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はじめに~清盛は悪人なのか

平家物語の主役はやっぱり清盛?

 平家物語は、忠盛の内昇殿から清盛の曾孫六代の死にいたる約70年間を描いた大河ドラマで、物語全編を貫く主人公といった人物はいません。ただ、物語はその構成から3部に分けることができ、それぞれに中心となる人物を指摘することはできます。具体的にいうと、巻一から巻五までが清盛、巻六から巻八までが義仲、巻九から巻十二までが義経です。そしてこの三人が、時間の推移とともに、あたかもリレーのバトンのように、物語を牽引する役を引き継いでいきます。このように登場人物は、時間の推移によってどんどん変わっていきますが、強いて主役を挙げるとすれば、それは“時代の移り変わり”そのものであるといえます。そして、猛き者もいつかは滅びるという「諸行無常」を体現する役目を果たしているのが、この三人なのです。
 そしてこの三人、それぞれの部分で重要な位置を占めいてるにもかかわらず、時には滑稽に、また時には横暴に描かれるのは、やはり主役ではない証拠といえるでしょう。例えば巻八「猫間」では、義仲が落語にでもなりそうな滑稽なエピソードを展開しますし、巻十「大嘗会之沙汰」では、天皇の行幸に供奉する義経の姿を「木曽などには似ず、以外(もってのほか)に京なれてありしか供、平家のなかのえりくづ(残りカス)よりもなほおとれり」と酷評しています。
 そして、平家物語の中でもっとも重要な役を与えられながら、もっとも損をしている人物が清盛です。そもそも清盛は、他の二人(義仲と義経)とは比べものにならないほど“主役”の名にふさわしい役割を担っています。冒頭の「祇園精舎」の章では、「…此等(平将門、藤原純友、源義親、藤原信頼)は奢れる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、伝うけ給るこそ、心も詞も及ばれね」と、古今の反逆者とともに清盛の名が挙げられています。
 物語にとって、もっとも重要な導入部分でわざわざ清盛を紹介しているところをみると、清盛のことを描くのが本来の目的ではなかったか、と思えるくらいです。ただし、扱いは“天下の大悪人”です。国家への反逆が明らかな将門や純友、藤原信頼らと同列に扱うとはどういうことか。さらに、語り本系のうち一方流諸本で、実質的な最終章として特立された「灌頂巻」においても、「父祖の罪業は子孫にむくふ」と断じています。まさに終始一貫して、清盛を悪人に仕立てようとしているのです。

清盛に対する“畏怖”が評価を誤らせた?

 一方、“悪人”清盛と対置して、この上ない“善人”として描かれているのが、清盛の嫡男重盛です。そして、この出来杉君(ドラエもんの)のように完璧な重盛と対比させることによって、清盛の悪業をいっそう際立たせようというのが“作者”の意図するところです。その最たるものが有名な巻一「殿下乗合」でしょう(→平家物語事件簿1「殿下乗合事件」参照)。「平家の悪行のはじめなれ」と、作者自らが評価する事件の首謀者が他ならぬ重盛自身であるということは、事件のあった当時から知られていたことですから、ここには明らかに清盛を悪人に仕立てようとする作為が働いているわけです。
 ではなぜ、事実を歪曲してまで、清盛を悪人にする必要があったのか。逆に重盛を善人にするために、清盛を悪人にしたという言い方もできますが、おそらくそうではないでしょう。物語の展開は、ただひたすら“平家の滅亡”という結末へと収束していくわけですが、その因果を説明するための最も重要なファクターが、清盛による「悪行」だからです。「父祖の罪業は子孫にむくふ」というイデオロギーを貫徹するためには、清盛にはあくまで悪人でいてもらわなければならなかったのです。
 また、平家物語が書かれた頃の人々には、なぜあれほど権勢を振るった平家が、ああもあっけなく滅びてしまったのかが、現代の我々ほどにはわからなかったのだと思います。そして、そのような理解を超えたもの目にして、何とかして自分を納得させるために、そこに何らかの意味づけをしようとした結果が、「清盛の悪行が平家の滅亡を招いた」という思想だったのではないでしょうか。もちろん、治承・寿永の内乱というのは、治承3年のクーデターによって平家関係者に取って代わられた人たちの不満というものも原因の一つになっているわけですから、これも決して間違いではないわけです。ただ平家物語では、この実力で政権を奪うという中世では当たり前になる行為を“悪行”と規定し、客観的な歴史観ではなく仏教的な因果応報や仏罰、諸行無常でもって理解しているわけです。当然、琵琶法師の語りに耳を傾ける多くの聴衆も、そのように理解してしまいます。

