〜戦  雲〜


作・ゴーアル様


 第三話 襲来(その1)



 国府城主相馬は機嫌が良かった。
 終始、にこやかで、部下たちが不気味に思うほどであった。
 朝食のとき、料理人が味付けを間違えた。普段ならば、即刻、その料理人を処罰するところである。しかし、今朝は少し失敗をたしなめただけで、料理を全て平らげてしまった。しかも、たまには違った味付けもいいものだ、などとのたまったのである。
 衆目の一致するところ、現国府城主は気分屋だった。
 15年前の耶麻台国との戦の折、相馬は200人ほどの部隊を率いて戦っていた。そのころの相馬は太ってはいたが、筋肉質であり、部隊長としてはなかなかの力量の持ち主であった。ただ、指揮官としては優秀とは言えず、部隊長がせいぜいだろうというのが、上官や同僚の意見であった。
 ある時、相馬の部隊が単独行動をとっていると、耶麻台軍と遭遇してしまった。耶麻台軍は1000人ほどと思われ、相馬の部隊の5倍の人数であった。一兵卒の力を比べれば、狗根兵のほうが上であるとはいえ、5倍の兵力差はいかんともしがたい。通常ならば、撤退するか、援軍を呼ぶしかない。
 ちょうどその時、わずか一里(約4km)のところに味方の部隊がいた。この部隊に援軍に来てくれるよう頼み、それまで守りきっていれば十分勝機はある。必勝の策と言っても良い。
 しかし、相馬は援軍を頼むことを良しとしなかった。
 その理由は、なんと、その部隊の部隊長と女をめぐってけんかしたからというものであった。あきれた副官がどれだけ説得しても、相馬は聞き入れない。であれば、撤退するよりほかない。
 ところが、相馬は撤退も受け入れなかった。撤退などすれば上官から叱責されるというのが、その理由であった。
 残る選択肢は一つしかない。
 相馬は部隊に突撃命令を下したのだった。
 兵士としての心構えを骨身にまで教え込まれている狗根兵は無謀な命令にも逆らうことなく突撃していった。
 算を乱したのは耶麻台軍側であった。
 いかに勇猛をもって鳴る狗根兵であろうとも、5倍の戦力にかなうはずもない。こちらがゆっくりと包囲するように進軍すれば、敵は亀のようにうずくまって最期の時を待つことになる。耶麻台軍の指揮官はそう考えていた。
 にもかかわらず、狗根兵は無謀にも突撃してきたのである。あわてて、反撃の態勢を作ろうとしたが、時すでに遅し。指揮官と同じようになめてかかっていた耶麻台兵は持ち場を捨てて逃げ出し、軍隊ではなくただ騒ぎ立てるだけの集団に成り下がっていた。戦う意思を失った兵士は散々に打ち破られ、指揮官は狗根兵の剣に首を捧げることとなった。
 狗根軍にとっては大勝利である。
 それも寡兵をもって大軍に勝利するという、めったにできない偉業をなしてしまったのだ。
 結果だけを見れば、敵が数的有利に油断した隙を見逃さず、攻撃したということになるが実際は、気分屋の気まぐれな判断であったことは言うまでもない。
 しかし、戦功は戦功である。しかも、五倍の敵を打ち破るという、名将の誉れも高い氷貴将軍帖佐ですら経験したことの無い武勲であった。
 論功行賞は組織維持の大前提。相馬は出世街道を歩むこととなった。
 その後、九洲各地を転任し、領民から税を搾り取ったり、兵士を盗賊に変装させて行商人を襲わせたりなどして蓄財し、一城の主となったのであった。
 これまでのところ相馬の性格は自身の出世を大いに助けていた。当然、気分屋な性格を直すはずもない。いや、むしろ拍車がかかっていると言うべきだろう。
 そんな気分屋である相馬が料理の失敗に気分を悪くしないはずが無い。怒るどころか、機嫌がいいというのはありえないのだ。必ず理由がある。
 その理由とは、先日、城主が不機嫌であった理由と同じ人物だった。
 そう、蛇渇である。
 ここ数日、宮殿に居座り、何かとうるさかった蛇渇がいなくなった。草からの報告により、隠れ里の位置が判明したらしい。蛇渇は部屋つきの召使に一言言い残しただけで、国府城を出て行ったのだった。
 相馬は蛇渇が宮殿にいることで身動きがとれずいらだたしい思いにかられていた。先日、城下で公演していた踊り子を宮殿に招待することを決めたときには、年に一度あるかどうかというほど機嫌が良かった。
 しかし、いざ、宮殿に呼ぼうとしたときに蛇渇の存在が邪魔になったのである。相馬は蛇渇から女遊びが過ぎると注意されている。蛇渇が宮殿にいる間に、踊り子を呼ぶというのさすがにできなかった。
 であれば、蛇渇が宮殿を出て行くまで待つほかない。相馬はじりじりとしたまま、その日が来るのを一日千秋の思いで待っていたのだった。
 そして、とうとう蛇渇が残党狩りに出向く日が来た。
 待ちに待った相馬にとっては機嫌を悪くしろというほうが難しいことだった。
 相馬はさっそく部下に命じて踊り子を呼びに行かせた。これで、今日、遅くとも明日にはうわさの美女を抱くことができる。
 国府城主相馬、まさにこの世の春であった。







