平家物語とは

 「平家物語」は平家一門の栄華と滅亡を描いた一大叙事文学で、平安末期の貴族政治から武家政治への以降期に、わが国で起こった全国的内乱に取材したものです。基本的な構成は歴史的事実に即していて、舞台となる地域や年代も、この歴史的転換期にふさわしく壮大なスケールを持っています。地域でいえば東は関東から西は九州まで、年代は清盛の父・忠盛が武士として初めて内裏清涼殿への昇殿を許さされた天承元年(1131年)から、清盛の曾孫・六代丸の死(未詳であるが建久九年〈1198年〉または建仁三年〈1203年〉など諸説あり)まで、約170年にもおよびます。さらに、物語の中でしばしば取り上げられる説話や神話などの類を含めれば、時間的にも地域的にも、いっそうの広がりを持つことになります。
 1000人以上に及ぶといわれる登場人物もほとんどが実在の人物で、皇族や貴族、武士、僧侶はもちろん、悪僧とよばれる寺院の衆徒や市井の白拍子まで、貴賤を問わず幅広く取り上げられています。物語全編に共通する主人公はいませんが、中心となる人物として前半は清盛、後半は義仲、義経があげられます。とくに清盛については、冒頭「祇園精舎」の章段において、平将門、藤原純友、藤原信頼などの古今の朝敵とともに「まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、伝うけ給るこそ、心も詞も及ばれね」などと紹介されていて、もっとも重要な登場人物として設定されています。
 「平家物語」は分類上、軍記物語ということになってはいますが、そのようなせまい枠に収まらないところも魅力の一つです。もちろん「橋合戦」「宇治川先陣」「弓流」など勇壮な合戦描写は枚挙にいとまがありませんが、それ以外にも「伎王」の章段などに見られる説話文学的側面、「小督」「月見」のような王朝文学的側面、そのほか日本の神話や遠い異国の故事を随所に引用するなど、様々な顔があることを忘れてはいけません。加えて文体についても特筆すべきものがあります。和文と漢文を融合した「和漢混淆文」という独特の文体で語られていて、武士や庶民の日常語や方言が豊富に取り入れられています。また、本来が琵琶法師による語りによって人々に受容されてきたという性格上、音便形や擬声語の多様も物語に独特の味わいを持たせています。

「平家物語」の成立

 「平家物語」の成立年代を比定するうえで欠かせない資料に、醍醐寺の僧・親尊書写「普賢延命鈔」の紙背文書として発見された醍醐寺僧・深賢の書状があります。これは「平家物語」の名前が記録に現れる最も古い史料として重要視されるもので、深賢が誰かに当てて書いた手紙の裏側に、深賢と同じ醍醐寺僧の親尊が1259年に「普賢延命鈔」を書写したものです。つまり、この書状の存在によって、少なくなくとも13世紀中葉には「平家物語」と呼ばれる作品が存在したことが確認できるのです。  またこれより前の1240年には、藤原定家が書写した書物の紙背に「治承物語六巻号平家」という文言を見ることができます。このことは「平家物語」が成立初期には「治承物語」と呼ばれていた可能性があることを示唆しています。すなわちこれが(原)平家物語であり、その内容は現在流布している十二巻本の前半部分にあたるもので、清盛の一代記的なものだったのではないかといわれています。
 では、「平家物語」をつくったのは誰なのでしょう。作者および成立時期についてはともに未詳ですが、これまでさまざまに研究がなされています。もっとも人口に膾炙しているのが、信濃前司行長説で、これは吉田兼好の「徒然草」に紹介されています。前の信濃守(「尊卑分脈」では下野)であった行長という人が学問を捨て出家し、天台座主慈円(史書「愚管抄」の作者。関白忠通の子で九条兼実の弟)の援助により平家の物語をつくり、それを盲目の琵琶法師・生仏に語らせた、というもの。その際、生仏は「東国のもの」だったので、弓馬のことは生仏が武士に取材して書いたというのです。しかし、「徒然草」の執筆は「平家物語」成立の推定年代から100年ほど隔たっており、この説が確実であるという証拠はありません。
 また、醍醐寺報恩院でつくられた雑録である「醍醐雑抄」(室町時代初期の成立と推定)には、葉室時長が源光行の協力により二十四巻本の「平家物語」をつくり、それとは別に十二巻本「平家物語」を吉田資経をつくった、というようなことが記録があります。しかしこの記録も、記事が錯綜しているうえ、時長が「将門記」をつくったなどという誤った記述が認められるなど信頼のおけないものといえます。
 しかし、いずれの史料でも共通していることは、その成立については複数の人物が関与しているということです。琵琶法師の同業者組合である当道座の記録「平家勘文録」(成立時期は不明)においても「高野の宰相入道」や「少納言入道信西の子息、玄用法師」など六人の作者を挙げています。さらに「平家物語」の中で、しばしばインド・中国の故事や願文・表百が引用されていることから、「平家物語」生成の舞台として寺院における学僧間のネットワークも重視されています。とくに、清盛と親交の深かった少納言信西入道の一門からは優秀な僧侶を多数輩出しており、また前述の深賢との交流も認めれることから、信西一門が「平家物語」生成にかかわった可能性は高いとされています。

