〜戦  雲〜


作・ゴーアル様


第二話 生活(その1)


 九洲に飛ばされてから三日、隠れ里での生活にもけっこう慣れてきた。
 この時代の人間は朝が早い。
 電灯があるはずもなく、夜は真っ暗な闇へと変わる。日のあるうちに仕事を済ますのが常識であった。日の出と共に起き、日の入りと共に寝るというわけではないが、それに近い生活リズムだった。
 大きなあくびがでた。
 朝が弱いわけではない。水泳部では朝練に欠かさず出ていた。家から学校まではけっこう距離があったので、朝は早く起きなければなかった。
 母親が作ってくれた朝食を食べ、家を飛び出す。学校までは軽く走ってウォーミングアップがわり。同じく水泳部の朝練に向かう部活仲間と合流しながら学校に向かう。昨日見たテレビドラマのことを話しつつ、プール横の更衣室へと入る。手早く着替えて、プールの中へと。
 思えば、母親は自分よりも早くに起きていたわけだ。
 朝、起きても母親はいない。
 ここは家ではない。
 自分の世界ですらない。
 それでも生きていれば、慣れる。
 現代での生活よりも一時間前に起き、畑仕事の手伝いをする。
 水をやり、雑草を抜く。
 一時間ほどそんなことをしたあとに朝食。
 飯はうまかった。
 うまいと思える自分に安心し、そして不安に思った。
 古代世界であっても生きていける。人間がいるのだから当然だ。
 自分はこの世界の住人ではない。
 歩いて旅をするということが普通ではない時代。
 でも、ずっとこの世界で暮らしていけばどうなるのだろうか。
 自分はこの世界の住人となるのだろうか。
 空がはっきりと白じんできた。すぐに明るくなる。
 今日もまた一日の始まりをむかえた。
 九峪は、もう一度、大きくあくびをした。





 隠れ里での三回目の朝食、伊雅や里長と共に席を囲む。
 九峪は上座に座らされていた。
 断ろうとしたが、キョウに黙って座っておけばいいと言われ、仕方なく座った。形が大事だということなのだろう。
 上座のこと以外はなかなか朝食も楽しいものであった。
 三回目の朝食ということで、里長もそれほど九峪を持ち上げることはなくなったからだ。神の遣いが畑仕事を手伝えば神秘性も薄れる。キョウはこれもやめておけというが、九峪は譲らなかった。何もせずに食事をいただくというのは納得できなかった。そのおかげで、里長の態度が仰々しくなくなったというのならば、まさに九峪の望むところであった。
 畑仕事をしていると、里の住人とも仲良くなってきた。
 この三日で分かったことがいくつかある。
 里の住人は二百人は超えているようだ。これが里として大きいのか、それとも小さいのかはわからない。わからないが活気はあった。元気のいいおばさんが多く、動きに力がみなぎっていた。
 里の人たちは九峪が神の遣いであることは知らなかったが、高貴な人物だとは伝わっていたらしい。最初は、どう対処したら良いか分からなかったようだが、すぐに親しみをもって話しかけてくれるようになった。九峪が疲れて手を休めているとしかってもくれた。
 建物は全て木造で、イメージにあったたて穴式住居はなかった。このあたりからも九峪が学んだ三世紀とは技術力が違う。
 この隠れ里は開かれてから五年立つという。以前の里は狗根国に発覚しそうになり、早めに放棄したらしい。里の位置は詳しく教えてはもらえなかったが、山を降りて五里ほど南に行くと大きな湾があると言っていた。その湾には大きな火山島があるという。現代と地理的に大きな違いがないとすれば、それは桜島に違いない。ということは、九峪は距離的にも大きく移動したと言うことになる。
「もうここでの生活には慣れましたかな?」
 伊雅が声をかけてきた。
 この武人には本当によくしてもらっている。書籍を貸してもらうだけでなく、伊雅自身も耶麻台国の歴史、滅亡してから十五年の九洲の状態を事細かに語ってくれた。狗根国との攻防戦の話は臨場感のある話し方で、狗根国軍の強さをまざまざと思い浮かべることができた。
 九峪の彼への信頼は高まっていた。
「そうだなあ、まあ、ちょっと戸惑うことはあるけど、みんなよくしてくれてるから」
「それはようございました。――それにしても驚きましたな。まさか九峪様が畑仕事を手伝ってくださるとは」
「これだけうまい料理を食べさせてもらっているんだ。それくらい当然だよ」
 お世辞ではない。もちろん、料亭で食べるような繊細なものではなかったが、山の幸をふんだんに凝らした料理は何よりのご馳走だった。
「おほめの言葉、ありがとうございます」
 二十代前半くらいの女性が湯飲みが三つのった盆を持って部屋の中に入ってきた。身のこなしは滑らかで、芯の一本通ったすがすがしさを感じさせる。
「桔梗さん」
「お茶をお持ちしました。――味はどうでしたか?」
「うまかったです。とくにこの和え物がうまかった」
「油菜の若葉を和えたものです。春の味という感じがしますでしょ」
 この女性の名は桔梗(ききょう)、里長の一人娘である。家の中で、九峪は主に彼女の世話になっていた。
 長い黒髪を後ろで束ね、にっこりと笑いかけてくれる。顔立ちで言えば、あのむかつく女――清瑞のほうが整っているのだろうが、笑顔のきれいな女性だった。背丈は九峪の肩くらい。年齢よりも大人びた雰囲気を持っている。もっとも、九峪の知り合いで二十代前半の女性と言えば、従姉妹か大学を出て間もない女性教師くらいなので、勝手なイメージなのかもしれない。