 季節は春といっても、まだ3月、朝は冷え込む。
 草木に小動物――すべての生き物が、太陽が昇り、暖かな風が吹くことを待っている、そんな朝。
 九峪はいつものように畑仕事を手伝いながら、雑草抜きで火照った身体に冷たい風が当たる感触を楽しんでいた。
 里に来てから今日で一週間となる。その間に、九峪は人間の適応力は意外に高いということを学んでいた。
 雑草を抜いていても、腰が痛くなくなった。木簡を読んでいるとき、キョウの助けを借りることが少なくなった。剣の稽古では、相変わらず伊雅に打ち据えられていたが、腕の筋肉痛もかなり軽くなってきた。
 季節の変化にも慣れてきた。
 九峪がキョウに巻き込まれる前、現代は5月であった。
 桜の季節が終わり、新緑がまぶしい季節。高校最後の年を迎え、インターハイ予選に向けてがんばっていたのだった。
 しかし、この冷たさの中にもほのかな暖かさを感じさせる風は5月のそれではない。
 立ち上がり、腰をゆっくりと伸ばす。山のあちらこちらで山桜がちらほらと咲き始めている光景が目に入った。九洲が3月でよかった。もしこれが真冬だったりしたらさすがに体調を崩していただろう。
「抜き終わったかね」
 背中に籠を背負った、恰幅のいいおばさんが声をかけてきた。このおばさんとは毎日、畑で会っていた。
「この辺りのは終わりましたよ」
「そうかい、じゃあ、今日はもういいよ。ありがとさん。……桔梗様が今日は小松菜を採っていたからね。急いで帰って、ご飯を食べな」
「それじゃあ、また明日手伝いに来るんで」
 九峪はパンッパンッと手を打ち合わせて、土を払い、里長の屋敷へと足を向けた。
 今日もまた長い1日が始まる。



「組織戦の訓練?」
 小松菜とちりめんジャコの炒め物に箸をつけながら、九峪は伊雅に聞き返した。
「ええ、剣の稽古もよろしいですが、耶麻台国を復興させるためには兵士をそろえ、狗根国との戦に勝利しなければなりません。もちろん、わたしが指揮を執るつもりですが、九峪様も経験しておいて無駄になることはないと思います」
 伊雅が器用に箸で魚をほぐしながら言う。
「山をひとつ越えたところに、それほど広くはないのですが更地がありまして、そこで行おうかと考えております」
「なるほどなあ」
「それに、里の外に出てみたいのではありませんか?」
「う〜ん」
 隠れ里の外に出る、それはなかなか魅力的なことだった。里の暮らしに飽きたというわけではない。午前中は木簡で世界を知ることに努め、午後は剣の稽古で汗を流す。変化の乏しい里の生活といえど、九峪には十分刺激的なことが続いていた。しかし、里の生活に慣れてきたことで、今まで抑圧されていた好奇心が膨れ上がってきていた。
 伊雅も九峪のためになると思って、誘ってくれているのである。断る理由はなかった。
「わかった。出発はすぐ?」
「ええ、朝食が終わったら準備をして出発するつもりです」
「了解、……今日は木簡読みはなしか」
 九峪はこの一週間、木簡を読み続けていた。だんだん読解速度も速くなってきたとはいえ、未読の木簡はまだまだ残っていた。保管庫にある木簡を全て読む必要はないが、キョウや伊雅が薦めてくれたものは読んでおく必要がある。それにはまだ2週間はかかるだろう。
「今日は外に出られるのですか?」
 桔梗が布で両手を拭きながら、部屋の中へと入ってきた。
「ええ、山を越えたところまで」
「そうですか、じゃあ、お弁当、用意しますね」
 ほがらかな声が耳に心地よい。
 九峪は、桔梗にすっかり世話になっていた。
 先日、子供たちと滝で遊んだ後、身体を冷やしてしまったために体調をくずし気味になってしまった。そのときには、わざわざ苦味たっぷりの薬湯を作ってくれた。
 彼女がいなかったら、慣れるのにもっと苦労していただろう。
 口には出さず感謝しながら、九峪は朝食を平らげていった。


 朝食を終え、九峪は部屋に戻った。
 この部屋にも愛着を感じるようになった。といっても、部屋にはたいしたものが置いてあるわけではない。窓際にある机、右奥の角のタンス、そして、部屋の奥の中央の壇――その上には台座に安置された鏡があった。
「おいっ、キョウ、出てこいよ」
 九峪が鏡に向かって呼びかけた。
 鏡から光があふれる。
「やあ、九峪、何か用?」
「まあな、じつは伊雅に組織戦の訓練で里の外に出ようって誘われて、行くことにしたんだけど」
「ふ〜ん、組織戦ねえ、九峪には役に立たないと思うけど、まあ、無駄にはならないか」
「役に立たないのか?」
「だって、九峪は神の遣いなんだから。部隊を閲兵することはあるかもしれないけど、指揮を執ることなんてないって。安心してよ」
 キョウの言葉に、九峪はどこか忸怩たるものを感じた。
「考えてみれば、耶麻台国の復興って、俺は何をすればいいんだ?」
「九峪は復興の象徴なんだ。復興の中心として『存在』することが役目なんだよ」
 圧政の苦しみのただ中にある九洲の民の前に現れた希望、それが神の遣いなのである。
