南都炎上は予想外の惨事だった

 平家物語の伝える“悪行”の一つに、本三位中将重衡による南都攻略があります。これは「平家による東大寺焼き討ち」ということで、史実としても比較的良く知られています。ただ、実際に派遣されたのが清盛の五男の重衡だということはそれほど有名ではありませんし、ましてや実際に南都炎上に至る過程については、よっぽど興味のある人以外は知らないのではないでしょうか。大体、これではまるで平家が最初から東大寺を焼き尽くすのが目的で南都へ出向いたかのように聞こえてしまいます。
 確かに清盛は南都出兵の際に「悪徒を搦め、房舎を焼き払え」という命令を出しています。表面上の理由は反平氏の策動をする一部の悪徒の追討であったのですが、実際はそうした凶徒が拠点とする南都勢力全体に圧力をかけることが目的だったようです。それで寺院側が悪徒を搦めて差し出せば、無用な合戦をする必要はなくなるわけです。しかし南都があくまで徹底抗戦の姿勢を堅持したため、結果的にあのような大惨事になってしまったというわけです。清盛自身、この作戦があれほどの大惨事を引き起こすとは、予想していなかったのではないでしょうか。以下、史実と平家物語の引用から、事件の経過を述べてみましょう。

夜戦のためにつけた火が風にあおられて

 福原から還都して間もない治承四年の暮、南都の大衆が大軍をもって上洛するという報が清盛のもとに届きました。以仁王の乱の際も興福寺追討は詮議されていたのですが、そのときは証拠がないということで取りやめになっていました。東大寺は聖武天皇によって総国分寺として建立され「我が朝第一の伽藍」といわれたほど尊崇された寺院でした。また、興福寺は藤原氏の氏寺であったため、律令制と摂関政治の象徴であったこの両寺院が戦災にあったり追捕の対象になったことはなかったのです。しかし、奈良の僧兵が以仁王の謀反に手を貸していたことは明らかでしたし、何よりも有力な反平氏勢力の拠点で、その動向がいよいよ明瞭になってきたという背景がありました。清盛は息子の重衡に命じて南都攻略を実行に移します。
 まず、阿波民部大夫成良の先陣が泉木津において衆徒を一蹴、そこで奈良坂・般若寺に城郭を築いて待ちかまえる衆徒を、重衡の軍が突破して奈良へ攻め入りました。平家物語によると、一日戦ったけれども決着が付かず、夜になり暗くなったため民家に火を付けて野戦に備えたところ、折からの強風で火はどんどん燃え広がったといいます。結局、春日神社を除くほとんどの堂宇が焼亡し、多くの人々が炎に巻かれて命を落としました。当然その中には、謀反などとは関係のない老僧・修学者・子どもなどが多く混じっていました。悲惨だったのは、平家の攻撃を避けようと大仏殿の二階に逃げ込んだ人たちでした。追っ手が来ないように二階に上るハシゴを外してしまったため、多くの人たちが逃げ場を失い、千余人が焼け死んだと平家物語は伝えています。肝心の凶徒は、その張本三十余名が捕らえられ梟首にされました。