「今日はどうされるのですか?」
「午前は書籍を読ませてもらって、昼は伊雅さんに稽古をつけてもらう予定」
「そうですか、――伊雅様、九峪様の調子はどうでございますか?」
 桔梗が湯飲みを九峪、伊雅、里長の順で置いていった。
「ふむ、筋はなかなかよろしい。だが、九峪様は体力の面で問題がある。筋力もまだまだ足りません」
「あんたが化け物なんだよ」
 九峪は伊雅の腕を見た。無駄な肉はなく、筋肉が盛り上がっている。農作業で鍛えられた身体ではない。徹底的に戦うことを目的とした身体だった。
 二日にわたって九峪は剣を教わっていたが、伊雅が息を切らしたところを見た覚えはない。普段使ったことのない筋肉を酷使したことで、二十歳以上若い九峪の身体は筋肉痛で悲鳴をあげていた。鍛錬の後は、両腕は疲れきっていて箸もつかめないほどであった。
「長年の習慣ですからな、あの程度ではどうということはありません」
「……たしか、四十代だったよな」
「今年で四十五になりますな。ただ、九洲の民ならば六十の老人であったとしても、九峪様よりは体力がございますぞ」
 そう言って、伊雅は笑った。しかし、嫌な笑い方ではない。極めて好意的な笑顔を向けてくる。
 ――これは、もうばれているかもな。
 となりで桔梗も笑い出した。
「こら、桔梗、失礼だぞ」
 里長が桔梗をたしなめた。
「申し訳ありません、九峪様」
 言葉とは裏腹に桔梗は笑顔を止めなかった。
「いや、別にいいけど。そんなに俺のひ弱さが有名になっているわけ?」
「そういうわけではありませんが、――清瑞から聞きまして」
「あの無愛想女か」
 里の生活に慣れてきた中で、清瑞のことが悩みの種だった。
 里のどこに行くときでも、九峪のあとをついてきてじっとにらみつけてくる。少なくとも好意は感じられない。なぜ後をつけてくると問うと、神の遣いの警護を命じられたからだと言う。監視の間違いじゃないかと思うほど、女乱波との関係はぎすぎすしていた。
 伊雅との訓練のときにも当然のように側で、九峪の一挙手一投足を見ていた。それだけではない。
「清瑞も訓練に参加したそうですね」
「ああ、昨日の訓練のときにね」
 左の二の腕をさする。服の上からでは分からないが、手を当てた部分は青あざとなっていた。
「こてんぱんにのしてやったと言っていましたわ」
「……見事に投げ飛ばされて、気絶させられたよ」
 立ち合った次の瞬間、木刀を跳ね飛ばされ左腕に一撃をくらっていた。そして、その痛みを感じたときには、後ろを取られていて簡単に締め落とされていた。
 それから数秒したところで、伊雅に喝を入れられ、意識を取り戻した。その場にいたのは、九峪、伊雅、キョウ、清瑞の四人であったが、あわてていたのはキョウだけであった。伊雅は軽く清瑞をたしなめた程度で、稽古を再開した。稽古をするならば、この程度は当然ということらしかった。
「いい勉強にはなったけど、どうにも恨まれているというか、憎まれている気がするんだよな」
「上達するためには、稽古と言えども意識を高く持つ必要があります。そして、目標を持つためには自分を知らなければなりません」
「それはそうだろうけど……」
 伊雅の言っていることは分かる。九峪自身も同じ考えを持って、水泳の練習をしてきたつもりだ。だが、清瑞からは負の感情を強く感じていた。
 清瑞は九峪のあとをついてくるときも、練習用の刀を構え踏み込んでくるときも無表情だった。
 しかし、無機質なコンクリートのビルからは内部にいる人の活発な動きが分からないように、表情がないからといって感情がないわけではない。何も考えていないわけではない。
 九峪は清瑞の押し殺している感情をなんとなく感じていた。
「清瑞はいい子ですよ。少し不器用なところはありますけどね」
 桔梗は心もち大きな声で清瑞をほめた。部屋の外に控えている女乱波に聞こえるようにしたのだろう。
 対照的に九峪の声は小さくなった。
「あれはもう不器用ってもんじゃあないでしょ。きっと心の底から偏屈なんだと思うなあ」
「ひどいですね、九峪様」
「いや、そうとしか思えない」
「……清瑞は優秀な乱波です」
 優秀であることを否定するつもりはない。まだ、乱波の真のすごさを見たわけではないが、自分が否定できるようなことではないということは分かりきっていた。その当人に簡単に一本取られている男が何か言えるわけがない。
「優秀な乱波は五感が優れていなければなりません。何里も先の敵を見つけ、混ざり合った臭いを嗅ぎわけ、雑音の中でも針が落ちた音を聞き分けます」
「はあ」
 九峪の気の抜けた返事に、桔梗はわかってませんねといった感じで笑う。
「つまりですね、清瑞は耳が良いということです」
 意味ありげなせりふが気になる。伊雅のほうを見ると、軽く目を動かしていた。目線をたどると、部屋の外から清瑞が顔だけを出すようにしてこちらを見ていた。ただ、見ていた。その目に感情はない。
 さっと、視線を桔梗に戻す。
「清瑞は良い子ですから、根に持つことはないですけど、……今日の稽古はがんばってくださいね」
 桔梗は笑っていた。いたずら好きの子供のようないい笑顔だった。






 部屋の中へ光が差し込む。その部分だけが明るさを保っていた。
 乾いた木の香りが部屋の中に充満している。
 部屋にはいくつもの棚があり、棚には木簡が整理されて置かれていた。考古学者が見れば狂喜乱舞することは間違いないだろう。
 ――先生がいたらどういう反応するのかな?
