦いよりは障害物がある中での戦いを得意としている者ばかりだ。事態の変化についても困惑している者はいない。
 簡単な説明がなされた後、伊雅隊は行動を始め、林の中へと入っていった。


 ――とりあえずは上手くいったな。
 九峪は伊雅隊が林に入ったとの報告を受け、ひとまず安堵のため息をついた。そのまま、まっすぐ林の中に入ってきてくれなかったことは残念だったが、誘いに乗ってくれずに広場の真ん中で待ち構えられるよりははるかにましだ。
 あとはどうやって勝利の形にまで持っていくかが勝負の分かれ目となる。
 九峪は周りにいる男たちの顔を見回した。女乱波の姿は見えない。
「伊雅隊は右に向かって林に入ったんだよな」
「はい。だれかを残すこともなく、全員入りました」
「よし、じゃあ、おれたちももう少し相手のほうに近づいてから、木陰に入り待ち伏せをしよう。常に2対1の状況を作れるように隠れること。相手の不意をつける自信があるときは思い切って動いてくれ。――この中で、機敏さに自信があるふたり、手を上げてくれないかな」
 すぐにふたりの手が挙がった。
「ふたりには音を立てながら動いて、相手の目と耳を引き付けてほしい」
「罠に引きずり込もうというのですか。……作戦としてはよろしいと思いますが、相手は伊雅様です。こちらの手の内は見抜かれるでしょう」
 先の戦いで前衛を任せた楠名が声をかけてきた。この男、人並みはずれて大きな身体を持ちながら、極めて繊細な一面を持っている。清瑞のいない今、彼が九峪の副官を務めていた。
「わざと音を立ててしまえば、逆に待ち伏せが近いという心構えをさせてしまうのでは?」
「たしかにそうだけど、相手は慎重になればなるほど動きは遅くなる。この場合、目的は時間稼ぎなんだ。……まあ、清瑞の受け売りなんだけどな」
 九峪は笑った。
 受け売りだと言って、苦笑ではなく笑顔を浮かべている。男たちは驚いた。そんな男は見たことがなかった。
「さあ、急いで動くぞ。雑談で時間をつぶして負けたなんて、笑い話にもならないからな」
「分かりました」
 楠名をはじめ一同、九峪に礼をして動き出す。
 駆け引きが始まった。


 ――伊雅様は必ず不動の構えをとってくる。
 清瑞はそう断言した。


 伊雅隊は適度な間隔を開け、林の中をゆっくりと進んでいた。
 林の中は日の光が届かず、草や小さな木は育たない。しかし、足元は落ち葉で敷き詰められており、木々で視界は悪い。相手を視認できない状況は攻める側にとっては明らかに不利だ。
 それでも伊雅隊は必要以上に慎重になることなく歩を進める。
 相手に時間を与えてはさらに不利になるだけ――伊雅は先陣が襲われた場合もすぐに援護できる陣を作り上げていた。伊雅自身は後陣から指揮を執る。
 誰かが隠れていないかを確かめ、木々を掻き分ける。
 ザワザワッ
 全員が音のした方向へと顔を向けた。
 風の音ではない。たしかに人が落ち葉を踏みしめた音。――そこにはだれもいない。
 ザワッ
 違う方向でまたはっきりとした音が聞こえた。
 また全員の顔が動く。
「全員、静かに」
 伊雅が落ち着いた声で命令する。乱波は体内に命令についての特別な回路を持っている。命令があればそれだけで感情を切り替えることができる。男たちは皆、動きを止め、音を聞き分けようと耳をすませた。
 耳障りな音は同じ場所からはしない。右でしたかと思えば左。
 相手は乱波として修行をしてきた者たちである。大きな音を立てて歩くことなどありえない。わざと音を立てているとしか考えられない。
 法則性がないわけではなかった。
 バラバラに動いているように見えながら、その実、一定の方向――林の奥のほうへと移動している。伊雅にはそれは分かった。
 ――罠に引き込もうというのか。
 相手の動きを見ていれば、その思惑は明らかであるように思える。
 たとえば今、動いている相手はこちらの耳を引き付ける係りで、ほかの面々がこの場を取り囲んでいるかもしれない。ゆっくりと周囲の木々を見回した。
 日は葉枝に隠れ、薄暗く、木の影に人の姿を見ようと思えば見えないこともない。
 ――先手を取られると、やはりきついものだな。
 ここで待つのもひとつの手ではあるが、主導権を取り返すことはできないだろう。ならば、相手の誘いに乗り、罠を噛み砕くべきだ。
「伊雅様」
 側にいた朱玲が小声で話しかけてきた。
「動かぬわけにはいかんな。――朱玲、先陣を率いてくれ。後陣はわたしが率いる。先陣と後陣は10歩ほどの距離をあけておく。どちらかが襲われたときに救援をしやすくするためだ。おそらく相手はわたしのいる後陣に仕掛けてくるだろうが。――皆の者もよいな」
「はっ」
 伊雅の命令どおり、朱玲が先陣をまとめ先発し、伊雅も少し遅れて出発した。
 罠も分かってしまえば、対処は可能だ。


