〜戦  雲〜


作・ゴーアル様


第一話 出会い


 鳥のさえずりが辺り一帯に響いている。
 さえずりは一つではなく、何種類もあり、しかも力強さに満ちている。
 森の生命力が満ち溢れている中で、一人の少年が倒れこんでいた。表情は苦しげなものではなく、ただ眠っているだけのようだ。
 少年の横に、奇妙な服を着た生き物が浮かんでいた。かなり小さく、身長は少年の顔と同じといったところだ。その生き物が少年に声をかけていた。
「ねえ、キミ。キミったら」
 少年の耳元で甲高い声を上げるが、少年はぴくりとも動かない。
「なんでこんなのがついてきちゃったんだろ。……仕方ない、強硬手段だ」
 そう言って、少年の口と鼻の穴を押さえた。
 少年の顔色が赤く変わり、次には青く変わっていった。
 そろそろ限界かと思われたとき、少年が手を振り回し、跳ね起きた。
「ぜえ、ぜえ」
 少年は胸に手を置き、荒い呼吸を繰り返しながら、息を整える。頭を振り回し、ゆっくりと気を落ち着けた。
 いったいなんなんだ。
 突然の死の恐怖に頭の混乱が収まらない。何も分からず、ただ頭をかく。
 嗅ぎなれない臭いが鼻をつんとつく。覚えのない、それでいて懐かしい臭い。右手の感じる地面の感触がやわらかいことに気づいた。軽く指を動かすと、地面が簡単にえぐれる。かさかさという音が立つ。地面をつかみ、手のひらの中をのぞく。落ち葉の混じった土、腐葉土だった。
 なんでこんなものがある。森の中なのか。
「いったい、なんだってんだ」
「それはこっちの台詞だよ」
 突然、横からかけられた声に、少年は思わず右手を横に振るった。手に何かが当たる感触がした。
「な、なんだ」
 右手をむくと、そこには変な生き物がいた。
「もう、ひっどいなあ」
「しゃ、しゃべった?」
「キミねえ、そんなことよりも言うことがあるんじゃないの? 一言謝るのが人間としての礼儀なんじゃない」
 どうやら右手が当たってしまったらしい。
 変な生き物はぷかぷかと浮かびながら文句を言ってきた。
 どうにも頭がうまく働かない。
 冷静に変な生き物の姿を確かめてみる。大きさは男の頭二つ分といったところだろうか。体型は三頭身で、体の割りに頭が大きく、ずんぐりむっくりとしている。青一色の服の上に、白い前掛け。前掛けには魔方陣のようなものが描かれていた。黄色い触覚のようなものが二つ頭からたれ、愛嬌を振りまいていた。
「ねえ、キミ、キミったら、人の話を聞かないなんてさらに失礼だよ」
「お、おう、すまない」
「まあ、謝ってくれたならいいんだけどね。それで、キミの名前はなんていうの?」
「九峪、九峪雅比古だ」
「ふ〜ん、僕の名前はキョウっていうんだ。一応聞いておくけど、キミって女の子じゃないよねえ?」
 頭が真っ白になった。これまで生きてきた中で、女に間違われたとこは一度だってない。いきなり怒りがわいてきた。何も分からず森の中に放り出され、変な生き物が空中に浮かんでいる。そして、寝起きは死ぬ一歩直前だった。
「俺のどこをどう見たら女に見えるんだ! っていうか、おまえだよな、さっき俺を殺そうとしたのは!」
「えっ、なんのこと? ぼくはキミを起こそうとしただけだってば」
「人を起こそうとして、なんで息を止めるんだ!?」
「最初はちゃんと声をかけたんだよ。でも、なかなか起きないからしかたないじゃないか。このあたりは人間が無防備に寝てていいような安全な場所じゃないんだから」
「熊でも出るって言うのか」
 投げやりにあたりを見回す。落ち葉が敷き詰められた大地。濃密な空気があたりに立ち込め、力に満ち満ちた樹木がまっすぐに伸びている。ゆったりとした流れの中に感じる力強さ。木々の葉から刺し込む木漏れ日にどこか違和感を感じる。そう、ここには人の存在がない。
「ん〜、熊も出るけど、獣で怖いのはやっぱり狼かな」
「何、狼が出るのか。そりゃまあ怖いけど。ん、……何言ってんだ、日本に狼はいないだろ。ずいぶん前に絶滅しているはずだ」
「うん、キミの時代はそうらしいね」
「そうだろ、そうだろ」
「でも、この九洲にはいるんだよ」
 キョウがおかしなことを言った。
「九州? 日本にはいないってさっき同意しただろうが」
「うん、日本にいないんだから九州にいるはずがないよね。でもぼくが言っているのは『九州』ではなくて『九洲』なんだよ」
 ぷかぷかと地面に降り、枝をつかんで地面に文字を書いた。
「九洲? これは何の冗談だ」
「冗談じゃないよ。はあ、仕方ないか。一から説明するよ」
 この変な生き物と出会ってまだ十分程度。知り合いともいえないかもしれない短い付き合いだ。それでも、九峪には分かった。キョウの表情がこの上なく悪戯なものであると。
 そして、キョウは不思議な話を語り始めた。


 ここは九洲、火と水の加護を受けし大地。
 この地は耶麻台国が統治してきた。国の主は代々火魅子と名乗る女王であった。
 建国者である姫神子――初代火魅子は天界人であったという。神とも崇められる強大な力を持つ巫女として、天候を動かし、天変地異を予測し、耶麻台国をして九洲を統一せしめた。火魅子の神通力は九洲全土にあまねく広がり、九洲の民は火魅子のもとで一致団結した。耶麻台国は他国が恐れる強国への道をひたすら突き進むことになった。
 姫神子の時代に耶麻台国の国としての体制はでき上がった。姫神子が天寿を全うしてのちも、直系の女王が国主を勤め、国力を充実させていった。そうして、耶麻台国は順調な発展を続けていたが、百年ほど前から直系から女子が生まれなくなった。
ここから耶麻台国の衰退が始まった。それから二代に渡って傍系出身の火魅子の資質を持つ女子を女王に立て、国を保った。しかし、五十年ほど前からは傍系からも火魅子の資質を持つ女子が生まれなくなった。国は傾き、活力は消えていった。
 そして、狗根国が大軍をもって進軍し、耶麻台国は滅びた。
 九峪は口を挟まず、キョウの話を聞いていた。キョウは先ほどと同じように地面に文字を書きながら説明を続けた。
 わけの分からないことが多すぎた。火魅子? 耶麻台国? 天界人? いったいなんだというのか。