 考古学に生涯をかけてきた姫島教授のことを思い浮かべつつ、九峪は木簡を手に取っていた。一昨日、昨日と木簡を読んでいたが、読解には苦労していた。まず木簡という媒体が扱いにくい。重たく、手に持っているだけで疲れる。紙がどれだけ優秀な情報媒体かを三十分もせずに思い知っていた。
 そして、どうしようもなかったのが文字である。どうやら漢文だと思われるのだが、見たことの無い漢字がちりばめられている。さらには毛筆で書かれており、読みにくい。ひどい崩し字になってないのが救いだ。九峪一人ではどうしようもない。キョウに手伝ってもらって読み進めていた。
「しっかし、もう少し漢文の授業をまじめに受けときゃ良かったかなあ」
 九峪がぼやく。高校での漢文の授業で反語などの基本的な文法は習っていた。それが役には立っているのだが、読むのに時間がかかっている。
「まあ、それは仕方ないんじゃないかな。九峪の時代で漢文にくわしい高校生なんて数えるほどなんじゃない?」
 キョウがぷかぷかと浮きながらなぐさめた。
 天魔鏡の精という、九洲の民ならばだれでも崇め奉る存在であるキョウは、基本的に鏡の中に入っていた。九峪を連れて時を渡るという大仕事をやってのけたのだ。そうとう力を消耗してしまっているらしい。鏡の中で力の回復をはかっていた。キョウが鏡の中から出るのは九峪に呼ばれたときだけであった。
 九峪が読んでいるのは、耶麻台国の歴史をまとめた木簡であった。歴代の火魅子の統治、耶麻台国の臣下、武将の活躍が余計な脚色なしに書かれていた。文章としては味気ないものであったが、となりにいるキョウは実際にその者たちを見てきたのだ。キョウは彼らの変わった趣味や性格を懐かしそうに話していた。
 姫神子が九洲に降臨し建国してから耶牟原城が狗根国軍によって陥落するまで約四百年間、姫神子はその内の半分にあたる二百年間、耶麻台国を統治した。この間、九洲は急速な発展を遂げていった。
 姫神子は天界人としての知識をある程度公開し、民衆の生活水準の向上を図った。何より大きかったのが、『衛生』という概念を普及させたことであった。食事をする前に手を洗う、うがいをするということを徹底することにより、平均寿命が延び、九洲の人口は爆発的に増大することとなった。二百年で十倍に増えたという。さらには鉄器の農具が普及し、より深く大地を耕すことができるようなったことで、人口を支えるだけの食料の増産が可能となった。
 歴代の火魅子は、力だけでなく姫神子の知識をも受け継ぐことによって耶麻台国を発展させていたのだ。
「この知識っていうのはどっかにまとめた木簡でもあるのか?」
「う〜ん、なかったと思うよ。姫神子はあまり文字っていうものを重視してなかったんだ」
「なんでだ? 知識を継承するには文字が必要だろ」
「火魅子には関係ないんだ。即位することで知識が継承されるからね。それがどんな感覚なのかはぼくにも分からないけど、歴代の火魅子は即位の儀式を終えると、それまでまったく知らなかったことを当然のように知っていたもんさ。――たぶん、それが名を同じくするということの意味なんだと思っているけどね」
「たしかにそういう方法があるんなら文字はいらないかもな――想像できないけど」
 ちょっと儀式をするだけで、頭の中に今までまったく知らなかったことがあふれるようになる。どういう原理でそんなことができるようになるのかまったく理解できない。
「おまえはどうなんだ? 何か重要な知識を溜め込んでいるとか、そういうことはないのか?」
「悪いけど、秘儀って呼べるほどの知識は持ってないよ」
「……本当か?」
 まったく悪びれた様子のないキョウに、九峪は思わず疑念を口に出していた。
「ひっどいなあ、ぼくがうそを言うような精霊に見える♪」
「あいにく、ほかに精霊を見たことがないんでな」
「まったく、九峪はぼくと話せるってことがどれだけすごいことなのか分かってないんだから」
「おれにはただのお調子者にしか見えない」
「でも、きっとそのうちぼくを崇めるようになると思うんだ」
「何を馬鹿なこと言っているんだ」
「ほんと九峪って素直じゃないよねえ」
 二人の会話は成り立っていなかった。というよりもキョウが一方的にはぐらかしていた。
 九峪はぶつぶつ言い続けるキョウを放って、木簡に目を戻した。
 ゆっくりと読み進め、半刻ほどたったころ、桔梗がお茶を持ってきた。盆の上には草色の饅頭とお茶が置いてあった。
「お勉強のほうは順調ですか?」