 ――武術においてもっとも重要な技術のひとつに『崩し』がある。人間、二本の足がしっかりと地面についていれば、大概のことには対応できる。それが武の達人ならなおのことだ。つまり、こちらが必殺の一撃を放ったとしても、それが必殺とはならない。だから、相手を動かし、隙を作ることが必要となる。もちろん、武術の話がそのまま戦術の話に当てはまるわけではないが、概念としては通用する。


 相手が動き始めた。その動きに迷いはなく、的確に木々の裏を探り進行する。
 わざと音を立てる作戦は半分はずれた格好になってしまった。時間を稼ぐことはできたが、逆に相手に覚悟を決めさせてしまった。
 ――さすがに伊雅のおっさんだよなあ。
 今度は九峪隊の判断が試される番だ。
 相手は「おまえたちの意図など分かっている。来るなら来い」と強行に出て、圧迫をかけてきている。ここで判断に迷うことになれば心理的な負けになってしまう。そうなれば今度は本当の負けが来る。
 九峪は大きく息を吐いた。背中で寄りかかっている木の感触。その表皮は暖かいとも冷たいとも言えない。
 ――九峪様、相手は先陣と後陣に分かれ、伊雅様は後陣におられます。両陣は十歩ほど離れております。どちらに攻撃をしかけますか? 先陣ならば指1本、後陣ならば指2本でお願いいたします。
 側にはだれもいない。それでも九峪の鼓膜はだれかの声で強く震えていた。
 木霊の術――乱波の術の一つである。声を操る術であり、だれもいないところから声を出させたり、自分の声を特定の相手だけに届けることができる。
 この術のことを九峪が教えてもらったのは第3戦が始まる前のことだった。短いなりに乱波の里に暮らしながら、これまで忍法のことが頭に浮かばなかったことは、九峪に夢がなかったのか、それとも思っていたよりも常識があったのか、どちらかは分からない。ただ、彼らが術のことを教えなかったのは当然だろう。
 乱波たるもの、手の内を明かすようなことはしてはならない。
 その乱波から術を教えてもらったということは、九峪にとっては誇るべきことだ。――たとえ、ためしに木霊の術で語りかけられて、なんとも言えない薄気味悪さから、奇妙な悲鳴を上げてしまい、大笑いされてしまったとしても。
 それはともかく、この術があれば相手に気づかれることなく意思の伝達ができる。ただ、九峪は木霊の術は使えない。そこで、指の数で指示が出せるようにしたのであった。
 その木霊の術で、もたらされた報告は九峪の決断を求めるものだった。
 奇襲としての効果を考えるなら、後陣を狙うべきである。
 仮に先陣を襲ったとして、たしかに先陣は攻撃を受けて間違いなく混乱するだろう。しかし、10歩後ろには後陣が控えている。後陣にとっては予想通りの攻撃である。不意打ちにはならない。すぐさま先陣の救援に駆けつけ、その結果、先陣も混乱を収集してしまうだろう。それでは意味がない。
 後陣を襲うのが奇襲の本道ということになる。
 ただし、それは待ち伏せが先陣に気取られなければという条件が付いていた。わざと音を立て敵の注目を引き付けつつ、誘っているとはいえ、先陣が待ち伏せに気づく可能性は高い。そして、この後の展開を考えるなら――
 九峪は決断した。手を肩のところまで挙げる。その手には――人さし指が立てられていた。
 