 つまり、神の遣いの死は希望が潰えたことを意味する。九峪は神の遣いを名乗った以上、何よりも生きることを優先しなければならないのだった。
「でも、訓練はしてもいいんじゃないかな。伊雅の戦いぶりの一端が見れるかもしれないからね」
「……そうだな、で、おまえはどうするんだ?」
「ぼく? そうだなあ、ここにいるのもなんだし、いっしょに行くよ。鏡は九峪が持っていってね」
「分かったよ」
 天魔鏡を持ち運ぶのは神の遣いの義務なのだろうと了解する。
 それにしても、と九峪は思う。
 戦争。
 20世紀は戦争の世紀だったと誰かが言っていた。
 たしかにそうなのだろう。歴史の授業で20世紀の戦争や動乱で死んだ人の総数は1億人を超えていると、先生が言っていた。九峪の記憶にも小学生のころ、テレビで緑色に光る砲撃を見た覚えがある。しかし、幸いにも20世紀の後半には日本は直接、戦争に関わることはなかった。だから、九峪には戦争というものが良く分からない。ただ、してはいけないものなのだと教わってきた。
 趣味としては、戦記物の小説やゲームは好きではあったが、それ以上ではない。
 キョウは言う。
 苦しみから解放されるために戦うのだと。
 戦争をする以上、絶対に人は死ぬ。いや、いずれにしろ人はいつか死ぬのだが、理不尽な死を迎える人が増えると言うことではないのか。
 耶麻台国を復興させる九峪自身の理由、それは現代に帰るため。この理由に自分は命をかけられるのか。
 違う。
 九峪には命がかけられないと知っているから、キョウは戦うことを求めないのだ。
「どうかした、九峪?」
 突っ立ったまま、いきなり黙り込んでしまった九峪をいぶかって、キョウが声をかけてきた。
「なんだか、むずかしい顔しちゃってさ」
「ん? ……ちょっとこれからのことを考えてただけさ」
「どんなこと?」
「まだ、何も始まってないんだなってことだよ」
 さっき考えていたことを隠し、九峪は鏡を持つために壇のほうへと歩いた。キョウは、九峪の言葉にウンウンとうなずき、
「そうだよ、九峪が現代に戻るための努力はまだまだこれからさ、がんばってよ」
「ああ、わかってるって」
 九峪は鏡を壇の上に置いてあった専用の袋に入れ、懐の中へとしまいこんだ。そして、キョウの言葉を反芻する。たしかにそのとおりだ。現代へ戻るために神の遣いを装い、復興の手助けをする。ただの高校生の仕事にしては、ずいぶんきついものだが、やらなければならない。そして、死んでは元も子もない。
 九峪は自分の役目を確認しながら、伊雅との集合場所になっている居間のほうへと動き始めた。その横を、キョウが気楽そうな笑みを浮かべながらついていくのだった。


 居間に戻った九峪は伊雅を待ち、その間に桔梗がお弁当と水の入った竹筒を持ってきてくれた。中身は教えてくれなかったが、おにぎりとちょっとした付け合せといったところだろう。
「しっかり食べてくださいね」
「ありがと。桔梗さんの料理はおいしいから、期待してるよ」
「ほんと、おいしいんだよねえ」
 食べ物といえばキョウというように、食いしん坊の精霊が話に混ざってきた。
「やっぱり火加減がうまいのかなあ」
「う〜ん、そうですねえ。火加減というより、火力が足りないことのほうが問題ですねえ」
「火力って薪を多くすればいいんじゃないのか?」
 この時代の料理ということで、かまどが浮かんだ九峪は、だれでも思い浮かぶ簡単な解決方法を提示する。
「九峪様はかまどのことを考えられているでしょう? この里ではかまどは使わないんです。かまどを使えば煙が出てしまうでしょう? 炊事のたびに煙が出ていては隠れ里の意味がありません。ですから、少々値は張りますが、熱生石を買い求めて炊事では使っているんです」
 熱生石とは水の中にしばらくつけると自然と発熱するという便利な石である。
「寿命は1年ほどで、なかなか便利なんですけど、炒め物のときにはどうも火力が足りないんですよね」
 ふぅっとため息をつく桔梗は主婦じみていた。
「なるほどねえ。でも、この里の子供たちはみんな元気だから作りがいがあるんじゃない?」
「そうですね。おやつを作ってあげると、我先にと食べに来ますから」
「子供が元気なのはいいことさ」
 九峪、キョウ、桔梗の3人が里の子供たちのことを話していると、伊雅がやってきた。
 すぐに出発ということで屋敷を出ると、いつの間にか清瑞が合流していた。女乱波の存在に気づいた九峪は、思わず驚きの声を上げそうになったが、隣を歩く伊雅に驚いた様子はない。いつものことなのだろう。
 里の中央にある広場まで来ると、すでに20人あまりの男たちが集まっていた。九峪が見たことのある男は5人程度だった。まだまだ里になじんでいるとは言えない。男たちはみな、中肉中背である程度引き締まった身体をしていた。刀も腰に差しているが、とくに黒っぽい格好をしているわけでもなく、忍者というよりは野武士と言ったほうが正しいような姿である。乱波とはいえ、普通に話している分にはとくに変わったことはない。