「ちょっと待て。おまえ、なに言ってるんだ。火魅子に耶麻台国、漢字の間違いにもほどがあるだろ。そもそも、そんな何千年前の話をして何の意味があるんだっていうんだ」
「ぼくは何も間違ってないよ。ちゃんと話し聞いてた?」
「ただの御伽噺だろうが」
 九峪は聞く耳を持たないというように、そっぽを向くと、キョウはそっとため息をついた。
「はっきりと言わなかったのがまずかったのかな。いい? ちゃんと聞いてよ。ここはキミたちの歴史で言うと、だいたい三世紀ころの古代九洲なんだ」
 頭がついていかない。
「タイムスリップでもしたっていうのか?」
「ちょっと違うね。正確に言うと、平行世界だね」
「平行世界? なんだそりゃ」
「まあ、詳しいことはどうでもいいんだけど、要するにこの世界はキミたちの世界の直接の過去ではないということだ。まあ、キミにとってはタイムスリップと変わらないね」
 キョウは本当にたいしたことはないと思っているように見える。
「一つ聞いていいか? なんで俺はタイムスリップしたんだ?」
「ああ、それはぼくが連れてきたからだよ」
「何だって?」
「だから、僕が連れてきちゃったんだってば」
 九峪は自分の中で限界を超えたのがはっきりと分かった。怒りがあふれ、キョウの次の言葉を聞き逃してしまった。
「まあ、本当はキミを連れてくるつもりはなかったんだけどね」
 もし、この言葉を聴いていたなら、キョウの命運はここで尽きてしまっていたであろう。九峪は必死に小生意気な生き物の首を絞めたいという衝動を抑えていた。
「……じゃあ、元に戻せ」
「え?」
「おまえが俺を連れてきたんだろ。だったらすぐに俺の時代に帰せ。俺の家に帰してくれ!」
 九峪はキョウをにらみつけた。
「そ、それは無理だよ。僕は時間をさかのぼることしかできないんだ」
「何でだ。未来も過去も、時間を移動しているのに変わりはないだろ。元の世界に戻ることもできるんじゃないのか」
「僕はそういう風にはできないんだよ」
「……どういうことだ」
「そう言えば、ぼくのことはまだ説明してなかったっけ。ぼくは耶麻台国の神器の一つ天魔鏡の精なんだ」
「天魔鏡? なんだそれは?」
「キミの横に転がっている銅鏡のことだよ」
 九峪が横を見ると、そこにはたしかに鏡が転がっていた。
「これはたしか遺跡で発掘された銅鏡? ……そうか、こいつのせいで俺は――」
 九峪の声には限りない怒りがこもっていた。
 発掘途中の遺跡、発見された木簡に、銅鏡らしきもの、そして、日魅子のこと。
 最後に見た日魅子の姿が、一気によみがえってきた。
 薄暗い保管庫の中、日魅子は何かに憑かれたように銅鏡を探していた。いや、おそらく本当にこの鏡に憑かれていたのだろう。九峪は日魅子の様子を怪訝に思いながらも、一人にしておくわけにもいかない。日魅子に押し切られるようにして銅鏡探しを手伝っていた。そして、いつの間にか外に出してあった銅鏡に日魅子が近づいていく。鏡まであと三歩というところで、鏡から黒い影のようなものが立ち上り、日魅子の胸にかかった鈴が浮かび上がり、その体は光の粒子へと変わっていった。
 九峪は本能的に鈴が原因だと判断し、鈴を日魅子からもぎ取った。そして、今度は自分が粒子になり、鏡の中へと吸い込まれていくのに気づいた。
 自分の体が形を失っていく感覚。世界が崩れる。全てを頼りなく感じる中で、日魅子の声を聞いた気がする。自分の名を呼ぶ声の方に手を伸ばし、そして世界が暗くなった。
 あれがすべてこの鏡のせいだって言うのか。
 両手で抱えていたそれをおもむろに頭上高く持ち上げる。怒りにまかせ、勢いよく地面に叩きつけ――
「ちょっと待って!」
 九峪はじろりとにらみつける。
「なんだ?」
「今、何をしようとしたのさ!」
「この鏡のせいで、おれはこんなところに飛ばされたんだろ。壊して何が悪い」
「キミはまるで話を聞いてないんだね。ぼくは天魔鏡の精っていったろ。その鏡が壊れるってことは、僕にとっては死と同じことなんだよ」
「……別に問題はないんじゃないか。おまえが俺をタイムスリップさせたってことなんだから」
 九峪の本気を感じ取ったのか、キョウがすくみ上がった。
「ちょっとそれは勇み足だよ。キミはこの世界のことはまるで分かってないんだから。僕がいなくなると右往左往して盗賊に殺されちゃうのが落ちじゃないかな」
「……それは脅迫か?」
「そうじゃないよ。ただ事実を言っているだけさ」
 さっきまで怖がっていたのがうそのように、キョウは底意地の悪い顔をした。
「それに、帰る方法がないわけじゃないんだよ」
「さっき、おまえには俺の世界に送ることは無理だって言ったじゃないか」
「うん、僕には無理だね。そもそも天魔鏡は姫神子が愛用していた鏡なんだ。愛用品として、常にそばにあったことで姫神子の力が移っていたんだけど、あるとき姫神子が儀式を行って、僕を生み出してくれたんだ。世界を見るための道具としてね」
「世界を見る?」
「そう、鏡はね、二つの世界をつなぐもの。姫神子は僕を使って世界を知り、統治を行っていた。そして、天魔鏡の精として生まれた僕はいくつかの能力をいただいたんだ。その一つが世界を渡る力。天穴――キミたちの言葉だとタイムホールかな――それをある一定条件のもとで開いて、世界を渡ることができる。ただ、いくら姫神子の力をいただいたって言っても、世界を渡るなんてことは精霊には荷が重い。だから、その能力を限定することによって力を強化したんだ」
「時をさかのぼる方向にしか使えないってことか」
「そういうこと。ぼくにはキミを帰すことができないっていうことは理解してくれた?」
「ああ、とりあえずな。じゃあ、どうやったら帰ることができるんだ。そういう力を持ったやつがいるのか?」
「火魅子だよ。火魅子ならば時の御柱を動かし、天穴を作り出し、キミを元の世界に送ることができる」
「そうか、その火魅子っていうやつに会って頼めば……、おい、さっき火魅子っていうのは耶麻台国の女王って言ってなかったか」
「うん、そうだよ。なんだ、ちゃんと話は聞いていてくれてたんだ」
