さる5月にイタリアを旅行された憲坊法師さんですが、
旅行中、帰国後とメールや、BBSの書き込みで現地の様子を知らせてくれました。
過去ログ埋もれてしまうのはもったいないので、
後日いただいた写真を添えて、ここに再録いたします。
(2004/09/11)
皆さんが好きな指揮者などで盛り上がっているところへ割り込んで申し訳ありませんが12日にParmaのToscanini生家を訪問した顛末をお知らせしたく思います。
|
生家の訪問がうまく行って次はToscaniniが学んだ音楽院に行きました。 1988年ごろ訪問した時には門番のおじさんがすすんでBoitoとToscaniniの書斎に案内してくれました。(言われるまでそんなものがあるとは知りませんでした。)その時何枚か写真を撮ったのですがどれにも私か同行者が入っていたため今回は書斎だけをVideoに納めるつもりでした。 その旨受付に申し出たところ3-4人いた係りの人たちの顔に困惑の表情が広がりました。ここ数年広報のボスに怖いおばさんが就任して学内の写真については大変神経質になっているとのこと。しかし折角日本からたずねてきたのだから許可を取れるかどうか聞いてみるとのことであちこち電話をしてくれました。でも彼女はあと1時間くらいで帰る予定だがいつ来るかわからないとのことです。したがって残念ながらあきらめて帰ることにしたのですが「フラッシュさえたかなければ彼女が帰る前なら庭で写真をとっても良い。その代わり帰ってきたらすぐ帰ってくれ」といわれ少しだけToscaniniの銅像の前でVideoや写真を撮ってきました。 数ヶ月前学内の写真がInternetのBBか何かに出たのを彼女が見つけて受付の係り全員が大目玉を食ったとのことで申し訳なく思っているようでした。でも「帰ってくる前に静かに」と融通を利かせてくれたのはいかにもイタリアでした。 |
さて13日はParmaで目を覚ましBussetoへ向かいました。言わずと知れたVerdiの生まれたところです。ParmaからはCremona(ストラデヴァリウスのヴァイオリンなどで有名)行きの直通列車で25分ほどです。 駅に着きました。駅前は何もない。バスもいなければタクシーもいない。まるで吉幾三の歌のような町です。駅員に聞こうと思って駅に戻ったらこれが無人駅。たまたま通りかかった自転車に乗ったおばさんを呼び止めてRoncole(Verdiの生家のあるところ)に行きたいのだがバスかタクシーはないかと聞いたところ、「バスは一日に2-3本あるがそれはここから国はずれ(本当にそう言った!)まで歩いていくと広場があるからそこから出ているよ。タクシーはこの街には一台しかいないけれど、さぁ、どこにいるのかなぁ?あぁ、そう言えばタクシーの運転手は時計屋のおやじだから時計屋に行ってごらん。広場の手前だよ。時計屋は二軒あるが手前のではなくて先の奴。じゃぁね。アリヴェデルチ」 すごすごと「国はずれ」を目指して歩いていくと時計屋はお休み。万事休すで広場(なんとPiazza Verdi)のBarでお茶を飲んでウエイトレスにタクシーの事を聞いたら電話番号を調べてくれました。公衆電話は日本のIC式の公衆電話と同じだがどうにもつながらない。通りかかったおじさんに聞くと「この電話はこわれている」。ところがこのおじさんこそまぎれもないタクシーの運転手。地獄で仏とはこのこととRoncoleまで行って一時間くらい待って戻ってきてくれないかというと「おれ、これから客を送ってMilanoまで行かなければならないから残念ながらダメ。」 しかたなく広場の反対側を見たらこれがVerdi劇場。Verdi死後25年を記念して1926年にToscaniniがFalstaffを振った、それ以前にも1913年には椿姫とFalstaffを振ったあのBusseto劇場。しかも見学可能とのこと。団体について入ると中では若い女性ガイドがこまごまと説明をしてくれる。大変ラッキーなことでした。万事塞翁が馬です。 この劇場大変に可愛い劇場で平土間は300人くらいしか入れない。しかもオーケストラ・ピットがないのでオペラの時は前三列の客席を取っ払ってMAX35人のオーケストラを入れるとのこと。 もう一つ面白いのは舞台が前に傾斜していて後ろの観客も奥まで見えるようになっていることです。 このあたりで1926にToscaniniが振ったのだなと思うと大変感激しました。 音響効果も抜群で見学者がいなくなったとき同行者がふざけて舞台で”Vissi d’arte…”と歌いだしたので「ばかっ、ここでPucciniをうたうやつがあるか!」。でも本当によく声が通っていました。 生家にはいけなかったけど大変ハッピーな一日でした。 |