「まあ、苦労はしてるけど、耶麻台国の流れはわかってきたって感じかな」
「それはようございました。……のどが渇いているのならどうぞ」
 桔梗は九峪の前にお茶をおいた。ちょうど水分をほしがっていた九峪は三口ほど含み、のどを湿らせた。
「それもこれも僕のおかげだよねえ、九峪?」
「ああ、それについては感謝してるよ」
 九峪はぶっきらぼうに答えを返した。
 二人の会話が面白かったのか、桔梗は少し笑い声をこぼして、キョウへと饅頭を差し出した。
「キョウ様、よろしければこれを召し上がってください」
「ありがとう、桔梗。ぼく、饅頭って大好きなんだよ」
 キョウはさっそく饅頭に口をつけた。小さな口が大きく広がり、自分の手のひらくらいの大きさの饅頭を一口で半分ほど食べてしまった。あきれるほどにおいしそうな食べ方だった。
「って、おまえ、食べれたのか?」
「何言ってるのさ、食べれるに決まってるじゃないか」
 九峪の指摘に、キョウはさも当然そうに答えた。
「だって、おまえは鏡の精なんだろ、なんで饅頭が食えるんだよ!」
「鏡の精だからって、食事ができないってことはないと思うけどなあ。たしかに食事をしなくても大丈夫なんだけどね」
「どういうことだ?」
「ぼくにとってはエネルギー――活力の摂取方法はひとつじゃないって言うこと。本体である鏡の中にいれば回復するし、強い霊力が満ちている神社なんかに行けば元気になれるんだ。同じように食事でも力を蓄えることができる」
 桔梗のことを気にしたのか、キョウは言葉を言い換えた。
「それに料理でもまずくてはだめ。おいしければおいしいほど活力になりやすいんだ。理由は良く分からないけど、たぶんおいしいものほど吸収したいっていう気持ちが強くなるからなんだと思う」
「つまり、食い意地がはってるってことか」
「……なんでそうなるのさ」
「宮殿にいたときは、どうせ貢物だとか言って料理をせびっていたんじゃないか?」
「そ、そんなことはないさ、ねえ、桔梗」
 キョウは九峪の疑惑に満ちた目から逃れるように、救いを桔梗に求めた。天魔鏡の精に頼られた桔梗はしばらく戸惑った表情をした後、おずおずと話し出した。
「えっとですね、伝承に『天魔鏡、そは巌華を映す鏡なり』とありまして……」
「巌華ってなんなんだ」
「食を司る神様です。おいしいものを食べることが全てに優先するとして、美食のために神々の寄り合いを欠席すると言われています」
 桔梗の言葉を受けて、九峪はじっとキョウをにらみつけた。健啖家の神様を映すということは、つまりその神様と同じということだ。キョウは九峪を見ずに、あさっての方を向いていた。
「ほかにも、お饅頭がお好きだという話も伝わっていましたので、お作りしたのですが、……ご迷惑でしたでしょうか?」
「そんなことはないさ、おいしかったんだから、……本当にそんな話が伝わってたの?」
「ええ、九洲の民ならばだいたい知っていると思います」
 こんなことで神器の精にうそをつく必要は無い。キョウは独り言のようにつぶやいた。
「わざわざ宮殿の外にそんな話を漏らすやつといえば、……こころあたりが多すぎるなあ」
「んっ、なんか言ったか?」
「たいしたことじゃないよ、……でも、まあ、ぼくがおいしいものが好きなのは本当だし、これももらうね」
 言うやいなや、残っていた饅頭をすばやく手に取った。九峪が何か言う前に口をつけてしまう。
「あっ、てめえ、楽しみにしてたのに」
「考えてみたら、ぼくは力を回復しなけりゃならないんだし、いっぱい食べて当然だよ。この二日間、食べていなかったほうがおかしいのさ」
「だからって、人のものに手を付けるか? ほんと食い意地がはってやがる」
「なんとでも言えばいいさ、ぼくはおいしい饅頭が食べれて幸せだからね〜」
「このやろ〜」
 九峪は本気で悔しそうに、キョウの手につかまれた饅頭を見つめた。九峪は和食だけでなく、和菓子も好きだった。幼馴染からは、爺さんくさいなどと言われていたが、好きなものはしょうがない。その幼馴染も好んで食べていたのだから他人のことは言えないとは思ったが――
 とにかく、九峪は素朴な味を期待させる饅頭を楽しみにしていたのだ。
「まあまあ九峪様、今度またお作りしますから。楽しみに待っていてください」
 桔梗のとりなしに、九峪はしぶしぶとキョウから視線をはずし、お茶を飲んだ。
「桔梗さん、約束だからな」
「はいはい、違うおかしも作って差し上げます」