「それでその耶麻台国は滅亡しているんだよな」
「そうそう」
「じゃあ、火魅子もいないんじゃないか?」
「それもそのとおり」
 キョウはどこかうれしそうにしている。話を聞いてくれていたのが分かったからだろう。九峪にとってはむかつくだけだった。
「じゃあ、どっちにしろ元の世界に帰るのは無理だろうが!」
「今はそうだね」
「……どういう意味だ?」
「つまりさ、九洲から狗根国を追い出して、耶麻台国を復興させる。そして、火魅子を即位させればいいんだ。簡単でしょ?」
 アメリカの首都を聞いてくるような気軽さで言ってくる。しかし、一国を再興させることが簡単はずはない。そして、それ以上に問題がある。
「ちょっと待て、復興させるって誰がやるんだ?」
「キミに決まってるじゃないか」
「ふざけるな、そんなことできるわけない」
「できなければ、元の世界には戻れないよ」
「ぐっ……他に方法はないのか?」
「あとは天界の扉を見つけるしかないね。でも、天界の扉は伝説に過ぎないし、それを見つけることができたとしてもキミが元の世界に戻れるとは限らない。確実なのは最初に言った方法だね」
 言い含めるように話すキョウに、九峪は何も言うことはできない。
「だからキミが火魅子の資質を持つ女子を探して、耶牟原城を解放し、耶麻台国を復興するんだ」
「火魅子の資質なんてどうやったら分かるんだよ。それに今、生きているかどうかもわからないだろ」
「資質を持った女の子がいるのは間違いない。耶麻台国が滅亡するときにも何人かいて、国王が各地に逃がしていたはずだ。それに、火魅子の判断については、ぼくにまかせてよ。ぼくは火魅子の血筋を見分けることができるんだ。もちろん、火魅子の資質を持つものも分かるんだ」
 だから大丈夫だよと、キョウは笑いかけてきた。その気楽さがどうにもむかついて仕方がない。
「とりあえず、キミには神の遣いを名乗ってもらうことにしよう」
「神の遣い?」
「そう、キミがいきなり耶麻台国を復興させようと思っても、一人じゃあ無理に決まってる。各地で狗根国に抵抗している耶麻台国の臣下たちや豪族なんかに協力を頼まなければならない。そんなことをただの高校生にできるわけはないだろ。だから、キミは神の遣いを名乗って、それらの勢力を糾合するんだ。そして、耶麻台国の復興を目指す軍、耶麻台国復興軍を作り上げるんだ」
 キョウは自慢げに胸をはった。
「神の遣いなんて名乗っても、誰も信用しないだろ。馬鹿にされるのが落ちじゃないか?」
「ぼくがいるから大丈夫だよ。天魔鏡の精を呼び出すことができるのは火魅子だけってことになっているしね。キミが天魔鏡の精を呼び出すことができるということは、すなわち神の遣いってことになるんだ」
 キョウは自信満々であったが、九峪は確信を持つにはいたらなかった。現代とは違って、この時代の人たちは信心深いのかもしれない。ただ、九峪には神の遣いというのは馬鹿らしく思える。それは自分自身の信心の問題なのだろう。
「まだ納得できてないみたいだね。たしかに君の時代なら神の遣いを名乗るなんて、はっきり言っておかしいかもね。でも、どうもキミには分かってないみたいだけど、ぼくは九洲の民にはとっても神聖視されているんだ。そのぼくが神の遣いであることを明言すれば、みんな信じるさ」
「本当かよ?」
「疑い深いなあ。まあ、キミの疑問ももっともだし、まずは伊雅に会いに行こうか」
「伊雅? だれだそれ」
「耶麻台国の副王さ。質実剛健、誠実さで知られた人物さ。戦が不得手であった兄王に変わって、狗根国と最前線で戦い続けたんだ」
「その人物と会ってどうするんだ?」
「わっかんないかなあ、伊雅はね、王族であり、しかも人望の厚い人物なんだ。各地の反抗勢力とも連絡を取り合っているはずだ。その人物がキミのことを神の遣いと認めたらどうなる?」
「人望の厚い副王が神の遣いであることの担保になるってことか」
「そういうこと、しかも各地の反抗勢力にも渡りをつけることができる。一石二鳥だよね」
 キョウの言っていることはたしかに筋が通っている。それに、ここが本当に九洲という世界ならば、九峪には帰るべき家がないということになる。寝床を得るためにも伊雅に会いに行く必要がある。
 それにしてもと思う。伊雅という人物が本当にキョウの言ったような人物であるならば、九峪は伊雅をだますことになる。キョウはそこまでを計算に入れているに違いない。なんて腹黒いやつなんだ。
「納得してくれたみたいだね。じゃあ、行こうか」
「その伊雅っていうのはどこにいるんだ?」
「近くにある隠れ里にいるはずさ。そんなに遠くないよ。さあ、急ごう」
「わかったよ」
 九峪がうなずいたのを確認して、キョウがゆっくりと動き出す。
 そして、九峪は最初の一歩を踏み出した。







 空が赤く染まり、山の木々や岩も赤に侵食される。生き生きとした緑が赤に変わり、どこかさびしげな風情をかもし出す。優しさを感じさせる春風が木々を揺らす中に、一つの影が自然に溶け込むまま存在していた。周りの風景をまったく損なうことなく、ゆっくりと移動している。
 女だ。
 黒装束に身を包み、一切の個性を打ち消している。ただ豊満な胸と、どこかやわらかさを残した肢体だけが女性であることを主張していた。
 女は木々や岩と同化しているかのように見える。その視線は厳しく、ただ一点を見つめていた。
 視線の先には二つの人影。
 いや、一つは人間ではない。ぷかぷかと宙を浮かびながら、ゆっくりと進んでいる。そのようなものが人間であるはずがない。もう一人の人間が左道か方術で生み出した使い魔といったところだろう。何かの精霊なのかもしれないが、それを判断する術はない。使い魔、精霊のどっちにしろ、人間にはない超常の力を秘めている。警戒は必要だが、相手はこちらに気がついていない。現状では特に問題はない。
 人間のほうは見たことがない服を着ている。男だ。身長は高く、服の上からもそれなりに鍛えられた体が見て取れる。しかし、肩で息をし、猫背になっている、その姿はひどく見苦しい。どうやら歩き疲れてしまっているようだ。この程度の坂で疲れるとは、どうやら体力面では警戒する必要もない。
