巻十二

巻十二解説

 平家滅亡後、頼朝の権力は拡大の一途をたどります。壇ノ浦の合戦後、頼朝と義経の不和は決定的になりました。義経は都落ちを決意し、九州へと向かいますが、途中嵐に遭い遭難、北陸道を経て奥州へと下ります。義経にかわって、北条時政が頼朝の代官として京に入りました。義経追討の院宣が下され、頼朝は日本国総追捕使に任命され、全国に守護地頭を設置します。
 京の北条時政は徹底的に平孫狩りを断行します。平維盛の嫡子六代も捕らわれますが、あやうく斬られるところを文覚に救われます。しかし、頼朝の文覚と六代に対する疑念はやまず、六代は出家を余儀なくされました。その後も平家の残党狩りは続きますが、後白河法皇に続いて、建久10年(1199)に頼朝も死去。頼朝の死後、文覚は朝廷に謀反を企てて隠岐へ流されます。そして、文覚の庇護下にあった六代も、鎌倉の命により斬られ、ついに平家の子孫は絶えます。

大地震(だいじしん)

 平家も滅び、世も鎮まるかに見えた元暦2年(1185)7月、大地震が襲い大惨事となった。折しも新熊野に御幸されていた法皇は六条殿へ還御。帝も避難した。識者は安徳帝・平家一門の怨霊の祟りと恐れた。

紺掻之沙汰(こんかきのさた)

 8月、文覚は本物の義朝の首を保持していた紺掻の男を伴い鎌倉に下向する。頼朝は亡父の首を厚く供養し、朝廷も義朝の墓に贈位増官を行った。

平大納言被流(へいだいなごんながされ)

 9月、平大納言時忠、讃岐中将時実をはじめとする平家方の捕虜の配所が決まった。時忠は娘婿義経のとりなしも及ばず、建礼門院や妻子と別れ配所である能登へ向かった。

土佐房被斬(とさぼうきられ)

 梶原景時の讒言を信じた頼朝は義経に謀反の嫌疑をかける。九月、頼朝の密命を受けた土佐房正俊は上洛し、義経暗殺をはかる。しかし義経はこれを察知。土佐房は義経の隙をつこうと夜討ちをかけるが、待ちかまえていた義経らの返り討ちにあう。土佐房は捕らえられ斬首された。

判官都落(ほうがんのみやこおち)

 土佐房が返り討ちにあったことを知った頼朝は、範頼に義経追討を命じるが、範頼は速やかに応じなかったため殺された。十一月、都落ちを決意した義経は、院から鎮西の武士へ義経に従うように命じた下文を申し受け、船で九州をめざす。しかし、大物の浦で怨霊の災いする暴風に阻まれ難破。吉野、奈良から北陸道を経由し、ついに奥州へ下る。かわって頼朝の代官として北条時政が上洛すると今度は義経追討の院宣が下された。

義経東下り絵巻「大物浦」

吉田大納言之沙汰(よしだだいなごんのさた)

 頼朝は吉田経房を通じ日本国の総追捕史を望んで許され、諸国に守護地頭をおいた。経房は厳正誠実な人で、しかも昇進にも滞りなかった希有の人物である。

六代(ろくだい)

 時政は勧賞をかけて平家子孫狩りを行い、京の人々は恩賞目当てに平家の子弟を探索した。母と妹と供に菖蒲谷に隠れていた維盛の子六代も捕らえられた。文覚と頼朝の関係を聞きつけて訪れた乳母の懇請を受けた文覚は、頼朝に申し出て六代の身柄を預かろうと、時政に20日の猶予を申し入れる。約束の日数も過ぎた12月、時政は六代を率いて下向。駿河で斬ろうとする間際、文覚の使いが頼朝の赦文を届けた。六代に付き従っていた斎藤五・斎藤六はもちろん、北条の家の子・郎等も皆涙を流して喜んだ。

泊瀬六代(はせろくだい)

 六代は長谷観音の利生により母と再会を遂げ、文覚に引き取られた。時政は六代引率の途次、近江で頼朝の使者に接し、甥時貞を義経に同心した行家・義憲追討に向かわせた。和泉に潜伏していた行家は常陸房正明に捕らえられ淀の赤井河原で処刑。義憲は伊賀で服部平六に襲われ自害した。

六代被斬(ろくだいきられ)

 頼朝の文覚と六代に対する疑心はやまず、文治5年(1189)、六代は母親のすすめで出家する。屋島から落ち延びた重盛の子忠房は紀伊の湯浅権守宗重の城に籠もった。これを聞いた越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清ら平家残党が結集。熊野の別当と戦闘を繰り広げるが頼朝に欺かれた忠房は斬首。その間、頼朝は2度上洛、建久3年(1192)に後白河院崩御。また、知盛の末子知忠、越中次郎兵衛盛嗣など、その後も平家残党狩りは続いた。建久10年(1199)に頼朝が死去すると、文覚は高倉天皇の二の宮即位を企て失敗、後鳥羽院を呪いつつ隠岐へ流された。三位禅師として高雄で修行していた六代も斬られ平家は滅亡した。「それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ」。

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/ 梶原正昭編『平家物語必携』(學燈社)