 桔梗は子供を見るかのような目で九峪に答えた。その目に反発を覚えないでもなかったが、今のやりとりを見ていたら当然の反応かと納得する。視線を木簡に移し、そこで疑問を思い出した。この部屋で木簡を読み始めてからずっと不思議に思っていたことだ。
「なあ、桔梗さん」
「何ですか?」
「木簡の内容のことなんだけど」
「どこかわからないことがありましたか? わたしの分かる範囲内ならばお答えいたしますけど」
「ここの木簡を読んだことがあるんだ?」
「ええ、里長からは許可をもらっていますので……どうかなされましたか?」
 九峪の意図が分からないようで、桔梗は持ち上げたお盆をまた下ろしていた。
「なんでこんな木簡がここにあるんだ? 書かれている内容が普通じゃないと思うんだ」
 九峪は部屋の奥のほうに振り返り、棚に積まれている木簡を見回した。
 キョウの助けで木簡を読み進め始めてしばらくたったころ、九峪は一つの疑問を覚えた。木簡の内容があまりにも耶麻台国の実情に踏み込みすぎていたのだ。
 最初は伊雅がこの里に持ち込んだのかとも考えた。王族ならば、実情に詳しい木簡を持っていても不思議ではない。しかし、初めてともに夕食を囲んだ席で、伊雅はこの部屋に九峪が入ることの許可を里長に求めていた。木簡が伊雅の持ち物であるならば、他の人間に許可を求める必要など無い。自分で許可を出せばよいのだ。さらには桔梗も里長に許可をもらったと言った。つまり、木簡の管理者は里長ということになる。
 次に実際には書かれていないことを、キョウが勝手に話しているのかもしれないと疑った。しかし、ゆっくりと読み進めると間違いなく木簡に書かれている。文章はしっかりとした報告書の形式をとっており、でたらめを書いたとは思えない。
 それでも、信じられないようなことが書き綴られていた。
 曰く、初代火魅子は自身の血を用いて薬を作っていた。
 曰く、二代目火魅子は術の精度と構成においては姫神子を上回る天才であった。
 曰く、四代目火魅子は純潔の女性をいけにえとして儀式を行っていた。
 曰く、八代目火魅子は双子であり、途中で入れ替わった。
 曰く、十二代目火魅子はじつは火魅子の資質を持っておらず、つまり火魅子ではなかった。
 普通ならば真偽を疑う内容である。しかし、日付が矛盾無くつけられていること、何よりも当初読むのをしぶっていたキョウの態度が、内容が真実であることを強く印象付けた。
 やもすれば耶麻台国の闇を世間に知らしめてしまうような木簡がただの里にあるわけがない。必ず何かの理由があるはずだった。
「こんな重要な内容の木簡が、いくら王族が身を寄せているからといって、こんな山奥の里にあるわけがない。しかも、管理は里長がやっているようだし」
 九峪は桔梗のほうを見たが、とくにあせった様子はなかった。いずれ気づかれることはわかっていたということだろう。
「話せないことなら言わなくてもいいけど」
「いえ、とくに隠すようなことではありません。お答えします。……なぜ、この里に耶麻台国宮廷の内情を詳しく記した木簡があるのか、その答えは単純です。――ここの木簡に記録し続けたのはこの里の人間だからです」
 ちらっとキョウを見た。驚いた様子はない。知っていたということか。
「この里は、乱波の隠れ里なのです」
「乱波っていうと、あの無愛想女?」
「ふふっ、清瑞だけではないですよ。この里にいる人間全てが乱波なのです。もちろん、わたしも含めてですよ」
「桔梗さんが?」
「ええ、清瑞ほど強くはありませんが、……九峪様くらいならば、わたし一人で沈黙させることができると思います」
 ニコッと笑う、その姿からは強さは感じられない。機敏な動作には気づいていたが、乱波だとは思いもしなかった。
 乱波――現代では圧倒的に忍者といったほうが通りがいい。その存在は九峪にとっては完全にドラマの中のものであった。月曜八時の国民的時代劇番組のお色気くの一の印象は強かったが、戦国時代を扱った小説に出てくる忍者のイメージのほうが上だった。
 感情を徹底的にコントロールし、仲間の死に涙することなく、自身の命も任務遂行のために投げ出す。主君のために命をささげる草のもの。黒装束に冷徹な目、そして寡黙。正直、清瑞は九峪の持つ忍者のイメージにぴったりであった。
 しかし、目の前の女性はそのイメージとはかけ離れている。
 料理上手で愛想の良い笑顔。理想の妻と言うべきその姿から乱波をイメージすることは不可能だ。
 九峪の戸惑いにかまわず、桔梗はまじめな表情で話を続けた。