 妙な組み合わせだった。
 男は疲れていながらも進む方向に迷いはない。もし道に迷っているのだとしたら、来た道を戻っていくはずだ。むやみに動いてはさらに迷いを大きくするだけだからだ。つまり、この男は明確な目的地を持っていることになる。
 普通の人間には獣道としか思えないような道。その先にあるのは隠れ里。守らなければならない家。そして、人。
 妙な服を着た男に、妙な使い魔。これが怪しくないわけがない。かといって、敵であるとも思えない。男の動きにはまるで訓練のあとが感じられないのだ。山を歩きなれている感じもない。
 この男たちは囮かとも考えた。男たちに注目を集めている間に、他の主力が里を目指す。
 しかし、こんなところで見つかっても意味がない。実際、定期的な見回りの際に発見して、すでに仲間には連絡している。すでに里の警戒度は最高となっているはずだ。それでは相手にとって、まるで意味がない。
 まあいい。この男たちが隠れ里の位置を知っていることは間違いない。ならば、気づかれないようにあとをつけて、目的を探るだけだ。
 女はすっと動き始めた。
 そのあとでは鳥が変わらず鳴いていた。





 隠れ里、それは敵対する勢力から身を隠すために、見つかりにくい場所に作られたもの。
 深山幽谷の奥に位置するもの。
 そこにたどり着くためには、いくつもの困難を乗り越えなければならない。
 迷いやすい道。あたりを木々に囲まれているために、分かりにくい距離感。歩くのを邪魔する朽ち木や岩。そして、傾斜のきつい坂。
 それは考えてみれば当然のこと。隠れ里が人目につく場所にあるわけがない。九峪は隠れ里の持つ意味に気づかなかった自分を責めた。そして、九峪が誤解しているのが分かっていただろうに、黙っていたキョウを恨んだ。
 絶対、こいつだけは信じねえ。
 九峪がそう決心を固めていると、キョウが笑顔を浮かべつつ声をかけてきた。
「がんばったねえ、九峪。ほら、あれが隠れ里だよ」
「……あれがか、なんか砦みたいだな」
「そりゃそうだよ。街の内と外をしっかりと区切る壁がなくちゃあ、獣や魔獣から身を守ることなんてできないからね。それに、ここは狗根国のやつらから隠れるための『隠れ里』なんだ。狗根国のやつらに見つかったときのことも考えないといけないからね」
「なるほどな。で、どうすりゃいいんだ?」
「うん、ぼくは一度、鏡に戻ることにする。そのほうが演出としてはいいと思うからね。九峪は一人で行って、伊雅を呼び出してほしい。堂々と神の遣いとして振舞ってよね。どうしようもなくなったら、ぼくが出て行くし、気楽にやってくれたらいいから」
「わかった。やるしかないみたいだからな」
「そうそう、これがぼくにとっては耶麻台国復興への、九峪にとっては元の世界に戻るための第一歩になるんだ」
 しっかりやってよね、そういい残してキョウは鏡の中へと入っていった。
 九峪は歩きすぎて疲れきっている体をおして歩き始めた。まだ小さく見える門までは三百歩といったところだろうか。疲れきった体にはつらい距離である。
 ここまで来る間にキョウとはかなり話をした。正直、話すのはだるかったが、この世界のことを知りたかった。そして、知ったのはこの地には危険が満ちているということだった。
 魔獣。
 狗根国の左道士によって魔獣界より呼び出された全てを喰らう獣。獅子を一撃でただの肉塊に変える強力な四肢と、狐以上の狡猾さを併せ持つ。人間ではたとえ完全武装をしていたとしても餌となることを逃れることはできないだろう。
 かつて、狗根国が耶麻台国に侵攻したときに、左道士は多くの魔獣を魔獣界から招いた。そのうちのほとんどは左道士の支配下にはなく、本能のままに九洲で暴れまわった。このことは後の統治のことを考えれば愚かなことである。魔獣が跳梁跋扈する大地など支配する意味がない。キョウの考えでは、左道士は九洲を実験台にしたとのことだった。なんでも狗根国の左道士の長が狂った人間なのだという。と言っても、九峪はまだ左道士なりものを見たことはないし、魔獣の恐怖を感じたこともない。だから、まるで実感がわかなかった。
 魔獣のこと以外も聞いた。この世界は九峪の考えている三世紀とは違うと言うこと。天界や仙界とのつながりがあったころに、かなりの技術流入があった。そのために現代でも実現されていないような技術がこの地にはあるという。
 実感はない。
 いや、実感など持ちたくないのだ。
 キョウの存在自体が九峪の常識を打ち壊す。いつの間にか、森の中にいたということも普通ではありえないことだ。
 そう、普通ならば。
 考えに夢中になっている間に、三百歩の距離は十歩まで縮まっていた。
 この門、そして壁は本物だ。どこか薄汚れているが、そのことが逆に存在感を強めていた。むしろ自分のほうが虚構であると感じるほどにしっかりと存在していた。
 このまま眺めていても仕方ない。ぼやぼやとしてキョウに皮肉を言われるのもしゃくだ。
 五歩、先に進んだ。
「たのもー!」
 九峪はあえて時代がかった呼びかけをした。周りの空気に影響されているのかもしれない。
 応えはない。
 聞こえなかったのか、それとも拒否されているのか。もっと大きな声で呼びかけるべきか、そう思ったとき、
「何のようだ?」
 背後から声をかけられた。
 この世界に来てから聞いた、自分とキョウ以外の初めての声。それは冷たく危険に満ちていた。
 振り返ろうとしてもできなかった。背中に感じる冷たく硬い感触。それが刃物であると思い当たったのは幸運だったのだろう。不用意に振り返っていたら、早くもこの世界とおさらばとなっていた。もちろん行き先は現代ではない。
「両手を挙げろ」
 九峪は素直に支持に従った。
「よし、ゆっくりとこちらを向け。下手な真似はするなよ」
 背中に感じていた感触がなくなった。ゆっくりと体を回す。刃物は今でも狙っているに違いない。