 伊雅は全員そろったことを確認すると出発した。
 里の門をくぐり、林の中へと入っていく。里から出るのは、九峪にとっては2度目のことである。1度目は滝に行ったときであった。そのときは清瑞に案内してもらった。今回も同じように、清瑞は九峪の横を並んで歩いている。九峪は何度か話しかけようとしたのだが、周りの空気が気になった。だれも話さないのである。キョウは里を出た時点で、鏡の中へと戻っていた。
 乱波としては当然のことなのだろう。声を出すということは自分の居場所を教えるのと同義である。たとえ、自分たちの庭のような場所を歩いていると言っても、決して乱波としての心構えを忘れることはない。
 それに九峪にも話をしている余裕はなかった。全員が駆け足をしているような速さで進んでいくのである。決してついていけないことはないが、これだけで訓練になることは請け合いであった。
 道なき道を少しも速度を落とすことなく進んでいく。周りの景色を見る暇もない。もっとも周りには木々しかなかったが。
 だんだんと余裕をなくしていく中で、九峪は足音を立てているのが自分だけだということに気づいた。いや、おそらく九峪の足音が他の人の足音を打ち消しているのだ。前の人間が歩く姿を見ていると、落ち葉を避けて歩いていた。だからといって、ずっと下を見て歩いているわけではない。極めて自然に足場を確認しているのだろう。
 しかし、どれだけ足の置き場を選んだとしても、落ち葉を踏まずにはいられない場合もある。その場合でも、ほとんど音はしない。九峪にはどういう原理で音を防いでいるのか分からなかった。
 九峪の足音だけが響く中、一行は順調に行程を消化していった。
 変わらぬ景色と駆け足が続くことに疲労がたまってきたころに、
「ここらで休憩するとしようか、……九峪様が限界でいらっしゃるようだからな」
 伊雅の声で、ようやく九峪にとって楽な速さに戻った。伊雅は九峪の前を歩いており、振り返ることはなかった。それでも、九峪の様子に気づいたのは、九峪の歩調が乱れていることを足音で聞き分けたのだろう。
「……悪いな」
「いえ、正直、もっと早く限界が来るかと思ってましたので、がんばられましたな」
「あんたたちがすごすぎるんだと思いたいんだけどな」
 他の人間は息も切らしていない。となりにいる女乱波も同様だった。
「この先に神社があります。そこで、いったん休憩としましょう。……すでに廃墟となっている神社ですが」
 300歩ほど歩き、林を抜けると、古ぼけた建物が建っていた。所々に穴が開いており、人の気配はまったくない。ただ、朽ちていくのを待つだけといった様子だ。見える範囲には入り口は見当たらない。どうやら建物の裏側のようだ。
「これが神社か?」
「ええ、そうです。かつてはそれなりに人も訪れていたのですが……、まだお静かに」
 九峪の質問に答える伊雅の声は重々しい。
 男のうちの一人――伊雅は朱玲と呼んでいた――が4人の男に合図した。合図を受けた4人は体勢を低くし、ゆっくりと神社の表のほうに向かっていった。付近に敵がいないか索敵するためなのだろう。やはり、声を出すことには注意しなければいけない。
 腐りかけた木の臭いが鼻を突く。まだ倒れはしないだろうが、朽ちかけた建物にはどこか悲しみがある。
 九峪は自分の中にある神社の風景を思い出す。小高い山の中腹に建てられていた。境内からは街が一望でき、涼やかで落ち着いた風が流れる。木々が周りを囲んでいることもあるのだろ。どこか人の世界とは違う『境』と呼ぶような空気が、九峪の心には残っていた。
 目の前の神社には厳かさが薄れている。ただ、虚無の影が色を濃くしていた。
 九峪が廃れた空気に浸っていると、偵察に出ていた男のうち2人が戻ってきた。伊雅と朱玲の前に立つ。
「東への道には敵はおりませぬ」
「西への道にも異常はございませぬ」
 それぞれの報告を受け、伊雅は一つうなずいた。
「うむ、問題はなさそうだな、朱玲」
「はい、ここで休憩でかまいませんでしょう」
「よし、神社の中に入るぞ」
 伊雅の言葉で全員が動き出す。先ほど偵察から戻ってきた2人は再び偵察へと向かっていった。
 神社の裏手から、正面へと回る。
 朱玲が3段の階段を上り、神社の戸を引いた。扉は引き戸であり、かみ合わせが悪くなっているのか、何度かつっかえていた。
 そのまま朱玲が先頭で、神社の中へと入る。男たちが続き、窓を開け、光と清浄な空気を取り込む。
 九峪は伊雅、清瑞とともに中へ入った。
 床がギシリと鳴る。神社の中は意外に広い。全員が車座になって座ることもできる。外から見ると、床が腐っていて抜けてしまうのではないかと思われたが、床はしっかりとしている。分からないように補強がされているのかもしれない。
 朱玲たちは神社の中から出て、思い思いに休んでいる。
 九峪は部屋の中でも風通しの良い場所に座った。伊雅は九峪と向かい合うように座り、清瑞は引き戸の近くに座っていた。