「この里は名を音谷(おとや)と申します。わたしたち乱波衆の名、『響』に関係する文字ということで里長が名づけたのです。――十五年前、耶麻台国は滅亡しました。このことはそのまま、耶麻台国に仕えていたわたしたちの存亡の危機を意味しました。わたしたちの選択肢は二つ、耶麻台国復興を目指してあくまでも狗根国と戦うか、それとも耶麻台国にはこだわらずに九洲から逃げ出すかでした。わたしはその時まだ七つの子供でしたが、大人たちがあわてていたのをよく覚えています」
 桔梗の目は遠くを見つめていた。その目によぎるものが何なのか、九峪にはまだ分からなかった。
「それで、どうなったんだ?」
「……わたしたちはどの選択肢も選べませんでした」
「え?」
「同じく耶麻台国に仕えていた乱波衆『華辣』(からつ)がわたしたちより早く選んだのです――三つ目の選択肢を」
「三つ目の選択肢?」
 桔梗は九峪を真正面から見据えた。
「華辣衆は――狗根国に寝返ったのです」
 そういえば真っ向から向かい合うのは初めてだったなと思う。こんなに真剣な顔を見るのも初めてだった。
 桔梗の目は少し潤んでいた。目にはいくつもの感情が交差し、九峪にはその正体が分からない。今まで以上に、年上の女性であるということを痛感する。瞳はさらに潤み――
 ――涙!
 目じりから何か流れるようなものが見え、指で目をこする。あらためて彼女の目の斜め下を見ると、そこに涙の跡は無かった。
「華辣衆が案内役を務め、狗根国軍が殺到してきました。不意をつかれたわたしたちは水際で応戦しましたが、衆寡敵せず、半刻もしないうちに里の中に敵が侵入してきました。あとは逃げ惑うだけだったようです」
 微妙な言い方だった。桔梗は九峪の視線に気づいたようだ。
「ええ、わたしは敵が里の中に侵入したときにはもういませんでした。里のおじいさんやおばあさんが必死に守っている間に逃がしてもらったんです。――この里にいる人はみな、犠牲の上に生きているんです。わたしたちを守るために戦ってくれた人たちのためにも、耶麻台国を復興させよう、狗根国を九洲から追い出そう、そして、華辣衆に報いを与えようと新たに里を作りがんばってきました」
 決意を述べる桔梗の声は力強かった。桔梗だけでなく、里の全員が同じ思いを胸に抱いているのだろう。耶麻台国復興にかける思いの強さ――彼らの力を借りて復興を企てるのならば、その思いを背負わなければならないのだろうか。共に戦うことなどできるのだろうか。九峪には分からない。
「……ちょっと、湿っぽくなっちゃいましたね。ごめんなさい」
「いや、ありがとう。里のことが少し分かったような気がするよ」
 九峪は桔梗に向かって頭を下げた。その態度に桔梗は少し驚いていたようだが、顔に笑みを浮かべ立ち上がった。
「勉強の邪魔にならないように、わたしはそろそろ下がります。あまり、無理はされないでくださいね」
 そう言って、九峪から湯飲みを受け取り、部屋を出て行く。残り香だけが部屋に残った。
 九峪は一度背伸びをすると、再び木簡に向かい始めた。
「ねえ、九峪」
 キョウが真剣な声で九峪を呼んだ。
「なんだよ?」
「この里の人たちの気持ちを分かってくれた?」
「……分かった気がするっていうのが正しいな。仲間が殺されて復讐する気持ちなんて想像するしかない」
 九峪には親しい人間が死んだ経験は無い。人間というのは同じような経験をしなければ他人の気持ちを理解することはできないのだろう。
「復讐のためだけじゃないよ。みんな、狗根国が九洲の民に圧政を敷いていることを知っている。だから、戦おうとしているんだ」
「でも、それも俺には分からない。そうだろ?」
 九峪の問いかけに、キョウはただ沈黙だけで応えた。
「……もしかして、俺にそのことを教えたくてこの里のことを教えなかったのか?」
 考えてみれば、キョウは里のことを知っていたはずだ。九峪が木簡の内容に疑問を持っていることも気づいていただろう。だとしたら、ここが乱波の隠れ里であるということも知っていたはずだ。
「答えろよ」
「……ぼくの口から言っても信じてくれくれそうになかったからね」
「どっちにしても同じことだったと思うけどな」
 桔梗とキョウ、どちらが言ったとしても、理解を超えていることには違いない。早めに教えてもらっていたほうが良かった。
「そんなことはないさ」
 キョウはふわふわと棚のほうへと移動していった。
「桔梗の言葉は彼女の思いに裏打ちされたもの。きっと、九峪にも伝わっていると思うよ。ただ、九峪にとっては重すぎる話だったということさ」