 ――伊雅様の構えを崩す。さて、どうする?
 ――おまえの言いたいことはわかったけど、どちらにしろこの広場じゃ勝てないだろう。
 ――そうだな。
 ――……そうか! 戦う場所を林の中に移してしまえば、主導権が取れる!
 ――それが答えのひとつ。しかし、それだけでは勝てない。我らもそうだが、相手は山を庭として育ってきた者たち。そして、指揮を執るのは伊雅様だ。


 先陣の5人がゆっくりと進む。
 静かな林の中で、相変わらず落ち葉を踏む音は騒々しく聞こえていた。音だけではない。何度か相手の姿を捉えていた。しかし、相手を追いかけるわけにはいかない。
 足音を立てていたのは、里の中でも機敏さで売っているふたりであった。うかつに追いかけては罠にかかるだけ。追いかけたくなる感情を制御し、冷静に待ち伏せの有無を確認する。静けさの中での戦いだった。
 そんな単調だが、神経を使う作業を繰り返していると、前方で聞こえていた足音がふいに止まった。
 先陣の男たちは足を止め、周囲の気配を探る。
 ザザザザッ
 右手のほうで大きな足音が聞こえた。瞬間、男たちの知覚が音のほうへと集中する。
 ――そのときだった。
 音もなく、上から大きな何かが降ってくる――奇襲だった。
 相手は木の上によじ登って、待ち伏せをしていたのだ。
 男たちはすぐさま対応しようとする。しかし、足音に気をとられた一瞬は致命的な長さだった。
 相手は明らかに組み付こうとして飛び降りてくる。自分より体重が軽い者であっても、高所から飛び掛られては耐えることは難しい。男たちは身をかわそうとするが、相手の落ちてくる速度がそれを阻む。
 結局、組み付かれずにすんだのは、朱玲ともう一人だけだった。
 ほかの3人は地面に組み伏せられ、竹板を守ろうと必死になっている。そのままでは竹板を奪われるのも時間の問題だろう。かといって、助けに行く余裕は朱玲にはない。
 朱玲もまた相手に囲まれているのである。
 後ろに回り込もうとする相手をけん制しながら、右手から飛び掛ろうとする相手にも警戒しなければならない。
 この模擬戦は相手を殺すことを目的としていない。竹板を取られれば戦死扱いとなるだけだ。しかも、素手での戦い。2対1の状況は負けと同義である。一人が飛び掛り、相手の動きを封じてしまえば、もう一人が簡単に竹板を奪うことができるからである。
 つまり、朱玲にとって現状は極めて厳しい。しかし、望みをなくしてはいなかった。
「オォー!」
 大きな声が背後から迫っていた。伊雅の率いる後陣である。
 後陣の男たちは全員、相手の意識を自分たちに向けるために大声を上げていた。そのまま救援に向かう。相手の近くまで迫っても、速度を落とすことなく飛び掛っていく。
 後陣が奇襲に気づき、先陣に飛びつくまで10秒程度。その間に、先陣は2人が竹板を奪われていた。しかし、後陣が救援に駆けつけたことで数は互角。十分に戦える。――いや、十分どころではなかった。
 伊雅は九峪の姿が見えないことに気づいていた。考えてみれば、九峪に木の上からの奇襲などというまねができるはずもない。
 九峪隊は指揮官がいないままに戦っている。一方、伊雅隊は当然のごとく、伊雅が指揮を執っている。この差は大きかった。
「朱玲、もうしばらく、そやつらを引き付けておけ」
「はっ」
 伊雅は指揮官として全体を見回し、的確に声をかけて部隊としての統制を取っている。部下は自分の役割を認識し、勝利への手順を確認することができた。