群を抜く膨大な諸本

 「平家物語」は、その生成時期において複数の人物が関与しているとみられ、かつ物語自体がいちどきに成立したわけではなく、さまざまな協力者のもとに改作や加筆が行われ、今日に伝わっているといわれています。そうした成立事情を反映して、「平家物語」には膨大な諸本が存在します。
 「平家物語」の諸本は大きく「語り本系諸本」と「読み本系諸本」に分けることができます。
 語り本とは、今日一般的に読まれることの多いテキストで、当道において伝承された琵琶法師が平曲を語るためのテキスト(またはそれに近い形態をもつもの)です。これらは十二巻編成という共通的な特徴をもちますが、諸本によっては巻末に壇ノ浦で捕らえられた建礼門院の往生潭を語る「灌頂巻」を特立しているテキストと、「灌頂巻」に相当する部分を編年的に取り入れ、平家断絶を象徴的にあらわす「六代斬られ」で締めくくっているテキストの二通りがあります。
 灌頂巻を特立した諸本の代表的なものとしては、覚一本、葉子十行本、流布本などが挙げられます。なかでも、応安四年(1371年)に覚一検校によって当道の正本としてつくられた覚一本は、文学的に最も洗練されているといわれています。一方、灌頂巻を立てない「断絶平家」型テキストの代表には、全巻を百二十句に分ける百二十句本、百二十句本の系統上の祖本にあたるといわれる屋代本などがあります。
 読み本系諸本は、知識者層の読み物として広まっていったもので、今日、一般的に読まれている語り物系諸本の2倍近い分量をもっています。代表的なものに、延慶本、長門本(延慶本に近い内容をもつ)、源平盛衰記などがあります。延慶本は、延慶年間(1308~1311年)に紀州の根来寺で書写されたもので、もとの資料がそのままのかたちで残っていたり、記録や説話類を寄せ集めたような特徴があることから、現存する「平家物語」の最古態本と考えられています。また、源平盛衰記は四十八巻構成で、諸本の中でも最も豊富な内容をもつものです。読み本系の諸本も時間の経過とともに整えられていったと考えられ、そのような中で、源平盛衰記のような大部なものができあがったのでしょう。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)/ 梶原正昭著『古典講読シリーズ・平家物語』(岩波書店)/ 牧野和夫・小川国夫著『新潮古典文学アルバム13・平家物語』(新潮社)/ AERAMook『平家物語がわかる。』(朝日新聞社)/ 兵藤裕己著『平家物語-〈語り〉のテクスト』(ちくま新書)/ 永井路子著『「平家物語」を旅しよう』(講談社文庫)


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