 まず印象に残ったのは目だった。厳しく冷たい目。感情がないのではなく、どこかに押し込めているような目。美人と言っていいであろう容貌に気づいたあとも、両目の印象には及ばなかった。
 青みがかった髪に整った顔。しなやかな肢体は獣のそれを思い起こさせる。
 女だということに気づいた。今までの生活では会ったことのない女、生き物だと思った。
 先に見た門や壁とは違う存在感。汚れではない。内に秘められた力が生み出す存在感。自分を打ち消すような力。
「軟弱な顔だ」
 カチンときた。自分という存在を思い起こす。
「まず、貴様の名前と目的を話してもらおうか」
 女はこちらの内心などにはかまわず、極めて事務的に話す。右手に持っている刃物が鈍く輝いている。
「おれは九峪雅比古、ここに来たのは伊雅って人に会うためだ」
 下手にはぐらかすのは危険だと考え、素直に応える。侮られないようにはっきりとした口調を心がけた。自信があるように見せかけなければならない。
「貴様!」
 気づいたときにはのど元に刃物が突きつけられていた。目の前で動いたはずなのにまるで分からなかった。強いまなざしが身体を貫いた。そう感じた。
「なぜ伊雅様がここにおられることを知っている? やはり狗根国の刺客か」
「おれは耶麻台国を復興させるために遣わされた神の遣いだ。伊雅に会うのは復興のための協力を要請するため。……おれが刺客と呼べるような人間かどうかなんて、あんたくらいなら分かるんじゃないのか?」
 背筋が凍りつくような悪寒を感じながらも、なんとか答えを返した。自分の弱さを主張するなんて悔しい気もしたが背に腹は変えられない。どうやっても目の前の女に勝てないのは分かっていた。
 のどに当てられた刃物はそのままだったが、刺客ではないというのはなんとなく納得したようだ。それでも疑いが消えたわけではない。
「わたしはおまえがここに来るまでずっと見ていた。妙な使い魔が銅鏡の中に入るところもな。もし左道を使うならば、武に頼らずとも人を殺せる。――それに、神の遣いだと? ごまかす気ならこの場で殺すぞ」
「ごまかすも何もおれが神の遣いだというのは真実だ」
 女の目をしっかりと見返す。
 自分は神の遣いだと心の中で何度も繰り返した。うそだと思いながら人を信じさせることができるほど器用なつもりはない。自分自身が信じ込まなければ、はったりは通じない。
 ただ、この女の目は全てを見通す目だった。
「やはり、殺すか」
 そうつぶやいた。
 背中だけでなく、身体全体、心までが凍りついた。のどに鋭い痛みが走り、自分がこれから死ぬことを確信してしまった。
 女の目はまったく変わることなく、刃物を横に――
「待ちなさい」
 深みのある声が空気を変えた。
 後ろで門が開く音がする。
「伊雅様! なぜここに」
「おまえが先走ってないかと思ってな。――どうやら心配は的中したようだ」
 女は恐縮したように顔をふせる。その瞬間、身体を凍らせていた何かがなくなった。途端に地面に座り込みたくなるのを必死でこらえた。
 握り締めた手がぬめる。手のひらが汗まみれになっていた。
「こちらを向いてもらえんかな」
 背後の人物――女の言葉を信じるならば――伊雅が声をかけてきた。
 女は刃物をのど元からはずし、振り返るように促した。
 九峪はそれを確認してさっきと同じようにゆっくりと向きを変えた。足が震えないようにしたつもりだが、できたかどうかは自信がない。
 伊雅は想像していたよりも穏やかな人物であった。年齢は四十代後半というところだろう。背も高く、鍛え上げられた筋肉は年齢をまったく感じさせない。しかし、百戦錬磨の武将と呼ばれる男にしては、まとう空気が和やか過ぎた。優しい校長先生としか思えない。もっとも九峪は武人という人種に会うのは初めてなのだから、比べる相手がいないだけなのかもしれない。
「あんたが耶麻台国副王の伊雅さんか」
「いかにも、わたしが副王の伊雅だ。もっともすでに滅亡した国だがね」
 伊雅は自嘲気味に応えた。
「おれは、その滅亡した国を復興させるために遣わされた神の遣いだ」
 キョウから伊雅という人物のことは詳しく聞いていた。耶麻台国の首都、耶牟原城が陥落した後も、各地の城で戦い続けた。戦況が著しく厳しくなっても、兵士や民衆を鼓舞した。いくつもの裏切りにあいながらも、戦うことをあきらめなかった勇士。決してただの武人ではない。王族として修羅場を潜り抜けてきた、九洲の民にとっての英雄だった。この人物を味方につけることができたならば九洲の民を全て味方につけることができる。
 キョウはそう力説した。
 ここで失敗するわけにはいかない。九峪はなけなしの勇気を振り絞った。
「ふむ、正直言って信じがたいな。失礼ながら、あなたにそのような力があるとは思えない」
「国を作るのは、その国に住む人たちだ。だから正確に言うと、復興を手助けしに来たと言うほうが正しいな」
「それが本当ならばうれしいことだ。耶麻台国が滅亡して以降、わたしはそれだけを目指して生きてきたのだから。――しかし、それだけに復興への困難を知っている。あなたはそれをいかにも簡単のように言うが、どうやって手助けをしてくれるのかな?」
 伊雅が探りを入れてきた。その視線は穏やかで、さっきの女のような鋭さはない。ただ、真偽を見分ける重みを感じる。違った意味で身体の動きを硬くさせた。
 しかし、九峪はここを好機と見て、語気を強めた。
「火魅子の資質を持つ者を探すんだ。国を復興させるためには、復興を求める民の存在が必要だ。そして、団結を目指さなければならない。そのために火魅子の資質を持つ者が必要となる。九洲の民にとって火魅子の持つ意味は大きい。火魅子の資質を持つ者が旗印となれば、耶麻台国の復興に大きく近づくことになる」
「なるほど、それはそのとおりだな。実際、我々も資質を持つ女子を探してきた。――だが、どうやって探すのかな? いや、それよりも資質を持つかどうかを判断するのかが問題なのだが」
「それはこいつを使うのさ」
 九峪は懐から銅鏡を取り出した。
 無造作に取り出された鏡を見て、伊雅は驚愕に身を震わせた。
「その鏡はまさか、……天魔鏡……」