 個としては互角であっても、集団としての力の差は歴然――第1戦、第2戦と同じ状況が再び生まれようとしていた。
 九峪隊の比較的小柄な男がひとり飛び掛ってきた。足音で伊雅隊を混乱させようとしていた男である。
 相手の動きは鋭く機敏であった。
 身を沈め、大地から飛び立つように、懐へと飛び込んでくる。そのまま手を伸ばす。その手は伊雅の竹板を狙っていた。
 あと少しで竹板に手がかかろうとした瞬間、男は吹き飛んだ。
 伊雅は手を少し前に突き出していた。
 男が踏み込んだ瞬間に、伊雅もまた大きく一歩踏み出していたのだ。正面からの衝突であれば、体重の重い者が勝つのが自然の理。しかも、伊雅の手には相手の竹板が握られていた。この武人は手も器用なようである。
 伊雅本人の活躍もあり、形勢は一気に伊雅隊へと傾いた。
 一人、また一人と九峪隊の竹板が奪われる。
 このまま伊雅隊の勝利へとなだれ込むかと思われたそのとき、
「全員退却ー!!」
 それまで姿を見せなかった九峪が木の陰から出てきて、部隊へと命令を下した。戦闘の行われている場所から40歩は離れている場所に立っている。
 その声に九峪隊の面々は従い、九峪のほうへと逃げ始めた。数は6人。奇襲をかけたときには10人――半数近くを討ち取ったということになる。
「朱玲、追撃するぞ。ここで逃がしてはまた面倒なことになる」
「分かりました」
 伊雅の声に、朱玲は先頭をきって、逃げる九峪隊を追い始めた。伊雅もその後に続く。
 動ける者たちが去った後には、竹板を奪われ戦死扱いになった者たちが死んだ振りを続けていた。
 ――逃がしはしない。一気に追い詰める。
 追撃する伊雅の顔は真剣だった。
 ここで追撃しきれず、見失うようなことがあってはまた待ち伏せをされる可能性もある。無論、九峪隊は伊雅隊以上に戦力を減じており、先ほどと同じ攻撃力は期待できないだろう。伊雅隊の優位は変わらない。
 しかし、第1戦、第2戦とは違い、今回は伊雅自らが拳を交えている。結果としては撃退することができたが、そこまでくればあとは確率の問題であるとも言える。伊雅が何か失敗してしまえば、竹板を奪われてしまうのである。だから、相手に体勢を立て直す時間を与えるわけに行かないのだ。
 九峪の姿はすでに捉えている。いささか距離はあるが、追いつけない距離ではない。
 このまま勝利に持ち込むことは可能だ。
 しっかりと前を見据え、走り、相手を追い詰めていく。
 ふと、気づいた。
 ――自分は真剣になっている。
 相手はこのような戦闘には素人であるはずの九峪である。実際、第1戦、第2戦ともに完勝している。それでも気が抜けるような気がしない。
 明らかにこの第3戦は手応えが違っていた。
 一瞬一瞬の判断が命取りになるような戦場の空気に近いものを感じる。
 ――このまま進んで本当に良いのか。
 思考に迷いが混じる。
 力を入れるためにかみ締めていた歯、さらに歯茎に力を込めた。
 前方との距離を測る。九峪の背中は大きくなってきていた。もう20歩ほども離れていないだろう。
 やはり、ここは好機だ。
 さらに足を速め、隊一丸となって進む。
 九峪は疲れが出てきたのか、速度が落ちてきている。後ろを走っていたはずの九峪隊にすでに吸収されそうになっていた。
 ――あと少し。
 伊雅隊のだれもがそう思った、その瞬間――頭上から黒い影が落ちてきた。