 後ろからでは顔は見えない。しかし、その声はいつもの人をなめたような口調ではなかった。多くのものを経験し、見てきたものだけが出せる語調。
 外見からは想像もできないが、おそらく四百年近くの時を経てきたのだ。ただの楽天的な大食漢であるはずが無い。
 ――結局、よく分からないやつなんだよな。
 九峪はそんなことを考えながら、読書へと戻っていった。








 隠れ里の周囲は林となっており、背後は崖がきりたっている。林にははっきりとした道はなく、その存在を覆い隠していた。ただ、隠れ里と林は七十歩ほど離れていて、侵入者が姿を隠す道具となるものは何もなかった。里の中にある建物は五十ほどで豪華なものではなかったが、作りはしっかりとしていた。
 建物が雑然と並ぶ中、東側には鍛錬を行うための広場があった。里の者が鍛錬場と呼ぶ広場には、木を組み合わせて作ったと思われる鍛錬道具が置かれていた。
 その広場の中央に九峪は肩を上下させながら立っていた。呼吸は荒く、足も震えている。それでも目はしっかりと前を見つめ、両手で刀の柄を握っていた。正眼に構えられた刀は真剣だった。ただし、その刃はつぶされている。
 剣の稽古が始まって半刻立っていた。
 キョウは天魔鏡の中で眠っており、ここにはいない。清瑞は里長に呼ばれ、他の者に警護役を変わってもらっていた。朝食のときの件で、清瑞にはしごかれるのは必死だっただけに、九峪は清瑞がいないことにほっとしていた。
 もっとも、それで稽古が楽になるわけではない。目の前には大きな壁がどっしりと存在していた。
 真剣の重さが両手にずっしりとかかる。九峪は最初、木刀を使って稽古するものだと思っていたが、伊雅の稽古方針により刃をつぶした練習用の刀を使うことになった。伊雅の意見では、最初から真剣の重さになれていなければならないということだった。
 最初は重過ぎると思っていた刀もだいぶなじんできていた。
 九峪が深く息をついた瞬間、金属と金属がぶつかる甲高い音がし、九峪の手から刀が飛ばされていた。
 呼吸が乱れ、肺に痛みを覚えながらも、間合いを取ろうと後ろに跳ぼうとする。それよりも早く左肩に衝撃を覚えた。
 ――左肩が無くなった!?
 あまりに強い衝撃に神経の接続が一瞬切れてしまったのだろう。九峪は自分の左腕がつながっているのか分からなくなってしまった。
 なんとか踏ん張っていた両足が砕ける。――限界だった。
 倒れるようにして、仰向けに転がった。
 太陽が目に入る。春の日差しとはいえ、やはり太陽はまぶしい。軽く目をしかめながら、春の青空をただ見上げた。
「限界ですかな?」
 九峪と太陽の間に大きな影が割って入った。
「ああ、限界だ。もう立てない」
 足が軽く痙攣を起こしている。しばらくはこの体勢でいるほかない。
 疲れて反応の鈍くなっている右手を左肩にあてた。左肩は――あった。安心すると同時に鈍い痛みが左肩に走る。肩当が無ければ、左肩は間違いなく砕かれていただろう。そのことを理解し、恐怖した。
「だいぶ反応が早くなりましたな」
 大きな影――伊雅はそう言うと剣を鞘に戻し、九峪の足の側に膝をつき、九峪の足をほぐし始めた。九峪は全身の力を抜いた。さえぎるものが無くなり、日差しが九峪の顔を照らした。
「とてもそうは思えないな。一昨日、昨日とやられるばっかりだ」
 日差しがまぶしく、目をつぶる。
「いえ、先ほどはわたしが剣を打ち飛ばした後、後ろに下がって間合いを取ろうとされました。昨日までの九峪様ではできなかったはずです」
 たしかに伊雅の言うとおりだった。昨日までは刀を飛ばされたことも分からず、打ち据えられいたのだ。ずいぶん進歩したというべきなのだろう。しかし、結局、左肩を強く打ち据えられたことに違いは無い。当然、伊雅もそのことは分かっていた。
「ですが、後ろに下がるというのは間違いです。失礼ながら、九峪様の歩法ではどれだけ速く下がろうとも、わたしの剣は追いつきます。あの場合ならば、前に出て間合いを詰めるべきでした」
 間合いを詰めてしまえば、打撃も本来の力を発揮できないということなのだろう。理屈は分かる。しかし、実際にそれだけで殺せそうな気迫を前にして踏み込めるものか。いや、何よりも前に出るという発想ができなかったのが問題だ。
「……才能がないってことなのかな?」
「何かおっしゃいましたか?」
 九峪のつぶやきは伊雅には聞こえなかったようだ。
「いや、なんでもない」
 泣き言は聞かれたいものではなかった。才能がないという言葉は努力し尽くした人間だけが言える言葉だ。今の九峪ではただの言い訳にしか過ぎないだろう。