 九峪は銅鏡の裏を軽く叩いた。
 鏡が一瞬、曇り、そして、輝いた。
 光が収まると、伊雅の目の前には青い服を着た変な生き物がいた。
「やあ、伊雅。久しぶりだね。話すのはたしか初めてだったよね」
「ま、ま……」
 先ほどまでの重厚さがうそのように伊雅は呆然としている。伊雅が鈍いのではなく、それだけ天魔鏡の精が彼にとって尊いということなのだ。
「伊雅様、どうなされたのです。この妙な生き物がどうかしたのですか?」
 女の声には驚きの響が混ざっていた。ここまで取り乱した伊雅を見るのは初めてなのだろう。
「うっ、妙な生き物っていうのは酷いなあ」
 キョウが女の方へと振り返った。
 女の発言に焦ったのは伊雅だった。あわてて膝をつき、不敬をわびた。
「申し訳ありません――馬鹿者! このお方は耶麻台国の神器の一つである天魔鏡の精、キョウ様なのだ。おまえもこっちに来てかしこまれ!」
「ほ、本当ですか!?」
「わしはキョウ様と話したことはないが、神器である天魔鏡はしっかりと覚えておる。間違いはない」
「も、申し訳ありません」
 女は伊雅の後ろに回り膝をついた。
「あ、ああ、そんなことは別にいいよ。いきなり天魔鏡の精だなんて言って信じてくれるわけもないからね……」
 おれに神の遣いを騙らせたのはだれだと、九峪は言ってやりたがったが、キョウの態度に不自然さを感じた。
 キョウは目線を動かさない。
 目線をたどると、そこにいたのは伊雅ではなく、女だった。
「キョウ様がおられるならば話は分かりました。キョウ様ならば火魅子の資質を持つかどうかを見分けることなど簡単ですからな」
 伊雅は喜びを隠せないのだろう。興奮した面持ちで顔を上げた。
「うん、ぼくは火魅子の血筋を見分けることができるからね」
 キョウは意味ありげに伊雅に視線を送った。
 その視線の意味が分かったのだろうか、伊雅は表情を隠し、ただキョウを見つめた。
 緊迫した空気があたりを包む。
 緊迫感を作り出しているのは伊雅のほうだ。キョウはただ戸惑っているように見えた。
「……まあ、いいか。とにかく、ぼくがいれば火魅子の資質を持つ女の子を捜すことができる。それだけでもずいぶん探索が楽になるはずさ。――そして、このぼくをキミのところにもたらしたということが、九峪が神の遣いであるということの証拠だ」
 キョウははっきりと断言した。
 伊雅はその言葉を受け、今度は九峪へと深々と頭をたれた。
 一般的な家庭に育ってきた九峪には、このように礼を尽くされた経験はない。はっきり言って居心地が悪かった。
「神の遣いは耶麻台国が復興するのに欠かせない『時』を運んできてくれる。それこそが九峪の力さ。そして、その『時』をいかすのはキミの役目だ、伊雅」
 キョウの言葉に、伊雅はただ平伏するのみだった。肩が震えている。キョウの話だと、この武人は耶麻台国が滅亡してから十五年間戦い続けてきたのだという。
 それはとてもつらいことだと九峪は思う。王族としての責務を感じ、支配者と戦い続ける。未来などまるで見えなかったにちがいない。多くの知り合いが死んでいったのだろう。その悲しみを理解することはできない。ただ思うだけだ。
 チクリと胸が痛む。
 神の遣いを騙る自分。とんでもない罪を犯しているのではないか、思いが自分を縛る。
 九峪は思い違いをしていた。
 人は悲しみしかない世界で生きていくことはできない。伊雅は彼なりの幸せも感じていた。そして、九峪が考える以上の苦悩をも背負っていた。それは今の九峪には知る由もないことだった。
「耶麻台国滅亡から苦節十五年、狗根国に抗い続けてまいりました。狗根国の圧制にあえぐ民を救おうと挑み続けました。そして、そのたびに狗根国の強さに圧倒されてきました。わが身のふがいなさを恨み、運命を呪いました。なぜ、今なのかと。なぜ、我の時代にこのような苦難が起きたのかと」
 肩の震えが一段と大きくなる。そして、勢いよく顔を上げた。
「ですが、わたしは今、自分の間違いに気づきました。王族に生まれたものは苦難と戦うことが義務付けられているのだと。そのために生を受けるのだと。わたしはここに誓いを立てます。この非才なる身の全霊をもって耶麻台国復興のために戦います。救いを求める九洲の民のために!」
 言い終えた伊雅の顔は気力にみなぎっていた。キョウが姿を現す前も、力強さは満ちていた。今はそれに若さも加わっていた。
 九峪は最初、圧倒され、そして、驚いた。
 人はここまで信念をもてるのだということをはじめて知った。
 これまでの十七年間、それなりにがんばってきたと思う。
 水泳に打ち込み、県ではかなりいいところまで行った。自分なりの目標を持ち、達成するために努力した。しかし、そこに信念はあったのか。自分の本質を写すことができたか。分からない。分かるのは目の前の男が自分以上に生命力にあふれているということだけだった。
 なぜか悔しかった。
「頼むよ、伊雅。キミの力が頼りなんだから」
「了解いたしました。――して、これからどういたしましょうか?」
 問われて、キョウは言葉に詰まってしまった。
 伊雅のつてを使って、火魅子の資質を持っていそうな女の子――王族出身の女子を探すというのは言われなくても伊雅ならば了解しているだろう。伊雅の問うているのはそれよりも深いことであった。すなわち、すぐさま各地の反抗勢力をまとめ上げ『復興軍』の成立を目指すか否かということである。
 あまりに急ぎすぎれば、狗根国に動きを察知されてしまう。このことを考慮すれば、じっくりと腰をすえて動くべきであるとも思う。かといって、いつかは動かなければならない。そのあたりの判断がどうにもつかなかった。
 策謀家ではあっても、指導者ではないキョウには少々荷が重かった。
 それほど期待はせずに、助けを求めて九峪を見た。
「ちょっといいかな?」
 九峪が伊雅に声をかけた。
「何でございましょうか、神の遣い様」
 下手なことは言わないでと、心配するキョウを横目に、九峪は軽く苦笑した。
「神の遣い様っていうのは仰々しいな。九峪でいいから」
「いえ、そういうわけには」