 ――これは伊雅様に教えていただいたことなのだが、人間、勝利を確信したときにこそ決定的な隙を作ってしまう。古今東西、詰めを誤って滅んだ人間は数知れない。
 ――勝利を確信させる。今回の場合の勝利条件は俺の竹板を取ること。……つまり、俺自身をおとりにするってことか。
 ――それしかないだろうな。
 ――でも、おとりをするにしたって、それだけじゃあ勝てない。
 ――……今回だけは手伝ってやろう。最後の詰めはわたしに任せておけ。
 ――分かった、任せる。にしても、伊雅のおっさん、俺みたいな素人相手にそこまで勝ちたがるか?
 ――安心しろ。伊雅様は必ず勝ちを狙う。……あの方は、けっこう負けず嫌いなのだ。


 後ろで大きな音がしたとき九峪はまだ走っていた。音が耳に入り、足を止め、振り返るよりもまず肩で息をする。心臓が細かく伸縮を続け、自分の鼓動の音が耳に入る。胸が痛い。見事なまでに膝が笑っている。
 大きな深呼吸を3回、なんとか後ろを振り返った。
 そこには木を組み合わせて作ったいかだのような物と、それに押しつぶされている伊雅隊の男たちがいた。全員、意識はあるようでうめき声を上げている。
 清瑞の用意した最後の一手、それはつり天井だった。
 今回、九峪隊がとった作戦は二段構えのものだった。
 まず一つ目は、待ち伏せからの奇襲である。混戦になれば伊雅に迫ることもできる。そこで竹板を取れればそれでよし。取れなかった場合は次の作戦に移ることになる。むしろこちらが本命と言っても良い。
 時間がたてば奇襲の効果は次第になくなってくる。部隊としての統制は伊雅隊のほうが明らかに上。普通に戦えば形勢が悪くなるのは自明の理だった。そこである程度、竹板が取られたところで、九峪の姿を見せ、退却の命令を下す。あとは予定の場所まで逃げるだけ。
 この逃走は九峪にとってつらいものだった。まず全力疾走を続けることがつらい。さらには九峪が先頭を走ることになり、道案内をするものがいない。一応、目印は用意してあり、それに沿って走っていたのだが、もしかして間違えているのではないかという不安がつねに付きまとい、負担となっていた。
 それでも作戦はなんとか成功していた。
 伊雅隊は全員つり天井に押しつぶされていて、さらには周りを九峪隊に囲まれている。つり天井の裏には緩衝材とするためか、葉のついた枝が敷き詰められているようだった。頭上から重いものが落ちてくるのである。十分に危険な罠だ。
 模擬戦で重傷をおっても意味がない。罠を仕掛ける側からすれば当然の配慮であるが、短時間でよくそこまでの工作ができるものである。九峪はいつの間にか側に来ていた女乱波を見た。
 九峪隊が当初、動きを見せなかったのは清瑞の時間を稼ぐためだった。なんとなくにらみ合いになり、時間が経過する中、清瑞はせっせと木を切り、工作に励んでいたのである。
 十分な時間が稼げたのか心配していた九峪であったが、いらない心配だったらしい。
「なんとかうまくいったな」
「見事な逃げっぷりだったな」
 相変わらずの皮肉げな口調。少し腹が立たないでもなかったが、今回の作戦は彼女なしにはありえなかった。今は感謝の気持ちのほうが強い。
「ありがとうよ」
「……まだ終わってないぞ」
「そうだな」
 この模擬戦の勝利条件は相手の部隊の指揮官の竹板を奪うこと――伊雅から竹板を奪うまでは勝利したとはいえない。
 九峪はようやく笑いが収まった膝に力を入れ、つり天井の反対側へと回り込んだ。
 そこでは伊雅がつり天井をかけ布団に顔だけを出した状態になっていた。


「……九峪様、お見事でした」
 罠に見事にはまった伊雅は今、九峪隊の作戦をほぼ理解していた。
 それと同時に自分の失点も気づいていた。結局、林の中への誘いに乗ってしまったことが問題だった。
 しかし、九峪の撤退命令を出した時機は見事だった。もし、あれよりも早ければ自分たちは態勢を整えることを優先したかもしれない。遅ければ九峪隊の戦力は壊滅していただろう。狙ってやったのかどうかは分からない。また九峪の判断かどうかも分からないが、自分たちが釣られてしまったのは間違いない。
 それにしてもと、伊雅は思う。
 今回の九峪隊の作戦は見事だった。しかし、これが実戦であっても同じような作戦が取れただろうか。このつり天井を見れば、九峪の撤退が予定されていたことだと分かる。
 勝勢に酔った敵を罠に引きずり込み、殲滅する。ある意味、正道とも言える戦術だが、この策では相手を酔わせる酒が必要となる。
 酒――つまりは味方の兵士の死である。
 九峪に果たしてそのような作戦が取れるのだろうか。
 ――いや、そのようなことは意味がないのであった。
 伊雅としては、戦場などでの指揮は自分で執るつもりであった。九峪が戦術に口を出すということはない。今回、このような訓練をしたのは九峪に戦闘というものを知っておいてもらいたかったからだ。
 真上に青年の顔が見えた。
 その表情は安堵に満ちている。勝って兜の緒を締めるとはいかないようだ。
 ――まだまだですな。