10年以上前に訪れたToscaniniの墓が荒らされたとのことで見に行ってきました。 Toscanini家の面々の柩が積まれています。ホロヴィッツのものもあります。だけどSonyaのものは見当たりませんでした。Toscaniniの生家の人の話では自殺だったそうです。(両親がホロヴィッツとWandaでおじいちゃんがArturo Toscaniniというのは大変なプレッシャーだったのでしょうね。) 荒らされた墓はちゃんと元通りになっており事件のかけらも見えませんでした。同行者は記念墓地の入り口で花を買い開いていた柵の間から投げ入れてニ礼ニ拍手一礼で拝んでいました。(我が家は神道です。) しかしホロヴィッツの柩まで引き入れてしまったWandaは凄いですね。私は娘婿が一緒の墓に入るということになればちょっと考えちゃいます。(別に仲が悪いわけではありませんが。) 翌々日はLuccaのPucciniの生家へ行きました。なにかToscaniniとのいわく因縁があるかと思ったのですが何もありませんでした。 これはToscaniniの生家で聞いたのですがTurandotはToscaniniはLiuの死のところまでしか演奏しなかったそうです。二日目からは最後まで演奏したと聞いていましたのでこれは意外でした。たしかにTurandotは初演のシーズン(1926)しか振っていませんがずっとLiuの死のところまでしか振っていなかったというのは初耳でした。 ToscaniniとPucciniは喧嘩したり仲直りしたりでガタガタしていたようですがToscaniniがScalaの最後まで振っていたのはManonでした。おそらくPucciniの中で一番のお気に入りだったのでしょうね。この音源が何も残っていないのは残念なことです。
|
Roma滞在の一夜切符が入手できたのでNello Santi指揮のDon Carloを見に行きました。65歳以上だとなんと40%くらいの値引きです。二人で100 Euro (13000円)。 しかも平土間の真ん中あたりの前から10列目。歌手一人一人の表情も良く見えます。ラトルのBPO フランスモノが一人40000円とはエライ違いです。 不勉強であまり歌手の名前は知らないのですがFilippo IIを歌ったFurlanettoの名前は知っていました。大変結構な歌手で三幕の初めのアリアでは拍手が鳴り止まず“Bis!”のコールもありました。(もちろん今時Bisをするようなことはありませんが。)Elisabettaを歌ったDimitra Theodossiuというソプラーノはすすむに従って声にはりが出てきて堪能しました。二時間ドラマに良く出る一色彩子をふっくらさせたような美人歌手でカーテン・コールでも人気の的でした。 ただ肝心のDon Carloを歌ったテノールが冴えなかったのは惜しかったです。 またNello Santiおじいちゃんも一生懸命旋律に陰影をつけようとするのですがずっこける寸前のような歌わせ方なので聴いていて疲れるところがかなりありました。 ToscaniniのDon Carloの音源は全く残っていませんがToscaniniならここのところはこういうテンポでこういう風にフレージングをつけるだろうなと考えながら聴いていました。Santiお爺ちゃん、ごめんなさい。 この公演で一番感心したのはその舞台です。とてつもなく広い舞台をフルに使っての舞台装置は特筆に価します。最近のDVDを見ると知識の泉の水と引き換えに片目を失ったおじさんがネクタイを締めてバーに現れたりします(これが神様だというのだからどうしようもない)がこのRoma歌劇場の舞台はLuchino Viscontiのものであるだけに流石オペラ伝統の国のものであると嬉しくなりました。 日本での習慣と全く違うのはその上演時間です。開演は20時30分。幕間にシャンペンやコーヒーを楽しめるのが2回。(スカラ座やWien国立のようなきらびやかさはありませんがとても贅沢な空間のフワイエです。これに比べるとNHKホールのフワイエはドヤ街です。)3幕と4幕は通しで演奏されました。3幕開始は23時20分。 Metが日本に来たときWalkyreが17:15に開演したことを思うと文化に対するゆとりの差を嫌でも感じざるを得ませんでした。 ぶっ通しで3,4幕をやってカーテン・コールが終わったのが午前一時を回っていました。ピットの傍まで行って写真を撮りながらカーテン・コールに加わって、はっとしたのですがその時間になると地下鉄はおろかバスもない。はて、どうやってホテルへ戻ろうかと思い窓口で相談するとすぐタクシーを呼んでくれました。最悪500メートルほど先のRoma駅に行けばよいのですがすぐタクシーが来てくれてほっとした次第です。 昔Milanoにいた頃はホテルがスカラ座から歩いていける距離だったので帰り道のことなど考えたこともなかったのですがさほどなじみのないRomaでは一瞬心配しました。 ただ晩飯を食い損ない腹を減らして寝ざるを得なかったのが癪の種でした。 今後ヨーロッパでオペラを見る機会のある方の参考にでもなればと思います。 |