「そういう呼び方は好きじゃないんでな」
「……では、九峪様、何でございましょうか?」
 伊雅にとっては妥協点のようだ。しかたなく、九峪は話を続けた。
「勉強させてくれ」
「は?」
 伊雅だけでなく、キョウも間抜けな声を上げた。女はまだ顔を伏せているので、反応はわからない。
「だから、勉強させてくれないか」
「どういうことでございましょうか?」
「神の遣いとして、耶麻台国の復興を手助けするように遣わされたのはいいんだが、俺には九洲のことが、いや、九洲だけじゃない、この世界のことがよく分からないんだ。それで、教えてほしいんだ。敵である狗根国が実際どのような統治方法をしているのか、その意図するところは何なのか、そして、狗根国が耶麻台国に侵攻した理由は何なのか、ほかにも多くのことを教えてほしい」
 伊雅はじっと九峪を見つめた。
 先ほどとはまた違うまなざし。何かを見極めようとする目。
「……分かりました。この里には書物もそろえてございます。また、わたしもできるだけのことをお教えいたしましょう」
「頼むよ。ついでに剣術の訓練もお願いしたいんだけど」
「剣術は、ついで、で学べるようなものではございませんが――わかりました」
「あ、悪い、そういうつもりじゃ」
「いえ、かまいません。すぐに身体でお分かりになることですから」
 伊雅は特に気を悪くしたわけでもないようだが、九峪は怒らせてしまったかと反省していた。間が悪くなったような気がして頭をかいていると、キョウがきょとんとした表情でこちらを見ているのに気づいた。
「どうかしたのか、キョウ?」
「いや、さっきの伊雅の問いなんだけど……」
「キョウ様、わたしはいささか焦りすぎていたようです。少なくともこのような場所で結論を出せる問題ではないと思います」
 伊雅は頭に手をやり、あたりを見回した。
 太陽の残光もすでに弱まり、すっかり薄暗くなっていた。もうしばらくすれば、顔の判別がつかなくなるほど闇が深まる。
「そうだね、それじゃあ里にお世話にならせてもらっていいかな?」
「はい、山奥にてたいしたものはありませぬが、できる限りのおもてなしをさせていただきます」
「伊雅様」
 伊雅にしかられてからずっとかしこまったままだった女が、久しぶりに声を出した。
「わたしは先に里長の家に行き、料理の仕度を頼んでまいります」
「うむ、頼む」
 清瑞はじっとしていたことを感じさせない機敏な動きで立ち上がった。その姿は闇に同化しかかっている。むき出しの肌だけが、存在を感じさせていた。そのまま、門をくぐろうとすると、
「そこの黒い妙な服を着た変なねーちゃん、ちょっと待った」
 九峪が悪意に満ちた発言で呼び止める。先ほど殺されかかったのを思えば、この程度の悪意は当然のことだろう。
 しかし、女はまるで聞こえていないかのように、足を止めようとしない。
「おい、そこの黒いの、待てって言ってるだろうが」
「何だ?」
 女はようやく振り返った。闇が深まり、顔はすでに判別できないが、声だけでも面倒がっているのが分かる。
「聞こえているなら一度で止まれよ」
「わたしは黒い妙な服を着た変なねーちゃん、ではないのでな」
「他に当てはまるのはここにはいないだろうが!」
「……それで、青い妙な服を着ただらしない顔つきをした男が何のようだ?」
「それって俺のことか!?」
「ほかに当てはまる人間はいるか?」
 九峪は悟った。こいつとは一生仲良くすることはできないだろうと。それでも、なんとか怒りを抑えて、
「まだ名前を聞いてなかったと思ってな」
「わざわざ名乗る必要はない」
 その言葉の後に呼吸三回分ほどの間が空く。
 九峪はじっと答えを待った。
 あの鋭い視線が思い浮かぶ。知性を宿した獣の目がこの身を振るわせた。
 気に食わない女だが、その名は知っておきたい。
 闇が深くすでに五歩先の地面も見えない。
 もう去ったのか、そう思ったとき、
「清瑞」
 あの女の声が聞こえた。
「清瑞、それがおまえの名前なのか」
「人の名前くらい一度で覚えろ」
 女――清瑞の声はそれっきりだった。
 清瑞、静かな名前だと思った。
 あの女には似合わないんじゃないだろうか。
「驚きましたな」
 伊雅が声をかけてきた。
「何がだい?」
「いえ、清瑞が応えるとは思えなかったので」
 伊雅の声には尊敬の念がこもっていた。
 神の遣いに対してではなく、九峪本人に対しての尊敬。うれしくないわけではなかったが、正直、複雑だった。
 この武人にはもっと他のことで尊敬されたいもんだ。
 九峪は空を見上げた。
 そこには見たこともないほどの数の星が瞬いていた。






 九峪は里長の屋敷に泊めてもらうこととなった。屋敷と言っても、それほど豪華なものではない。周りの家屋に比べて、多少、立派であるというだけだった。
 夕食は伊雅と共にとった。里長も同席したのだが、あまりにも九峪を敬うので、九峪にとってはそれほど楽しい食事ではなかった。礼儀もすぎれば失礼になるということなのだろう。
 食事自体はなかなかおいしかった。わらびなど現代人にとっては食べなれないものも、もともと和食好きの九峪にとっては好物だった。特に芋の煮っ転がしは絶品だった。
 食後は、伊雅やキョウにこの世界のことを聞きつつ、昼間の疲れを癒した。風呂が恋しかったが、この里はそれほど水の弁が良くないようで、布を濡らし、身体を拭くことで我慢した。ここは蛇口をひねれば水の出てくる現代ではないのだということをしっかりと実感しながら。
 話は弾んだが、昼間の疲れが出たのだろう。九峪は伊雅に就寝のあいさつをして、寝所へと下がった。
 板間に引かれた布団に入り、九峪は一日のことを思い返した。
 日魅子に連れられて九州総合大学に行ったこと。
 そこで不可思議な話を聞いたこと。
 銅鏡を探したこと。
 光となって鏡に吸い込まれたこと。
 目を開けると変な生き物がいたこと。
 タイムスリップしたと知らされたこと。
 帰るためには耶麻台国とやらを復興させなければならないこと。
 何の心構えもなく登山させられたこと。
 いきなり刃物を突きつけられたこと。