「ところで、九峪様、お聞きしたかったのですが――なぜ、剣の訓練などをされるのですか? わたしは九峪様を戦場にお出しするつもりはないのですが――無論、キョウ様も同じお考えでしょう」
 伊雅としては、九峪はあくまでも耶麻台国復興の象徴であった。耶麻台国復興を神々も望んでおられるということで、復興への機運を高める存在、それが九峪であった。その重要な存在を死なせてしまうわけには行かない。戦場に出てしまえば、どれだけ厳重に警護したとしても万が一を排除することはできない。九峪を戦場に出すわけには行かないのだ。
 九峪は肩当――中には綿が詰められており緩衝材となっている――をはずし、ゆっくりと揉み始めた。
「べつに戦場に出たいわけじゃないさ。でも、身を守る必要があるのは戦場だけじゃないだろ」
「それはそうですが……」
 だからといっていきなり剣の稽古というのは話が飛躍している。伊雅の戸惑いが伝わったのか、九峪は続きを話し始めた。
「ま、本当のところは怖かったからなんだけどな」
「怖いとは?」
「この里にたどり着いたとき、無愛想女がいきなり刃物をのど元に突きつけて来ただろ?」
「あ、あれはまことに申し訳ございませんでした」
「いや、あれはもう気にしてないんだけど、無愛想女が『殺すか』って言った瞬間、もう死んだんだなって思った。そんなふうに思ったのが悔しくって、でも、何よりも怖かった」
 のどに手を当てた。あの時に感じた痛みは錯覚だったが、痛みの残滓は残っている。
「俺はまだ死にたくない。なら、身を守る術を学ばなくちゃならない。そのとき、目の前にいたおっさんが強そうだったからさ。稽古を頼んだんだ」
 そう、死んでしまったら現代には戻れない。命がなければどうしようもない。生まれてはじめて感じた『殺気』によって、九峪は死の恐怖を学んでいた。
「……なるほど、分かりました。清瑞の行為も役に立っているようですな」
「ん?」
「自分が何のために努力しているのか――それがわかっていなければなかなか上達いたしません。そういう意味では清瑞は九峪様のお役に立ったようですな」
「……そうかもな」
 無愛想女の顔を思い出す。鋭い目つきに、ハスキーな声。
 のどに痛みが走った。
 殺されかけたときの表情を思い出してしまったのだった。
「九峪様、足の調子はもうよろしいですかな?」
 伊雅は足をほぐす手を止めて、足の状態を聞いてきた。
「ああ、もう大丈夫だ」
「そうですか――では、今日の稽古はこのあたりにして、近くの滝に行ってみてはいかがですかな? 清瑞に案内させますので」
「滝かあ、気持ちよさそうだな」
「ええ、今日は暖かいですし、子供たちも滝のあたりで水浴びをしているはずです」
 伊雅の提案に、九峪はすっかり乗り気になっていた。さっきまで痙攣していた足をいたわるようにゆっくりと立ち上がる。一瞬、力が抜けるような感じがしたが、とくに異常はなかった。
「清瑞も戻ってきたようですな」
 鍛錬場の出入り口に目を向けると、言葉どおり清瑞がいた。伊雅が清瑞を手で招くと、清瑞は駆け足で近寄ってきた。
「御用でしょうか?」
 九峪のことはきっかりと無視して、清瑞は伊雅に用向きを伺った。
「九峪様を滝に案内して差し上げろ」
「……はっ、了解しました」
「うむ、わたしは一足先に屋敷に戻っている。頼んだぞ」
 伊雅は九峪の使っていた訓練用の刀を拾い上げ、鍛錬場を出て行った。その姿に疲れはまったく見えない。
「あれで四十後半なのか――信じられないな」
 自分はといえば足をマッサージしてもらったとはいえ、少し気を緩めてしまえばへたり込んでしまいそうになる。伊雅の頑強さがうらやましい。
「おまえといっしょにするな」
 清瑞が九峪のほうはまったく見ずに声をかけてきた。
「身体の鍛え方が違うのだ。しかも常に実践を前提として身体を鍛えておられる。日々の修練の賜物なのだ」
「まあ、そうだろうな」
 九峪はとくに反論せず、素直に相槌を打った。年齢を経てもあれだけの体力を維持するには、たゆまぬ努力が必要であることは容易に想像がついた。
「では、滝に案内するからついてこい」
「はいはい」
 神の遣いに対する言葉使いではないが、九峪としては注意する気にはなれない。自分は神の遣いなどではないのだから。
 清瑞の背中を追って歩き始めた。


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