 竹筒のふたを取り、水を飲む。竹の香りが鼻をつく。乾いたのどを潤し、ほっと一息ついた。
 落ち着いたところで、辺りを見回す。とくに何かが置いてあるわけではなく、ただ、床と壁が見えるだけ。ふと部屋の奥を見る。そこにはあるはずのものがなかった。
「ここって神社なんだよな? それにしては神を祭るようなものはないみたいだけど」
 神社とは神を祭る建物である。当然、神を祭る祭壇があるはずだった。部屋の奥は1段高くなっている。しかし、それだけで他には何もない。何かを引きずったような跡が残っているだけだ。
「狗根兵によって祭壇は撤去されたと聞いております」
 つらそうな声で伊雅が答える。
「神社とはその土地に住むものにとっての心の支えです。王族のわたしとしては情けないことなのですが、土地の領主などへの不平不満をこぼし、貴重な捌け口にもなっていました。だからこそ、神社を廃することは支配を完全なものにしようとする狗根国にとっては当然のことなのです」
「なるほどな」
「この神社は耶麻台国八柱神が一柱、天の岩盾を祭ったものです。どちらかと言えば地味な神様で、火を尊ぶ耶麻台国ではあまり人気のないのですが……九峪様には説明する必要はありませんでしたな」
 九峪は神の遣いである。王族とはいえ、ただの人間が神に遣わされた存在に神のことを語るなどおこがましいということなのだろう。伊雅は九峪に向かって頭を下げた。
 こういうとき、九峪の心は罪悪感に満たされる。神の遣いを騙り、他人を利用している。うそも方便などと言うが、信用されることがつらいというのは耐えがたかった。
 伊雅から目をそらす。清瑞がこちらを見ていた。その視線は冷たい。うそを責められているような気がした。
「なんだよ?」
 視線に耐え切れず、ぶっきらぼうな声で意図を問う。
「いや、そう言えば、おまえを遣わしたという神の名を聞いていなかったと思ってな」
 神の名前。
 神の遣いならば知っていて当然のこと。
 木簡の中には神々のことを記したものもあった。しかし、突然の危機に、九峪は名前を思い出すことができなかった。
「……それはだな」
 間をつなぐために意味のない言葉を発する。当然、効果はない。清瑞の全てを見抜こうとする視線がさらに強まった。九峪は額に嫌な汗を感じた、そのとき、
「天の火矛さ」
 緊張感のまるでない声が九峪のすぐ側から聞こえてきた。
「キョウ!」
「耶麻台国八柱神のひとり、天の火矛が九峪をこの九洲へと遣わしたんだ」
 キョウの声にはまったく淀みがない。当たり前のことを話しているだけといった感じだ。
「ええ、そうでしたな」
 伊雅はキョウの言葉にうなずいている。清瑞は疑いの目をまったく弱めていない。清瑞の目から逃れるようにして、伊雅へと問いかける。
「あれ、言った覚えはなかったんだけど」
「以前、キョウ様からお聞きしました」
 すでに用意はしていたらしい。伊雅に言うよりもまず、九峪に言うべきなはずである。もっとも、キョウにそう言ったところで、あっけらかんと「忘れていた」と言って終わりだろう。
「しかし、まずかったですかな」
「何が?」
「いえ、天の火矛と天の岩盾は仲が悪いことで有名なので、天の火矛の遣いである九峪様が天の岩盾を祭る神社で休息をとるというのは問題になるのではありませんかな」
 伝承に曰く、道端で男が商売をしていた。男は、矛をとっては、これは最強の矛だといい、どんなものでも貫くという。次に、盾をとって、どんなものでも貫くことができない最強の盾だという。そこで、話を聞いていた男が問うた。その矛でその盾を貫こうとしたらどうなるのかと。人、これを矛盾と言う。
 九洲では、この話を元に天の火矛と天の岩盾が自分こそが最強であるとけんかしていると考えられているのだった。
「大丈夫、大丈夫、それは人が勝手に言っていることであって、実際にはこの程度のことでけんかするほど仲は悪くないんだ。ね、九峪?」
「あ、ああ、そうだな」
 キョウの、話を合わせろという視線に従って、相づちを打つ。一般に言われていることを否定し、そのことで神の遣いであることの信用をより強くしようという思惑なのだろう。そんなキョウの考えを知る由もなく、伊雅はうなずいた。
「なるほど、そうでしたか」
「その話で口論になったって言うのは本当らしいんだけどね」
 九峪がこれまで聞いていた話では、キョウは神とあったことはないはずである。廃神社とはいえ、れっきとした神社で、神のことについて適当なことを並べるとは、精霊とは思えない。九峪はそっとため息をついた。
 ちらっと清瑞のほうを見ると、すでに視線は神社の外に移っていた。といっても、九峪への警戒が弱まったわけではない。たまらず、もう一度、ため息をついてしまった。
 伊雅とキョウの会話はそのうちに昔話となっていた。
