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清盛の優しさ2~頼政三位昇進のこと

頼政の三位昇進は「珍事」だった

 源頼政といえば、治承4年(1180)に以仁王ともに起こした謀反が有名です。同年4月のはじめ、高倉上皇が厳島御幸を終えて京に帰ってくる直前のこと、源三位頼政は三条高倉の以仁王の邸を訪れ、平家への謀反を持ちかけたといいます。しかし、頼政が以仁王を誘ったという証拠はなく、むしろ以仁王の側に謀反を思い立つ動機が多く存していました。このとき頼政は齢70を超え、弱小ながら源氏としてはめずらしく都で勢力を持っており、またこれまで彼の家系にはなかった三位という高い地位にいたのです。ちなみに、頼政の父仲政は五位止まりでした。
 頼政が三位に昇進した当時、多くの貴族がこれを驚き、あきれたと言います。九条兼実も日記『玉葉』の中で「第一の珍事」であり「時人除目を驚かさざる者なし」と述べ、その驚きを隠そうとしていません。これをみても頼政の三位昇進というのは、過分な扱いだったといえるでしょう。では、どうしたわけでこのような人事がなされたのかというと、当時無双の権力を誇った人物による後押しがあったからです。そうです、平清盛による推挙があったでした。
 清盛が身内に甘いというのは、政権奪取後の一族への贈位贈官などをみてもわかるのですが、女の人にはとくに甘かったのでしょうか。父忠盛の後妻で清盛には継母にあたる池禅尼という人がいたのですが、この池禅尼は当時13歳だった頼朝にひどく同情します。そこで重盛を介して頼朝の助命を清盛に嘆願するのでした。最初はそのような同情は一蹴した清盛でしたが、結局は折れてしまい、頼朝は伊豆へ配流となりました。謀反人の子であり、源氏の嫡宗である頼朝を助けてしまったことは、致命的な失敗だったといえるでしょう。しかも、ところもあろうに源氏の勢力の強い関東に下してしまったのです。
 清盛も内心では頼朝に同情していたのではないでしょうか。政治性のない武弁一徹の父親のために、罪のない少年を殺すのは忍びないという気持ちがあったのだろうと思います。それなのに治承4年に頼朝は挙兵し、あっという間に関東を制圧してしまうのです。清盛が怒ったのも無理はありません。清盛が「自分の死後は通常の仏事・供養をするかわりに、頼朝の首を仏前に供えよ」と言ったと伝わりますが、もっともな話だと思います。

病の頼政を気遣っての好人事

 清盛と頼政がどれほど仲が良かったのかは分かりませんが、清盛が頼政に好意を抱いていたのは、この人事を見ても明らかでしょう。清盛は頼政を三位に推挙する際、「多くの源氏が逆賊に与し殺されていくなかで、一人頼政だけは正直で勇名がとどろいている」と頼政の人柄を褒めるとともに、当時病にふせっていた頼政を気遣い、「せめて生きているうちに三位をお授けください」と奏請したといいます。平家嫌いで有名な九条兼実も、前出の『玉葉』の記事の中では清盛を褒めています。
 頼政は武に長じるとともに和歌など風雅の道をも良くしました。対して清盛は和歌や管弦などはからっきしで、そういったつながりは、直接的にはなかっただろうと思います。ただ、平家一門は風雅の才に長けた人たちが数多くいて、清盛に限らず頼政と平家との文化面での交流は、ままあっただろうと推測されます。現に清盛の弟経盛が主催する歌合に招かれたりしていたようです。ただ清盛にとっては、ともに保元・平治の乱をくぐり抜けた仲間であり、清盛自身功成り名を遂げた今となっては、この老武者にも出世してほしかったという単純な理由があったのではないでしょうか。

またしても裏切られる清盛

 頼政の子息たちはそれほど高い地位にいたわけではありませんでした。結局この家系では、後にも先にも頼政より出世した者はいなかったのです。頼政が息子たちの地位に不満があったのかどうかは分かりませんが、以仁王の乱が勃発した頃は平家政権の絶頂期で、清盛の外孫の安徳が皇位についたばかりでした。その勢威はいよいよ高まり、平家の地位も盤石になったように見えました。

扇の芝
頼政が自害したという平等院の扇の芝

 そうした状況下にあって、平家を倒そうという野心を抱いたというのはにわかには信じがたいことです。しかし、実際に以仁王の令旨は諸国に配られ、頼政の謀反は明らかとなりました。吉川英治の『新・平家物語』では、清盛に対しては並々ならぬ感謝の気持ちを持ちながらも、源氏再興のためにこれを裏切らなければならない、頼政の苦しい気持ちが書きつづられています。
 頼政の謀反が明らかとなったとき、清盛はどのような気持ちでその報告を聞いたのでしょうか。当然怒りもし、また悲しかったことでしょう。鹿が谷の陰謀の際は、平治の乱で命を助けた新大納言成親に裏切られています。このときも清盛は、なぜそれほど平家を憎むか、と激怒しました。同時に陰謀に加わった後白河に対しても、なぜ保元・平治と朝廷に使えてきた平家を失おうとするか、と内心憤ったことでしょう。こういった貴族たちの裏切りに加え、今回は同じ武士仲間の頼政による謀反が発覚したわけです。同じ武士の頼政だったということで、怒りよりもむしろ悲しみのほうが大きかったかも知れません。「頼政、お前もか」と言いたかったことでしょう。

参考文献

五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)