灌頂巻

灌頂巻解説

 壇ノ浦で捕らえられた建礼門院は、文治元年(1185)5月1日、東山の麓の荒れ果てた草庵に入り、安徳天皇の形見の直衣を布施として出家しました。しかし、女院はなおも人目を憚り、9月下旬に大原の奥の寂光院へと移ります。かつての栄華とは比べるべくもない粗末な庵で、法皇の乳母の娘・阿波の内侍、平重衡の北の方・大納言佐とともに朝夕の念仏に専心する女院。そこへ、後白河法皇がわずかな供を伴って御幸されます。一門を破滅へと追いやった法皇を前に、女院は自らの一生を六道輪廻にたとえて語るのでした。そして、建久2年(1191)中旬、二人の尼に看取られながら、女院は静かに極楽往生を遂げるのです。
 灌頂巻は、徳子の生涯をとおして全編を集約した内容になっていて、琵琶法師の座である当道座では、この巻を秘伝として重視しました。

女院出家(によういんしゆつけ)

 壇ノ浦の戦いで捕らえられた建礼門院は、東山の麓、かつて奈良法師・中納言法印慶恵の住房であった荒れ果てた庵に入った。そして、文治元年(1185)5月1日、長楽寺の阿証房の上人印誓を受戒の師として出家した。御布施は、安徳天皇が入水する直前までつけていた御直衣だった。「いかならん世までも、御身はなたじ」と思っていたものだったが、ほかに御布施になるものもなく、また先帝の冥福を祈るため泣く泣く差し出したのであった。上人はその直衣を幡に縫い、長楽寺の仏前に掛けたという。かつて、入道相国清盛の娘として、また天皇の生母として仰がれたのも今は昔。仏道に入ってもなお、一門や先帝、二位の尼の最後の姿が忘れられず、悲嘆に暮れるのであった。

大原入(おおはらいり)

 草庵には、しばしば冷泉隆房・七条信隆両卿の北の方(いずれも建礼門院の同母妹)が来て、女院のお世話をした。しかし、ここでは人目を憚るというので、9月の末、女院はある女房のすすめにより大原の奥、寂光院へ移った。お堂の傍らに方丈の庵室を結び、一間を御寝所に、一間を仏間に定め、朝夕の念仏を怠りなく月日を送った。「昔は玉楼・金殿に錦の褥をしき、たへなりし御すまひなりしかども、今は柴引むすぶ草の庵、よそのたもともしをれけり」。

大原御幸(おおはらごこう)

 文治2年4月20日ごろ、後白河法皇はわずかの供を従えて、鞍馬街道を経由で大原の閑居へ御幸された。そこには老尼が一人いて、女院は花摘みに出かけて留守であるという。この老尼は、法皇の乳母の娘・阿波の内侍であった。法皇が庵室を見回すと、仏間には来迎の三尊の画像とともに先帝の肖像画がかけられ、香の煙りが立ちのぼっていた。そして、寝所には竹でつくった衣紋掛けや紙でつくった夜具などがあり、そのあまりの粗末さに、供奉の公卿・殿上人も思わず涙を誘われるのであった。やがて墨染姿の女院と大納言佐が山から降りてくる。女院は、いくら世を捨てた身の上とはいえ、あまりのはずかしさに山へ引き返すことも、庵に入ることもできず途方に暮れてしまった。

大原御幸図屏風「大原御幸」

六道之沙汰(ろくどうのさた)

 女院は法皇との対面を憚っていたが、阿波の内侍の進言で対面することになる。女院は、このような境遇になったのは嘆かわしいことではあるが、後生菩提のためにはかえって悦びだと思っている、平氏一門の菩提を弔い、三尊の来迎を待っているが、わが子の安徳天皇の面影が忘れられず、恩愛の道ほど悲しいものはない、と述べた。そして、宮廷での栄華から一門の滅亡に至るまでの自分の生涯を回想し、その体験を天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道輪廻にたとえて語るのであった。

女院死去(によういんしきよ)

 日暮れも近づき、法皇は涙を押さえて還御された。女院は今さらのように昔日を思い出し、涙ながらに見送った。還御の行列が遠ざかると、女院は本尊に向かい「先帝聖霊、一門亡魂、成等正覚、頓証菩提」と祈った。振り返ってみると一門の滅亡という悲劇は、入道相国清盛が天皇をも恐れず、世をも人をも憚らず、専横の限りを尽くしたことが原因であった。やがて年月も過ぎ、建久2年(1191)中旬、二人の尼に看取られながら、女院は静かに往生を遂げた。「西に紫雲たなびき、異香室にみち、音楽そらに聞ゆ」。

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)