 伊雅からの見事だとの賞賛をもらい、九峪はうれしかった。
 大部分は清瑞の力を借りたとはいえ、とうとう伊雅から一本取ることができたのだからうれしくないはずがない。
「いや、清瑞に助けてもらったからだよ」
「部下の手柄は、指揮官の手柄にもなるものでございます」
「そんなことはないと思うけど」
「いえ、九峪様は誇ってよろしいのですよ」
 負けた伊雅の顔は穏やかで、九峪の勝利を心から祝福しているようであった。
「これを……」
 伊雅はつり天井でごそごそとしていたかと思うと、右手だけを抜き出した。そのまま九峪のほうへと突き出す。その手には竹板が握られていた。
「さあ、どうぞ」
「ああ」
 九峪は伊雅から竹板を受け取った。勝利の証である。思わず涙ぐむのを感じた九峪は袖で強く目の辺りをこすり、
「みんな、勝ったぞ!」
 顔を上げて、勝利の雄たけびを上げた。
 九峪隊の面々は手を叩いて、指揮官の勝利をたたえた。そんな中、清瑞だけはいぶかしげに首をひねっていた。
「九峪様、ではそろそろ起きるのを助けていただけますかな」
「あ、ああ、分かった」
 勝利の余韻に思いっきり浸っていた九峪は照れたように頭をかき、天井をどかそうと伊雅の側にしゃがみこんだ。
「あっ、バカッ!」
 清瑞が何かに気づいたように叫んだ。
 いきなり伊雅の右手が九峪の胸元へと伸びた。
「え!?」
 うなじの辺りに痛みが走り、プツンッと何かが切れる音。前に引っ張られ、体勢を崩す。
「わたしの勝ちですな」
 伊雅の右手には九峪の竹板が握られていた。
「え? なに言ってんだよ。俺が先におっさんの竹板を取ったんだから、今さら竹板を奪われたって関係ないはずだろ」
 伊雅のいきなりの勝利宣言に、九峪は混乱していた。
「まあ、とりあえず、これをどかしてもらえますかな」
 落ち着いた伊雅の声、しかしその表情はどこかいたずらを成功させた子供のそれに似ていた。
 納得がいかない九峪であったが、とにかく天井をどかすことにした。
 九峪隊の面々がそれぞれ端を持ち、天井を浮かせる。できた隙間から伊雅隊の男たちが這い出てきた。
 そして、伊雅自身も抜け出し、立ち上がる。
 ――その胸には竹板がぶら下がっていた。
「な、なんで……」
 九峪は自分の手の中にある竹板と見比べる。竹板には何か印が付いているわけではないので、見分けはつかない。
「考え込まれているようですな。答えを言ってしまえば簡単なのですが、じつは先ほどの戦闘のとき、ひとりから竹板を奪っていたのです。――九峪様にお渡ししたのは奪った竹板ということです」
「ず、するいぞ、伊雅」
 ようやく事態を把握した九峪は、伊雅に詰め寄る。
「その前に負けを認めただろ?」
「いえ、負けとは言っていませんな」
 九峪は先ほどの会話を思い出す。たしかに『負け』の一言はなかった。
「いや、でもさあ……」
「この訓練では相手の指揮官の竹板を奪ったほうが勝者となるのです。わたしの竹板はここにあります」
 伊雅は自分の胸を指し示す。
「そして、九峪様の竹板は……」
「あんたの手の中だよ、ちくしょう」
 模擬戦のルールからすれば、伊雅の勝ちであることは明白だった。
 九峪は歓喜の絶頂から落胆の奈落へと突き落とされ、思わず膝をつきそうなる。そのとき、後ろから突き刺すような視線を感じた。
 心当たりのある冷たい気配。
 恐る恐る振り返る――女乱波がにらみつけていた。
「あ、あの……」
「勝利を確信した瞬間に決定的な隙が生まれると言っただろう。おまえの物覚えの悪さは特筆するに値するな」
「いや、あのな……」
「このバカが!!」
 清瑞とて、尊敬する伊雅に勝てるということはうれしいことなのだ。それを最後の最後で逃してしまった。言わずにはおれなかったというように語気を強めて吐き捨てる。
 突然の敗戦のショックを消化できない上に、止めのような一言。
 九峪の身体は崩れ落ちた。
 一方で、清瑞はついっとそっぽを向いている。
 ふたりの姿を見ていた大人たちは驚いた。清瑞のそんなしぐさは見たことがなかったのだ。
 崩れ落ちて地肌にうつぶせになっている神の遣いと、仁王立ちして顔だけを背けている無愛想な女乱波。
 見比べていると、驚きに変わって、笑いがこみ上げてきた。
 誰かが笑いを声に出した。すると堰をきったかのようにみなが笑い始める。
 無邪気な子供の行動を見たときの、楽しい笑い。
 周囲が笑う中、ふたりはそれぞれの格好のまま、ただ黙っていた。
 
 

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