 女の鋭い目。
 伊雅の強い信念。
 清瑞という名。
 そして、空に輝く幾万の星。
 あれを見ればここが現代ではないことはいやでも分かる。それを納得してしまった瞬間、世界が変わった。いや、変わったのは自分自身だ。
 帰りたい、そう思った。
 あの瞬間まで、九峪はまだ何も実感していなかった。
 感じてはいたのかもしれない。
 清瑞に伊雅という強い個性に九峪という個性は揺さぶられていた。そして、星空がとどめだった。そういうことなのかも知れない。
 そんなことはどうでもいい。
 ただ、ここもまた一つの世界なのだと理解した。
 そして、自分がいるべき世界は現代なのだと強く思った。
 帰りたい。
 九峪はもう一度、今日の出来事を思い返す。
 ふと気づいた。
「もしかして、おれ、いつのまにか徹夜してたのか?」
 時間を計算してみる。
 不明なのは意識を失ってからキョウに起こされるまでの時間だ。キョウはたしか、森で寝ているのは危険だからすぐに起こしたと言った。ということは、意識を失っていた時間はほとんどないはずだ。
 計算結果は――計算するまでもなかった。
「疲れているはずだ」
 明日は気持ちいい目覚めになるだろうな、と九峪はつぶやく。
「眠れないの?」
 いつのまにか、キョウが近寄ってきていた。
 そう、こいつが全ての元凶なのだ。
 こいつさえいなければ、それに、なぜこいつは現代にいたのだろうか。
 急に眠気が襲ってきた。考え事なんてもうどうでもいい。
「大丈夫?」
 キョウが顔を覗き込む。
「おまえは絶対に信用しないって決心していただけだ。――おやすみ」
 憎まれ口を叩いて、眠りにつく。別に心にもないことを言ったわけじゃあない。
 ただ、キョウの悲しげな顔がまぶたの裏に残った。






 神の遣いの寝所の外で、清瑞はじっと周囲の気配を感じ取っていた。
 乱波たる者、どのような命令であっても従わなければならない。そもそも、乱波とは闇に生きるもの。歴史の表舞台には決して出ることのない黒子。であるからこそ、命令は絶対的なものだった。闇に生きることこそが乱波の誇りであったから。
 幼きころより乱波として育てられた清瑞には言い聞かせる必要もないことだった。しかし、今回の命令は、正直なところ嫌だった。
 伊雅の命令でなければ、だれかに頼み込んででも代わってもらっていたかもしれない。
 あんな男の側にいなければならないとは虫唾が走る。
 神の遣いの警護、それが伊雅の命令であった。
 なぜ、あのような男を神の遣いなどと言って崇めなければならないのか。
 伊雅は信じきっているようだが、清瑞の目にはあきらかだった。
 あいつは嘘をついている。
 たしかに狗根国の関係者ではないのかもしれない。
 しかし、今は関係なくとも、将来、この隠れ里の場所を狗根国に密告するかもしれない。
 簡単に信用して言い訳がないのだ。しかも、嘘をついているような男を。
 それでも、伊雅は九峪に頭をたれた。
 あんな男に。
 許せない。
 ただ、命令であった。
 反するわけにはいかない。
 だから、わたしはあの男を警護する。そして、監視する。この里に、そして伊雅様に危険が及ばないように。
 もし、あの男が不審な行動をとったとき、その時には――
 みしりと床がなった。
 清瑞は我に返った。
 まずは命令が優先だ。そう神の遣いの警護が。
 寝所の中の気配を探る。
 どうやら神の遣いは眠ったようだ。
 それにしても、と思う。
 なぜあの時、名前を教えてしまったのだろう?
 そんなつもりはなかったのに。
 知ってほしかったのだろうか、自分の名前を。
 ばかばかしい。
 不快な呼ばれ方が嫌だっただけだ。
 まあいい、あと一刻もすれば交代の人間が来る。
 それまでの辛抱だ。
 そして、
「ふふふ、そういうこというんだね、九峪。じゃあ、ぼくも遠慮なく無理難題を吹っかけるからね。ふふふふふふふふふふ」
 寝所の中から聞こえてきた不気味な声は――聞こえなかったことにした。



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あとがき
 どうもおひさしぶりです。
 ゴーアルです。
 ずいぶん、間が空いてしまいましたが、ちょっと思うところがありまして愚かにも長編に挑戦することにしました。
 一応、ゲーム版の二次創作となっております。
 九峪はほぼゲームの性格のまんまのつもりですが、どうしても違和感は出てしまうので、そのあたりはご容赦ください。できるだけ違和感がないように努力します。
 

 今回の話ですが、ほぼゲーム導入部の流れそのままです。
 キョウの性格が少し変わっている気もしますが、まあけっこう腹黒いキャラだと思うので問題ないでしょう。
 いずれ出てくる嵩虎と組ませて、腹黒コンビとして、九峪を鍛えてもらおうと思っています。
 九峪がかわいそうな気もしますが、ゲームでは攻略対象になっていない女性キャラにも挑戦することになると思うので、九峪もより大きな器とならなければやっていけないということで。
 現時点で、オリキャラも何人か考えているのですが、基本的に耶麻台国側は小物、小悪党、狗根国側は、漢、というコンセプトになると思います。
 ちなみにヒロインは特にいないんですが、出番が一番多いのは間違いなく清瑞だと思われます。

 最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。


ゴーアルさんの長編連載、開始です^^

話の流れそのものはゲーム版冒頭とほぼ同じですが、要所要所に心理描写、状況描写が細かく加えられているので、格段に感情移入しやすいですね。ゲーム版九峪は結構あっさりしてますが、本当はこのように色々感じて当然ですから。
微妙に存在感アップのキョウがいいですねえ。九峪を女か、ってボケてるし(笑)
嵩虎とコンビですか・・・すっごい楽しみかも♪

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