その2-墨俣合戦

合戦データ

大将軍 平家軍:平重衡・通盛・維盛・忠度・知度 源氏軍:源行家・義円など
戦力 平家軍:1万3000騎 源氏軍:5000騎

富士川の雪辱を果たす大勝利!

 治承4年8月に頼朝挙兵よりこのかた、遠江以東はすべて頼朝に与力するという情勢の中、さらに叛乱の火の手は美濃から近江方面にまで広がっていった。事態の急に驚いた平家は、福原からの還都後間もない治承4年12月、近江には平知盛を、伊賀には平資盛を、伊勢には藤原清綱を派遣して畿内一帯の掃討作戦を遂行していった。
 ことに、知盛率いる3000余騎の平氏軍は主力として活躍、同3日に近江源氏の軍勢と交戦し、これを美濃にまで退ける。しかし、それより先には強力な美濃源氏が待ちかまえていたために進み得ず、一進一退の攻防を続けていた。知盛は援軍を要請し、同23日には副将軍として維盛が派遣された。さらに決定的な勝敗が定まらないまま、治承5年の2月になると知盛が病気となり、やむなく帰洛することとなる。
 その後、追討軍の派遣はしばらくなかったが、閏2月4日、平家の総帥である清盛が死去すると、源行家を大将軍とする源氏軍が尾張に攻め寄せてきていたため、ふたたび追討軍が編成された。重衡、通盛、維盛らを大将軍として東海・東山道方面へ1万3000騎で進撃を開始したのである。世にいう墨俣合戦であるが、この美濃・尾張の国境で行われた合戦こそ源氏と平家の本格的な戦闘となった。
 平家の軍勢は同2月15日、京を発向し19日頃には美濃・尾張国境にまで達する予定であったが、尾張川(現在の木曽川)の増水によって、3月に入っても渡河ができないでいた。10日になり平家軍が墨俣川を渡ろうとしたとき、逆に源氏の軍勢が川を渡って攻め寄せてきたことで合戦が始まった。前夜、先陣を焦った義円(義経の同母兄)が単独渡河を試みたが発見されて討たれたため、翌朝行家は渡河を決行したという。
 午前10時から午後4時頃まで続いた戦闘は平家軍の圧勝に終わり、源軍5000騎のうち1000余人を討ち取り、300余人を溺死させた。先に富士川で戦わずして敗走するという不名誉をさらした維盛・忠度・知度らも、この合戦において一応の雪辱を果たすことができたのである。

参考文献

安田元久著『平家の群像』(塙新書)/ AERAMook『平家物語がわかる。』(朝日新聞社)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)