「昔は、神社では子供たちに文字を教えたりしていたものです。この神社の正面にある道を西に下っていくと村がありましてな。きっと、そこの子供たちが週に一度集まって神主からいろいろと学んでいたことでしょう」
 伊雅はゆっくりと床、壁、天井と視線を移した。在りし日の姿を思い浮かべているのだろう。
「しかし、その村も魔獣の襲撃によって滅んだと聞いております」
 声が震えた。魔獣――九峪にはまだその恐怖は分からない。
「人が住まなくなった建物と言うのは朽ちるのが早いものです。わたしは狗根国を倒す術を求めて各地を回ってきましたが、そのような家屋を見るたびに、なんとも言えない悲しい気持ちになったものです」
 狗根国による九洲支配は苛烈を極めていると言う。
 圧倒的な武力と恐怖、それが狗根国の支配原理であった。
 耶麻台国滅亡から十五年、幾度も狗根国打倒を目指した反乱が起きたが、ことごとく狗根軍によってつぶされていた。反乱が起きてから鎮圧されるまでの最長記録がわずか半月と言うのだから恐ろしい。
 そして、狗根軍の事後処理は徹底したものであった。
 反乱に参加した者の家族は見せしめのために徹底的に弾圧される。男は連行され、満足な食事も与えられず、運河や港湾の整備に強制的に従事させられる。女は遊女とされ、なかには大陸に売り飛ばされた者もいる。九洲の民の間で、まことしやかに伝えられているうわさでは、左道士による儀式の生贄にされた者も多いと言われていた。村そのものが消滅してしまった事例も少なくはない。
 徹底的なまでの弾圧により、支配者への恐怖が九洲の民の中に浸透するのにたいした時間はかからなかった。ここ5年ほどは、実際に兵を挙げての反乱はひとつも起こっておらず、少人数で城主や将軍を狙った事件が散発的に起きているだけであった。
 支配体制を確立した狗根国は九洲の民に重税と苦役を課し、その富を本国へと送っているのだった。
 狗根国の武力と恐怖は九洲に見せかけの平和を築いていた。
「……また、女々しいところをお見せしましたな。これから、戦いを始めるというのに」
「いや、かまわないよ」
 九峪は伊雅の思いの全てを知ることはできない。それでも、この神社の姿を見ると人のいない寂しさというものは分かる気がする。テレビで見た廃村の風景。寂しさだけがそこにある。
「さて、そろそろ移動しましょう」
 伊雅が腰を上げる。九峪も続いて立ち上がった。窓を閉め、外に出ると、神社の外で休んでいた男たちが次々と集まってきた。伊雅は朱玲に一声かけ、出発した。
 九峪は一度、振り返り、正面から神社の姿を脳裏に納めた。


 里を出たときよりもかなり太陽が高くなったころ、一行は目的地へと着いた。辺りを山に囲まれる中、そこは荒地となっていた。山間にしては広い平地となっている。村を作るにも十分な広さだろう。方々に草が生えているが、地肌がむき出しとなっている。周囲に木々が茂っているのとは対照的だ。
 九峪はしゃがみこんで地面に触る。湿り気のない乾いた土だった。
「九峪様、どうかなされましたかな?」
 神の遣いの行動を不思議に思い、伊雅が声をかけた。
「いや、なんでここにはあまり草が生えてないのかなって思ってさ」
 木が日の光をさえぎることはない。すでに冬の寒さが去っているこの時期ならば、本来ならもっと草が茂っていてもいいはずだ。
「ああ、なるほど、面白いところに気づかれましたな。――この土地はどうやら塩が浮いているようでして」
「塩?」
「ええ、そのせいで植物が育たないのです。以前、隠れ里の候補にここを選んだこともあったのですが、作物が育たない場所ではまずい。そこで、今の場所に里を作ることに決めたというわけです。――さて、そろそろ始めましょうか」
 伊雅が全員の前に立ち、説明を始めた。
 今日の訓練の目的は、九峪に複数同士の初歩的な戦い方を教えることである。複数での戦いの場合、相手を圧倒するほどの数をそろえているのでなければ、ただがむしゃらに戦えば勝てるというものではなくなる。まずは味方の連携を密にすることに努め、つぎに相手の連携を崩すように仕掛ける。簡単なことではないが、指揮をする立場に立てば、これらのことをできるようにならなければならない。
「――ということで、全員をふたつの隊にわけ、一方の指揮を九峪様にとっていただき、もう一方をわたしが指揮することとする。全員にはこれを首からぶら下げてもらう」
 そう言って、伊雅は黒く塗られた指二本分くらいの大きさの竹の板を全員に見せた。板の端には穴が開いており、そこに紐が通されていた。
「これを相手に取られたら戦死扱いとなる。そして、相手の隊の指揮官の竹板を取ったら勝ち、取られたら負けだ。――よろしいですかな、九峪様」
「ああ、わかったよ。板を取られなければいいってことだろ」
「そういうことです。あとは具体的な戦い方ですが、……清瑞、おまえが教えて差し上げなさい」
 どうにも仲の悪い二人の間を取り持とうというのか、伊雅が清瑞に命令する。伊雅の配慮に対し、清瑞は、
「いやです」
 即答の拒否だった。
「こらっ、清瑞!」