目に余る寺院勢力の横暴

 興福寺は藤原氏の氏寺ですから、興福寺炎上は貴族たちにとって大きな悲しみでした。また大仏が焼けてしまったことは、法皇を始め、万民の憂うところとなったのです。九条兼実は日記『玉葉』の中で、凶徒が誅されたのは幸いであるとしながらも、南都炎上については「悲哀、父母を喪うよりも甚し。天を仰ぎて泣き、地に伏して哭く」と、その悲痛な思いを述べています。当然、非難は大将軍重衡とそれを指図した清盛、および平家一門に集中しました。福原遷都が失敗に終わり、京に帰ってきたばかりのときだったこともあり、平家に対する憎しみが決定的になった事件でした。
 かつて、専制君主として強大な権力を振るった白川法皇は、それでも自分の力の及ばないものとして賀茂川の水、双六の賽に加えて、僧兵を挙げています。当時、寺院勢力は神仏の権威を背景として、朝廷の権力をおびやかすほどの強大な力を持っていました。比叡山の衆徒等は、何か不満や要求があるごとに決起して、日吉山王の神輿を振りかざし、大集団で朝廷へ押し寄せるということを繰り返していました。いわゆる「強訴」で、万乗の主である天皇するひれ伏すという日吉山王の神輿を掲げて朝廷に対して要求を突きつけるわけです。ひとたび山門の大衆が神輿をかついで比叡山を下りると聞こえれば、朝廷は頭を抱えるばかりで、その暴力による被害は都民にも降りかかったものでした。仏法をもって朝廷を守護し、鎮護国家を祈るための比叡山が、神仏の権威を利用して政治権力に介入し、自分たちの要求を無理強いしていたのです。
 こうした暴力は東大寺や興福寺とても同様で、寺院同士で合戦にまで及ぶことも珍しくありませんでした。とくに延暦寺と興福寺の不仲はたびたび深刻な事件を引き起こしていて、平家物語の有名な「額打論」では、最終的に事件は比叡山の僧達が興福寺の末寺である清水寺を焼き払うという結末を迎えています。合理主義的で不信心な現代人でさえ、お寺を焼くとか壊すなどという行為は、犯罪という以上に罰当たりな感じがするものです。この当時では、なおさらその気持ちは強かったはずなのですが、当の僧侶達が率先してこのような争いを繰り返していたというのもおかしな話です。

南都焼き討ちは戦略的には失敗だった

 清盛とても仏罰までを否定はしなかったでしょうし、まったくの無信心であれば出家などするはずはないですから、決して神仏をおろそかにする気持ちがあったわけではありませんでした。また、扱いを誤ると命取りになりかねないことから、比叡山の上層部に対してはこれを手なずける努力も怠りませんでした。ただ清盛は武士でしたし、また古い慣習にこだわらない新しさをもっていました。『源平盛衰記』には祈祷による雨乞いを一笑に付す清盛が描かれていますし、後白河法皇と一緒に福原の別邸で宋人と会ったりしたことも、当時の貴族達の常識破るものでした。瀬戸の音戸を開削して瀬戸内の交通路を確保し、兵庫の港を整備して日宋貿易を積極的に推進したことは人口に膾炙しています。強訴におよんだ山門の大衆に向かって矢を射かけるなど、寺院勢力による横暴が度を超したときには、武力でこれを制圧することをも辞さない清盛でした。
 ましてや遷都も失敗に終わった直後の、一門の浮沈にかかわる大事なときでしたから、奈良の悪徒を押さえるのはこの時をおいて他にはないと、強い態度で臨んだのでしょう。清盛はこのとき六十三歳。老い先短い身であるとともに、一門の棟梁として期待していた嫡子重盛亡き後、一門を引っ張っていけるような有力な後継者もいなかった。さらに東国の頼朝を始め、全国各地で反平家の狼煙があがり、このままでは一門に未来はないという焦りがあったのでしょう。裏目に出た結果の大惨事だったとはいえ、やはりこの作戦は政略的には失敗だったといえるでしょう。ただ闇雲に反対勢力を掃討していくというのでは逆効果になることが多いようで、この作戦も還都後に行われた畿内一帯の掃討作戦の延長線上にあったのです。
 しかし、武士が実力でもってその地位を固める、あるいは守ろうとするのは、後の時代においては当たり前のことです。もちろん、この作戦が清盛の浅慮であったことは否定できませんが、そうした政略的・軍事的なミスよりも、この事件に対して一般の人たちが抱くイメージというのは“罰当たりな清盛”という点にあるのではないでしょうか。そんな罰当たりなことをするから、一門は滅んだうえ浮かばれないで、耳なし芳一をいじめたり、平家蟹になったりするのだ、ということを何となく考えてしまう。
 それは仏教的世界観で描かれた平家物語のイメージが、想像以上に一般に浸透しているためであり、それが少なからず清盛に対する歴史的評価を歪めているといえそうです。いいかえれば政治家あるいは武士としての清盛に対する評価という枠を超えて、“人間としての清盛”像を歪める結果になっているような気がします。せめて「東大寺焼き討ち」が清盛が神仏を軽んじたための愚行ではなく、単なる戦略的な失敗であったという程度に留めておいていただきたいと思います。


●参考文献
山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 上横手雅敬著『平家物語の虚構と真実(上・下)』(塙新書)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 安田元久著『平家の群像』(塙新書)/ 河合敦著『早わかり日本史』(日本実業出版社)


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