若一神社の清盛像
西八条邸跡にある衣冠束帯姿の清盛像

 では、清盛の“悪”を規定する事柄とは、具体的にはどのようなことだったのでしょうか。法皇の幽閉、福原遷都、南都焼き討ちなどは真っ先に挙げることができるでしょう。これらは歴史的にも大きな事件ですし、政策的にみてもゴリ押し気味な点もあることから、あるいは“悪”と規定されても仕方のない面もあるかも知れません。殊に京の公家を中心とした当時の社会にあってみれば、これらは文字通り神をも恐れぬ不逞の行為だったのです。
 しかし、平家物語にはこのような政策への批判を超えた、清盛に対するもっと深い部分での“畏怖”が、あるように思います。作家の永井路子氏が、「清盛に対して『平家』は口をすぼめ、ちょっとおどおどして「こんなことをなさって、まあ」という感じで語っているが…」といっておられるように、遠慮といっては言い過ぎですが、少なくとも義仲に対してのような“茶化し”はあまりありません。もちろん、巻二「教訓状」で、突然やって来た重盛に鎧を着ているのを見られまいと、上に羽織った素絹の衣をしきりに引っ張って隠そうとするような、ユーモラスな場面もあるにはありますが、多くの場合、まさに「こんなことをなさって」といった態度で批判をしています。おそらく、清盛の対する“畏怖”は、清盛の政治的地位や武力だけではない、人間そのものに対する畏怖というものも含まれているのではないでしょうか。そして、そうした“畏怖”は、さまざまな伝説をも伝えることになります。
 平家物語の巻六では、清盛の死を描いた「入道死去」の章の後に、清盛についての様々なエピソードや噂が紹介されています。「築島」の章では、清盛について「まことはただ人ともおぼえぬ事どもおほかりけり」といっており、当時の人々が清盛に抱いていた神秘性のようなものが垣間見られます。そして、清盛は忠盛の子ではなく白河院の皇子であった、といった有名なものから、実は清盛は慈恵大師良源(叡山中興の祖として、宗祖最澄を凌ぐほどの信仰を集めた名僧)の生まれ変わりだとする珍説までが披露されています。

現代人にも納得できる清盛の“先進性”

 当時の王朝貴族というのは、迷信や慣例ばかりを気にして、たいていの人が型にはまった考え方や行動しかできませんでした。また、寛平6年(894)の遣唐使廃止以来、ほとんど国交を絶ってしまい、海外に目を向けることもなくなりました。そのような、停滞し閉塞した社会において、スケールの小さい権力闘争に明け暮れ、呑気に恋をしたり歌を詠んだりしていた貴族達の目には、清盛のような型破りで行動力のあるキャラクターは、何か恐ろしい存在に映ったとしても不思議ではありません。鎖国同然だった当時において、大々的に対外貿易を展開したり、都の誰も顧みることのなかった安芸の厳島を豪奢な神殿に仕立て上げたりといった、頭の固い貴族には思いもよらないことだったでしょう。
 清盛は多分に現実主義的であり、合理的精神の持ち主でした。承安2年(1172)、宋の明州から後白河と清盛宛に贈り物が届けられました。しかし、贈り主は単なる宋の一地方長官に過ぎず、また、文書の内容も無礼であるとして、朝廷では贈り物は送り返すか留めおいて、返書も出さないという意見が強かったのです。ところが、清盛はこれらの意見を無視して、返書と返礼を送りました。慣例や体裁よりも実をとるという、清盛の性格がよく表れているエピソードだといえます。また、その頃異国人との面会はタブーとなっていましたが、後白河法皇を福原に招き、宋人をご覧に入れたこともありました。摂関家の出身で典型的な平安貴族である九条兼実は、その日記『玉葉』において、いずれもの事件についても強く批判を加えています。殊に、後白河が騒人と面会したことについては「天魔の所為」とまで書いています。
 現代の我々から見ると、清盛の行動には何一つ不思議なことはありませんし、矛盾を見つけることもできません。むしろ、変な迷信におびえ、やたらに方角を気にしたり、暦を気にしたりするような貴族達のほうが奇異なものに思えます。ということは、逆に貴族の側から見た場合、清盛のほうが奇異であり不思議であるということになります。従って、時代を超越した清盛の先進性や合理性が理解できない貴族達は、その行動力によって数々の“不思議”を成し遂げる清盛を“畏怖”の対象と見るようになります。そして、自分たちの正当性を信じるあまり、その理解できない部分については「悪」というレッテルを貼るしかなかったのでしょう。

清盛ゆかりのご神水
西八条邸跡にある清盛ゆかりのご神水と祇王の碑

 もちろん、常識や道徳というものは時代とともに変わりますから、当時の人々が清盛を「悪人」と決めつけることも無理のないことだといえます。だからといって、当時の人々のものの見方や倫理観を通して判断したことを、現代の我々がそのまま受け取る必要はなく、むしろそれ以後の歴史全体を通して、清盛という人間を評価するべきだと思います。清盛は幕府の創始者にはなれませんでしたが、清盛のしたことは、ある程度、その後の歴史(明治維新まで続く武士の世)を方向づけたとはいえると思います。たとえ頼朝の挙兵がなくとも、平氏が政権を握った時点で、武士の世の到来はほぼ決定的になっていたでしょうから、あとはそれがどのような形を取るか、という問題だけだったのです。  才能のある人にとっては、人生というのは短いものです。63年という人生は、当時としては決して短くはありませんでしたが、武士として初めて政権を握るという偉業を達成するだけで人生の大半を使っており、いかんせん、清盛には時間がありませんでした。結局、どんな偉大な人物でも、一人でできることなどは限りがあります。織田信長や豊臣秀吉がどんなに天才だったとしても、戦国乱世の最終的な勝利者は徳川家康だったわけです。かといって、その偉業は到底、家康一人の力では不可能だったでしょう。家康はあくまで信長や秀吉の敷いたレールを引き継いだにすぎなかったのです。清盛の頭には“幕府”という概念はなかったですし、自らの掌握した政権が“武家政権”だったという自覚も、おそらくなかったに違いありません。しかし、朝廷と武士との力のバランスを変えたのは、清盛の功績といっていいと思います。そういう実績があってこそ、頼朝も朝廷に対して高圧的にでることができたのではないでしょうか。

参考文献

山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(一)』(岩波文庫)/ 山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(四)』(岩波文庫)/ AERAMook『平家物語がわかる。』(朝日新聞社)/ 梶原正昭著『古典講読シリーズ・平家物語』(岩波書店)/ 永井路子著『「平家物語」を旅しよう』(講談社文庫)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上)』(塙新書)/ 河合敦著『早わかり日本史』(日本実業出版社)