「だって、こいつ、物覚えが悪い」
 伊雅の叱責にもひるむことなく、女乱波は言い切った。
「んだとーっ」
 九峪が声を上げるが、清瑞はただ無視するだけだ。百戦錬磨の武人の一喝に微動だにしない女である。九峪の怒声など蚊が刺したほどにも感じていない。
「おまえから何かを学んだ覚えはない!」
「ふん、わたしはおまえの警護役をしているのだ。神の遣いとは思えないバカさを何度も見ている」
「てめっ」
 九峪は自分が特別賢いと思っているわけではない。しかし、清瑞の声には言葉の内容以上にさげすみの色があった。それを我慢できるほど九峪は大人ではなかった。何か言い返してやろうとして、
「申し訳ありません、九峪様」
 これ以上仲がこじれることを避けようと、伊雅が間に入った。
 ――このふたりの相性は最悪なのか。
 わざわざ遠出までして行う今回の訓練。伊雅は九峪への指導の他に、もうひとつ目的を持っていた。それは仲の悪いふたりの関係を少しでも改善することで、清瑞のかたくなな心をほぐすことだった。
 期待できる要素はいくつかあった。清瑞の九峪に対する態度である。
 清瑞は乱波の鏡と言うほどに感情を制御していた。乱波といえど人間である。怒りもすれば笑いもする。任務と日常との切り替え、それが乱波に求められる資質でもある。しかし、清瑞は隠れ里にいる間も任務のときと変わらぬ張り詰めた空気をまとっていた。
 どのようなときであっても油断はしない。それは乱波としては当然である。しかし、常に気を張り詰めることなど人にはできない。清瑞の姿は自分は人ではなく乱波という生き物であると主張するかのようであった。
 伊雅の目に、そんな清瑞の姿は痛々しく映った。そして、後悔の念にも駆られた。


 15年前、耶牟原城陥落の直前に雷雨に紛れ、城を脱した伊雅は響の里へと向かっていた。このときの伊雅の心にはただ後悔だけが渦巻いていた。あとで清瑞に聞いたところでは相当にひどい顔であったらしい。
 30になったばかりの武人をさいなんだもの。それは二つの失態であった。
 一つは兄から託された子を失ったことだった。その子は耶麻台国待望の直系に生まれた女児であり、将来の女王であった。伊雅にとっては姪にあたる。そして、何よりも耶麻台国に仕える全ての者にとっての希望である。それを失ってしまったのだった。
 耶牟原城南の山中を抜け、まだ狗根国の支配が及んでいない土地へと落ち延びようとしていた。
 雨が身体を打ち、体温を奪う。雨に濡れないようにと懐に抱えた幼児の体温を感じながら、ただひたすらに走る。耳をつんざくような雷鳴に鼓膜をゆすられながら、ひときわ大きな木の横を通り過ぎたときだった。
 一瞬の光とともに、衝撃が身体を打ちつけ、伊雅は気を失った。
 しばらくして、伊雅は意識を取り戻した。そして、懐に抱いていたはずの女児がいなくなっていることに気づいた。
 必死に探した。雨が降る仲、草を掻き分け、岩を動かした。それでも見つからなかった。
 希望の象徴を失ってしまったのである。
 もう姪はいないのだと悟った伊雅は近くの街へと入った。そこで、耶牟原城陥落と兄が自害したことを聞いた。ただ、兄への申し訳なさだけが胸を突いた。
 決して有能な君主ではなかった。戦は弟にまかせっきりで、狗根国への対応も後手後手に回った。それでも、兄は王であった。耶麻台国の未来を娘と弟に託し、自らは王として首都の防衛の指揮を執った。その兄の期待に背いたのである。弁解のしようもない失態であった。
 そして、もう一つの失態を思い出した。
 愛する女を失ったことである。
 女は伊雅を警護する乱波であった。最初は警護役と警護を受ける側の関係でしかなった。それがいつしか愛し、愛される関係となっていた。
 狗根軍との戦争が激しくなっていくなかでも、女は男の側で守り続けた。そして、男を守って死んだ。
 女は役目を果たし、死んだのである。伊雅の失態ではない。しかし、愛する女を守れないことが、失態以外の何であるのか。伊雅は自分を責めた。
 兄も女も伊雅に遺志を託し、死んでいった。その遺志に応えることができない自分に意味があるのか。伊雅は自然と響の里へと足を向けた。女の暮らした場所を見たくなったのだ。
 飯を食う暇もなく、伊雅は歩いた。
 そして、響の里に着き――絶望した。
 里は狗根軍の襲撃を受け、壊滅していたのだった。
 焼けた家、血で濡れた地面、動くのは鴉だけ。
 しばらく呆然としたあと、伊雅は動き始めた。村の中へと入り、一軒一軒覗き込む。すでに家としての用に耐えない建物ばかりだった。
 割れた桶に皿、生活の全てが壊されている。
 と、目の端で影が動いた。
 どれだけの衝撃に心を乱されようとも鍛え上げた武人の身体はすばやく反応した。鉄製の篭手で相手の刃物を払う。
 相手は得物を失いながらも、飛び掛ってきた。あまりにも低い大勢から、足を取ろうとためらいもなく突進する。
 伊雅は冷静に上からこぶしを叩きつけようとし、そこで、相手が子供であることに気づいた。
 一瞬の躊躇の間に、子供は伊雅の足に取り付いていた。何とかこかそうと、必死に足を抱えようとしている。しかし、伊雅の足は大樹のようにどっしりとし、ピクリとも動かなかった。
 伊雅はそのままの体勢で子供の正体を考えていた。
 狗根兵ではない。もしそうならば、他の兵士が出てこないはずがない。狗根兵ではなく、このような焼け落ちた里にいる子供――答えはひとつしかなかった。
 それから、伊雅は子供を何とかなだめ、話を聞くことに成功した。子供は伊雅の予想通り、里の生き残りであった。
 里が襲撃を受けたときは、ちょうど里から出ており、難を逃れたのだと言う。
 伊雅は子供に名を聞いた。
 子供ははっきりと答えた。清瑞と。
 その後、伊雅は清瑞とともに各地を巡った。どこかにいるはずの火魅子の資質を持つ女児を探しだすための旅は気楽なものではなかった。伊雅は副王であり、軍を束ねる将帥でもあった。顔も多くの人に知られている。
 世間的には耶麻台国副王は耶牟原城にて最後の防衛線の指揮を執り、兄とともに死んだといわれている。実際は背格好の似た伊雅の側近が影武者を勤めたのである。しかし、伊雅がおおっぴらに動いてしまっては、その死も無駄になる。ときには一月以上、野宿をすることもあった。それでも、清瑞の存在は伊雅の心を明るくさせた。
 清瑞と話をしているうちに、少女の母親が自分の愛した女と同一人物であることを知ったのだった。清瑞は五歳だと言う。五年前、たしかに女は体調を崩したと、里に下がっていた。となれば、この子は自分の娘である可能性が高い。
 伊雅は清瑞に武術を教え込んだ。もともと基礎ができていたこともあって、清瑞はぐんぐんと腕を上げた。

 そうして3年が過ぎたころ、伊雅は、野に下っていた耶麻台国の旧臣と出会い、響の里がどこかに再建されているといううわさを聞いた。
 伊雅は新しい響の里を懸命に探した。情報収集に長けた乱波集団に協力してもらえれば、資質を持つ女児の捜索も容易になる。急がば回れという言葉があるように、あてもなく幼い少女たちを探すよりは、確実な方法であった。しかし、伊雅が響の里の捜索を優先したのはそれだけのためではなかった。
 出会ったころから清瑞はあまり感情を表に出さない子供であった。元来の性格もそうだったのかもしれないが、何よりも里の壊滅が少女の心に深い傷をつけていた。少し外に出ていた間に、生まれ育った里が徹底的に焼かれていた。冷徹な現実が少女の心から子供らしい明るさを奪ったのかもしれない。
 伊雅には清瑞の心を溶かすことはできなかった。父親だと言いそびれた負い目もあった。母親を自分のために死なせてしまったという思いもある。伊雅は父親として接することはできず、武術の師であり続けた。結局、それが清瑞の心をかたくなにさせたのかもしれない。
 清瑞の心の重荷を少しでも軽くするために、新たな響の里を求めたのだった。
 幸いにも響の里はそれほどの苦労をすることなく見つけることができた。向こうから接触してきたのである。彼らは最近、自分たちのことをかぎまわっている男がいることを知り、探りを入れていた。その任に当たった乱波が伊雅の顔を覚えていたのである。伊雅は新しき里へと招かれた。
 新・響の里は伊雅を快く歓迎してくれた。そして、清瑞が無事であったことを喜んでくれた。このときから伊雅は響の里を拠点として活動していくことになる。
 清瑞は相変わらずであった。里の者みんなが清瑞をかまったが、清瑞は笑うことさえなかった。ただ、乱波の修行はだれよりも必死にこなした。伊雅が外に出るときには必ずついていき、10歳にも満たないにもかかわらず、一人前の乱波として振舞った。
 感情がないわけではない。とくに同年代の桔梗の声にはそれなりに応えはする。しかし、親の目から見れば、やはり不憫に思う。それが自分の至らなさのせいだと思うとなおさらであった。
 清瑞をもっと感情豊かな人間にしたい。その思いは伊雅の胸にずっと居座っていた。
 そして、九峪との出会いである。
 里の入り口のところで九峪と初めて会ったあの時、九峪の問いに清瑞は答えた。この青年ならばあるいは、という期待を持てた。
 しかし、現実は無情である。
 目の前ではふたりとも目も合わそうとしていない。前途は多難であった。
「清瑞、おまえは九峪様の補佐をするように。……これは命令だ。よいな?」
「……はっ」
 清瑞の目には不満の色が見え隠れしている。伊雅にとっては一目瞭然だった。
「なんか不満そうだなあ」
 九峪が清瑞の態度に文句を言う。
「……しっかりと補佐させていただきます。神の遣い様」
 言葉は丁寧だが、その語調は冷たい。慇懃無礼の四文字が見事に当てはまる。
 そんなふたりの態度を見て、伊雅はため息をつき、
「とにかく始めましょう……」
 投げやりに訓練の開始を宣言した。

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